聖地巡礼の美学
はじめに
アニメーション作品の聖地巡礼とは何か。聖地巡礼はいかにして行われているのか。聖地巡礼はひとつの行為なのか、それとも、様々な聖地巡礼の行為がありうるのだろうか。
聖地巡礼を巡る問いは、様々な対象とトピックに関する問いを含んでいる。本稿では、アニメーション作品と聖地巡礼の行為者との虚構的関係、そして、行為者が巡礼地を用いて行う想像行為のあり方に注目し、それらの組み合わせから、聖地巡礼をいくつかの種類に分類することで、聖地巡礼を美学的に考察するための枠組みを提示することを目的とする*1。そして、その分類に基づいて、宗教的聖地巡礼との関係や、時間と空間との関わり、聖地の保存と改変の問題、そして、作品と巡礼の価値の関係について考察し、「聖地巡礼の美学」のひとつの輪郭を描き出すことを目論んでいる。
本稿の構成は以下の通り。第一に、重ね合わせと関係というふたつの概念の組み合わせから四つの聖地巡礼的行為を分類する。第二に、第一節の概念的枠組みを手がかりに、いくつかの聖地巡礼の美学的問題について考察を行う。すなわち、宗教的な聖地巡礼と美的な聖地巡礼とを比較、時間と空間の概念、保存と改変の問題、聖地巡礼と作品の価値づけの関係を考察する。
1. 巡礼の分類
1.1. 想像と関係
アニメーション作品に関する「聖地巡礼(pilgrimage)」には、少なくとも四つの異なった種類がある。本節では、まず第一に、そうした様々な巡礼*2のあり方を、(1)作品の虚構的真理と巡礼の際に用いられる現実的対象との関係、(2)作品の虚構世界と巡礼者との関係から整理する。ここで、「巡礼者(pilgrim)」とは、巡礼地に実際に赴き、以下に指摘されるような想像的行為を行う行為者のことである*3。
- (1a)順向きの重ね合せ(orthodromic surperimpose):ある物語的フィクションの公式の画像や映像が表象している虚構的対象F(建物、風景、街並み)の現実における対応物、すなわち、現実的対象Rを見つけ、現実的対象Rと虚構的対象Fとの重なりを味わう行為。巡礼者は、典型的には、物語的フィクションの公式の画像(特定のシーン、特定の風景のパースペクティブ、特定の土地や建物)が表象する対象の対応物を現実に再発見し、虚構的対象Fといま見えている風景(現実的対象R)とを順向きに重ね合わせることで、特定の経験を味わう。ここで「順向き」という表現は、公式の虚構的真理→現実的対象という向きを表している。
- (1b)逆向きの重ね合わせ(antidromic surperimpose):ある物語的フィクションの公式の画像や映像において表象されておらず、その物語的フィクションに関係していると巡礼者が類推する現実的対象Rを手がかりに、その物語的フィクションにおいてありえそうな事柄やキャラクタの生活など非公式の虚構的出来事を想像する行為。巡礼者は、いま見えている風景(現実的対象R)を、存在しない非公式のフィクションの出来事などの非公式の虚構的対象Rを逆向きに重ね合わせることで特定の経験を味わう、公式のフィクションにおいては表象されていないような風景を見つけ、それを手がかりに巡礼者たちがそれぞれの想像を楽しむ行為である。ここで「逆向き」という表現は、非公式の虚構的真理←現実的対象という向きを表している。
- (2a)隔てられ関係(separated relation):公式のフィクションにおいて、そのフィクションの世界に巡礼者を含まないような関係。あるいは、公式のフィクションに存在する何者かの立場を想像し、それになりきる必要があるような関係。一般的な物語的フィクションはこうしたフィクションである。
- (2b)組み込まれ関係(embedded relation):公式のフィクションにおいて、そのフィクションの世界に巡礼者が含まれるような関係。すなわち、巡礼者は巡礼者そのものとして、公式のフィクションの虚構世界に存在する。鑑賞者は史跡をめぐる巡礼者のような「あの世界と同一の存在論的地位にある者」である。
ふたつの重ね合わせは、巡礼者が行う想像的行為のあり方であり、隔てられと組み込まれ関係は物語的フィクションと巡礼者の関係である。
1.2. 重ね合わせ
これらの組み合わせによって、四つの聖地巡礼を整理できる。その前に、二点指摘しておきたいことがある。
第一に、順向きと逆向きの重ね合わせはかなり異なった想像的行為であり、特に、後者は際立って特徴的な想像的行為である。
順向きの重ね合わせは、あるシーンを現実に見出すという再認の楽しみ、「虚構的対象がほんとうにある」という再発見の喜びをもたらすが、逆向きの重ね合わせは、そうした再認的快楽ではなく、聖地となった街を歩いていたり、電車に乗っていたり、ふと名も知らぬ裏路地に入ったり、あるいは地元の者しかいないような喫茶店に入って休んでいるときに、「あのキャラクタはここを通学/通勤しているのだろうか」「あのふたりはいつも週末ここに来ているかもしれない」「彼女らなら阪急電車を十三で乗り換えて河原町方面に乗ってそう」といった、自然に発生するその巡礼者特有の想像を楽しむ行為である。逆向きの重ね合わせは、五感を用いながら、その舞台の風景、街並み、日差し、天気、気温、その雰囲気、匂いを知覚しつつ、そして、知覚するのみならず、そうした世界全体を想像の手がかりとして、公式のフィクションにおいては存在しないがありえそうなキャラクタたちの生活を現実と重ね合わせ想像する行為である。
そして、第二に、巡礼者は、多くの場合、順向きの重ね合わせを楽しみつつ、逆向きの重ね合わせをも楽しんでいる。
一般に聖地巡礼の印象は、順向きの重ね合わせ、すなわち、特定のシーンのパースペクティブを探す楽しみや、同じ写真を撮影する行為に尽くされるように思えるが、実のところ、巡礼者が聖地へと赴く理由のもうひとつは、そして、時に、より強い動機づけをもたらすのは、聖地に向かい、そこに存在してはじめて、逆向きの重ね合わせをゆたかに行いうるからなのではないだろうか。
写真や地図を見るだけでは、ひとびとは、巡礼者が行いうるような、気ままで自然に沸き起こるようなゆたかな逆向きの重ね合わせを行うことはふつうできないだろう。舞台を訪れてはじめて味わうことのできる特有の経験とは、聖地における神秘的なアウラによってもたらされるというより、身の回りのものすべてがキャラクタや物語に関する想像を促すような状況となるような意味での「聖地」に身を置くことで、ゆたかで、ヴィヴィッドで、絶え間ない、そして自由な逆向きの重ね合わせを行い、それを味わいうるためにもたらされる経験である(cf. walton 1990, ch.1, sec.2)。
のちに指摘するように、また後続の論文で考察することを考えているが、こうした聖地の「聖地性」理解は、フィクションに関する聖地巡礼のみならず、宗教的な聖地巡礼の内的経験の一部を、神秘やアウラといった概念に頼ることなく説明できるかもしれない。逆向きの重ね合わせにおいては、巡礼地の周囲の事物のすべてがケンダル・ウォルトンの概念的枠組みにおける想像を促すものとして際立ちうる。この想像の可能性のゆたかさが宗教的聖地巡礼も含めた、聖地の『聖地らしさ』の一部を説明するかもしれない。すなわち、聖地は、神秘的なアウラで満ちているのではなく、想像の促しのざわめきで満ちているのだ。つまり、聖者たちの史跡を辿ることで巡礼者にもたらされる経験とは、その逆向きの重ね合わせを行うことによって、聖者たちの見たもの、そのまなざしや情動をヴィヴィッドに想像することで、巡礼者特有の想像的経験を行うことに由来するのではないかとわたしは考えている。とはいえ、ここで、宗教的経験と美的経験の異同をさらに問うていく必要があるだろう*4。
1.3. 四つの巡礼
- (1)順向きの隔てられた巡礼(orthodromic-sepatated-pilgrimage: OSP):巡礼者は順向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションと巡礼者とは隔てられているケース。典型的な意味での「聖地巡礼」。『涼宮ハルヒの憂鬱』など多くのアニメーション作品に関して可能である。
- (2)順向きの組み込まれた巡礼(orthodromic-embedded-pilgrimage: OEP):巡礼者は順向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションに巡礼者が組み込まれているケース。公式の画像がある場合の「質感旅行」*5。巡礼者は虚構世界に組み込まれており、しかも特定の公式の画像との重ね合わせを楽しめる。その代表例は動画作品群である『鳩羽つぐ』*6。
- (3)逆向きの隔てられた巡礼(antidromic-sepatated-pilgrimage: ASP):巡礼者は逆向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションと巡礼者とは隔てられているケース。しばしば(1)の順向き重ね合わせの巡礼と同時に行われうる。
- (4)逆向きの組み込まれた巡礼(antidromic-embedded-pilgrimage: AEP):巡礼者は逆向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションに巡礼者が組み込まれているケース。『ガールズ ラジオ デイズ』という作品に関して指摘される「質感旅行」。また、『鳩羽つぐ』に関しても可能である。
以上の四つの巡礼は、完全に排他的ではない。とはいえ、あるフィクションが巡礼者を隔てているか、組み込んでいるかはどちらかであり排他的である。他方、ふたつの重ね合わせはフィクション作品が指令するものというより、巡礼者が行う想像的行為であり、基本的に排他的ではない。
1.4. 具体的な例
次に、以上の区分の具体例を挙げてみよう。たとえば、『涼宮ハルヒの憂鬱』の西宮北口駅や、高校までの道のりに向かい、アニメーションにおけるシーンや特定のカットと同じ角度や風景を見つけ、それを現実と重ね合わせることで特有の美的経験を得る行為は、(1)順向きの隔てられた巡礼である。
また、『涼宮ハルヒ』の巡礼者が、キャラクタたちがしばしば利用し、シーンに登場する珈琲屋ドリームの椅子に腰掛け、特定の位置からの写真を撮ることで(1)順向きの隔てられた巡礼を行いつつ、頼んでいたメロンソーダ(これもまたキャラクタがしばしば作中で注文していたものだが)を飲むとき、そのメロンソーダの味や食感を味わいつつ、「こういう味と食感をキャラクタも味わっているのだろうか」と想像することは、現実的対象Rを手がかりに、公式のフィクションの虚構的真理には含まれていない出来事について非公式の想像を楽しむ行為であり、(3)逆向きの隔てられた巡礼である。そして、これらふたつの(1)順向きの隔てられた巡礼と(3)逆向きの隔てられた巡礼とは排他的ではなく、しばしばひとりの巡礼者が一回の巡礼で同時に、あるいは入れ替わり行うものだろう。
また、『鳩羽つぐ』を西荻窪で探す行為は、鳩羽つぐと鑑賞者との世界はおそらく同一であること、そして、たしかに公式の画像があるものの、それが部分的であるがゆえに、公式の画像と風景の重ね合わせを楽しむというよりも、鳩羽つぐの痕跡を追い求めるような、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)逆向きの組み込まれた巡礼を同時に行う巡礼の代表例のひとつである。
さらに特殊な例として、『ガールズ ラジオ デイズ』というラジオドラマ的作品があげられる。この作品においては、フィクション内においてリスナーとしての立場をとることができ、実際、様々な巡礼者が様々なサービスエリア周辺や、キャラクタたちが過ごしているであろう繁華街に出かけ、そこで様々な想像を行い、独特の鑑賞経験を行なっている様子をSNSにおいて共有する巡礼の実践が豊富に見受けられる。それは「質感旅行」と呼ばれているが、これは、(4)逆向きの組み込まれた巡礼を主として可能にする際立った作品である。
次に、以上の概念的枠組みを手がかりに、聖地巡礼のあり方をより広い視座から考察、比較してみよう。
2. 巡礼の美学
2.1. 宗教的巡礼
こうした様々な巡礼的経験のうち、特に、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)AEPのような組み込まれた巡礼は、宗教的行為としての聖地巡礼と共通する特徴を多く持つ。というのも、宗教的な聖地巡礼においては、聖典などが記す世界はこの世界と一致しており、巡礼者は、そうした世界に住まう者として、特定の史跡や聖地に向かい、聖者たちの、あるいは神々の見たものや触れたものを想像することで、あるいは聖典のうちの出来事や描写と重ね合わせることで特定の経験を行うからだ。そして、こうした、組み込まれの要素は、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)逆向きの組み込まれた巡礼と共通する。
アニメーション作品に関与する鑑賞行為としての聖地巡礼においては、(1)順向きの隔てられた巡礼や(3)のような隔てられた聖地巡礼が主要なものとされているが、「聖地巡礼」という言葉の原義から考えれば、レアケースであるような(2)順向きの組み込まれた巡礼や(4)のような巡礼行為がむしろ「聖地巡礼」の原義に近いと言えるだろう。宗教的な巡礼者は、神々や聖者たちと同一の世界の存在者として史跡に触れるのであり、美的な巡礼者は、同じく、キャラクタたちと同一の世界の存在者として街を歩き、食事をし、風景を眺める。どのような巡礼により美的価値が存在するのかは、その種類によって決定されている訳ではない。(1)順向きの隔てられた巡礼と(3)逆向きの隔てられた巡礼のような隔てられた巡礼は、特定の場所を舞台とする多くの作品に関して行うことができ、豊かな実践があり、同じショットを探したりといった様々な楽しみが見出されているだろう。
さらにまた、特定のフィクションとが存在するわけではないが、偉人や芸術家の生家や歩みを辿るような観光は、(3)と(4)のような組み込まれた巡礼と近しい要素を持っている。たとえば、ウィーンの中央墓地を訪れ、音楽家たちの生家を訪ねる時、巡礼者は、時間を隔てて、音楽家たちが見たものや生きた光景を現実的対象を手がかりに想像している。このときは、逆向きの重ね合わせに類比的な想像行為を行っているだろう。このように、本稿の巡礼の枠組みと整理は、明確な物語的フィクションを介さないような巡礼の分析にも応用可能だろう。
2.2. 時間と空間
巡礼においては時間と空間が重要な要素のひとつとなっている。ここでは、別稿の考察に向けて、巡礼と時空間の関わりをかんたんにスケッチしておく。
第一に、実際的な問題として、巡礼の舞台は時間とともに失われうる。実際、『涼宮ハルヒの憂鬱』の舞台のいくつかは、再開発によってすでに失われている(たとえば、西宮北口公園など)。ゆえに、巡礼はつねに行うことができるような行為ではなく、時間の影響を不可避に受ける。
第二に、巡礼の舞台は、その都度の時間における様々な姿を見せる。クロード・モネが『ルーアン大聖堂』において描いた様々な光を受ける大聖堂が証立てるように、風景や街、巡礼の舞台は、けして平板ではない移ろいゆく経験を、しかもある程度以上は巡礼者同士で共有できないような、特有の天気や気温、人の流れなどによって生み出される経験を与えるだろう。
第三に、巡礼は巡礼者がその舞台を巡り、歩き、探索し、気ままに遊歩するような、空間を移動する行為である。ふつうフィクション作品の鑑賞それ自体に空間性はほとんど影響しないが、巡礼というフィクション作品を用いた行為において顕著な空間性を見逃してはならないだろう。
第四に、巡礼は時間の超越を空間を媒介に行いうる。宗教的巡礼や史跡の巡礼に焦点をあて、フィクションかどうかを別にすれば、巡礼という行為において、過去には吟遊詩人の歌や伝説の物語に描かれた史跡を訪ね、その空間に存在することで、物語の時間と、現在との間で隔てられた時間を超えるような経験を行うことができる。
巡礼の総体を明らかにするためには、本稿の枠組みに加え、時間と空間の概念の分析が必要だろう。
2.3. 保存と改変
次に、巡礼地の保存と改変の問題を考察してみよう。
アニメーション作品は、しばしば、意図的に作品の舞台となった地の自治体や商店街などとタイアップして、アニメーションキャラクタをあしらったグッズやのぼり、スタンプラリーなどを企画する。こうしたものをアニメーションのプロダクトと呼べば、プロダクトは本稿で整理した巡礼と複雑な関係をとり結ぶ。
第一に、(2)の順向きの組み込まれた巡礼や(4)の逆向きの組み込まれた巡礼が可能な作品の場合、プロダクトがそうした巡礼者の組み込みに配慮していない作品の場合、組み込みを阻害し、組み込まれた巡礼の経験を損なってしまう場合がありうる。たとえば、巡礼者を組み込んでいるはずの作品で、「Xという『作品』とコラボしました!」といったアナウンス自体が、ある程度組み込みの経験を損なうかもしれない。以上は各作品について個別に異なるが、本稿の枠組みを用いれば、なぜ特定のコラボのあり方やプロダクトの展示の仕方が一部の巡礼者にとって美的にわるいものになりうるのかを分析することができるだろう。
第二に、(1)順向きの隔てられた巡礼や(3)逆向きの隔てられた巡礼においても、プロダクトは舞台の景観をアニメーションと同一に保たない場合、巡礼の経験をある程度阻害するものになるだろう。なぜなら、明らかに作品と巡礼者は隔てられているとはいえ、プロダクトのあり方によっては、その隔てられを再確認させ強調するような効果をもたらしうるからだ。
巡礼地をいかにして保存するか、あるいは、巡礼地の集客のためにいかに改変するかは、美的価値のみならず、経済的価値とも関係する複雑な問題である。その問題を考察するひとつの手がかりは、巡礼地と作品の関係、より具体的には、本稿で指摘した、作品の虚構世界と巡礼者の関係(隔てられ/組み込まれ)である。こうした作品と巡礼者の関係から、巡礼者の側からの鑑賞や価値づけのみならず、実際にコラボやタイアップを行う企業や、自治体の側における、プロダクトをどう作成するか、どう配置するかといった問題についての分析の手がかりとすることができるだろう。その意味で、本稿の概念的枠組みは、巡礼の美的な側面の分析のみならず、コラボのあり方に関する分析へも適用可能なものである。
2.4. 巡礼と価値
巡礼は、作品を用いて行われるという意味では作品と関係している。しかし、巡礼が作品を構成する鑑賞行為かどうかははっきりしていない。つまり、巡礼の経験のよしあしを、作品の評価のなかに含めてよいのかどうかが問題になる。
『鳩羽つぐ』や『ガールズ ラジオ デイズ』において、公式にこうした巡礼行為を作品に含めるようなアナウンスはなされてはいないために、こうした巡礼が可能かどうか、その巡礼が豊かな経験をもたらすかどうかは作品それ自体の価値としては含めづらいかもしれない(もし『宇宙よりも遠い場所』を「南極は巡礼には困難過ぎる」という理由で低く評価するとすれば、それは作品それ自体の価値づけとは関わりのないものとみなされるだろう。)。
だが、いくつか指摘されているように、こうした巡礼のデザインを作品として組み込む様々な芸術作品を制作することは可能であるし、その作品は、インスタレーション、アニメーションを問わず、様々な可能性があるだろう*7。その際には、本稿が整理した様々な巡礼の分類によって、そうした巡礼を作品の価値とするような新たな作品、言わば、「巡礼芸術(pilgrimage art)」の可能性を描くことができる。その意味で、本稿の分析は実践にも寄与しうるだろう。
おわりに
本稿は、順向きと逆向きの重ね合わせという巡礼者の行為、そして、隔てられと組み込みという巡礼者と作品の虚構世界との関係から、聖地巡礼と呼ばれる様々な行為を分類し、さらにその分類から、宗教的な聖地巡礼、史跡を巡る行為との関係を考察し、また、聖地巡礼を作品に組み入れ、巡礼をデザインするような巡礼芸術の可能性を提示した。
本稿を元にした論文も計画しているが、本稿を出発点として、聖地巡礼の美学に関する原稿記事に関するご依頼もお待ちしている。
ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton
参考文献
ナンバユウキ. 2018. 「鳩羽つぐの不明なカテゴリ––––不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503.(2019/03/02最終アクセス)
ナンバユウキ. 2019a.「『ガールズ ラジオ デイズ』––––周波数を合わせて」Lichtung Criticism、 http://lichtung.hateblo.jp/entry/2019/01/16/『ガールズ_ラジオ_デイズ』––––周波数を合わ.(2019/03/02最終アクセス)
ナンバユウキ. 2019b. 「質感旅行スケッチ」Lichtung Criticism、 http://lichtung.hateblo.jp/entry/shitsukantourism.(2019/03/02最終アクセス)
難波優輝. 2018. 「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号、81-87.
大岩雄典. 2019. https://twitter.com/rovinata_/status/1087694709089361920?s=21.
Walton, K. L. 1990. Mimesis as make-believe: On the foundations of the representational arts. Harvard University Press.(『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』田村均訳、名古屋大学出版会、2016年)
yunaster. 2019a.「『質感旅行』という概念の誕生について【ガルラジが面白い 番外編】」『除雪日記』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/01/23/201000.(2019/03/02最終アクセス)
yunaster. 2019b.「ガルラジ、質感旅行をもう一度考える」『除雪日記』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/02/26/231929.(2019/03/02最終アクセス)
引用例
ナンバユウキ. 2019. 「聖地巡礼の美学」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/aesthetics.of.pilgrimage.
訂正
2019/03/02:§2.3. 二段落目、「逆向きの巡礼と複雑な関係を」→「本稿で整理した巡礼と複雑な関係を」
注
*1:なお、アニメーション以外の作品に関してもいくつかふれているが、典型的にはアニメーション作品に関する議論を行なっている。
*2:以下「巡礼」はアニメーション作品に関する聖地巡礼を指す。
*3:しかし、実際に巡礼地に赴かずとも、巡礼地の写真や映像を手がかりにして、巡礼的想像的行為を行うことは可能だろう。さらに、360度の視野を記録したカメラを用いれば、あるいはある種のVRシステムを活用すれば、その知覚的入力は限定的であるにせよ、より実際の巡礼に近い想像的行為を行うことができる。本稿の議論は主に実際の巡礼者に焦点をあてるが、議論のいくつかは、以上のような「想像的巡礼者(imaginary pilgrim)」にもあてはまる。
*4:本稿では、ウォルトンの想像の促しという概念にしか注目していないが、逆向きの重ね合わせにおいては、現実的対象は、たんに想像を促すのみならず、ウォルトンの意味での小道具として働いている点から特徴づけられるかもしれない。この点については、ふたつの重ね合わせの概念とウォルトンのプロンプター/小道具概念の関係について指摘して頂いたシノハラユウキに感謝する。
*5:質感旅行については、yunaster(2019a, 2019b)または、ナンバ(2019a, 2019b)を参照せよ。
*6:『鳩羽つぐ』については、ナンバ(2018)、難波(2018)も参照せよ。
*7: さらにその場所移動のシーンで、彼らが「〜〜のキャラクターはたぶんここで〜〜〜」と質感旅行的実践を明言していたとしたとき、この〈聖地巡礼アニメ〉自体をまた聖地巡礼したり質感旅行の参照項にしながら、それを経由してさらに元ネタアニメにたいしてどのような態度をとることになるのか