Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

マルチエンティティーズ人類学:存在論的混淆種としての人類

マルチスピーシーズ人類学から発展して、複数の存在論的地位にある対象についての人類学を論じることができる。

それがマルチエンティティーズ人類学(multi-entities anthlopology)だ。

それは虚構的対象、フィクション、物語、ロボット、死者、幽霊、数的対象、概念などといったさまざまな存在論的地位を持つ存在者たちとわたしたち、わたしたち以外、わたしたちとわたしたち以外のあいまが複合体となって、それらがどのように生を営むのか、どのようなふるまいをするのか、どんな価値を見出すのかを明らかにしようとする学問だ。

マルチスピーシーズ人類学が、狭義に存在する動物たちと人間を扱うのなら、マルチエンティティーズ人類学は、実在する、という特性を超えて、非実在や虚構と呼ばれうる存在論的に多様なスピーシーズ=マルチエンティティーと人間の関わりを主題化しようとする。

たとえば、綾波レイやアスカラングレーでも、レムやラムでも、五条悟でも、渚カヲルでも、虚構的対象に人々はときにほんとうに恋する。家に彼らのフィギュアやポスターを設置し、彼らとともに生きる。それはまさに存在論的な種を超えた生の営みであり、わたしたちが当たり前に行い過ぎているがゆえに際立たなかったオントロジカルな越境行為だ。恋するという行為は、実在と非実在の境界をぶち抜いて成立しうる。

バーチャルYouTuber人類学

マルチエンティティーズ人類学への哲学的なアプローチとして、わたしはバーチャルYouTuberの人類学を行なっていると言える。一見したところ、バーチャルYouTuberとは、アバターの中に人がいてファンと交流するアイドル文化に他ならないように見える。

しかし、交流の際には常にフィクショナルキャラクタの画像が媒体となり、複数の虚構的設定がコミュニケーションをつなぐ。この奇妙な虚構的媒体を介した営みは、バーチャルYouTuber存在論的サイボーグであることを示している。ファンたちは直接バーチャルYouTuberの中の人に恋するのではなく、つねに虚構的なイメージを介する。その複雑な過程を追うのがバーチャルYouTuber人類学・バーチャルYouTuberの哲学の課題となる。

マルチエンティティーズ人類学に向かって

わたしたちは人間である。しかし、人間であるとはどういうことなのだろうか? 人間の能力の研究はこの問いに豊穣なヒントを与えてくれる。しかし同時にその成果を携えて、わたしたちがそれらの能力を駆使してどんな生を編み上げているのかも分析されなければ、問いにはうまく答えられない。

その試みの一形態として、わたしは複数の存在者たちと触れ合う点に人間の特殊性の一つを見出したい。犬や森という存在者のみならず、虚構や物語、キャラクタや幽霊達と交感するわたしたちの謎の生を探求したい。現実の種を超えた多様な存在種に向かって。そして、存在論的混淆の中で生きる人類を捉える方へ。

未来の哲学宣言

SFの物語を参加者とともにつくることで、未来のプロダクトやサービスの可能性や課題を対話するSFプロトタイピング。その仕事をしていると、いろいろな未来を人々とともに想像する。来てほしい未来や、どこか気味の悪い未来。

あるワークショップが終わったあと、わたしはふと「未来とは何なのだろう?」と思った。

それからわたしはちょこちょこ未来についての論考を紐解いたりするのだが、未来とは? と直接に問う議論にはまだ出会っていない。

だからここから、未来を論じていきたい。わたしの専門は哲学だから、未来を哲学的に考える「未来の哲学」を論じていきたい。

未来の哲学のコンテンツ

とはいえ、未来とは何か? と問うだけでは茫漠としているから、限定が必要だ。

ここで未来哲学の内訳を考えてみよう。

  1. 未来存在論:未来はどこにどんなふうに存在するのか? 未来は実在しているのか? 未来の本性とは何か? 未来はなぜ存在し続けられるのか? 未来は突如崩壊することがないのか?
  2. 未来認識論:わたしたちはどのようにして未来を予測できるのか? その予測は認識論的な意味での知識なのだろうか?
  3. 未来倫理学:未来に対する現在の責任は世代間倫理や環境倫理に尽くされるのだろうか? より根本的にわたしたちがどんな未来を創造できるかがつねに倫理的に問われるのではないか? そもそも未来を存在させるべきだろうか?
  4. 未来美学:未来とは美的にどんなふうに経験されるのだろうか? 懐かしさに対峙される未来への憧れとはどのような美的経験を生み出せるのか?

要素はまだまだあるがとりあえずのわたしの関心に関わるのは以上だ。あらためて未来哲学を言い表すと次のようになる。

未来哲学:未来の存在論的地位、本性、あるいは未来の認識可能性、未来に対する倫理的責任、その美的価値など、未来に対する哲学的アプローチ。

未来哲学は、わたしたちすべてにとって重要だ。なぜなら、他でもないわたしたちの行動が未来を決定し、過去の未来に規定されてきたから。

とくに、未来への想像がビジネスで求められる現在において、未来に対する哲学的な分析・解明は様々な人にヒントを与えてくれる。なぜなら、じぶんたちがそもそも何を考えようとしているのかが言語的・図式的に明確化されることで、未来を扱う際、じぶんたちが考えるべきポイントをその都度共有・議論できるようになるはずだからだ。

そして、少なくとも未来への想像をプロモートしたいと思うSFプロトタイピングの実践者であるわたしにとっては、未来哲学を論じることは魅力的で、必要である。

しくじりアートとアンスコム

note.com

銭清弘さんのこちらの記事を読んで、芸術作品を作り損ねることはあるのか悩んでいた。

そんな中、アンスコムの実践的知識論について書かれた次の論文を読み、電撃的に気づきを得た*1

鴻浩介. (2017). アンスコムの実践的知識論. 哲学, 2017(68), 169-184

ci.nii.ac.jp

結論としては、芸術作品は作り損ねられるし、作り損ねについて話すことに価値はあるし、作り損ねる話がなぜ難しいのかの説明もできる。

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アンスコムの話をする

まず、芸術作品の作り損ね方を論ずる。ここで導入したい便利な概念は「実践的知識」という概念だ。

これは、G・E・M・アンスコムが『インテンション』で提示した行為者性(行為できる主体としての性質)について回答するために出されたアイデアだ。すなわち「行為者は自分自身がどのような意図的行為を行っているのか、他の誰にも許されないような特権的なしかたで知ることができる」として、この行為者の特権的知識を「実践的知識(practical knowledge)」と呼び、行為者性の本質的特徴としたそうだ(ほぼ 鴻 2017, 169の写し)。

つまりこういうことだ。

あなたが散歩している。

わたしが「何しているの?」と訊く。

あなたは「散歩しているんだ」と答える。

わたしはふうん、と頷いて「で、なんでそう分かったの?」とさらに訊く。

これがおかしな会話であることは分かるだろう。あなたが「散歩している」という知識は、あなたが意図しさえすれば知っている知識であり「なんでそう分かったの?」という問いを許さないようなものなのだ。これが、「行為者は自分自身がどのような意図的行為を行っているのか、他の誰にも許されないような特権的なしかたで知ることができる」という意味である。

ここからさらに大事な話になる。では、こういう実践的知識とは具体的にどういう知識か?

ここのところが大事だ。まず、実践的知識とは、行為を生み出すのに必要な因果的な意図だ。ご飯を食べよう、という意図はふつう適切な状況では行為を生み出す因果の引き金になる(もちろん鬱々としているとき、お風呂に入ろうと思ってもなかなか入れないものだが)。これが1つ目の実践的知識である。

次に、さらに重要なのが、二つ目の実践的知識だ。それは、ある行為がどういう行為かを規定する意図だ。タクシーを止めようとしてあなたが手を上げたとき、偶然知り合いが向こうにいて手を振り返してきた。このとき、あなたが意図したのは「タクシーに合図する」という行為であり、「知り合いに挨拶する」という行為ではない。このとき、実践的知識は、あなたが行う行為がどういうタイプの行為なのかを意図的に規定する力を持っている。この議論こそが鴻のオリジナルな点だ(以上、事例も含め、鴻 2017)。

さて、ある人が行為するとき、その行為を支える実践的知識とは、①行為を生み出すのに必要な因果的な意図と②ある行為がどういう行為かを規定する意図の二つであることが分かった。

芸術作品は作り損ねられる

上で話したのは、実践的知識には二種類あるよ、という話だった。これを裏返せば、意図的な行為を成功させるためには、因果的な知識と概念的な知識の二つが要るということだ。

たとえば、挨拶をしらない人が挨拶っぽい身体の動きをしても、それはたまたま挨拶と同じ動きをしているだけで、挨拶という行為をしたことにはならないのだ。

同じように、ここでようやく話が戻り、アートづくりっぽい行為をしても、アート概念を知らなければ、アートを作ったことにはならないわけだ。

もっとも興味深いのは、アートの概念を知っているのに、アートづくりにしくじるケースだ。それはどんなだろうか?

鴻はこの論文の最後で、いまの話に関わる非常に啓発的な話をしている。該当部分を全文引用しよう。

さて最後に、このような二種類の実践的知識の関係について若干の考察を付け加えて論を閉じよう。そのために次のような事例を想像してみる。使っているラジオの調子が悪いので、私は工具を取り出してその分解修理を始めた。しかし私があまりに不器用なため作業は思うようにいかず、部品はそこら中に散らばり、 いくつかは失われ、 ラジオの状態はかえっ悪化の一途をたどりはじめる。傍から見れば、私はむしろラジオをバラバラに破壊しているようにしか見えないのである。そしてそのことには私自身も気づいている。さて、そこにあなたがやって来て 「なぜラジオを壊したりしているのだ」  と驚いて聞く––––。

この状況において私が返すべきひとつの自然な答えは「いや、壊しているわけではない」というものだろう。「そうではなく直しているのだ。どうもうまくいかないのだけど」と。とはいえ、自分がラジオを壊しているということもまた私は 認めざるを得ない。事実としてラジオは私のせいで壊れつつある、 ということを私は知っているのだから。 この状況を我々はいかに解釈すべきだろうか。本稿で提示された立場に立つならば、答えは明瞭である。この時私は、自分の行為が「ラジオを直す」という種類の行為であるという実践的知識は有している。にもかかわらず、それが「ラジオを直す」という物理的性質を有しているという知識は  (つまり私の身体運動に伴った工具の運動によって実際にラジオの状態が改善されつつあるという知識は)有していない。その命題は端的に偽である。以上のような意味で、私はラジオを直しており、かつ直していない。(鴻 2017, 180)

そう、ラジオ直しの技能がない状態でわたしたちはラジオ直しを意図できるが、それに失敗できるのだ。

ここから、次の表を作ることを思いついた。すなわち、

  因果的に作る知識を持つ 規定的な知識を持つ
①成功アート
②物理的にミスアート ×
③偶然アート ×
④完全なる失敗 × ×

説明しよう。

①成功アート:技術も概念も分かっている。例:ちゃんとしたアート

②物理的なミスアート:概念はわかっているが技術がついてきていない。例:批評家ががんばるもミスってる作品

③偶然アート:概念を分かっていないが偶然アートの物理的性質ができた。例:ゾウさんアート

④完全なる失敗:概念も技術も分からない。例:なし

これで、きれいに、しくじりアートの種類を3つも分けることができた。①以外しくじっている。

作り損ねについて話して何がうれしいのか?

これは銭の引いているマグワイアがすでに議論しているかもしれないが、実践的知識から考えると、作り損ねについて考えることには非常に有益な意義を見いだせる。

まず銭に同意するのは、マグワイアのするように、「芸術」の作り損ねについて議論するのは筋がわるい。なぜなら、ラジオ直しがそうであるように、特定の行為が行為として成功失敗をいいやすいのは、その行為の概念が明確である場合である。

しかし、現代では、もはやアート制作行為は拡散しすぎていて、アート制作行為を意図するには、ほとんど最小の概念で済むだろう。しかも、アートの技術的知識に関しても、必要ない場合もかなり多くありそうである。いいとかわるいとかではなく、現状そうなのだ。

なので、②物理的なミスアートと③偶然アートが生じにくくなっている。

しかし、銭が言うように、ある芸術形式、さらに私が提唱したいのは、ジャンル作品については、十分作り損ねを考える価値はある。

まず、ジャンルの定義論は、成功したジャンル作品となる条件を明らかにすべき、というのは、異議なく認められるだろう。そのとき、アンスコム+鴻の議論を受け入れるなら、行為の成功には、行為を規定する意図だけでなく、因果的な意図も必要である。

だとすれば、美学者が取り組む①概念的な特徴づけ、だけではなく(!)、②因果的な知識の記述、具体的にどうしたら芸術(ジャンル)作品として認められるかの記述もせよ、というのは、十分受け入れられるし、美学者にとってもチャレンジングで興味深い仕事となるだろう。

たとえば、私なら、SFジャンルにおいて、SF作品として成功する因果的な条件はどれくらいゆるいのか(かなりゆるそうではあるが……)しかし、ミステリ作品となると、さらに本格ミステリ作品となると因果的な条件はより厳しそうだ。作中に十分なヒントを配置できなかった場合、それはミステリ作品にはなるだろうが、本格ミステリとしては失敗している!

そのため、どんな風に具体的な因果的なジャンル作品としての成功条件があるのか、どこに実践的な成功・失敗のラインがあるのかを論じることは、理論的な側面とはやや異なる仕方で興味深い。美学者の仕事ではなくなっていくかもしれないが。

作り損ねる話がなぜ難しいのか

銭はおもしろい指摘をしている。

ピンとこないと言っている通り、私の整理が正確なのかどうかも自信がないのだが、ともあれピンとこない理由は、そもそも「failed-art」に関する明確な直観がないからだ。Mag Uidhirはとにかく「芸術作品を目指して作られたが、芸術作品にはならなかったものがある」という前提に基づいて話を進めるのだが、明確な具体例もなく、動機を共有することが難しい。そもそも「failed-art」にぴったりはまる訳語も思いつかないのは、日常的にその手のアイテムに触れていないからだろう。そもそも、芸術になりそこねたものがあるとしても、陽の目には当たらないはずなので、出会ったことがなくても仕方がないだろう。当然ながら、そんな非芸術のサブクラスがそもそも実在しないのであれば、従来の意図主義的な定義で事足りるのだ。(もちろん、そんな性質Fがありうるのか、意図主義でうまくいくかどうかは別の話)(銭 2021)

「そもそも「failed-art」にぴったりはまる訳語も思いつかないのは、日常的にその手のアイテムに触れていない」という指摘がおもしろい。鴻もこういうことを言っている。

もし修理がうまく進行していたのだとすれば私は二種類の実践的知識を同時に有していたはずなのだが、それを自然な日本語で表現するならばどちらも同じく「私はラジオを直している」という形をとるであろう。だからこそ、翻って失敗の事例において、ラジオを直しており、かつ直していないというたく同一の文で表現され得るということである。一見矛盾した記述が可能だったのである。

本稿の主張には反して、我々はふだん、実践的知識に相異なった二種類があるという実感は持たない。私の考えでは、その理由の一端はこの第二の論点にある。どちらの実践的知識も同一の文によって表現できる状況が多く存在するため、ふだん我々は表現される知識内容の違いに気づかないのだ。 (鴻 2017, 181)

こういうわけで、日本語の文には、二つの実践的知識をうまく分ける表現が(都合上)存在しない。同様に、英語でもおそらく銭が指摘するようにfailed-artに対する日常対応文が存在しないのだろう。

実践的知識という観点から捉え直すと、failed-artをうまく考えられそうだし、実例はジャンル作品についてはありそうだし、日常に対応する文がない理由の一端も分かりそうだ。

ということで、しくじりアートはアンスコムから考えるとよさそうだ、という研究ノートでした。

 

 

*1:元を辿れば、萬屋博喜さんに鴻さんの別論文を教えていただいたのがきっかけだった。ありがとうございます。

ちいさな魔法:キリンジ「エイリアンズ」の歌詞を読む

「エイリアンズ」はちいさな魔法の歌だ*1

エイリアン

元二人組兄弟ユニット、キリンジが2000年に発表したアルバム『3』におさめられている「エイリアンズ」は、昨年のんによるカヴァーが話題となったことで、それまで彼らの作品に触れることのなかった人々の耳にも入り、キリンジの元メンバー堀込泰行によるウェルメイドなポップスとしてひろく知られるようになった*2

舞台は「公団」が建ちならび「バイパス」が通る郊外の「町」の真夜中。「不機嫌」な隣人の口論や、「スポーツカー」のバックファイアが時折聞こえるような、都会の洗練とは遠い「僻地」。そこに住む「僕」と「キミ」はこの町に、あるいは「この星」にさえ馴染めず、「月の裏を夢みて」いる「エイリアンズ」として描かれる。世界と二人のあいだに横たわる距離感とともに、二人のあいだの軋みも歌われる。「泣かないでくれ」「笑っておくれ」と「僕」が何度も声をかけても、「キミ」はずっと泣いている。そして「僕」は「キミ」との距離さえ測りあぐねるように「キミ」のことを「エイリアン」と呼ぶ……。コーラスではこうした二人と世界のあいだ、そして二人のあいだの距離感を端的に表すような「まるでぼくらはエイリアンズ」「キミが好きだよ/エイリアン」というキーフレーズが繰り返される。二人は世界から、そして互いから二重に疎外されている。つまり、「エイリアンズ」は郊外でひっそりと暮らす二人の二重の疎外を情景豊かに描いた甘やかなラヴソングなのだ。

こうしたまとめは間違いではない。だが、この歌の魅力の一部しか言い当てられない。疎外はどんな風に描かれているのか?「禁断の実」 「エイリアン」「月の裏」 と言った言葉が醸し出すほの暗いイメージの内実は何か?

この小文では「エイリアンズ」の詞の魅力をその表現に拘ることで記述したい。

なぜ「エイリアンズ」なのか?

わたしたちは「エイリアンズ」の歌詞をどこから読み進めてゆけばよいだろうか? もっとも重要なところから、何度も繰り返されるコーラスからはじめよう。

まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実ほおばっては
月の裏を夢みて

キミが好きだよエイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ
いいかい

まずは最初の3行からはじめよう。

「エイリアン(alien)」とは元々「異邦の」「他人の」の意であり、転じて「宇宙人」「地球外生命体」を指すようになった。また、関連する「エイリエネーション(alienation)」の語は「疎外」を意味する。二人がエイリアンズと呼ばれるのは、彼らが異邦の者であるから、疎外されているからであろう。では、どこから? そのヒントは「禁断の実」という言葉にある。

「禁断の実」とはふつうキリスト教伝承に基づいて、食すことを禁じられた知恵の実のことを意味する。それを口にしてしまったアダムとイブは限りある生と死を与えられ楽園追放の憂き目にあった。ここから「誘惑と原罪」の象徴とされる。それが指し示す果実は明らかではないが、まずその甘さが罪への誘惑と結びつけられ、次にラテン語における「悪、罪(malum)」と「林檎(malus, malum)」の綴りの表面上の類似性から、「禁じられた果実」は林檎の果実と結びつき、転じて、悪徳や性的放埓の寓喩として用いられるようになったとされる*3

二人は後者の意味で何らかの悪徳を「ほおばって」いる。何も大した悪徳ではないのかもしれない。みなが正しいとするものに同調できなかったり、他人に興味がないだけかもしれない。妙な世界観をもっていて、おかしなひとと煙たがられているのかもしれない。ともかく、そうした悪徳のために二人はこの星の幸福な楽園から追放されている。少なくとも「僕」はそう思っている。この星の楽園とはこの星での満ちたりた暮らしだ。

二度と戻ることはできないアダムとイブとは異なり、楽園は社会の中にある。誰に指弾されることもない暮らしに戻ることができる。悪徳を止めればよいのだ。だが、二人はいつまでもほおばっている。彼らはやすやすと禁断の実を手放したりしない。なくてはならないものなのかもしれない。それを止めることは彼らに欠乏感を与えるのかもしれない。代わりに彼らは夢をみる。「月の裏を夢み」る。

「月の裏」は「この星」から見えない。追放された二人が望むのは禁断の実を手放し楽園に戻らせてもらうことではない。「この星」の規範や誰かの監視するようなまなざしから隠れ去って禁断の実をほおばり続けることだ。ここで、「エイリアンズ」の意味もはっきりしてくる。彼らは禁断の実をほおばることをやめられないじぶんたちをこの星における異邦人であると感じている。彼らのいるべきところはこの星ではなく月なのだ。このほんの3行がこの曲の世界を見事に表している。

まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実ほおばっては
月の裏を夢みて

月の裏と月明かり

コーラスの後半を読み解く前に、もう少し月について拘りたい。「この星」の「この僻地」といった二人が馴染めない地上に対比される「月」のイメージにさらに注意してほしい。

見過ごされるかもしれないが、月は「僕」にとって安らぎに満ちたものとして捉えられている。一度めのBメロをみてみよう。

泣かないでくれダーリン ほら月明かりが

長い夜に寝つけない二人の額をなでて

月明かりは寝つけない二人の「額をなで」る。額をなでるという表現は幼い子どもをあやしつける親のイメージを喚起させる。熱にうなされ、あるいは悪夢や不安に襲われたとき、そっと触れられた手のイメージだ。こうした親密な月のイメージとさらに対照的なもう一つのイメージが語られている。三度目のBメロの歌詞に注目しよう。

踊ろうよさあダーリン
ラストダンスを
暗いニュースが
日の出とともに町に降る前に

「暗いニュース」は「日の出」とともに「町に降る」。ふつう太陽はポジティブなものと結びついているが、ここでは暗いニュースを伴うようなネガティブなイメージで捉えられている。間接的に「僕」にとっての太陽に比しての月のイメージの優越を読み取ることができる。

さらに「僕」の月への視線は冒頭から示されている。

遥か空に旅客機 音もなく
公団の屋根の上 どこへ行く

「僕」はベランダからか、夜空を見上げている。「僕」が飛行機好きではないとすれば、その目的は飛行機ではない。その視界には月がある。すでに冒頭から月を見上げている。

なぜ「エイリアン」なのか?

ふたたびコーラスに戻り後半に取り組もう。

キミが好きだよエイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ
いいかい

「キミ」と「僕」が「エイリアンズ」なら当然「キミ」は「エイリアン」。ここに矛盾はない。しかし、親密な関係であろう「キミ」に向かって「エイリアン」呼ばわりはおかしなところがある。もしかするとそう呼ぶのが自然なのか? もしそうなら「キミ」と「僕」はいったいどのような関係なのか? その問いのヒントは一度目と二度目のBメロにある。

泣かないでくれダーリン ほら月明かりが
長い夜に寝つけない二人の額をなでて
笑っておくれダーリンほら素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで

「泣かないでくれ」「笑っておくれ」と「僕」がなだめても「キミ」は泣き続けている。最初はおそらく泣きはじめ、次はすこしおさまったかもしれないがまだ泣き止まない。「僕」は笑わそうとジョークを飛ばすが不首尾に終わったようだ。「キミ」と「僕」はうまくいっていない。「キミ」はずっと涙を流している。おそらくは二人の悪徳に関してなにか思うところがあってのことだろう。だがその涙をうまく止められずにいる。「僕」と「キミ」は「エイリアンズ」として「この星」から追放されているだけでなく、追放されたもの同士としてのつよい親密さをつくりあげられてもいない。「僕」は「キミ」に近づけないでいる。「僕」の目に「キミ」は「エイリアン」のように映る。その原義通り「他人」として。

「魔法」とは何か?

「エイリアンズ」としての「この星」からの疎外、そして「エイリアン」としての「キミ」からの疎外が指摘された。この疎外が解決されることは無いのだろうか? 「キミ」はずっと泣いたままなのだろうか?

こうした疑問をもってもう一度歌詞をみると、わたしたちは繰り返し現れる「魔法」という言葉に気づく。一番目と最後のコーラスをみてみよう。

この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ
いいかい

この星の僻地の僕らに

魔法をかけてみせるさ

大好きさエイリアン

わかるかい

魔法は他でもなく、「この星のこの僻地」でかけられる。その対象は「この星の僻地の僕ら」だ。「魔法」は「この星のこの僻地で」「この星の僻地の僕らに」かけられる。だがその内実は不明だ。「魔法」とは一体何なのだろうか?

わかるかい?

わたしたちはコーラスを読み解き、「エイリアンズ」と「この星」のあいだの、そして「エイリアン」である「キミ」と「僕」のあいだの疎外を見出した。その疎外を解く手がかりに見えた「魔法」という言葉の意味は、しかし辿ることができないでいる。この疎外が解かれることは可能なのだろうか? 二人は永遠に孤独なままに過ごすのだろうか? 「僕」が使える魔法などあるのだろうか? わたしたちはもう一度歌詞をみてみよう。とくに「僕」が「キミ」に対して行うことを。

泣かないでくれダーリン ほら月明かりが
長い夜に寝つけない二人の額をなでて
「僕」は「キミ」に月明かりを指し示す。

笑っておくれダーリン ほら素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで
夜を指し示しジョークを飛ばす。

そして、二番目のコーラスをみてみよう。

そうさ僕らはエイリアンズ
街灯に沿って歩けば
ごらん新世界のようさ
キミが好きだよエイリアン
無いものねだりもキスで
魔法のように解けるさ
いつか

この町の夜の外を街灯に沿って歩くことで、「この星」が「新世界」のようになる。「無いものねだり」も「キス」によって「魔法のように」解ける。「キミ」の「不満」も「僕」との「キス」によって解くことができる、そうした魔法的な力が僕らには備わっていると「僕」は信じている。

最後に三度目のBメロをみてみよう。

踊ろうよさあダーリン
ラストダンスを

「暗いニュース」が降る前のひととき、一緒に踊らないかと誘う。

これら「僕」が「キミ」にしてあげられることはあまりに些細だ。これでは二重の疎外を解くにはほど遠い。そして実際「僕」が手を替え品を替えて何かを行っても「キミ」はずっと泣いている。だが、「僕」は不思議と「キミ」に対してそのような些細な誘いやジョークやキスを贈りつづける。これが「僕」の「キミ」への贈り物のすべてだ。「僕」ができる「魔法」はこれ以外にあるのだろうか? きっとこうした些細なことをしか「僕」はできない。

「魔法」とはもしかするとすべてを劇的に変容させるようなつよい力ではないのかもしれない。そうではなく、ほんの小さなものなのかもしれない。

「僕」はジョークで「キミ」を泣き止ませることもできない。「キミ」の額をなでるのは月明かりであって「僕」ではない。いまだ「無いものねだり」を「キス」によって解くこともできない。「ごらん新世界のよう」だと言ってみても、「ほら素晴らしい夜」と言ってみても、「踊ろうよ」と言ってみても「キミ」の心が晴れる兆しは見えない。それでも、「僕」が贈れるものはこれしかない。「魔法」をかけるにはほど遠い。だが、これしかない。

いや、もう一つだけある。最後の「魔法」は「僕」が何度も繰り返す呪文だ。

キミが好きだよエイリアン
キミを愛してるエイリアン
大好きさエイリアン

そして、

わかるかい

「僕」はもしかするとついに「魔法」などかけられないのかもしれない。しかし、ただひたすら些細な贈りものをして、愛を歌うことだけはできる。その思いは「キミ」には届いていない。しかし「僕」は歌い続ける。二重の疎外はいまだ解決されないまま。二人は禁断の実をほおばりながら月の裏を夢み続ける。ここに解決はない。破滅もない。夜は明け月は隠れ、暗いニュースとともに一日がはじまってしまう。やがて太陽は沈み「僕」はベランダから遥か空をゆく旅客機を眺めている。「エイリアンズ」はこの星の僻地で暮らし続ける。

ちいさな魔法

「エイリアンズ」は世界との、そして互いとの不調和のなかで暮らす「キミ」と「僕」の世界を、ゆたかに描き出している。その物語に解決は与えられない。不器用な「僕」と泣いてばかりいる「キミ」とがいる情景がひたすら丁寧に描写されているばかりだ。その細やかな描写によってわたしたちは詩世界に入り込むことができる。そしてこの歌を聴くとき、歌うとき、わたしたちもひととき二人の世界の住人となる。ときに「僕」と同一化する。「エイリアンズ」の詞の魅力とは、鑑賞者にその世界に入り込むことを可能にするような選び抜かれた言葉とその緊密なつながりであるといえよう。そして、その世界でわたしたちは「僕」が試みるちいさな魔法の力に気づくことができる。それは二人の問題に立ち向かうにはあまりに些細で無力であるように見える。実際にそうだろう。だが、その魔法を試み続ける「僕」の姿は美しい。「エイリアンズ」の詞は、「僕」への共感を生み、そうすることで何気ないある気づきを与えてくれる。わたしたちにわずかに分け与えられているかもしれない魔法の力への気づきを。それはキリンジからわたしたちに向けての贈りものだ。

「エイリアンズ」はちいさな魔法の歌だ。

ちいさな魔法についての、そしてちいさな魔法そのものの歌だ。

*1:数年前に書いた文章で、思ったよりもナイーブだが、好きな文章なので公開する。

*2:2013年、弟の堀込泰行は脱退し、じしんのソロ活動へと注力することになり、以降は兄の堀込高樹が名前を引き継ぎ新メンバーを加えキリンジとしての活動を継続している。

*3:次の「apple」の項を参照。Biedermann, Hans, and James Hulbert. Dictionary of symbolism: Cultural icons and the meanings behind them. New York: Meridian, 1994.

自己啓発するライトノベル『弱キャラ友崎くん』とゲームとしての人生

成長譚と自己啓発

弱キャラ友崎くん』(屋久ユウキ著、ガガガ文庫講談社、2016年〜)は自己啓発するライトノベルだ。

ライトノベルの基本形はビルトゥンクス・ロマンである。欠点のある主人公(異性愛男性)は、ヒロインと出会い、友情を育み、葛藤の中で成長し、一回り大きくなって性愛と友愛を手にする。

しかし成長譚としてのライトノベルのすべてが自己啓発ではない。なぜなら、ライトノベルを読んで魔法の練習をしたりしない(するかもしれないが)。成長譚は距離化されている。

だが、『友崎くん』の作者屋久ユウキツイッター上で「友崎チャレンジ」として、読者の行動変容を促し、それを称賛する。読者は『友崎くん』を自己啓発書として読んでいるのだ。革命的な自己変容への期待を込めて。

自己啓発書の購買層は20代以降であり中高生が手に取ることは少ない*1。そこに現れた『弱キャラ友崎くん』は学生のための自己啓発書として機能する。

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ゲームという隠喩

ここで描かれるのは、「人生ハゲームデアル」という概念メタファーだ。このメタファーは、ライトノベルの成長物語の形式と組み合わせられる。ゲームというメタファーは「段階ごとの成長」という性質を人生に照射する。主人公友崎はある時出会った「リア充」である日南葵からレッスンを受け、友崎は見た目や姿勢や喋り方を変えていく。「クラスメイトに話しかける」「何かを頼む」といったステップごとの課題をクリアしていく。

「人生ハゲームデアル」。この概念メタファーは二つ目の機能を持つ。このレトリックは本質的に世界にゲーム的な構造を見出そうとする構えを作り出す。だが世界はゲームではない。なぜなら世界には公正なルールをデザインするゲームデザイナーがいないから。世界は誰もデザインしていないのだからそこでのクリア目標などない。だが、日南はそれと距離を取りつつコミットする。友崎はその距離を疑いの側に置きつつ、読者とともに啓発の世界へと入っていく。読者は自己啓発へと巧みに誘われる。「ゲームハ人生デアル」と日南は繰り返す。

だが「人生ハ遊ビデアル」とは言わない。世界を遊ぶ、つまりその時々の現在を楽しむアプローチもあるはずだがそれは示されない。あくまで人生は単線的でステージとレベルと成長の観点から捉えられる。読者は日南のメタファーに入り込んでいく。読者は友崎の獲得したものを紹介される。友人、恋人、人気。ここで、この本はたんなる自己啓発本とは一線を画する。これらは自己啓発本の中ではうまく示しにくい。物語であるからこそのヴィヴィッドさ。魅力的なキャラクタたちと主人公の友崎は交友を結ぶ。高校生としてクリアすべきとされる課題をこなしていく。

対戦ゲームの日本一を誇るハードコアゲーマーである友崎がハードコアな人生ゲーマーへと転回する物語。人生ガチ勢になる物語。人生の課題に向き合い、それをこなしていき、人間としての魅力を増していく物語。それは祝福の物語だ。

わたしたちも人生ガチ勢である。ガチ勢にならないには相当な精神力が必要になる。わたしたちは卓越を目指さないでいられるほど強くない。

だが、この物語は危険な匂いを放っている。自己と他者をゲームプレイヤとして、そして、人生をゲームとして捉えるとき、わたしたちはこの世界があらかじめ定められたゲームでないことを忘れそうになる。この世界は既成のゲームではない。なぜなら、わたしたち自身がこの世界のゲームのルールを形成しているからだ。この世界はクソゲーだ。第一巻で吐き捨てる友崎は正しい。わたしたちにはあらゆる運が不公平に割り当てられている。だが、彼は間違ってもいる。世界は既成のゲームではない。ここから降りることができない代わりに、このルール自体を変えられる。その可能性に開かれている。ルールを改変できるゲームなのだ。

わたしたちは、プレイヤーになりつつゲームデザイナーにならなければならない

自己啓発はプレイヤースキルの醸成にかまけて、世界のデザインスキルを語らない。わたしたちは両義的にならなければならない。人生を神ゲーとしてプレイしながら、人生を正しくクソゲーと認知して、そのリメイクを目指さなければならない。ゲーム内の美徳を鍛えながら、ゲーム外からルールを批判しなければならない。「ゲームの終わりより、世界の終りを想像するほうが容易い」としても。

今語った萌芽を『弱キャラ友崎くん』に見いだせもする。自己啓発に肩まで浸かりながら、友崎に自己啓発的な人生観を疑わせる両義的な態度を仕込んでもいる。現在本編は8巻まで刊行されている。友崎はどんな人生を選び取るのだろうか。彼は人生のコントローラーを握り続けるのだろうか? あるいは、彼がコントローラーを置いた先は、ゲームではない人生が待っているのだろうか?

www.amazon.co.jp

*1:牧野智和、2015年、『日常に侵入する自己啓発勁草書房、65–66頁参照。

鹿乃・田中秀和『yuanfen』とめぐりあう縁

はじめに

キュートさと冷たさが同時に響く声とやさしくも影のある歌詞によってリスナーを惹きつける、シンガーソングライター鹿乃(かの)、そして、挑戦的でしかしポップな楽曲とアレンジでアニメーションのテーマソングから劇伴、そしてキャラクターソングを数多く手がけるMONACO所属の作曲家田中秀和*1がタッグを組み、さまざまなアレンジャーが参加した鹿乃の4thアルバム『yuanfen』(2020年、インペリアルレコード)。

本作は、これまでとは異なり、全編にわたって鹿乃じしんによる作詞、そして、すべての作曲を田中秀和が担当したことで、そして、ふたりとアレンジャーによる作品としての類稀な存在感により、発売からひとびとの注目を集めている。

それゆえか、すぐれたレビューがこの短期間ですでにいくつかある*2。これらのレビューに続いてこの作品を語るなら、同じしかたではうまくいかない。なので、以上の記事では中心的にはふれられていないだろうことを語りたい。そこで、この記事では、鹿乃の歌唱と歌詞、そして田中秀和やアレンジャーによる作編曲の響き合いから楽曲をさらによく味わうためのわたしなりの聴き方を共有することを目指す*3

具体的には、どんな音楽的側面に注意して聴くのか、いかに歌詞の意味を解釈するのか、そして、音楽的側面と歌詞とのふたつの意味の響き合いからどのように歌を聴くのか、という観点から『yuanfen』の批評を行いたい。

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1. 午前0時の無力な神様

編曲:Aire*4

鹿乃のキュートで負けん気のある声を中心にしながら「愚かな人生」を「なんて素敵なんでしょう」とつよく肯定する。

いわゆる渋谷系サウンドもまた、キュートなだけではなく、パンキッシュで疾走感にあふれている。サビのメロディのため方やキメの作りかたは作編曲者の確信犯的な渋谷系へのオマージュでもある。

リード曲に続いて、つぎの曲でも、鹿乃はもう一度くらい日々と希望を歌う。だが、それは、この曲よりも控えめでためらいも含まれている。その違いを聴き分けてみたい。

2. 光れ

光れ

光れ

編曲:Nor

Future Baseを意識させるエレクトロニックなサウンド、キラキラと輝くシンセのアルペジオやコード、イントロの印象的なフレーズ、輝度高めの楽曲。それに対比されるように鹿乃の声の色は掠れを印象づけ、低い位置から歌われている。

器楽的には明るく輝き、鹿乃の声は暗く錆びているような対比がなされている。明るい曲想のなかに影が差すように、好きだった曲は悲しい記憶に、思い出したくない記憶を押し込めながら、前に進んでいく歌詞。

たんなる前向きな曲ではない。それが象徴的に現れている部分がある。

サビのおわり直前の「不器用に積み上げて」の音の積み上げ方はまさに不器用で不安定な和音となっており、歌詞の意味と音楽的響きとが響き合うとてもおもしろいフレーズ。

鹿乃:最初は田中さんに「これは架空の人物の歌詞で……」と言い訳していたんですけど、この曲は、実は本当に自分が歌をやめようと思っていた瞬間のことを書いたものでした。(鹿乃&田中 2020)

どこかで終わることなく、繰り返し、繰り返し、前に進んでいくというテーマはこのアルバム全体のポジティブな側面として静かに響いている。それでは、ネガティブな繰り返しとはなんだろうか。つぎの曲を聴いてみよう。

3. yours

yours

yours

編曲:田中秀和MONACA

くらい部屋で膝を抱え月を見上げ「綺麗ですね」ひとりつぶやくイントロから届かない「あなた」への思いが加速し続ける憂鬱のサンバ

「あなたの友達」とサビでの何度も醒める折り返し、歌い手の情動の混迷を表出する変拍子の間奏。田中秀和の作曲と鹿乃の歌詞と歌唱の一致。

歌詞の側面からみれば、"I love you"の訳として夏目漱石が言ったとか言わないとかで有名な「月が綺麗ですね」を想起させるはじまりから、ドラマティックな歌詞によって鹿乃が歌う「わたし」の独白へと引き込まれていく。

この曲を聴いたとき、わたしは気づいた。音楽とは、繰り返しであるとともに、音の断絶でもある。「あなたの友達」という吐き捨てるようなことばで終わるサビは、そのたびに「あなた」への届かなさを音楽的にしるしづける、それにより、歌い手の独白は音楽によって承認されてしまう。

「わたし」はどうあがいても「あなたの友達」なのだ。縁はここでは断たれてしまっている。変拍子の千切れるようなリズムは、恨み、愛、嫉妬、希望、夢想、さまざまな思いに引き裂かれている。そのすべての情動の煮詰まった七つのギターの刻みが印象深い。

この曲では、ネガティブに「わたし」は今日も悔恨を繰り返していく。

4. KILIG

KILIG

KILIG

編曲:ハヤシベトモノリ

がらりと雰囲気を変え、幸福のトーンに満たされる。

ブラスとハープ、弦楽、チャイム、明るいシンセ、水がぽたりと落ちる音が繰り返される。心をころころと転がるようなくすぐったく不安なようで幸福な瞬間を切り取る。

鹿乃:〔……〕この曲は、ファンの方が聴いてくださったときに、きっと「初恋の曲なのかな」と思う人も多いんじゃないかと思うんですけど、これは先ほどお話した「Linaria Girl」のように「音楽に恋に落ちる瞬間」を表現したものなんです。(鹿乃&田中 2020)

なぜこの曲はこんなにもふしぎにくすぐったい気持ちを引き起こすのだろうか? Bメロの象の鳴き声のようなブラスの音に代表されるように「色んな音色が出ては引っ込む雰囲気」(鹿乃&田中 2020)がつくりだされている。

幸福のイメージは、断片的なものの変奏曲なのかもしれない。日曜日のフライパンの音、快哉を叫ぶ声、あたたかく迎え入れてくれるような、門出を祝うような響き。

さまざまな幸福な音色が連想され、消えていく。それが幸福のイメージの自由なつながりを可能にしているからなのかもしれない。断片的なイメージが現れ消え去り、残響が重なり合う曲。

5. 聴いて

聴いて

聴いて

編曲:田中秀和MONACA

アコースティックな静かな響きからはじまり、メロディはおおきな変化ではなく、よく似た音型が繰り返し現れる。

歌詞もまた、同一の形をしたことばが繰り返されながら、メッセージが少しずつ伝えられていく。それは鹿乃による語りかけのように「五分にも満たないこの声を/五分間で語れる思いを伝えるためにわたしは歌う/じぶんのためにわたしは歌うから」という直接的な、鹿乃の告白を聴くような楽曲。

鹿乃:他には、アルバムのどこかで自分自身を表現する歌詞を書こうと思っていて、デモを聴いて「絶対にこの曲だ」と思ったのが5曲目の「聴いて」でした。(鹿乃&田中 2020)

メロディのちいさな変化を倍増し世界を広げるような後ろの楽器隊とそのアレンジがこの曲のもうひとりの主役だ。鹿乃のことばを聴いたあと、アルバムはつぎの物語へと進む。

6. 漫ろ雨

漫ろ雨

漫ろ雨

編曲:曽我淳一

この曲には、雨が降り続いている

冒頭から、ライドシンバルやハイハットのしゃらしゃらとした高音が響き、朝から降り続く雨を描写する。

Bメロでは、窓を伝い落ちる雨粒のようなくねるアルペジオがそこここから聴こえる。

サビは、ギターとキーボードの分厚い中低音域が響く。雨のなかの傘の中のサウンドスケープのように。この曲はアルバム中、もっとも音響的な空間を想起させる曲だ。「きみ」への静かに降り続く優しい愛に包まれている。

歌い手の想いである雨をもっともつよく想起させるのは、サビのメロディである。

サビは、下降する日本的なメロディがさらさらと降る雨のように現れて消えていく。それをエコーするシンセの音は、雨の残像のように耳に残る

さいごに、届くはずのない「きみ」に、しかし歌い手の想いは雨にのって伝わってしまう。

「雲の隙間から/覗き出す光/振りむいたきみの顔/目と目が合う/差し出す傘も遅いと気づいた/それなのにさ/苦笑い/きみがすきです」

雨はきみに降り注ぎ、もはや歌い手の想いははしなくも届いてしまった。そして、晴れてしまったから、直接ことばにするしかなくなってしまったのだった。

音響的な雨のモチーフと歌詞の物語の中の歌い手の想いとが響き合う、シンプルなようで幾層にも重なる意味の残響を感じることのできる一曲

7. おかえり

おかえり

おかえり

編曲:Oliver Good(MONACA

歌い手はがらりと変わり、こんどは鹿乃はしろいふわふわした犬になる。犬の「ぼく」はパパとママ、そして隣にいる「きみ」に囲まれ、幸福な生活を謳う。「10回目の12月」から「きみ」は忙しく「だいすき」を言ってくれなくなっていき「パパ」の白い髪は増え「ママ」の寂しそうな顔が増えていく。

音楽が進行するごとに時間はどんどんと進んでいってしまう。Aメロ、Bメロ、サビと繰り返すたびに、季節を繰り返すように、ウインドチャイム、シンセチャイム、タンバリンなど、高音の楽器の響きが冬の冷たさを、温かみのあるステレオのエレキギターは、暖かさを表現するように、やさしくかなしい出会いと別れの縁を歌った一曲。

つぎに鹿乃が成り代わるのは、壮絶な執着の関係だ。

8. 罰と罰

罰と罰

罰と罰

編曲:佐高陵

自嘲するようで懇願するような鹿乃の低く、無理をしたような声を聴いていると、聴き手の喉も詰まっていく。

鹿乃:この歌詞は、「執着しすぎた罰」「執着しなさすぎた罰」という意味で、「悪縁」のようなものを表現しているんです。悪縁って、どちらか一方が悪いわけではないと思うんですね。どっちにもすれ違いがあって、責任があって。そういう雰囲気を表現した曲でした。(鹿乃&田中 2020)

サビは本アルバムでももっとも攻撃的で、「はらはらと笑って見せて」のいまにも崩壊してしまいそうな極度の不安さのメロディがのたうちまわる。ピアノの低音のハンマーのようにぶつかってくる響きと、全編にわたって、残響のないバスドラムの音が聴き手の心を執拗にノックしてくる。Cメロののちの、こぼれ落ちる自嘲を交えたサビから、すべてを吹っ切ったような声には、奇妙な自信と明るさがある。楽曲もさることながら、鹿乃の歌唱表現の魅力を聴くことのできる一曲。

9. エンディングノート

エンディングノート

エンディングノート

編曲:sugarbeans

エンディングを飾るにふさわしく、晴れやかなコーラスとこれからの鹿乃の歩みを進めていくような着実に進行していくリズム。

鹿乃:ネットの中で生まれた「鹿乃」というキャラクターの終わりを想像して歌詞を書いてみました。(鹿乃&田中 2020)

歌い手は「ぼく」と歌い「鹿乃」というキャラクタ、あるいはわたしの言い方で言えば、鹿乃という実在の人物(パーソン)そのものでもなく、原作があるキャラクタでもなく、鹿乃という実在のパーソンと鑑賞者たちとがつくりあげてきたイメージとの交渉の中でつくりあげられた、鹿乃という「ペルソナ」として歌っている*5

鹿乃の声は、別れを惜しむようにやさしく、もれ出る思いを抑えるように吐息を含ませて、ふるえを交えている。

ながい後奏は、鹿乃がおじきをして去っていくような、フルアルバムの余韻を残してフェードアウトしていく。「ありがとう/あなたと出会えて」と歌う鹿乃は、このアルバムの歌たちの代わりに歌っているのかもしれない。偶然、聴き手と『yuanfen』たちが出会ったその出会いに対して

鹿乃はインタビューで、このアルバムが生まれなかった可能性を語っている。

鹿乃:でも、正直にお話すると、今回のアルバムをつくる前に、マネージャーさんや事務所の社長さんに、「音楽を辞めようかな」という話をしていたんです。メジャーレーベルで音楽活動ができるようになって、目標としていたことを達成してしまったときに、次にどうしていいのか分からなくなってしまって。もともと、「自分には個性がない」と悩んだりもしていたし、このまま音楽を続けていて、「何かになれるのか」「何かをつくれるのか」と、考えてしまっていました。そんなときに、「それでも音楽が好き」「自分の音楽を見つけたい」と思って、周りの方々にも励ましていただいて、もう一度頑張ってみようと思ってつくったのが、今回のアルバムでした。なので、今回は「もうちょっとわがままになってみよう!」と思ったんです(笑)。そこで、「アルバム本編を全部田中さんに書いてもらえないですか?」とリクエストしたのが、『yuanfen』のはじまりでした。(鹿乃&田中 2020)

アルバム最後のこの曲は「ありえた鹿乃」の可能性を歌った歌でもあるのだろう。

おわりに

鹿乃田中秀和、そして数々のアレンジャーによる『yuanfen』は、そのタイトル「缘分」をなぞるように、さまざまな出会いと別れを歌い奏でる

今日という最低の一日と人生最高のはじまりになる明日との出会いを祝福する「午前0時の無力な神様」、うまくいかない過去から、もう一度不器用に積み上げていく「光れ」、届くことのないあなたへの想いが加速し断絶する「yours」、音楽に出会い恋する幸福な瞬間と目覚めを味わう「KILIG」、繰り返すことばによって歌い手と聴き手の出会いを告白する「聴いて」、思い続けたきみの笑顔からはじまるつながりを響かせる「漫ろ雨」、犬とひととの重なりずれていく生きる時間を愛する「おかえり」、それぞれの悪縁を自嘲しすべてを捨てる「罰と罰」、さいごに、わたしたちと鹿乃とのありえたお別れといつかの別れを歌う「エンディングノート」。

音楽のゆたかさ、歌詞のゆたかさ、歌唱のゆたかさ、そしてこれらすべてが響き合い、一致し、ずれ合い、ゆたかなハーモニーをうみだす。不思議ないくつもの縁のように。

このアルバムが響かせる「縁」とは、鹿乃田中秀和の、アレンジャーたちとの運命的な『yuanfen』でもあり、そして、このアルバム『yuanfen』とわたしたち聴き手との出会いの「縁」でもある。

『yuanfen』は、そのタイトル「缘分」そのままに、さまざまな出会いと別れを、いくつもの響きの出会いと別れによって歌い奏でる、めぐりあう縁のアルバムだ。

難波優輝(分析美学と批評)

Twitter: @deinotaton

参考文献

Carroll, N. 2009. On criticism. Routledge.(『批評について––––芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年)

Isenberg, A. 1949. “Critical communication.” The philosophical review, 58 (4), 330-344.

あんでぃ. 2020. 「鹿乃『yuanfen』というアルバムの素晴らしさを語りたい。」『音楽は今日も息をする』< https://andy-music.hatenablog.com/entry/2020/03/07/231836 >.

鹿乃田中秀和. 2020. 「鹿乃×MONACA 田中秀和、アルバム『yuanfen』対談 “死”と向き合い明確になった今伝えたいこと」、文・取材=杉山仁、『Real Sound』< https://realsound.jp/2020/03/post-517550.html >.

ど〜でん. 2020. 「yuanfenについて」『ど〜でんのブログ』< https://dodensei.hatenablog.com/entry/2020/03/08/230707 >.

ナンバユウキ、2018年「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, < バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ - Lichtung Criticism >.

難波優輝. 2018.「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50(9)特集バーチャルYouTuber、117-125. 青土社.

難波優輝. 2019a. 「浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』注意と分散」Lichtung Criticism, < http://lichtung.hateblo.jp/entry/urakami.kevin.family.criticism >.

難波優輝. 2019b.「批評の新しい地図––––目的、理由、推論」『フィルカル』4 (3), 260-301. ミュー.

難波優輝. 2019c. 「いくつもの世界でうつくしい君:Official髭男dism「Pretender」と可能な世界」Lichtung Criticism', < https://note.mu/deinotaton/n/ne7ace1313b1f >.

リーティア. 2020. 「鹿乃×田中秀和「yuanfen」全曲レビュー ~アニソンと同人音楽の交点~」『リーティアの隙あらば音楽語り』< https://letia musiclover.hatenablog.com/entry/2020/03/05/001851 >.

以上ウェブ記事は2020/03/17最終閲覧。

引用例

難波優輝. 2020. 「鹿乃田中秀和『yuanfen』とめぐりあう縁」Lichtung Criticism, < http://lichtung.hateblo.jp/entry/kano.tanakahidekazu.yuanfen.meguriau.yuanfen >.

*1:ちなみに田中秀和神戸大学発達科学部人間表現学科卒業であり、わたし難波の先輩にあたる。これは田中秀和ファンに会うたびに自慢している。不要な注を読んでいただき感謝する。

*2:アレンジャーのみならず、プレイヤーにも言及しているど〜でん(2020):・アレンジャーに言及しながら、音楽理論的な分析を中心に詳細な分析を行なっているリーティア(2020):・そして、アレンジャーと音楽的表現に焦点を当てている、あんでぃ(2020):

*3:わたしが専門とする分析美学における批評の哲学を参照すれば、アーノルド・アイゼンバーグ的な知覚の伝達としての批評、ノエル・キャロル的な理由に基づいた価値づけとしての批評を目指していると言える(Isenberg 1949; Carroll 2009)。批評の分類については、難波(2019b)を参照のこと。また、本稿と並んでより独特な楽曲の解釈を目指したものとしてつぎのものを。Official髭男dismの「Pretender」を扱った、難波(2019c):・加えて、知覚の哲学から浦上・想起「芸術と治療」を批評した記事は、難波(2019a):

*4:以下、作詞:鹿乃、作曲:田中秀和MONACA)クレジットは省略する。

*5:ここでふれられたペルソナ概念については、ナンバ(2018):・そして、難波(2018)も参照のこと。

草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズ』と絶滅の意志

はじめに

あなたは、最後のページに辿り着き、呆然としているだろうか。それとも、書店やネット上で表紙を見かけて、この本、草野原々による『大絶滅恐竜タイムウォーズ』を買うべきかどうかをまだ迷っているのだろうか。いずれのあなたもさいわいだ。前者のあなたは、人類史のなかで、運よく、この物語を読むことのできた人間なのだから、そして、後者のあなたは、これからこの物語を読むことのできる人間なのだから。

だが、いずれのあなたも困っているかもしれない。呆然としたあなたは、この物語をいったいどう評したものか、どう受け止めたものか、と、そして、購入を検討するあなたは、この魅力的なタイトルの本『大絶滅恐竜タイムウォーズ』を買うべきかどうか、読むべきかどうか、と。

ふたつのあなたは同じ情報を必要としている。すなわち、

「この物語は(何が)おもしろいのか?」

本解説では、これらの問いに答えることを目指す。

先に結論を言おう。「この物語はおもしろいのか?」という問いに対しては「おもしろい」、それも「常軌を逸しておもしろい」と。「この物語は何がおもしろいのか?」という問いに対しては「様々な物語的要素の限界を超えるような投入、そして、魅力的な哲学的問いの提示によって」と。また、あなたが本作の前巻『大進化どうぶつデスゲーム』を読んでいなくとも、これらのおもしろさはある程度よく味わえることも付け加えておこう*1

本解説は、以上のおもしろさを明らかにする。構成は以下の通り。第一に、本作『大絶滅恐竜タイムウォーズ』について紹介し、第二に、草野原々という作家の特徴と作品へのアプローチのしかたを提示する。第三に、この物語が扱う哲学的側面を明確化する。よりふかく作品を鑑賞するための倫理学的・美学的議論を紹介する。

本解説のネタバレ情報は以下の通り。第一節に関しては、物語のおおまかなプロットが紹介される。第二節と第三節に関しては、より核心的なテーマをめぐって議論がなされる。さいごの「おわりに」にネタバレ情報はあらすじ程度ある。軽度のネタバレも好まない読者は、すぐに本稿を閉じ、レジに向かって/注文ボタンを押して欲しい。

現在(2020/03/13)『大絶滅恐竜タイムウォーズ』をはじめ、早川書房セールが開催されており、3月13日(金)~4月13日(月)の32日間Kindleストア限定最大50%割引が行われている。ぜひこの機会にチェックしてほしい(とくにわたしにマージンが渡されるわけではないが)*2。なお、わたしは『大絶滅恐竜タイムウォーズ』の巻末解説を担当しており、物語のある種オーソドックスな解説についてはそちらを参照していただければと思う(難波 2019b)。電子書籍版にもわたしの解説がついているとのことなので、見ていただけるとたいへんうれしい。

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大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:草野 原々
  • 発売日: 2019/12/19
  • メディア: 文庫
 

『大絶滅恐竜タイムウォーズ』あらすじ

本節では、まず、この物語の構造を整理したい。それにより、おおづかみであるが、この物語のおもしろさを確認できる。

オープニング。物語のはじまりは、チャールズ・ダーウィンダーウィン号に乗って航海する場面からはじまる。そこに奇妙な老婆が現れ、「お話」を語りだす。

第一章、鳥類覚醒。二人称の語りで進められる物語は、小田原を舞台とする。本作の主要なキャラクタたちである、小田原市民や箱根市民であるミカたちは、前回に引き続き、第二回のどうぶつデスゲームに巻き込まれる。どうぶつデスゲームとは、人類の進化史が塗り変わってしまうのを阻止するために、ミカたち十八人の少女たちが八百万年前の地球に行き、ネコたちを絶滅させた、熾烈なデスゲームだ。動物たちはべつに互いの種の絶滅を目指して争っているわけではない。だが、どうぶつデスゲームでは、生物たちの種の生き残りをかけた戦いが繰り広げられる。今回の絶滅させるべき種は、べつの時間を辿って進化した鳥類たちだ。それらが、ミカたちの世界に侵入する。第二回のどうぶつデスゲームは不安な幕開けを迎える。頼みの綱のリアは不安定な挙動で、ミカたちは先行きのわからないまま戦いを行わなければならない。小田原を駆け巡り、キャラクタたちが次々と登場するなか、物語は、異様な語り手のテンションを介して過剰になる。

そして、第二章、暗黒脳では、中生代白亜紀末期、六六〇〇万年前の地球へとタイムスリップする。物語は奇妙な転換を迎える。キャラクタたちは、「理由の力」を失ってしまい「わからなさ」に直面する。各人の記憶や性格の情報は保持されているが、しかし、行為のための理由を感じ取れなくなってしまう。キャラクタたちは、妙に生気を失い、理由もどきをリソースにして、不気味な行為を行なう。機械たちが精密にしごとをやってのける、理由なしの駆動のさわやかさがある。キャラクタたちが「ごっこ遊び」を行なって、理由を運用する。キャラクタたちは、理由を模倣して、行動する。ここでは、美学的発想の奇妙な反転がみられる。

第三章、中生代切断計画。時間がほどける。うつくしく思考実験的詩情に満ちている。中世代が切断される。ごっこ遊び会場。コミカルでもなく、スプラッタの恐怖のはしごも外されているようで、読み手として、奇妙な理由の世界に入り込んでしまった感覚は他では味わえない。そこに進化ウェーブがやってくる。幾久世と千宙のコンビは、個人的にR2D2とC3POのコンビのようで、過剰な物語のなかで、いっときのオアシスのように機能する。しつこいくらいに繰り返される名づけの繰り返しも、伝説のなかの語りのように、リズムの心地良さをつくる。中生代での爬虫類との熾烈な戦いで、奇想が奇想を重ねて爆発する。恐竜宇宙艦隊、スペースクロコダイル。水星でのプラズマ発電。SFにおけるスペースジュヴナイルを過剰に再演する。宇宙における、きらめき、光と輝きの輝度高めな風景が連続し、ゴージャスでブライトな章だ。そして、「機械仕掛けの神」のように、ヘヴンズドアが開く。「理由」が降り注ぐ。この強引な解決は、読者を面食らわせる。

場面は急に転換し、二人称から三人称へと変化する。そして、第四章、「アノマロタンク登場」では、最初のダーウィンと老婆の場面に戻る。アノマロタンクが現れる。それと戦いながら、ダーウィンの過去にアノマロタンクが忍び寄る。侵食される過去は、怪奇小説のようで魅力的。安住の地、もはや変更できないからこそ諦めと安心を得ることができるはずの過去が侵食される点に、不安さの経験が感じられる。

そして、東京五輪二〇二〇がはじまる。「陸上馬術自転車水泳野球体操ボクシングカヌーサッカーフェンシングゴルフホッケーボートラグビー射撃サーフィン卓球テコンドークライミングテニス柔道ラグビー空手セーリングレスリントライアスロンゴルフアーチェリーボクシング近代五種スケートボードウェイトリフティングバドミントンバスケットハンドバレーボール」が開始される。ミカたちはあくまでスポーツパーソンシップにのっとってアノマロヒューマンたちとスポーツをする。このさわやかな描写も見どころだ。

第五章「時間寄生虫」。三つの進化砲撃。ここで描写される様々な敵対生物たちの生活史や生態はとても魅力的だ。物語はクライマックスに向かう。明らかに頁数とそぐわないアイデアが次々と登場し、物語を解決へと導いていく。現在チェーンソー、スピノザ器官、ホワイトホール大絶滅、超次元進化マクスウェルエンジン。

そして、最終章「最後の敵」。読者への挑戦状として三人称の語りで、読者へと語りかけられる。野球のナイトゲームがはじまる。そこで進化の理由が明かされるのだ。物語には、ふたたび怪しげな語り手が登場し、二人称でクロージングが行われる。壮絶な終わりを迎える。

以上は、物語の概観を通して、そのおもしろさをざっくりと指摘した。それでは、より、詳細に、本作をどのような点に注目することで、「この物語は(何が)おもしろいのか?」という問いに対する答えがえられるのだろうか。次節では、以前発表された、草野によるじしんの作品の構造の解説を手がかりに、それを再構成するなかで、この問いに答えよう。

草野原々の三つの顔

草野によれば、草野原々の作品は、三つの層から構成されている(草野 2019b)。第一は「流行文化の層」。第二には、中間層としての「科学的知識の層」、第三には、深層としての「哲学・思想の層」である。

第一の層は、様々な「流行文化」、すなわち、サブカルチャーの意匠やガジェット(アイドル、ソシャゲ、声優)の層で、草野作品を読んだ時にわたしたちがまっさきに出会う表層である。草野は、これらの意匠を惜しみなく使う。星雲賞を受賞した「最後にして最初のアイドル」(二〇一八年)は、これでもかこれでもかと意匠を付け足し、混ぜ合わせ、異様なキマイラが誕生する。本作でも、そのこれでもかは健在だ。とはいえ、本作は、次の層において、その過剰性が発揮されている。

その層とは、第二の「科学的知識の層」である。科学的知識、SF的奇想の層は、「流行文化の層」とも異なる役割を担っている。草野作品の科学的知識は、様々な意匠同士に物語的必然性を与え、物語を破壊し尽くすまでに加速させる。爆発的なインフレーションを起こしながら、作品を無限遠まで発射させる。その異様な量と質とは、過剰なディティールや数に満ちた原初的な神話、伝説、民話を想起させる。巨大な数字、グロテスクなものと出来事、めまいと圧倒、失神と恍惚を誘うような経験––––おもちゃ箱をひっくり返した瞬間の破滅的な愉悦、怪しげな薬理的作用によってぱちぱちときらめく脳内をエミュレートするような、輝きと混迷に満ちた快楽––––。

物語をむすびつけ、推進する物語的機能としての重要性はさることながら、科学的知識は、空疎なドタバタコメディに陥るかにみえる草野作品の物語たちにふしぎなきまじめさを与えてもいる。この底で響く低音のようなパートが、草野作品にどこか端正な響きを与えている。

本作では、ミカたちに襲いかかり、ときに彼女らと共闘するどうぶつたちが、前作にも量と種類を増して登場する。どうぶつたちは、戦いの場面いっぱいを駆け回り、華麗に舞い、壮絶な最期を迎えることで、物語をつなぎ、推進させる。これらのどうぶつたちを描く草野の筆致に、読者は、草野の畏敬のまなざしの影を見出すことができよう。

美しい動物だった。ダーウィンは、ここに、純粋な美を見た。
まず見えたのは、二つの複眼だ。眼柄に支えられて、キノコのようだ。水滴がしたたって、キラキラと光っている。そして、エビのような、いくつもの体節に分かれた胴体が出てくる。

胴体には、さまざまな生き物が付着していた。縦三つに分かれた体の三葉虫が、びっしりと埋め尽くしている。三葉虫たちで作られた装甲板の間から、トゲが生えた、虹色のディスクのように光るパイナップルのような生き物が現れる。植物のようだが立派な動物、軟体動物のウィワクシアだ(草野 2019g, 213-214)

科学的知識は、世界に対する草野の愛着と憧憬、畏敬と尊重を示す重要なモチーフとなって、作品の全体に不思議なきまじめさを与えている。これほどまでに縦横無尽に物語が進行し、狂騒のカーニヴァルそものもであるにもかかわらず、ばらばらの出来事は科学的知識の全体のなかで、しかるべききまじめさをもっている。

以上ふたつの層は、前作『大進化どうぶつデスゲーム』、そして、本作の中心的なテーマとなってもいる。前作がエンターテイメントを意識した「流行文化」も取り入れた物語ならば、本作は、SF小説そのものを目指した「科学的知識の層」をフューチャーした作品でもあるのだ。草野のこの試みは過剰に成功している。本作は、SF的奇想を詰められるだけ詰め込んだ、崩壊寸前のSFだ。みてきたように、草野は、過剰の作家と呼ぶべき存在なのだ。

以上の点から、本作の常軌を逸したおもしろさの、少なくともその一部を捉えられる。本作は、これでもかと加えられ、混ぜ合わされ、狂騒のなかで増大し、共鳴し、爆発し、飛んでいく、「科学的知識」の層の狂騒の美的経験によって、常軌を逸しておもしろい。「SFに求めるものは人間の頭をおかしくさせることだ」(草野 2016)とインタビューに答えるように、たしかに、本作は、読者の頭を変調させる。

だが、草野の作品には、もう一つの層がある。そして、カオスにはとどまらない、もうひとつのおもしろさの側面がある。それは「魅力的な哲学的問いの提示」によるおもしろさだ。
この層とおもしろさについて、節を変えて分析しよう。なお、ここから先、本作について、より核心にかかわるネタバレがあることをふたたび喚起しておく。

存在の美学的転回

第三に、深層としての「哲学・思想の層」がある。この層は、草野が語るように、哲学的な側面を得意とする重要なピースだ。草野作品では、たんに哲学的な概念が導入されるだけではない。それらは異なるしかたで組み直される。すなわち、物語を介した「概念実験(conceptual experiment)」を行うのだ。ちょうど、様々な化合物が混ぜ合わされ、新たな性質をもった物質が誕生するように、概念は分析され、混ぜ合わされ、抽出され、新たな概念と連関が生成される。これが概念実験だ*3

概念実験としての物語という観点から本作を分析しよう。

ひとつ目は、「理由」と「フィクション」をめぐる概念実験だ。
まず、本作に頻出する「ごっこ遊び」という概念を取り上げよう。理由を失ったミカたちは、「ごっこ遊び」によって、理由なしで行動をなんとか生成する。
ここで、「ごっこ遊び」とは、草野自身も参考文献として挙げているように、分析美学におけるもっとも重要な芸術論・フィクション論のひとつである、分析美学者、ケンダル・ウォルトンの『模倣としてのメイク-ビリーヴ』(邦題『フィクションとは何か?』田村均訳)における「ごっこ遊び=メイクビリーヴ・ゲーム(make-believe game)」の概念と深い結びつきをもっている(Walton 1990)。ウォルトンはこう言う。

表象は、ごっこ遊びの小道具としてはたらくという社会的機能を備えたものである。表象は、いろいろな想像を促したり、ときには想像の対象となったりもする。小道具とは、慣習化された生成原理の力によって、想像のしかたを命令するものである。想像するように命令される命題は、虚構的である。与えられた命題が虚構的であるという事実は、虚構的真理である。虚構世界は、虚構的な諸真理の集合と結びついている。虚構的なものは、与えられたある世界──たとえば、ごっこ遊びの世界や、表象芸術作品の世界 ──において虚構的なのである。(Walton 1990, 69 強調は原文)

芸術作品を代表とする様々なフィクション作品は「表象(representation)」として、わたしたちがそれを使って行う「メイク-ビリーヴ・ゲーム(make-believe game)」=「虚構生成ゲーム」の「小道具(prop)」=「虚構生成物」として役立つ。虚構生成物は、ある文化や場所で慣習として共有されているルールによって、様々な想像を指令する。虚構世界は、虚構的真な諸命題の集合とみなされる。

ウォルトンの言ういみでのフィクション概念は、虚構生成ゲームにおいて想像を指令する機能をもった虚構生成物なのだ。こうしたフィクション理解にとどまらず、物語は、虚構の概念を組み直す。本作では、実在と虚構の関係は逆転する

キャラクターは人間の描写ではない、まったくの逆だ。キャラクターのぼやけた影が人間であるのだ。

なぜならば、人間の持つ理由は不純であるからだ。人間は自由意志を持っていない。理由に基づく行為をしているように思い込んでいるが、実は因果に基づいている。性格に一貫性はなく、状況に依存している。キャラクターに比べたら、全然、リアルでなく、生き生きとしていない。

対して、キャラクターは性格に一貫性があり、理由に基づいた行動をして、理由秩序に合致して感情を変化させる。リアルで、生き生きとしている。

人間は、キャラクターたちの内面を想像して、共感して感情移入して、理由空間を認識し、かろうじて、理由に基づいた行動のようなものを、ごっこ遊びの形で再現するだけなのだ。

キャラクターたちは、理由子の塊だ。キャラクターたちが関係を築くことで、理由空間が形成される。理由空間は因果空間よりも根源的であり、理由空間を表現する虚構世界は因果空間を表現する現実世界よりも、実在性があるのだ。(草野 2019g, 315-316)

本作では、虚構と呼ばれているものこそが実在なのだ。虚構世界の方が、たんなる因果関係よりも、より実在性があるキャラクタの関係性こそがもっとも実在的な理由のネットワークを構築する。その理由空間こそが、時間、空間、存在の根源なのだ。

ここで、「理由(reason)」が重要な概念として登場する。わたしたちは、他人の行為に理由を求める。その理由によって自他を説明し、理解する。凄惨な事件を引き起こした犯人の理由、テロリストたちの理由、戦争の理由、裁判所で、取り調べで––––、あなたを誰かが愛する理由、あなたがある物語を見る理由、そして、フィクションのキャラクタがこのような行動をとり、あのような発言をする理由。

わたしたちはつねに、異様とも思えるほどに、理由に執着する。理由によって批判し、自責し、日々、称賛と非難を行う。わたしたちがこれほどまでに理由に執着するさまを、逆転させたのが本作の物語となる。わたしたちは、理由をつくっているのではなく、実は、世界こそが理由で構成されている*4

美学的方法によって表現された理由子、それが虚構上のキャラクターなのだ

日常的な物体の正体が、数学的方法により表現される量子であるのと同じように、世界の正体は、美学的方法によって表現される理由子であるのだ。(ibid., 315)

「ある(being)」は、「つくる(making)」の二次的なものなのだ。存在はあるのではなく、つくられるのだ。科学は存在を捉える。だが、捉えるべきは、虚構なのだ。美学が本質を捉える。ここで「美学的転回(aesthetics turn)」とも言うべき実験がなされる。

この想定は、あまりにも突飛だろうか。だが、草野がバックグラウンドのひとつとする「分析哲学(analytic philosophy)」において、わたしたちの心、倫理、さらには、時間さえもがフィクションであるとする、様々な「虚構主義(fictionalism)」が現在、活発に議論されている(cf. Toon 2016)。これらの議論は、しかし、実在的なものの特徴が「ごっこ遊び」によって捉えられているものとして、わたしたちの理解や説明の活動を分析するものだ。

草野は、こうした現代の哲学における議論を、文字通りに受け止めるならどうなるのか、という実験を行なっている。実在的なものをフィクションがよく説明するのではなく、フィクションこそが、わたしたちがあやまってそうみなしている「実在的なもの」で説明されているに過ぎないとしたら? *5

分析哲学的発想と分析美学の発想を組み合わせて、概念の実験を行えば、首肯しうるかはともかく、「理由子一元論」ともいうべき、本作の概念実験が提出されうる。読者は、物語、フィクション、そして、キャラクタ概念への揺さぶりと問いかけを読み取る。それは草野による、物語を用いた物語と概念の実験なのだ。この意味で、本作を美学SFと呼ぶこともできよう。

この概念実験をさらに詳しく追ってみよう。

まず、科学は、現象や物質の因果を問うことができる。だが、わたしたちが日常で使うような意味での理由や意義に答えることは、いっけんできない。だが、振り返れば、わたしたちがふだんづかいしている理由は、科学の営みによって、どんどんと因果に還元されていった。「りんごはなぜ落ちるのか?」という問いに、もはや、「ものとものとが愛の力によって引き合うからだ」と答えるひとはいないだろう。だが、「あなたはわたしになぜ恋に落ちたのか?」という問いに、ひとびとは、りんごの落下を説明するときのような因果ではなく、より物語的な愛の理由を語るだろう。これが読者の既存の概念的ネットワークだ。

草野は、因果と理由を逆転させた世界へと読者を誘う。その世界では、実在は、量子といった因果に尽くされるようなものではない。理由子という、わたしたちがふだんづかいしていて、因果に還元されてしまうかに思えるものこそが真に実在する世界。その世界では、理由がすべてをかたちづくる。時間、空間、心、行為のすべてを、理由がうみだす。

この世界は、ある意味でユートピアだ。想像してみほしい。あなたが理由に満ち満ちた世界に住んでいるのなら、あなたは、どんなに不幸であっても、もはや人生の意味に悩むこともない。これはおかしな表現ではない。なぜなら、あなたの生は、それがどんな酷いものであろうと理由があるからだ。同時に、人生の価値に悩むこともない。人生に生きる理由があるなら、それは、人生に生きる価値があることを示唆しうるのだ。

この世界は、理由の王国だ。だとすれば、読者であるあなたも、この世界に憧れるのではないか? 理由があふれているこの世界では、すべての苦しみと痛みに理由が与えられ、救済されるのだから。

だが、草野は、この王国の暗黒面を描く。理由の王国のおぞましいシステムを提示する。それでは、こうしたキャラクタたちの存在と物語におけるデスゲームはどう関係するのだろうか。ふたつ目の概念実験が開始される。「進化」と「絶滅」の概念実験だ。

どうぶつ実験と反出生主義

つぎに、前巻のタイトルであり、本巻でも中心的な概念となる「大進化どうぶつデスゲーム」に含まれる、「進化」と「生と死」の概念の構造と他の概念との連関を辿ってみよう。
「進化」ということばは、いつも、どこか他人ごとのような響きがする。それは、中立的なニュアンスを装っている。だが、進化とは、よく嗅ぎつけてみれば、死の匂いであふれている。

わたしたちは、訳もわからず出生を続ける。それを疑問にも思わない。だが、生むということは、その死の可能性を同時に生成する。どうぶつが新たなどうぶつを生むのは、それに生を与えるためだけではない、死もまた与えられる。淘汰のシステムにランダム生成された新たなパラメータを振ったいのちを投げ込み、その性能を実験し、より適応したプロダクトをリプロダクションする、「どうぶつ実験」を行なっている。選別のために、どうぶつには死の機能が与えられた。

進化は、ある環境に適応したどうぶつを生み出すシステムであると同時に、適さないすべてのどうぶつに死を与え、選別し捨て去るシステム、すなわち、「どうぶつデスコンピューティング」なのだ。ゆえに、進化の産物たるどうぶつたちは、みな、それが美しければ美しいほど、合理的であればあるほどに、色濃い死の匂いにあふれている。夢見るように透き通った蝶の羽、思わず目でなぞりたくなるような魚たちの流線型––––。これらは、みな死のエンジニアリングの成果物なのだ。

草野作品において、進化と死のコンピューティングは、「いつでも、どこでも、永遠に」(草野 2019c)、「エボリューションがーるず」(草野 2018)といった作品において、重要なテーマとして用いられてきた。こうした草野の概念実験の最新として、本作では、より異なったアプローチから、進化と死のコンピューティングは取り扱われる。

現実において、進化を司る絶対者はいない。淘汰圧は様々な要素が参加し、相互作用しあうなかで、おのずから生成される。もし、法外な権限をもって進化を設定する者がいるとすれば、それは、もっとも不条理でもっともおぞましい存在だ。だが、本作において、進化をデザインする死のエンジニアはいる。それは「超越地平」––––「無限の理由子の塊––––超越的にリアルで生き生きとしたキャラクターたちの関係性」(草野 2019g, 316)のあるところ––––だ。

演劇で、物語に決定的な終わりを与える機械仕掛けの神をつよく想起させるように、物語で唐突に挿入される「ヘブンズドア」の向こうの超越地平は、不条理な絶対者として、あらゆるものの死を実験し続ける。しかし、それはなんのためなのか?

世界、それは理由子エンジンであった。絶対的にリアルなキャラクターが、虚無を理由で打ちつけ、進化させて時間を発生させるエンジンだ
(草野 2019g, 316)

超越地平は、理由そのものであり、死の理由さえ供給する。それによって、時間を発生させる。時間は死を燃料として生成される。

極限的なリアルであるキャラクターたちの関係性は、理由子エンジンの効率を高めるために、デスゲームをしていた。
時間を作るための進化に、大量の死が必要になるということはいまさら記す必要はないだろう。死は生き物や人間だけでなく、キャラクターにも及ぶ。理由に基づかない振る舞いをするキャラクター、リアルではないキャラクター、生き生きとしていないキャラクターは、死の対象となるのだ。淘汰されて、より理由空間を広げるために打ち捨てられるのより理由空間を広げるために打ち捨てられるのだ。(ibid., 313)

理由による淘汰圧下での進化自体の進化、それが大進化どうぶつデスゲームであった。(ibid., 317)

キャラクタたちの死は、理由によって回収され、意味あるものにされてしまう。それがどれほどむごたらしく、どれほど残酷で、不条理にみえても、最終目的たる理由空間の展伸のために、意味のある死を与えられる。ミカは、その理由じたいの不条理さを問う。

早紀が言う。
「だから、わたしたちも理由子エンジンの一部なのよ。さあ、わたしとあなたで、関係性を進展させ、生き生きとした理由を作り、時間を大量に発生させましょう」
早紀は、手を広げてミカに近づく。
「……嫌だ!」
「……なぜ?」
「邪悪だからだ。理由子エンジンは、邪悪だ!」(ibid., 316-317)

だが、ミカには、理由子エンジンを破壊する手段は存在しない。理由子エンジンを止めるために、死を与えることは、しかし意味がない。

……死を投げるのは逆効果だ。死はキャラクターの理由を強化する。その証拠に、デスゲームによってミカの理由が強化されたのは周知の通りだ。理由をより強化するために、死に適応して進化した存在がキャラクターなのだ。(ibid., 318)

絶滅は、もし個別の生物種の絶滅であれば、たんに、「関係性」を生産するだけだ。そして、それは、キャラクタの生産に利用されてしまう。死と絶滅を混同してはならない。死は、進化を加速させる燃料でしかない。ミカが求めるのは、絶滅、よりただしくいえば、「大絶滅」、すなわち、すべての進化の停止だ。それは死を投げるのではなく、「デスゲーム」を終わらせるものでなければならない。何も投げるものはない。投げてはならない。ミカは何ももたない。そして、じぶんじしんの存在さえももつべきではなかったのだ。
絶滅は、時間の、空間の、キャラクタの、すなわたち、すべての絶滅でなければならないのだ*6
進化は、理由に満ち満ちた超越地平への道だ。生は理由であふれている、価値にあふれている。だが、すべての絶滅は理由を消し去るものでなくてはならない。だが、理由こそ、この世界を満たす力なのだ。絶滅は、進化に勝つことはできない。

 

 

ミカが果たし得なかった「絶滅」の意志には、現代の哲学における「反出生主義」の思想が響いている。

反出生主義(anti-natalism)」の現代的な旗手とされるのは、南アフリカ大学の倫理学教授デイヴィッド・べネターだ。かれは、『生まれて来ないほうがよかった』において、「生まれることはつねに当人にとって悪である」こと、そして、「わたしたちの生の質は、わたしたちが考えているよりもずっと低い」ことに基づいて、「いかなる場合においても、子供をもうけることはつねに道徳的にわるい」という主張を行った(Benatar 2006; cf. 鈴木 2019)。べネターの反出生主義は、その主張の過激さ、おおくのひとびとにとっては直観的には認めがったがために有名になったというわけではない。この主張自体は、その系譜を過去に辿ることができるだろう。むしろ、衝撃は、この結論が、ひとびとによって直観的に認められうるような前提に基づいて導き出される点にあった。発表当時から哲学者たちや倫理学者たちの議論を呼び、いまなお論争は続いている。

対して、「進化」を寿ぐ態度には、出生主義に通じるものがある。ここで明確化してみれば「出生主義(natalism)」とは、反出生主義との対比で理解されるだろう、すなわち「生まれることはつねに当人にとって悪というわけではない」。

超越地平と絶対深淵の対立は、出生主義と反出生主義の対旋律になぞらえることができるのみならず、両者の根底にある世界への態度を、べつのしかたで印象深く描写し、読者に問いを投げかけている。

出生主義者は生を祝う。生は、生き生きと理由にあふれ、価値にあふれ、時間にあふれている。対して、反出生主義者は、わたしたちがこれ以上誕生させること=死を与えることを回避することを主張する。だが、もし、機械仕掛けの神が、すべての理由を生産しているなら? 反出生主義者たちは、圧倒的な生の理由と価値の前に、何も持たずに戦わなくてはならない。すべての理由を消して、純粋な無である絶対深淵に戻ることは叶わない。時間がある限り、局地的に何かが絶滅しても、宇宙のどこかでどうぶつは誕生し、必然的に進化がはじまる。そうして、ふたたび、痛みと苦しみを燃料に、死のコンピューティングがはじまる。

以上から、本作は、絶滅を思索する、反出生主義SFであると言える。

 

 

優れた作品がそうであるように、本作もまた、たんにひとつの主義を押しつけるモノローグ作品ではない。本作には、同時に、死の匂いに反発しつつも、生と進化の価値に思わず感嘆してしまうような両義的でポリフォニックな態度に揺れてもいる。

すでに指摘したアノマロタンクの純粋な美のように、生と死のエンジニアリングによってもたらされたどうぶつは、圧倒的な価値をもって、わたしたちを惹きつけてやまない。生と死の害悪とその美しさとエモさ、そして、絶滅への意志は乱反射し、断片的に響き合う。物語のなかで、すぐさまいずれか立場のただしさが決定されはしない、微妙なラインの上で物語は存在する。それは、草野じしんのなかにささやく複数の声かもしれない。優れた物語は、異質な複数の声を持つ。本作もまた、絶滅と生命のあいだで揺れ動き、その緊張は解かれることはない。

本作においては、ふたつの概念実験が行われている。ひとつは、フィクションをめぐって、もうひとつは、絶滅と生と死をめぐって。こうした実験の試みに注目すれば、本作は、美学SFであるとともに、反出生主義SFでもある。

本作は様々な概念の連関を物語を介して展開し、そのゆたかで謎めいた性質を読者に提示する。物語は、つねに、じしんが提出した問いに答えるわけではない。それはむしろ哲学の役目だ。物語は、問いを開き続け、もちこたえさせ続ける。それは、哲学とはべつのしかたでの物語による思索の行為だ。読み手は、この物語を引き継ぎ、じしんでその先を考えることを誘われる。

ここで、読者は疑問に思うかもしれない。二つの概念実験の価値はあるとして、しかし、それは、本作のごく一部の魅力ではないのか––––本作は、むしろ、前節で指摘されたような「科学的知識」の過剰さやディティールによって価値づけられるのではないか––––本解説は、「哲学・思想」の側面を強調しすぎて、本作の重要な価値を見逃しているのではないか––––この指摘は重要な点を言い当てている。だが、本解説で指摘したことと矛盾しない。

おわりに

本作は、まさに、物語を埋め尽くすような科学的知識の過剰さによって、読者を哲学的問いに引き込む。第一に、物語の速度、キャラクタに降りかかる出来事、そして、科学的な理由づけは、一挙に読者を襲う。それによって、読者は、読みながら、草野が提示する物語への関わりの態度へとチューニングをだんだんと合わせていく。思い出すだろうか。最初のページでは、いきなり登場するダーウィンに、唐突にはじまる老婆のお話に、独特な語りに面食らったはずだ。だが、読み進めるうちに、あなたは、段々とふだんの生活の態度とは、さらに、ふだんの物語の態度とは、物語にゆさぶられるたのしみとおもしろさのなかで、異なる態度に自然と変調していく。その変調の状態で草野は、さらに、二つの概念実験をたたみかけるのだ。それは、哲学論文があくまで素面の状態で読まれることをふつう想定しているし、また、情動をかき立てたり、態度を変容させたりすることを目指してはいないことと、ちょうど対になっている。本作は、何よりもまず、お話、物語なのだ。物語は、読者の態度を異なるモードへとチェンジさせ、その上で、変調した読者に、既存の概念のネットワークを組み替える実験を誘う。つまり、本解説で指摘した科学的知識の層と、哲学・思想の層は、第一に、それぞれ独立した価値を持ちながら、第二に、互いの別の機能を果たしながら、つながりを持っているのだ。

もちろん、草野作品には、この二つの層の連結について再考すべき点があるとわたしは考える。どこまで意識的に、読者の変調を誘う/誘わないか、どこまで、変調に用いた物語と哲学的思索の誘いをなめらかにつなぐかについて、さらなる発展の可能性の余地がある。

だが、草野の目論見––––「読者のあたまをおかしくさせる」こと。そして、もう一つ、わたしが想定する、哲学的な問いに読者を引き込むこと––––はこれまでにもまして、うまくいっている、とわたしは判断する。息つく間もない物語の進行、出来事、科学的理由づけの挿入は、みなすべて読者の頭をじゅうぶんに変調させてしまう。そして、哲学的思索、概念実験に、読者はその変調した態度によって引き込まれ、問いを受け取る可能性がもたらされている。

 

 

『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、時間と空間を横断/切断しながら、語り手を変えながら、物語が異質なものに変わり、キャラクタが破壊されたさきを探ろうとする、物語を破壊しながら、原初の物語の力を思い出させる作品だ。

一方で、本作は物語に読者が期待するたのしみを裏切る––––キャラクタへの「感情移入」のたのしみ、キャラクタの関係性に「エモさ」を感じることに対するメタ的視点の導入、物語への「没入」の快楽を堰き止めるような、くせのあるいくつもの語り手の登場––––。

他方で、本作は、読み手が知っていたはずの、しかし、忘れかけていた「物語の根源的なよろこび」を突き詰める。物語は、まず、誰かによって語られるものなのだ。わたしたちの祖先が焚き火の周りで聞いた神話、旅情の寂寥を慰撫するように、旅籠で耳を傾けた吟遊詩人の語り、そして、親たちが語りかけるお話たち––––。そこには、語り手が紡ぎ出す独特なリズム、荒唐無稽な出来事をつなぐふしぎな理由が次々とつむがれ、説得されるたのしみがある。

このお話は、一方で、物語を破壊する。それにより、読み手に物語への反省的態度を要求する。他方で、このお話は、物語の祖先へと回帰する。それにより、語りを聞く原初的なよろこびをもたらすのだ。

本作は、これまでの草野作品の様々な要素––––メタフィクション、進化、キャラクタ、関係性、理由、心、生と死––––が流れ込み、さらにもう一段、物語の力とゆたかな概念実験が組み込まれ、うみだされた作品だ。『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、原々文学の最前線だ*7

難波優輝(分析美学と批評)

Twitter: @deinotaton

参考文献

Benatar, D. 2006. Better never to have been: The harm of coming into existence. Oxford University Press.(『生まれて来ないほうが良かった––––存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宜義訳、すずさわ書店、二〇一七年)

John, E. 1998. “Reading fiction and conceptual knowledge: Philosophical thought in literary context.” The Journal of aesthetics and art criticism, 56 (4), 331-348.

草野原々. 2018a. 「草野原々インタビュー」(初出「SFマガジン 2016年10月号」) Hayakawa Books & Magazines (β), <https://www.hayakawabooks.com/n/n431e95f69b62>.
––––. 2018b. 「伝説級の話題作。『最後にして最初のアイドル』刊行記念インタビュウ」『草野原々、大いに語る』cakes, <https://cakes.mu/posts/19453>.
––––. 2018c. 『最後にして最初のアイドル』早川書房.
––––. 2018d. 「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber真銀アヤです。 」『小説すばる』2018年10月号所収.
––––. 2019a. 「理由農作錬金術師アイティ」『三田文学』No.137(2019年春季号)所収.
––––. 2019b. 『大進化どうぶつデスゲーム』早川書房.
––––. 2019c. 『これは学園ラブコメです。』小学館.
––––. 2019d. 「原々作品の源流をさぐる」第58回日本SF大会「彩こん Sci-con」、2019年7月27日~28日、埼玉県さいたま市ソニックシティ.
––––. 2019e. 「いつでも、どこでも、永遠に」『NOVA 2019年秋号』所収、河出書房新社.
––––. 2019f. 「幽世知能」『アステリズムに花束を––––百合SFアンソロジー』所収、早川書房.
––––. 2019g. 『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房.
難波優輝. 2019a. 「絶滅の倫理学Lichtung Criticism’, <https://note.mu/deinotaton/n/nd55ecbe15125#4wuyU>.

––––. 2019b. 「キャラクタの前で」『大絶滅恐竜タイムウォーズ』所収、323-331頁、早川書房.
鈴木生郎. 2019. 「非対称性をめぐる攻防」『現代思想』47 (14), 114-124.

高田敦史. 2017. 「フィクションの中の哲学」『フィルカル』2 (1), 92-131.
Toon, A. 2016. “Fictionalism and the folk.” The Monist, 99 (3), 280-295.
Walton, K. 1990. Mimesis as Make-Believe. Harvard University Press.(『フィクションとは何か––––ごっこ遊びと芸術』田村均訳、二〇一六年、名古屋大学出版会)

引用例

難波優輝. 2020. 「草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズと絶滅の意志』」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/kusano.gengen.daizetsumetsu.kyouryuu.time.wars.will.for.extinction>.

*1:もちろん、前巻を読んでおけば、本作から得られるたのしみはさらに増えるだろう。

*2:

*3:概念実験の概念と特徴づけは、John(1998)および、高田(2017)の議論にヒントを得ている。

*4:理由をめぐる物語は、短編「理由農作錬金術師アイティ」においてその萌芽が見出せる(草野 2019a)。さらにまた、近作、「幽世知能」における「自由エネルギー原理」(草野 2019d)においても、キャラクタと理由の関係が考察されていた。

*5:本作におけるフィクション論と、心と虚構主義の関係の概念実験は、『これは学園ラブコメです。』におけるメタフィクションの試み(草野 2019b)。「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber真銀アヤです。」における意識の描写の実験の試みをその源流として見ることもできる。

*6:すべての宇宙の絶滅についての議論は、難波(2019a)を参照のこと

*7:この場をお借りして、わたしの自己紹介をしておく。
「分析美学(analytic aesthetics)」––––分析哲学の流れを汲んだ美学で、ひとびとのことばづかいや批評実践を手がかりに、わたしたちの文化的実践を分析し、これをよりよく理解、説明するための概念や枠組みの構築を目指す学問––––の研究者であるわたしは、草野原々に依頼され、プロットを聞き、本文を読み、読み手の経験の記述、疑問点の指摘といった最初の読者/批評家としてのしごと、そして、分析美学の概念や枠組みの紹介といった研究者としてのしごと、さいごに、いま行っている、作品の価値の伝達と、潜在的な読み手へのアピールという、解説/広報者としてのしごとを担当した。この新しいしごとを、ドイツにおける演劇実践から生まれた「ドラマトゥルク」という職業の小説制作バージョンとして「ノベル・ドラマトゥルク(novel-dramaturg)」と呼ぶことにしている。ドラマトゥルクが脚本家や演出家とともに考え、そしてそれらのひとびとと俳優を、加えて、観客たちのあいだを触媒としてつなぐように、わたしは、シャーロック・ホームズたる草野原々がプロットやアイデアを話す傍にいるワトソン役となって、さらに、草野と読者の間に立って、物語の価値を媒介する。
問題を鮮やかに解決するホームズに褒賞が与えられるように、本作がもちうる価値は、当然草野じしんに与えられる。わたしは、誇りあるワトソン=触媒=媒介として、本作の価値を読者に伝え、広める、べつのしかたでの重要な役割を果たせればと思う。