Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

ちいさな魔法:キリンジ「エイリアンズ」の歌詞を読む

「エイリアンズ」はちいさな魔法の歌だ*1

エイリアン

元二人組兄弟ユニット、キリンジが2000年に発表したアルバム『3』におさめられている「エイリアンズ」は、昨年のんによるカヴァーが話題となったことで、それまで彼らの作品に触れることのなかった人々の耳にも入り、キリンジの元メンバー堀込泰行によるウェルメイドなポップスとしてひろく知られるようになった*2

舞台は「公団」が建ちならび「バイパス」が通る郊外の「町」の真夜中。「不機嫌」な隣人の口論や、「スポーツカー」のバックファイアが時折聞こえるような、都会の洗練とは遠い「僻地」。そこに住む「僕」と「キミ」はこの町に、あるいは「この星」にさえ馴染めず、「月の裏を夢みて」いる「エイリアンズ」として描かれる。世界と二人のあいだに横たわる距離感とともに、二人のあいだの軋みも歌われる。「泣かないでくれ」「笑っておくれ」と「僕」が何度も声をかけても、「キミ」はずっと泣いている。そして「僕」は「キミ」との距離さえ測りあぐねるように「キミ」のことを「エイリアン」と呼ぶ……。コーラスではこうした二人と世界のあいだ、そして二人のあいだの距離感を端的に表すような「まるでぼくらはエイリアンズ」「キミが好きだよ/エイリアン」というキーフレーズが繰り返される。二人は世界から、そして互いから二重に疎外されている。つまり、「エイリアンズ」は郊外でひっそりと暮らす二人の二重の疎外を情景豊かに描いた甘やかなラヴソングなのだ。

こうしたまとめは間違いではない。だが、この歌の魅力の一部しか言い当てられない。疎外はどんな風に描かれているのか?「禁断の実」 「エイリアン」「月の裏」 と言った言葉が醸し出すほの暗いイメージの内実は何か?

この小文では「エイリアンズ」の詞の魅力をその表現に拘ることで記述したい。

なぜ「エイリアンズ」なのか?

わたしたちは「エイリアンズ」の歌詞をどこから読み進めてゆけばよいだろうか? もっとも重要なところから、何度も繰り返されるコーラスからはじめよう。

まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実ほおばっては
月の裏を夢みて

キミが好きだよエイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ
いいかい

まずは最初の3行からはじめよう。

「エイリアン(alien)」とは元々「異邦の」「他人の」の意であり、転じて「宇宙人」「地球外生命体」を指すようになった。また、関連する「エイリエネーション(alienation)」の語は「疎外」を意味する。二人がエイリアンズと呼ばれるのは、彼らが異邦の者であるから、疎外されているからであろう。では、どこから? そのヒントは「禁断の実」という言葉にある。

「禁断の実」とはふつうキリスト教伝承に基づいて、食すことを禁じられた知恵の実のことを意味する。それを口にしてしまったアダムとイブは限りある生と死を与えられ楽園追放の憂き目にあった。ここから「誘惑と原罪」の象徴とされる。それが指し示す果実は明らかではないが、まずその甘さが罪への誘惑と結びつけられ、次にラテン語における「悪、罪(malum)」と「林檎(malus, malum)」の綴りの表面上の類似性から、「禁じられた果実」は林檎の果実と結びつき、転じて、悪徳や性的放埓の寓喩として用いられるようになったとされる*3

二人は後者の意味で何らかの悪徳を「ほおばって」いる。何も大した悪徳ではないのかもしれない。みなが正しいとするものに同調できなかったり、他人に興味がないだけかもしれない。妙な世界観をもっていて、おかしなひとと煙たがられているのかもしれない。ともかく、そうした悪徳のために二人はこの星の幸福な楽園から追放されている。少なくとも「僕」はそう思っている。この星の楽園とはこの星での満ちたりた暮らしだ。

二度と戻ることはできないアダムとイブとは異なり、楽園は社会の中にある。誰に指弾されることもない暮らしに戻ることができる。悪徳を止めればよいのだ。だが、二人はいつまでもほおばっている。彼らはやすやすと禁断の実を手放したりしない。なくてはならないものなのかもしれない。それを止めることは彼らに欠乏感を与えるのかもしれない。代わりに彼らは夢をみる。「月の裏を夢み」る。

「月の裏」は「この星」から見えない。追放された二人が望むのは禁断の実を手放し楽園に戻らせてもらうことではない。「この星」の規範や誰かの監視するようなまなざしから隠れ去って禁断の実をほおばり続けることだ。ここで、「エイリアンズ」の意味もはっきりしてくる。彼らは禁断の実をほおばることをやめられないじぶんたちをこの星における異邦人であると感じている。彼らのいるべきところはこの星ではなく月なのだ。このほんの3行がこの曲の世界を見事に表している。

まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実ほおばっては
月の裏を夢みて

月の裏と月明かり

コーラスの後半を読み解く前に、もう少し月について拘りたい。「この星」の「この僻地」といった二人が馴染めない地上に対比される「月」のイメージにさらに注意してほしい。

見過ごされるかもしれないが、月は「僕」にとって安らぎに満ちたものとして捉えられている。一度めのBメロをみてみよう。

泣かないでくれダーリン ほら月明かりが

長い夜に寝つけない二人の額をなでて

月明かりは寝つけない二人の「額をなで」る。額をなでるという表現は幼い子どもをあやしつける親のイメージを喚起させる。熱にうなされ、あるいは悪夢や不安に襲われたとき、そっと触れられた手のイメージだ。こうした親密な月のイメージとさらに対照的なもう一つのイメージが語られている。三度目のBメロの歌詞に注目しよう。

踊ろうよさあダーリン
ラストダンスを
暗いニュースが
日の出とともに町に降る前に

「暗いニュース」は「日の出」とともに「町に降る」。ふつう太陽はポジティブなものと結びついているが、ここでは暗いニュースを伴うようなネガティブなイメージで捉えられている。間接的に「僕」にとっての太陽に比しての月のイメージの優越を読み取ることができる。

さらに「僕」の月への視線は冒頭から示されている。

遥か空に旅客機 音もなく
公団の屋根の上 どこへ行く

「僕」はベランダからか、夜空を見上げている。「僕」が飛行機好きではないとすれば、その目的は飛行機ではない。その視界には月がある。すでに冒頭から月を見上げている。

なぜ「エイリアン」なのか?

ふたたびコーラスに戻り後半に取り組もう。

キミが好きだよエイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ
いいかい

「キミ」と「僕」が「エイリアンズ」なら当然「キミ」は「エイリアン」。ここに矛盾はない。しかし、親密な関係であろう「キミ」に向かって「エイリアン」呼ばわりはおかしなところがある。もしかするとそう呼ぶのが自然なのか? もしそうなら「キミ」と「僕」はいったいどのような関係なのか? その問いのヒントは一度目と二度目のBメロにある。

泣かないでくれダーリン ほら月明かりが
長い夜に寝つけない二人の額をなでて
笑っておくれダーリンほら素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで

「泣かないでくれ」「笑っておくれ」と「僕」がなだめても「キミ」は泣き続けている。最初はおそらく泣きはじめ、次はすこしおさまったかもしれないがまだ泣き止まない。「僕」は笑わそうとジョークを飛ばすが不首尾に終わったようだ。「キミ」と「僕」はうまくいっていない。「キミ」はずっと涙を流している。おそらくは二人の悪徳に関してなにか思うところがあってのことだろう。だがその涙をうまく止められずにいる。「僕」と「キミ」は「エイリアンズ」として「この星」から追放されているだけでなく、追放されたもの同士としてのつよい親密さをつくりあげられてもいない。「僕」は「キミ」に近づけないでいる。「僕」の目に「キミ」は「エイリアン」のように映る。その原義通り「他人」として。

「魔法」とは何か?

「エイリアンズ」としての「この星」からの疎外、そして「エイリアン」としての「キミ」からの疎外が指摘された。この疎外が解決されることは無いのだろうか? 「キミ」はずっと泣いたままなのだろうか?

こうした疑問をもってもう一度歌詞をみると、わたしたちは繰り返し現れる「魔法」という言葉に気づく。一番目と最後のコーラスをみてみよう。

この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ
いいかい

この星の僻地の僕らに

魔法をかけてみせるさ

大好きさエイリアン

わかるかい

魔法は他でもなく、「この星のこの僻地」でかけられる。その対象は「この星の僻地の僕ら」だ。「魔法」は「この星のこの僻地で」「この星の僻地の僕らに」かけられる。だがその内実は不明だ。「魔法」とは一体何なのだろうか?

わかるかい?

わたしたちはコーラスを読み解き、「エイリアンズ」と「この星」のあいだの、そして「エイリアン」である「キミ」と「僕」のあいだの疎外を見出した。その疎外を解く手がかりに見えた「魔法」という言葉の意味は、しかし辿ることができないでいる。この疎外が解かれることは可能なのだろうか? 二人は永遠に孤独なままに過ごすのだろうか? 「僕」が使える魔法などあるのだろうか? わたしたちはもう一度歌詞をみてみよう。とくに「僕」が「キミ」に対して行うことを。

泣かないでくれダーリン ほら月明かりが
長い夜に寝つけない二人の額をなでて
「僕」は「キミ」に月明かりを指し示す。

笑っておくれダーリン ほら素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで
夜を指し示しジョークを飛ばす。

そして、二番目のコーラスをみてみよう。

そうさ僕らはエイリアンズ
街灯に沿って歩けば
ごらん新世界のようさ
キミが好きだよエイリアン
無いものねだりもキスで
魔法のように解けるさ
いつか

この町の夜の外を街灯に沿って歩くことで、「この星」が「新世界」のようになる。「無いものねだり」も「キス」によって「魔法のように」解ける。「キミ」の「不満」も「僕」との「キス」によって解くことができる、そうした魔法的な力が僕らには備わっていると「僕」は信じている。

最後に三度目のBメロをみてみよう。

踊ろうよさあダーリン
ラストダンスを

「暗いニュース」が降る前のひととき、一緒に踊らないかと誘う。

これら「僕」が「キミ」にしてあげられることはあまりに些細だ。これでは二重の疎外を解くにはほど遠い。そして実際「僕」が手を替え品を替えて何かを行っても「キミ」はずっと泣いている。だが、「僕」は不思議と「キミ」に対してそのような些細な誘いやジョークやキスを贈りつづける。これが「僕」の「キミ」への贈り物のすべてだ。「僕」ができる「魔法」はこれ以外にあるのだろうか? きっとこうした些細なことをしか「僕」はできない。

「魔法」とはもしかするとすべてを劇的に変容させるようなつよい力ではないのかもしれない。そうではなく、ほんの小さなものなのかもしれない。

「僕」はジョークで「キミ」を泣き止ませることもできない。「キミ」の額をなでるのは月明かりであって「僕」ではない。いまだ「無いものねだり」を「キス」によって解くこともできない。「ごらん新世界のよう」だと言ってみても、「ほら素晴らしい夜」と言ってみても、「踊ろうよ」と言ってみても「キミ」の心が晴れる兆しは見えない。それでも、「僕」が贈れるものはこれしかない。「魔法」をかけるにはほど遠い。だが、これしかない。

いや、もう一つだけある。最後の「魔法」は「僕」が何度も繰り返す呪文だ。

キミが好きだよエイリアン
キミを愛してるエイリアン
大好きさエイリアン

そして、

わかるかい

「僕」はもしかするとついに「魔法」などかけられないのかもしれない。しかし、ただひたすら些細な贈りものをして、愛を歌うことだけはできる。その思いは「キミ」には届いていない。しかし「僕」は歌い続ける。二重の疎外はいまだ解決されないまま。二人は禁断の実をほおばりながら月の裏を夢み続ける。ここに解決はない。破滅もない。夜は明け月は隠れ、暗いニュースとともに一日がはじまってしまう。やがて太陽は沈み「僕」はベランダから遥か空をゆく旅客機を眺めている。「エイリアンズ」はこの星の僻地で暮らし続ける。

ちいさな魔法

「エイリアンズ」は世界との、そして互いとの不調和のなかで暮らす「キミ」と「僕」の世界を、ゆたかに描き出している。その物語に解決は与えられない。不器用な「僕」と泣いてばかりいる「キミ」とがいる情景がひたすら丁寧に描写されているばかりだ。その細やかな描写によってわたしたちは詩世界に入り込むことができる。そしてこの歌を聴くとき、歌うとき、わたしたちもひととき二人の世界の住人となる。ときに「僕」と同一化する。「エイリアンズ」の詞の魅力とは、鑑賞者にその世界に入り込むことを可能にするような選び抜かれた言葉とその緊密なつながりであるといえよう。そして、その世界でわたしたちは「僕」が試みるちいさな魔法の力に気づくことができる。それは二人の問題に立ち向かうにはあまりに些細で無力であるように見える。実際にそうだろう。だが、その魔法を試み続ける「僕」の姿は美しい。「エイリアンズ」の詞は、「僕」への共感を生み、そうすることで何気ないある気づきを与えてくれる。わたしたちにわずかに分け与えられているかもしれない魔法の力への気づきを。それはキリンジからわたしたちに向けての贈りものだ。

「エイリアンズ」はちいさな魔法の歌だ。

ちいさな魔法についての、そしてちいさな魔法そのものの歌だ。

*1:数年前に書いた文章で、思ったよりもナイーブだが、好きな文章なので公開する。

*2:2013年、弟の堀込泰行は脱退し、じしんのソロ活動へと注力することになり、以降は兄の堀込高樹が名前を引き継ぎ新メンバーを加えキリンジとしての活動を継続している。

*3:次の「apple」の項を参照。Biedermann, Hans, and James Hulbert. Dictionary of symbolism: Cultural icons and the meanings behind them. New York: Meridian, 1994.