しくじりアートとアンスコム
銭清弘さんのこちらの記事を読んで、芸術作品を作り損ねることはあるのか悩んでいた。
そんな中、アンスコムの実践的知識論について書かれた次の論文を読み、電撃的に気づきを得た*1。
鴻浩介. (2017). アンスコムの実践的知識論. 哲学, 2017(68), 169-184
結論としては、芸術作品は作り損ねられるし、作り損ねについて話すことに価値はあるし、作り損ねる話がなぜ難しいのかの説明もできる。
アンスコムの話をする
まず、芸術作品の作り損ね方を論ずる。ここで導入したい便利な概念は「実践的知識」という概念だ。
これは、G・E・M・アンスコムが『インテンション』で提示した行為者性(行為できる主体としての性質)について回答するために出されたアイデアだ。すなわち「行為者は自分自身がどのような意図的行為を行っているのか、他の誰にも許されないような特権的なしかたで知ることができる」として、この行為者の特権的知識を「実践的知識(practical knowledge)」と呼び、行為者性の本質的特徴としたそうだ(ほぼ 鴻 2017, 169の写し)。
つまりこういうことだ。
あなたが散歩している。
わたしが「何しているの?」と訊く。
あなたは「散歩しているんだ」と答える。
わたしはふうん、と頷いて「で、なんでそう分かったの?」とさらに訊く。
これがおかしな会話であることは分かるだろう。あなたが「散歩している」という知識は、あなたが意図しさえすれば知っている知識であり「なんでそう分かったの?」という問いを許さないようなものなのだ。これが、「行為者は自分自身がどのような意図的行為を行っているのか、他の誰にも許されないような特権的なしかたで知ることができる」という意味である。
ここからさらに大事な話になる。では、こういう実践的知識とは具体的にどういう知識か?
ここのところが大事だ。まず、実践的知識とは、行為を生み出すのに必要な因果的な意図だ。ご飯を食べよう、という意図はふつう適切な状況では行為を生み出す因果の引き金になる(もちろん鬱々としているとき、お風呂に入ろうと思ってもなかなか入れないものだが)。これが1つ目の実践的知識である。
次に、さらに重要なのが、二つ目の実践的知識だ。それは、ある行為がどういう行為かを規定する意図だ。タクシーを止めようとしてあなたが手を上げたとき、偶然知り合いが向こうにいて手を振り返してきた。このとき、あなたが意図したのは「タクシーに合図する」という行為であり、「知り合いに挨拶する」という行為ではない。このとき、実践的知識は、あなたが行う行為がどういうタイプの行為なのかを意図的に規定する力を持っている。この議論こそが鴻のオリジナルな点だ(以上、事例も含め、鴻 2017)。
さて、ある人が行為するとき、その行為を支える実践的知識とは、①行為を生み出すのに必要な因果的な意図と②ある行為がどういう行為かを規定する意図の二つであることが分かった。
芸術作品は作り損ねられる
上で話したのは、実践的知識には二種類あるよ、という話だった。これを裏返せば、意図的な行為を成功させるためには、因果的な知識と概念的な知識の二つが要るということだ。
たとえば、挨拶をしらない人が挨拶っぽい身体の動きをしても、それはたまたま挨拶と同じ動きをしているだけで、挨拶という行為をしたことにはならないのだ。
同じように、ここでようやく話が戻り、アートづくりっぽい行為をしても、アート概念を知らなければ、アートを作ったことにはならないわけだ。
もっとも興味深いのは、アートの概念を知っているのに、アートづくりにしくじるケースだ。それはどんなだろうか?
鴻はこの論文の最後で、いまの話に関わる非常に啓発的な話をしている。該当部分を全文引用しよう。
さて最後に、このような二種類の実践的知識の関係について若干の考察を付け加えて論を閉じよう。そのために次のような事例を想像してみる。使っているラジオの調子が悪いので、私は工具を取り出してその分解修理を始めた。しかし私があまりに不器用なため作業は思うようにいかず、部品はそこら中に散らばり、 いくつかは失われ、 ラジオの状態はかえっ悪化の一途をたどりはじめる。傍から見れば、私はむしろラジオをバラバラに破壊しているようにしか見えないのである。そしてそのことには私自身も気づいている。さて、そこにあなたがやって来て 「なぜラジオを壊したりしているのだ」 と驚いて聞く––––。
この状況において私が返すべきひとつの自然な答えは「いや、壊しているわけではない」というものだろう。「そうではなく直しているのだ。どうもうまくいかないのだけど」と。とはいえ、自分がラジオを壊しているということもまた私は 認めざるを得ない。事実としてラジオは私のせいで壊れつつある、 ということを私は知っているのだから。 この状況を我々はいかに解釈すべきだろうか。本稿で提示された立場に立つならば、答えは明瞭である。この時私は、自分の行為が「ラジオを直す」という種類の行為であるという実践的知識は有している。にもかかわらず、それが「ラジオを直す」という物理的性質を有しているという知識は (つまり私の身体運動に伴った工具の運動によって実際にラジオの状態が改善されつつあるという知識は)有していない。その命題は端的に偽である。以上のような意味で、私はラジオを直しており、かつ直していない。(鴻 2017, 180)
そう、ラジオ直しの技能がない状態でわたしたちはラジオ直しを意図できるが、それに失敗できるのだ。
ここから、次の表を作ることを思いついた。すなわち、
因果的に作る知識を持つ | 規定的な知識を持つ | |
---|---|---|
①成功アート | ○ | ○ |
②物理的にミスアート | × | ○ |
③偶然アート | ○ | × |
④完全なる失敗 | × | × |
説明しよう。
①成功アート:技術も概念も分かっている。例:ちゃんとしたアート
②物理的なミスアート:概念はわかっているが技術がついてきていない。例:批評家ががんばるもミスってる作品
③偶然アート:概念を分かっていないが偶然アートの物理的性質ができた。例:ゾウさんアート
④完全なる失敗:概念も技術も分からない。例:なし
これで、きれいに、しくじりアートの種類を3つも分けることができた。①以外しくじっている。
作り損ねについて話して何がうれしいのか?
これは銭の引いているマグワイアがすでに議論しているかもしれないが、実践的知識から考えると、作り損ねについて考えることには非常に有益な意義を見いだせる。
まず銭に同意するのは、マグワイアのするように、「芸術」の作り損ねについて議論するのは筋がわるい。なぜなら、ラジオ直しがそうであるように、特定の行為が行為として成功失敗をいいやすいのは、その行為の概念が明確である場合である。
しかし、現代では、もはやアート制作行為は拡散しすぎていて、アート制作行為を意図するには、ほとんど最小の概念で済むだろう。しかも、アートの技術的知識に関しても、必要ない場合もかなり多くありそうである。いいとかわるいとかではなく、現状そうなのだ。
なので、②物理的なミスアートと③偶然アートが生じにくくなっている。
しかし、銭が言うように、ある芸術形式、さらに私が提唱したいのは、ジャンル作品については、十分作り損ねを考える価値はある。
まず、ジャンルの定義論は、成功したジャンル作品となる条件を明らかにすべき、というのは、異議なく認められるだろう。そのとき、アンスコム+鴻の議論を受け入れるなら、行為の成功には、行為を規定する意図だけでなく、因果的な意図も必要である。
だとすれば、美学者が取り組む①概念的な特徴づけ、だけではなく(!)、②因果的な知識の記述、具体的にどうしたら芸術(ジャンル)作品として認められるかの記述もせよ、というのは、十分受け入れられるし、美学者にとってもチャレンジングで興味深い仕事となるだろう。
たとえば、私なら、SFジャンルにおいて、SF作品として成功する因果的な条件はどれくらいゆるいのか(かなりゆるそうではあるが……)しかし、ミステリ作品となると、さらに本格ミステリ作品となると因果的な条件はより厳しそうだ。作中に十分なヒントを配置できなかった場合、それはミステリ作品にはなるだろうが、本格ミステリとしては失敗している!
そのため、どんな風に具体的な因果的なジャンル作品としての成功条件があるのか、どこに実践的な成功・失敗のラインがあるのかを論じることは、理論的な側面とはやや異なる仕方で興味深い。美学者の仕事ではなくなっていくかもしれないが。
作り損ねる話がなぜ難しいのか
銭はおもしろい指摘をしている。
ピンとこないと言っている通り、私の整理が正確なのかどうかも自信がないのだが、ともあれピンとこない理由は、そもそも「failed-art」に関する明確な直観がないからだ。Mag Uidhirはとにかく「芸術作品を目指して作られたが、芸術作品にはならなかったものがある」という前提に基づいて話を進めるのだが、明確な具体例もなく、動機を共有することが難しい。そもそも「failed-art」にぴったりはまる訳語も思いつかないのは、日常的にその手のアイテムに触れていないからだろう。そもそも、芸術になりそこねたものがあるとしても、陽の目には当たらないはずなので、出会ったことがなくても仕方がないだろう。当然ながら、そんな非芸術のサブクラスがそもそも実在しないのであれば、従来の意図主義的な定義で事足りるのだ。(もちろん、そんな性質Fがありうるのか、意図主義でうまくいくかどうかは別の話)(銭 2021)
「そもそも「failed-art」にぴったりはまる訳語も思いつかないのは、日常的にその手のアイテムに触れていない」という指摘がおもしろい。鴻もこういうことを言っている。
もし修理がうまく進行していたのだとすれば私は二種類の実践的知識を同時に有していたはずなのだが、それを自然な日本語で表現するならばどちらも同じく「私はラジオを直している」という形をとるであろう。だからこそ、翻って失敗の事例において、ラジオを直しており、かつ直していないというたく同一の文で表現され得るということである。一見矛盾した記述が可能だったのである。
本稿の主張には反して、我々はふだん、実践的知識に相異なった二種類があるという実感は持たない。私の考えでは、その理由の一端はこの第二の論点にある。どちらの実践的知識も同一の文によって表現できる状況が多く存在するため、ふだん我々は表現される知識内容の違いに気づかないのだ。 (鴻 2017, 181)
こういうわけで、日本語の文には、二つの実践的知識をうまく分ける表現が(都合上)存在しない。同様に、英語でもおそらく銭が指摘するようにfailed-artに対する日常対応文が存在しないのだろう。
実践的知識という観点から捉え直すと、failed-artをうまく考えられそうだし、実例はジャンル作品についてはありそうだし、日常に対応する文がない理由の一端も分かりそうだ。
ということで、しくじりアートはアンスコムから考えるとよさそうだ、という研究ノートでした。