草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズ』と絶滅の意志
はじめに
あなたは、最後のページに辿り着き、呆然としているだろうか。それとも、書店やネット上で表紙を見かけて、この本、草野原々による『大絶滅恐竜タイムウォーズ』を買うべきかどうかをまだ迷っているのだろうか。いずれのあなたもさいわいだ。前者のあなたは、人類史のなかで、運よく、この物語を読むことのできた人間なのだから、そして、後者のあなたは、これからこの物語を読むことのできる人間なのだから。
だが、いずれのあなたも困っているかもしれない。呆然としたあなたは、この物語をいったいどう評したものか、どう受け止めたものか、と、そして、購入を検討するあなたは、この魅力的なタイトルの本『大絶滅恐竜タイムウォーズ』を買うべきかどうか、読むべきかどうか、と。
ふたつのあなたは同じ情報を必要としている。すなわち、
「この物語は(何が)おもしろいのか?」
本解説では、これらの問いに答えることを目指す。
先に結論を言おう。「この物語はおもしろいのか?」という問いに対しては「おもしろい」、それも「常軌を逸しておもしろい」と。「この物語は何がおもしろいのか?」という問いに対しては「様々な物語的要素の限界を超えるような投入、そして、魅力的な哲学的問いの提示によって」と。また、あなたが本作の前巻『大進化どうぶつデスゲーム』を読んでいなくとも、これらのおもしろさはある程度よく味わえることも付け加えておこう*1。
本解説は、以上のおもしろさを明らかにする。構成は以下の通り。第一に、本作『大絶滅恐竜タイムウォーズ』について紹介し、第二に、草野原々という作家の特徴と作品へのアプローチのしかたを提示する。第三に、この物語が扱う哲学的側面を明確化する。よりふかく作品を鑑賞するための倫理学的・美学的議論を紹介する。
本解説のネタバレ情報は以下の通り。第一節に関しては、物語のおおまかなプロットが紹介される。第二節と第三節に関しては、より核心的なテーマをめぐって議論がなされる。さいごの「おわりに」にネタバレ情報はあらすじ程度ある。軽度のネタバレも好まない読者は、すぐに本稿を閉じ、レジに向かって/注文ボタンを押して欲しい。
現在(2020/03/13)『大絶滅恐竜タイムウォーズ』をはじめ、早川書房セールが開催されており、3月13日(金)~4月13日(月)の32日間、Kindleストア限定、最大50%割引が行われている。ぜひこの機会にチェックしてほしい(とくにわたしにマージンが渡されるわけではないが)*2。なお、わたしは『大絶滅恐竜タイムウォーズ』の巻末解説を担当しており、物語のある種オーソドックスな解説についてはそちらを参照していただければと思う(難波 2019b)。電子書籍版にもわたしの解説がついているとのことなので、見ていただけるとたいへんうれしい。
『大絶滅恐竜タイムウォーズ』あらすじ
本節では、まず、この物語の構造を整理したい。それにより、おおづかみであるが、この物語のおもしろさを確認できる。
オープニング。物語のはじまりは、チャールズ・ダーウィンがダーウィン号に乗って航海する場面からはじまる。そこに奇妙な老婆が現れ、「お話」を語りだす。
第一章、鳥類覚醒。二人称の語りで進められる物語は、小田原を舞台とする。本作の主要なキャラクタたちである、小田原市民や箱根市民であるミカたちは、前回に引き続き、第二回のどうぶつデスゲームに巻き込まれる。どうぶつデスゲームとは、人類の進化史が塗り変わってしまうのを阻止するために、ミカたち十八人の少女たちが八百万年前の地球に行き、ネコたちを絶滅させた、熾烈なデスゲームだ。動物たちはべつに互いの種の絶滅を目指して争っているわけではない。だが、どうぶつデスゲームでは、生物たちの種の生き残りをかけた戦いが繰り広げられる。今回の絶滅させるべき種は、べつの時間を辿って進化した鳥類たちだ。それらが、ミカたちの世界に侵入する。第二回のどうぶつデスゲームは不安な幕開けを迎える。頼みの綱のリアは不安定な挙動で、ミカたちは先行きのわからないまま戦いを行わなければならない。小田原を駆け巡り、キャラクタたちが次々と登場するなか、物語は、異様な語り手のテンションを介して過剰になる。
そして、第二章、暗黒脳では、中生代白亜紀末期、六六〇〇万年前の地球へとタイムスリップする。物語は奇妙な転換を迎える。キャラクタたちは、「理由の力」を失ってしまい「わからなさ」に直面する。各人の記憶や性格の情報は保持されているが、しかし、行為のための理由を感じ取れなくなってしまう。キャラクタたちは、妙に生気を失い、理由もどきをリソースにして、不気味な行為を行なう。機械たちが精密にしごとをやってのける、理由なしの駆動のさわやかさがある。キャラクタたちが「ごっこ遊び」を行なって、理由を運用する。キャラクタたちは、理由を模倣して、行動する。ここでは、美学的発想の奇妙な反転がみられる。
第三章、中生代切断計画。時間がほどける。うつくしく思考実験的詩情に満ちている。中世代が切断される。ごっこ遊び会場。コミカルでもなく、スプラッタの恐怖のはしごも外されているようで、読み手として、奇妙な理由の世界に入り込んでしまった感覚は他では味わえない。そこに進化ウェーブがやってくる。幾久世と千宙のコンビは、個人的にR2D2とC3POのコンビのようで、過剰な物語のなかで、いっときのオアシスのように機能する。しつこいくらいに繰り返される名づけの繰り返しも、伝説のなかの語りのように、リズムの心地良さをつくる。中生代での爬虫類との熾烈な戦いで、奇想が奇想を重ねて爆発する。恐竜宇宙艦隊、スペースクロコダイル。水星でのプラズマ発電。SFにおけるスペースジュヴナイルを過剰に再演する。宇宙における、きらめき、光と輝きの輝度高めな風景が連続し、ゴージャスでブライトな章だ。そして、「機械仕掛けの神」のように、ヘヴンズドアが開く。「理由」が降り注ぐ。この強引な解決は、読者を面食らわせる。
場面は急に転換し、二人称から三人称へと変化する。そして、第四章、「アノマロタンク登場」では、最初のダーウィンと老婆の場面に戻る。アノマロタンクが現れる。それと戦いながら、ダーウィンの過去にアノマロタンクが忍び寄る。侵食される過去は、怪奇小説のようで魅力的。安住の地、もはや変更できないからこそ諦めと安心を得ることができるはずの過去が侵食される点に、不安さの経験が感じられる。
そして、東京五輪二〇二〇がはじまる。「陸上馬術自転車水泳野球体操ボクシングカヌーサッカーフェンシングゴルフホッケーボートラグビー射撃サーフィン卓球テコンドークライミングテニス柔道ラグビー空手セーリングレスリングトライアスロンゴルフアーチェリーボクシング近代五種スケートボードウェイトリフティングバドミントンバスケットハンドバレーボール」が開始される。ミカたちはあくまでスポーツパーソンシップにのっとってアノマロヒューマンたちとスポーツをする。このさわやかな描写も見どころだ。
第五章「時間寄生虫」。三つの進化砲撃。ここで描写される様々な敵対生物たちの生活史や生態はとても魅力的だ。物語はクライマックスに向かう。明らかに頁数とそぐわないアイデアが次々と登場し、物語を解決へと導いていく。現在チェーンソー、スピノザ器官、ホワイトホール大絶滅、超次元進化マクスウェルエンジン。
そして、最終章「最後の敵」。読者への挑戦状として三人称の語りで、読者へと語りかけられる。野球のナイトゲームがはじまる。そこで進化の理由が明かされるのだ。物語には、ふたたび怪しげな語り手が登場し、二人称でクロージングが行われる。壮絶な終わりを迎える。
以上は、物語の概観を通して、そのおもしろさをざっくりと指摘した。それでは、より、詳細に、本作をどのような点に注目することで、「この物語は(何が)おもしろいのか?」という問いに対する答えがえられるのだろうか。次節では、以前発表された、草野によるじしんの作品の構造の解説を手がかりに、それを再構成するなかで、この問いに答えよう。
草野原々の三つの顔
草野によれば、草野原々の作品は、三つの層から構成されている(草野 2019b)。第一は「流行文化の層」。第二には、中間層としての「科学的知識の層」、第三には、深層としての「哲学・思想の層」である。
第一の層は、様々な「流行文化」、すなわち、サブカルチャーの意匠やガジェット(アイドル、ソシャゲ、声優)の層で、草野作品を読んだ時にわたしたちがまっさきに出会う表層である。草野は、これらの意匠を惜しみなく使う。星雲賞を受賞した「最後にして最初のアイドル」(二〇一八年)は、これでもかこれでもかと意匠を付け足し、混ぜ合わせ、異様なキマイラが誕生する。本作でも、そのこれでもかは健在だ。とはいえ、本作は、次の層において、その過剰性が発揮されている。
その層とは、第二の「科学的知識の層」である。科学的知識、SF的奇想の層は、「流行文化の層」とも異なる役割を担っている。草野作品の科学的知識は、様々な意匠同士に物語的必然性を与え、物語を破壊し尽くすまでに加速させる。爆発的なインフレーションを起こしながら、作品を無限遠まで発射させる。その異様な量と質とは、過剰なディティールや数に満ちた原初的な神話、伝説、民話を想起させる。巨大な数字、グロテスクなものと出来事、めまいと圧倒、失神と恍惚を誘うような経験––––おもちゃ箱をひっくり返した瞬間の破滅的な愉悦、怪しげな薬理的作用によってぱちぱちときらめく脳内をエミュレートするような、輝きと混迷に満ちた快楽––––。
物語をむすびつけ、推進する物語的機能としての重要性はさることながら、科学的知識は、空疎なドタバタコメディに陥るかにみえる草野作品の物語たちにふしぎなきまじめさを与えてもいる。この底で響く低音のようなパートが、草野作品にどこか端正な響きを与えている。
本作では、ミカたちに襲いかかり、ときに彼女らと共闘するどうぶつたちが、前作にも量と種類を増して登場する。どうぶつたちは、戦いの場面いっぱいを駆け回り、華麗に舞い、壮絶な最期を迎えることで、物語をつなぎ、推進させる。これらのどうぶつたちを描く草野の筆致に、読者は、草野の畏敬のまなざしの影を見出すことができよう。
美しい動物だった。ダーウィンは、ここに、純粋な美を見た。
まず見えたのは、二つの複眼だ。眼柄に支えられて、キノコのようだ。水滴がしたたって、キラキラと光っている。そして、エビのような、いくつもの体節に分かれた胴体が出てくる。胴体には、さまざまな生き物が付着していた。縦三つに分かれた体の三葉虫が、びっしりと埋め尽くしている。三葉虫たちで作られた装甲板の間から、トゲが生えた、虹色のディスクのように光るパイナップルのような生き物が現れる。植物のようだが立派な動物、軟体動物のウィワクシアだ(草野 2019g, 213-214)
科学的知識は、世界に対する草野の愛着と憧憬、畏敬と尊重を示す重要なモチーフとなって、作品の全体に不思議なきまじめさを与えている。これほどまでに縦横無尽に物語が進行し、狂騒のカーニヴァルそものもであるにもかかわらず、ばらばらの出来事は科学的知識の全体のなかで、しかるべききまじめさをもっている。
以上ふたつの層は、前作『大進化どうぶつデスゲーム』、そして、本作の中心的なテーマとなってもいる。前作がエンターテイメントを意識した「流行文化」も取り入れた物語ならば、本作は、SF小説そのものを目指した「科学的知識の層」をフューチャーした作品でもあるのだ。草野のこの試みは過剰に成功している。本作は、SF的奇想を詰められるだけ詰め込んだ、崩壊寸前のSFだ。みてきたように、草野は、過剰の作家と呼ぶべき存在なのだ。
以上の点から、本作の常軌を逸したおもしろさの、少なくともその一部を捉えられる。本作は、これでもかと加えられ、混ぜ合わされ、狂騒のなかで増大し、共鳴し、爆発し、飛んでいく、「科学的知識」の層の狂騒の美的経験によって、常軌を逸しておもしろい。「SFに求めるものは人間の頭をおかしくさせることだ」(草野 2016)とインタビューに答えるように、たしかに、本作は、読者の頭を変調させる。
だが、草野の作品には、もう一つの層がある。そして、カオスにはとどまらない、もうひとつのおもしろさの側面がある。それは「魅力的な哲学的問いの提示」によるおもしろさだ。
この層とおもしろさについて、節を変えて分析しよう。なお、ここから先、本作について、より核心にかかわるネタバレがあることをふたたび喚起しておく。
存在の美学的転回
第三に、深層としての「哲学・思想の層」がある。この層は、草野が語るように、哲学的な側面を得意とする重要なピースだ。草野作品では、たんに哲学的な概念が導入されるだけではない。それらは異なるしかたで組み直される。すなわち、物語を介した「概念実験(conceptual experiment)」を行うのだ。ちょうど、様々な化合物が混ぜ合わされ、新たな性質をもった物質が誕生するように、概念は分析され、混ぜ合わされ、抽出され、新たな概念と連関が生成される。これが概念実験だ*3。
概念実験としての物語という観点から本作を分析しよう。
ひとつ目は、「理由」と「フィクション」をめぐる概念実験だ。
まず、本作に頻出する「ごっこ遊び」という概念を取り上げよう。理由を失ったミカたちは、「ごっこ遊び」によって、理由なしで行動をなんとか生成する。
ここで、「ごっこ遊び」とは、草野自身も参考文献として挙げているように、分析美学におけるもっとも重要な芸術論・フィクション論のひとつである、分析美学者、ケンダル・ウォルトンの『模倣としてのメイク-ビリーヴ』(邦題『フィクションとは何か?』田村均訳)における「ごっこ遊び=メイクビリーヴ・ゲーム(make-believe game)」の概念と深い結びつきをもっている(Walton 1990)。ウォルトンはこう言う。
表象は、ごっこ遊びの小道具としてはたらくという社会的機能を備えたものである。表象は、いろいろな想像を促したり、ときには想像の対象となったりもする。小道具とは、慣習化された生成原理の力によって、想像のしかたを命令するものである。想像するように命令される命題は、虚構的である。与えられた命題が虚構的であるという事実は、虚構的真理である。虚構世界は、虚構的な諸真理の集合と結びついている。虚構的なものは、与えられたある世界──たとえば、ごっこ遊びの世界や、表象芸術作品の世界 ──において虚構的なのである。(Walton 1990, 69 強調は原文)
芸術作品を代表とする様々なフィクション作品は「表象(representation)」として、わたしたちがそれを使って行う「メイク-ビリーヴ・ゲーム(make-believe game)」=「虚構生成ゲーム」の「小道具(prop)」=「虚構生成物」として役立つ。虚構生成物は、ある文化や場所で慣習として共有されているルールによって、様々な想像を指令する。虚構世界は、虚構的真な諸命題の集合とみなされる。
ウォルトンの言ういみでのフィクション概念は、虚構生成ゲームにおいて想像を指令する機能をもった虚構生成物なのだ。こうしたフィクション理解にとどまらず、物語は、虚構の概念を組み直す。本作では、実在と虚構の関係は逆転する。
キャラクターは人間の描写ではない、まったくの逆だ。キャラクターのぼやけた影が人間であるのだ。
なぜならば、人間の持つ理由は不純であるからだ。人間は自由意志を持っていない。理由に基づく行為をしているように思い込んでいるが、実は因果に基づいている。性格に一貫性はなく、状況に依存している。キャラクターに比べたら、全然、リアルでなく、生き生きとしていない。
対して、キャラクターは性格に一貫性があり、理由に基づいた行動をして、理由秩序に合致して感情を変化させる。リアルで、生き生きとしている。
人間は、キャラクターたちの内面を想像して、共感して感情移入して、理由空間を認識し、かろうじて、理由に基づいた行動のようなものを、ごっこ遊びの形で再現するだけなのだ。
キャラクターたちは、理由子の塊だ。キャラクターたちが関係を築くことで、理由空間が形成される。理由空間は因果空間よりも根源的であり、理由空間を表現する虚構世界は因果空間を表現する現実世界よりも、実在性があるのだ。(草野 2019g, 315-316)
本作では、虚構と呼ばれているものこそが実在なのだ。虚構世界の方が、たんなる因果関係よりも、より実在性があるキャラクタの関係性こそがもっとも実在的な理由のネットワークを構築する。その理由空間こそが、時間、空間、存在の根源なのだ。
ここで、「理由(reason)」が重要な概念として登場する。わたしたちは、他人の行為に理由を求める。その理由によって自他を説明し、理解する。凄惨な事件を引き起こした犯人の理由、テロリストたちの理由、戦争の理由、裁判所で、取り調べで––––、あなたを誰かが愛する理由、あなたがある物語を見る理由、そして、フィクションのキャラクタがこのような行動をとり、あのような発言をする理由。
わたしたちはつねに、異様とも思えるほどに、理由に執着する。理由によって批判し、自責し、日々、称賛と非難を行う。わたしたちがこれほどまでに理由に執着するさまを、逆転させたのが本作の物語となる。わたしたちは、理由をつくっているのではなく、実は、世界こそが理由で構成されている*4。
美学的方法によって表現された理由子、それが虚構上のキャラクターなのだ。
日常的な物体の正体が、数学的方法により表現される量子であるのと同じように、世界の正体は、美学的方法によって表現される理由子であるのだ。(ibid., 315)
「ある(being)」は、「つくる(making)」の二次的なものなのだ。存在はあるのではなく、つくられるのだ。科学は存在を捉える。だが、捉えるべきは、虚構なのだ。美学が本質を捉える。ここで「美学的転回(aesthetics turn)」とも言うべき実験がなされる。
この想定は、あまりにも突飛だろうか。だが、草野がバックグラウンドのひとつとする「分析哲学(analytic philosophy)」において、わたしたちの心、倫理、さらには、時間さえもがフィクションであるとする、様々な「虚構主義(fictionalism)」が現在、活発に議論されている(cf. Toon 2016)。これらの議論は、しかし、実在的なものの特徴が「ごっこ遊び」によって捉えられているものとして、わたしたちの理解や説明の活動を分析するものだ。
草野は、こうした現代の哲学における議論を、文字通りに受け止めるならどうなるのか、という実験を行なっている。実在的なものをフィクションがよく説明するのではなく、フィクションこそが、わたしたちがあやまってそうみなしている「実在的なもの」で説明されているに過ぎないとしたら? *5
分析哲学的発想と分析美学の発想を組み合わせて、概念の実験を行えば、首肯しうるかはともかく、「理由子一元論」ともいうべき、本作の概念実験が提出されうる。読者は、物語、フィクション、そして、キャラクタ概念への揺さぶりと問いかけを読み取る。それは草野による、物語を用いた物語と概念の実験なのだ。この意味で、本作を美学SFと呼ぶこともできよう。
この概念実験をさらに詳しく追ってみよう。
まず、科学は、現象や物質の因果を問うことができる。だが、わたしたちが日常で使うような意味での理由や意義に答えることは、いっけんできない。だが、振り返れば、わたしたちがふだんづかいしている理由は、科学の営みによって、どんどんと因果に還元されていった。「りんごはなぜ落ちるのか?」という問いに、もはや、「ものとものとが愛の力によって引き合うからだ」と答えるひとはいないだろう。だが、「あなたはわたしになぜ恋に落ちたのか?」という問いに、ひとびとは、りんごの落下を説明するときのような因果ではなく、より物語的な愛の理由を語るだろう。これが読者の既存の概念的ネットワークだ。
草野は、因果と理由を逆転させた世界へと読者を誘う。その世界では、実在は、量子といった因果に尽くされるようなものではない。理由子という、わたしたちがふだんづかいしていて、因果に還元されてしまうかに思えるものこそが真に実在する世界。その世界では、理由がすべてをかたちづくる。時間、空間、心、行為のすべてを、理由がうみだす。
この世界は、ある意味でユートピアだ。想像してみほしい。あなたが理由に満ち満ちた世界に住んでいるのなら、あなたは、どんなに不幸であっても、もはや人生の意味に悩むこともない。これはおかしな表現ではない。なぜなら、あなたの生は、それがどんな酷いものであろうと理由があるからだ。同時に、人生の価値に悩むこともない。人生に生きる理由があるなら、それは、人生に生きる価値があることを示唆しうるのだ。
この世界は、理由の王国だ。だとすれば、読者であるあなたも、この世界に憧れるのではないか? 理由があふれているこの世界では、すべての苦しみと痛みに理由が与えられ、救済されるのだから。
だが、草野は、この王国の暗黒面を描く。理由の王国のおぞましいシステムを提示する。それでは、こうしたキャラクタたちの存在と物語におけるデスゲームはどう関係するのだろうか。ふたつ目の概念実験が開始される。「進化」と「絶滅」の概念実験だ。
どうぶつ実験と反出生主義
つぎに、前巻のタイトルであり、本巻でも中心的な概念となる「大進化どうぶつデスゲーム」に含まれる、「進化」と「生と死」の概念の構造と他の概念との連関を辿ってみよう。
「進化」ということばは、いつも、どこか他人ごとのような響きがする。それは、中立的なニュアンスを装っている。だが、進化とは、よく嗅ぎつけてみれば、死の匂いであふれている。
わたしたちは、訳もわからず出生を続ける。それを疑問にも思わない。だが、生むということは、その死の可能性を同時に生成する。どうぶつが新たなどうぶつを生むのは、それに生を与えるためだけではない、死もまた与えられる。淘汰のシステムにランダム生成された新たなパラメータを振ったいのちを投げ込み、その性能を実験し、より適応したプロダクトをリプロダクションする、「どうぶつ実験」を行なっている。選別のために、どうぶつには死の機能が与えられた。
進化は、ある環境に適応したどうぶつを生み出すシステムであると同時に、適さないすべてのどうぶつに死を与え、選別し捨て去るシステム、すなわち、「どうぶつデスコンピューティング」なのだ。ゆえに、進化の産物たるどうぶつたちは、みな、それが美しければ美しいほど、合理的であればあるほどに、色濃い死の匂いにあふれている。夢見るように透き通った蝶の羽、思わず目でなぞりたくなるような魚たちの流線型––––。これらは、みな死のエンジニアリングの成果物なのだ。
草野作品において、進化と死のコンピューティングは、「いつでも、どこでも、永遠に」(草野 2019c)、「エボリューションがーるず」(草野 2018)といった作品において、重要なテーマとして用いられてきた。こうした草野の概念実験の最新として、本作では、より異なったアプローチから、進化と死のコンピューティングは取り扱われる。
現実において、進化を司る絶対者はいない。淘汰圧は様々な要素が参加し、相互作用しあうなかで、おのずから生成される。もし、法外な権限をもって進化を設定する者がいるとすれば、それは、もっとも不条理でもっともおぞましい存在だ。だが、本作において、進化をデザインする死のエンジニアはいる。それは「超越地平」––––「無限の理由子の塊––––超越的にリアルで生き生きとしたキャラクターたちの関係性」(草野 2019g, 316)のあるところ––––だ。
演劇で、物語に決定的な終わりを与える機械仕掛けの神をつよく想起させるように、物語で唐突に挿入される「ヘブンズドア」の向こうの超越地平は、不条理な絶対者として、あらゆるものの死を実験し続ける。しかし、それはなんのためなのか?
世界、それは理由子エンジンであった。絶対的にリアルなキャラクターが、虚無を理由で打ちつけ、進化させて時間を発生させるエンジンだ。
(草野 2019g, 316)
超越地平は、理由そのものであり、死の理由さえ供給する。それによって、時間を発生させる。時間は死を燃料として生成される。
極限的なリアルであるキャラクターたちの関係性は、理由子エンジンの効率を高めるために、デスゲームをしていた。
時間を作るための進化に、大量の死が必要になるということはいまさら記す必要はないだろう。死は生き物や人間だけでなく、キャラクターにも及ぶ。理由に基づかない振る舞いをするキャラクター、リアルではないキャラクター、生き生きとしていないキャラクターは、死の対象となるのだ。淘汰されて、より理由空間を広げるために打ち捨てられるのより理由空間を広げるために打ち捨てられるのだ。(ibid., 313)理由による淘汰圧下での進化自体の進化、それが大進化どうぶつデスゲームであった。(ibid., 317)
キャラクタたちの死は、理由によって回収され、意味あるものにされてしまう。それがどれほどむごたらしく、どれほど残酷で、不条理にみえても、最終目的たる理由空間の展伸のために、意味のある死を与えられる。ミカは、その理由じたいの不条理さを問う。
早紀が言う。
「だから、わたしたちも理由子エンジンの一部なのよ。さあ、わたしとあなたで、関係性を進展させ、生き生きとした理由を作り、時間を大量に発生させましょう」
早紀は、手を広げてミカに近づく。
「……嫌だ!」
「……なぜ?」
「邪悪だからだ。理由子エンジンは、邪悪だ!」(ibid., 316-317)
だが、ミカには、理由子エンジンを破壊する手段は存在しない。理由子エンジンを止めるために、死を与えることは、しかし意味がない。
……死を投げるのは逆効果だ。死はキャラクターの理由を強化する。その証拠に、デスゲームによってミカの理由が強化されたのは周知の通りだ。理由をより強化するために、死に適応して進化した存在がキャラクターなのだ。(ibid., 318)
絶滅は、もし個別の生物種の絶滅であれば、たんに、「関係性」を生産するだけだ。そして、それは、キャラクタの生産に利用されてしまう。死と絶滅を混同してはならない。死は、進化を加速させる燃料でしかない。ミカが求めるのは、絶滅、よりただしくいえば、「大絶滅」、すなわち、すべての進化の停止だ。それは死を投げるのではなく、「デスゲーム」を終わらせるものでなければならない。何も投げるものはない。投げてはならない。ミカは何ももたない。そして、じぶんじしんの存在さえももつべきではなかったのだ。
絶滅は、時間の、空間の、キャラクタの、すなわたち、すべての絶滅でなければならないのだ*6。
進化は、理由に満ち満ちた超越地平への道だ。生は理由であふれている、価値にあふれている。だが、すべての絶滅は理由を消し去るものでなくてはならない。だが、理由こそ、この世界を満たす力なのだ。絶滅は、進化に勝つことはできない。
※
ミカが果たし得なかった「絶滅」の意志には、現代の哲学における「反出生主義」の思想が響いている。
「反出生主義(anti-natalism)」の現代的な旗手とされるのは、南アフリカ大学の倫理学教授デイヴィッド・べネターだ。かれは、『生まれて来ないほうがよかった』において、「生まれることはつねに当人にとって悪である」こと、そして、「わたしたちの生の質は、わたしたちが考えているよりもずっと低い」ことに基づいて、「いかなる場合においても、子供をもうけることはつねに道徳的にわるい」という主張を行った(Benatar 2006; cf. 鈴木 2019)。べネターの反出生主義は、その主張の過激さ、おおくのひとびとにとっては直観的には認めがったがために有名になったというわけではない。この主張自体は、その系譜を過去に辿ることができるだろう。むしろ、衝撃は、この結論が、ひとびとによって直観的に認められうるような前提に基づいて導き出される点にあった。発表当時から哲学者たちや倫理学者たちの議論を呼び、いまなお論争は続いている。
対して、「進化」を寿ぐ態度には、出生主義に通じるものがある。ここで明確化してみれば「出生主義(natalism)」とは、反出生主義との対比で理解されるだろう、すなわち「生まれることはつねに当人にとって悪というわけではない」。
超越地平と絶対深淵の対立は、出生主義と反出生主義の対旋律になぞらえることができるのみならず、両者の根底にある世界への態度を、べつのしかたで印象深く描写し、読者に問いを投げかけている。
出生主義者は生を祝う。生は、生き生きと理由にあふれ、価値にあふれ、時間にあふれている。対して、反出生主義者は、わたしたちがこれ以上誕生させること=死を与えることを回避することを主張する。だが、もし、機械仕掛けの神が、すべての理由を生産しているなら? 反出生主義者たちは、圧倒的な生の理由と価値の前に、何も持たずに戦わなくてはならない。すべての理由を消して、純粋な無である絶対深淵に戻ることは叶わない。時間がある限り、局地的に何かが絶滅しても、宇宙のどこかでどうぶつは誕生し、必然的に進化がはじまる。そうして、ふたたび、痛みと苦しみを燃料に、死のコンピューティングがはじまる。
以上から、本作は、絶滅を思索する、反出生主義SFであると言える。
※
優れた作品がそうであるように、本作もまた、たんにひとつの主義を押しつけるモノローグ作品ではない。本作には、同時に、死の匂いに反発しつつも、生と進化の価値に思わず感嘆してしまうような両義的でポリフォニックな態度に揺れてもいる。
すでに指摘したアノマロタンクの純粋な美のように、生と死のエンジニアリングによってもたらされたどうぶつは、圧倒的な価値をもって、わたしたちを惹きつけてやまない。生と死の害悪とその美しさとエモさ、そして、絶滅への意志は乱反射し、断片的に響き合う。物語のなかで、すぐさまいずれか立場のただしさが決定されはしない、微妙なラインの上で物語は存在する。それは、草野じしんのなかにささやく複数の声かもしれない。優れた物語は、異質な複数の声を持つ。本作もまた、絶滅と生命のあいだで揺れ動き、その緊張は解かれることはない。
本作においては、ふたつの概念実験が行われている。ひとつは、フィクションをめぐって、もうひとつは、絶滅と生と死をめぐって。こうした実験の試みに注目すれば、本作は、美学SFであるとともに、反出生主義SFでもある。
本作は様々な概念の連関を物語を介して展開し、そのゆたかで謎めいた性質を読者に提示する。物語は、つねに、じしんが提出した問いに答えるわけではない。それはむしろ哲学の役目だ。物語は、問いを開き続け、もちこたえさせ続ける。それは、哲学とはべつのしかたでの物語による思索の行為だ。読み手は、この物語を引き継ぎ、じしんでその先を考えることを誘われる。
ここで、読者は疑問に思うかもしれない。二つの概念実験の価値はあるとして、しかし、それは、本作のごく一部の魅力ではないのか––––本作は、むしろ、前節で指摘されたような「科学的知識」の過剰さやディティールによって価値づけられるのではないか––––本解説は、「哲学・思想」の側面を強調しすぎて、本作の重要な価値を見逃しているのではないか––––この指摘は重要な点を言い当てている。だが、本解説で指摘したことと矛盾しない。
おわりに
本作は、まさに、物語を埋め尽くすような科学的知識の過剰さによって、読者を哲学的問いに引き込む。第一に、物語の速度、キャラクタに降りかかる出来事、そして、科学的な理由づけは、一挙に読者を襲う。それによって、読者は、読みながら、草野が提示する物語への関わりの態度へとチューニングをだんだんと合わせていく。思い出すだろうか。最初のページでは、いきなり登場するダーウィンに、唐突にはじまる老婆のお話に、独特な語りに面食らったはずだ。だが、読み進めるうちに、あなたは、段々とふだんの生活の態度とは、さらに、ふだんの物語の態度とは、物語にゆさぶられるたのしみとおもしろさのなかで、異なる態度に自然と変調していく。その変調の状態で草野は、さらに、二つの概念実験をたたみかけるのだ。それは、哲学論文があくまで素面の状態で読まれることをふつう想定しているし、また、情動をかき立てたり、態度を変容させたりすることを目指してはいないことと、ちょうど対になっている。本作は、何よりもまず、お話、物語なのだ。物語は、読者の態度を異なるモードへとチェンジさせ、その上で、変調した読者に、既存の概念のネットワークを組み替える実験を誘う。つまり、本解説で指摘した科学的知識の層と、哲学・思想の層は、第一に、それぞれ独立した価値を持ちながら、第二に、互いの別の機能を果たしながら、つながりを持っているのだ。
もちろん、草野作品には、この二つの層の連結について再考すべき点があるとわたしは考える。どこまで意識的に、読者の変調を誘う/誘わないか、どこまで、変調に用いた物語と哲学的思索の誘いをなめらかにつなぐかについて、さらなる発展の可能性の余地がある。
だが、草野の目論見––––「読者のあたまをおかしくさせる」こと。そして、もう一つ、わたしが想定する、哲学的な問いに読者を引き込むこと––––はこれまでにもまして、うまくいっている、とわたしは判断する。息つく間もない物語の進行、出来事、科学的理由づけの挿入は、みなすべて読者の頭をじゅうぶんに変調させてしまう。そして、哲学的思索、概念実験に、読者はその変調した態度によって引き込まれ、問いを受け取る可能性がもたらされている。
※
『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、時間と空間を横断/切断しながら、語り手を変えながら、物語が異質なものに変わり、キャラクタが破壊されたさきを探ろうとする、物語を破壊しながら、原初の物語の力を思い出させる作品だ。
一方で、本作は物語に読者が期待するたのしみを裏切る––––キャラクタへの「感情移入」のたのしみ、キャラクタの関係性に「エモさ」を感じることに対するメタ的視点の導入、物語への「没入」の快楽を堰き止めるような、くせのあるいくつもの語り手の登場––––。
他方で、本作は、読み手が知っていたはずの、しかし、忘れかけていた「物語の根源的なよろこび」を突き詰める。物語は、まず、誰かによって語られるものなのだ。わたしたちの祖先が焚き火の周りで聞いた神話、旅情の寂寥を慰撫するように、旅籠で耳を傾けた吟遊詩人の語り、そして、親たちが語りかけるお話たち––––。そこには、語り手が紡ぎ出す独特なリズム、荒唐無稽な出来事をつなぐふしぎな理由が次々とつむがれ、説得されるたのしみがある。
このお話は、一方で、物語を破壊する。それにより、読み手に物語への反省的態度を要求する。他方で、このお話は、物語の祖先へと回帰する。それにより、語りを聞く原初的なよろこびをもたらすのだ。
本作は、これまでの草野作品の様々な要素––––メタフィクション、進化、キャラクタ、関係性、理由、心、生と死––––が流れ込み、さらにもう一段、物語の力とゆたかな概念実験が組み込まれ、うみだされた作品だ。『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、原々文学の最前線だ*7。
難波優輝(分析美学と批評)
Twitter: @deinotaton
参考文献
Benatar, D. 2006. Better never to have been: The harm of coming into existence. Oxford University Press.(『生まれて来ないほうが良かった––––存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宜義訳、すずさわ書店、二〇一七年)
John, E. 1998. “Reading fiction and conceptual knowledge: Philosophical thought in literary context.” The Journal of aesthetics and art criticism, 56 (4), 331-348.
草野原々. 2018a. 「草野原々インタビュー」(初出「SFマガジン 2016年10月号」) Hayakawa Books & Magazines (β), <https://www.hayakawabooks.com/n/n431e95f69b62>.
––––. 2018b. 「伝説級の話題作。『最後にして最初のアイドル』刊行記念インタビュウ」『草野原々、大いに語る』cakes, <https://cakes.mu/posts/19453>.
––––. 2018c. 『最後にして最初のアイドル』早川書房.
––––. 2018d. 「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber真銀アヤです。 」『小説すばる』2018年10月号所収.
––––. 2019a. 「理由農作錬金術師アイティ」『三田文学』No.137(2019年春季号)所収.
––––. 2019b. 『大進化どうぶつデスゲーム』早川書房.
––––. 2019c. 『これは学園ラブコメです。』小学館.
––––. 2019d. 「原々作品の源流をさぐる」第58回日本SF大会「彩こん Sci-con」、2019年7月27日~28日、埼玉県さいたま市ソニックシティ.
––––. 2019e. 「いつでも、どこでも、永遠に」『NOVA 2019年秋号』所収、河出書房新社.
––––. 2019f. 「幽世知能」『アステリズムに花束を––––百合SFアンソロジー』所収、早川書房.
––––. 2019g. 『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房.
難波優輝. 2019a. 「絶滅の倫理学」Lichtung Criticism’, <https://note.mu/deinotaton/n/nd55ecbe15125#4wuyU>.
––––. 2019b. 「キャラクタの前で」『大絶滅恐竜タイムウォーズ』所収、323-331頁、早川書房.
鈴木生郎. 2019. 「非対称性をめぐる攻防」『現代思想』47 (14), 114-124.
高田敦史. 2017. 「フィクションの中の哲学」『フィルカル』2 (1), 92-131.
Toon, A. 2016. “Fictionalism and the folk.” The Monist, 99 (3), 280-295.
Walton, K. 1990. Mimesis as Make-Believe. Harvard University Press.(『フィクションとは何か––––ごっこ遊びと芸術』田村均訳、二〇一六年、名古屋大学出版会)
引用例
難波優輝. 2020. 「草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズと絶滅の意志』」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/kusano.gengen.daizetsumetsu.kyouryuu.time.wars.will.for.extinction>.
注
*1:もちろん、前巻を読んでおけば、本作から得られるたのしみはさらに増えるだろう。
*2:
*3:概念実験の概念と特徴づけは、John(1998)および、高田(2017)の議論にヒントを得ている。
*4:理由をめぐる物語は、短編「理由農作錬金術師アイティ」においてその萌芽が見出せる(草野 2019a)。さらにまた、近作、「幽世知能」における「自由エネルギー原理」(草野 2019d)においても、キャラクタと理由の関係が考察されていた。
*5:本作におけるフィクション論と、心と虚構主義の関係の概念実験は、『これは学園ラブコメです。』におけるメタフィクションの試み(草野 2019b)。「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber真銀アヤです。」における意識の描写の実験の試みをその源流として見ることもできる。
*6:すべての宇宙の絶滅についての議論は、難波(2019a)を参照のこと
*7:この場をお借りして、わたしの自己紹介をしておく。
「分析美学(analytic aesthetics)」––––分析哲学の流れを汲んだ美学で、ひとびとのことばづかいや批評実践を手がかりに、わたしたちの文化的実践を分析し、これをよりよく理解、説明するための概念や枠組みの構築を目指す学問––––の研究者であるわたしは、草野原々に依頼され、プロットを聞き、本文を読み、読み手の経験の記述、疑問点の指摘といった最初の読者/批評家としてのしごと、そして、分析美学の概念や枠組みの紹介といった研究者としてのしごと、さいごに、いま行っている、作品の価値の伝達と、潜在的な読み手へのアピールという、解説/広報者としてのしごとを担当した。この新しいしごとを、ドイツにおける演劇実践から生まれた「ドラマトゥルク」という職業の小説制作バージョンとして「ノベル・ドラマトゥルク(novel-dramaturg)」と呼ぶことにしている。ドラマトゥルクが脚本家や演出家とともに考え、そしてそれらのひとびとと俳優を、加えて、観客たちのあいだを触媒としてつなぐように、わたしは、シャーロック・ホームズたる草野原々がプロットやアイデアを話す傍にいるワトソン役となって、さらに、草野と読者の間に立って、物語の価値を媒介する。
問題を鮮やかに解決するホームズに褒賞が与えられるように、本作がもちうる価値は、当然草野じしんに与えられる。わたしは、誇りあるワトソン=触媒=媒介として、本作の価値を読者に伝え、広める、べつのしかたでの重要な役割を果たせればと思う。