Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

マルチエンティティーズ人類学:存在論的混淆種としての人類

マルチスピーシーズ人類学から発展して、複数の存在論的地位にある対象についての人類学を論じることができる。

それがマルチエンティティーズ人類学(multi-entities anthlopology)だ。

それは虚構的対象、フィクション、物語、ロボット、死者、幽霊、数的対象、概念などといったさまざまな存在論的地位を持つ存在者たちとわたしたち、わたしたち以外、わたしたちとわたしたち以外のあいまが複合体となって、それらがどのように生を営むのか、どのようなふるまいをするのか、どんな価値を見出すのかを明らかにしようとする学問だ。

マルチスピーシーズ人類学が、狭義に存在する動物たちと人間を扱うのなら、マルチエンティティーズ人類学は、実在する、という特性を超えて、非実在や虚構と呼ばれうる存在論的に多様なスピーシーズ=マルチエンティティーと人間の関わりを主題化しようとする。

たとえば、綾波レイやアスカラングレーでも、レムやラムでも、五条悟でも、渚カヲルでも、虚構的対象に人々はときにほんとうに恋する。家に彼らのフィギュアやポスターを設置し、彼らとともに生きる。それはまさに存在論的な種を超えた生の営みであり、わたしたちが当たり前に行い過ぎているがゆえに際立たなかったオントロジカルな越境行為だ。恋するという行為は、実在と非実在の境界をぶち抜いて成立しうる。

バーチャルYouTuber人類学

マルチエンティティーズ人類学への哲学的なアプローチとして、わたしはバーチャルYouTuberの人類学を行なっていると言える。一見したところ、バーチャルYouTuberとは、アバターの中に人がいてファンと交流するアイドル文化に他ならないように見える。

しかし、交流の際には常にフィクショナルキャラクタの画像が媒体となり、複数の虚構的設定がコミュニケーションをつなぐ。この奇妙な虚構的媒体を介した営みは、バーチャルYouTuber存在論的サイボーグであることを示している。ファンたちは直接バーチャルYouTuberの中の人に恋するのではなく、つねに虚構的なイメージを介する。その複雑な過程を追うのがバーチャルYouTuber人類学・バーチャルYouTuberの哲学の課題となる。

マルチエンティティーズ人類学に向かって

わたしたちは人間である。しかし、人間であるとはどういうことなのだろうか? 人間の能力の研究はこの問いに豊穣なヒントを与えてくれる。しかし同時にその成果を携えて、わたしたちがそれらの能力を駆使してどんな生を編み上げているのかも分析されなければ、問いにはうまく答えられない。

その試みの一形態として、わたしは複数の存在者たちと触れ合う点に人間の特殊性の一つを見出したい。犬や森という存在者のみならず、虚構や物語、キャラクタや幽霊達と交感するわたしたちの謎の生を探求したい。現実の種を超えた多様な存在種に向かって。そして、存在論的混淆の中で生きる人類を捉える方へ。