バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ
はじめに
2017年の終わりごろ、にわかに人々の耳目を驚かし、少しづつ人口に膾炙しはじめたバーチャルユーチューバ(VTuber)というものたちがいる。動画では、3Dあるいは2Dモデルのキャラクタが動き、企画やトークを行なっている。それらは、あらかじめ決められた演技を行うような3Dアニメーションとはあるていど異なっている。というのも、それらのキャラクタの動きは、演者の意図した動きから、不随意な動きまでもトラッキングすることで生成され、たとえば、ライブ放送においては、演者とキャラクタの動きのリアルタイムな同期が行われているからだ。それらはアニメーションにおけるフィクショナルキャラクタのようでもあり、また、Twitterやライブ放送でのオーディエンスと双方向的なコミュニケーションを行う様子からすると実在の人物のようでもある。
バーチャルということばにこと寄せて、実在しないが実質的に存在するような、実在しないが仮想的に存在するような、そこにはいるがどこにもいない存在として語られるだろうそれらについては、しかし、こうした箴言めいたことばではなおも説明し足りない多くの謎がある。
本稿では、わたしたちがバーチャルユーチューバをどのようにして鑑賞しているのかを、コミュニケーション研究と美学の知見を手がかりに分析する。
結果として、本稿は、バーチャルユーチューバの鑑賞のされ方について、それがもたらしうる倫理的問題について、それにとどまらず、バーチャルな世界に参入したさいのわたしたちのあり方について考えるためのいくつかの手がかりをもたらすだろう。
第一セクションはバーチャルユーチューバを分析するための概念の導入と理論の構築、第二セクションではそのまとめと事例への適用を行い、第三、第四セクションでは、作品分析と倫理的問題の整理への理論の応用を試みる。
- キーワード:バーチャルユーチューバ、パーソン、メディアペルソナ、フィクショナルキャラクタ、三層理論
(2020/01/09追加)書籍版については次を参照いただければさいわいです。
まえおき
本稿であなたは何をするのか、と訊かれたら、バーチャルユーチューバの哲学をする。とわたしは答える。哲学といってもある一つの哲学だ。学術的研究の知見(もちろんそれが哲学でもいいし、経験的な研究でもよい)を組み合わせて、実際に起こっていることに統一的な見通しを与えるために便利な概念をつくることが一つの哲学のあり方であるとわたしは考えている。具体的に、本稿で行いたいのは、バーチャルユーチューバ(あるいはアバター)の批評と研究に役立つような基本的な概念の作成だ。同人誌やブログ、そして日々のつぶやきにおける批評、そして美学、芸術学あるいは倫理学における研究に役立つ概念を提供したいともくろんでいる。本稿では、既存の研究との接続や、これからの研究の手がかかりであることを意識して概念と理論を組み立ててゆく。そしていくつかの魅力的な問いをも発見できたらと期待している。それでは、本論に入ろう。
I. 身体:パーソン・メディアペルソナ・キャラクタ
バーチャルユーチューバ(以下「VTuber」とする)の動画を観たとき、わたしたちはなにを見聞きするだろうか*1。わたしたちはなによりもまず、VTuberの身体の動きと声を知覚するだろう。
もう一つ問うてみよう。それでは、VTuberの身体の動きとは誰の身体の動きなのだろうか。たとえば、VTuberが笑顔になったというとき、誰が笑っているのだろうか。あるいは、VTuberのしぐさに愛らしさを感じるとき、それは誰に対する愛らしさなのだろうか。
ここにいたって、わたしたちは興味ぶかい謎に突き当たっている。VTuberの身体とはいったいどのような身体なのか。それをわたしたちはどのようにして理解し鑑賞しているのだろうか。
1. パーソンとペルソナ:メディア・コミュニケーション研究から
その技術的な特徴から考えてみよう。VTuberの身体の動きは、誰かの身体となんらかの対応関係にある、すなわち、あるVTuberの動きは現実の存在であるパーソン(person)と関わりをもっている。VTuberが右手を上げたようにみえるとき、技術的な問題が発生していなければ、そのパーソンも右手を上げている。声もまた多くのば場合パーソンのそれと一致している*2。わたしたちが知覚できるVTuberの身体や声は、いくつかの加工や変換を経てはいるが、なおもパーソンの身体の動きや声となんらかの因果的な関係をもっている。
こうした因果的な関係の存在は、わたしたちの鑑賞の実践になんの関わりもないわけではない。わたしたちのじっさいの鑑賞においても、キャラクタのアバターとパーソンの関係は重要である。というのも、わたしたちがVTuberの映像を観る動機としてありうるのは、そのキャラクタのアバターのふるまいを鑑賞したいという動機のみならず、そのキャラクタのアバターをパーソンが用いることになんらかの興味をもっている場合もあり、ゆえに、鑑賞の実践においては、キャラクタの先に想定されるパーソンの存在も少なからず考慮のうちにあるといえるからだ。すると、VTuberはパーソンのことを指す場合もあるといえる。
ここにいたって、しかし、わたしたちはパーソンそのものを鑑賞しているとは言えないことに気づくだろう。どういうことか。
というのも、わたしたちがアクセスしうるのは、メディアを介した(mediated)パーソンであって、パーソンそのものではないからだ。このようなメディアを介したパーソンの現れは、コミュニケーション研究において「メディアペルソナ(media persona(e))」と呼ばれる。
この概念は、20世紀中頃、これまでの新聞やラジオといったメディアとともに存在感を増しはじめたメディアであるテレビの出演者とその視聴者の関係の研究から生み出された概念である。テレビ上のメディアペルソナとオーディエンスは想像的な関係をもち、ふつう相互関係しえないにも関わらず、オーディエンスは画面上のメディアペルソナに対してあたかも現実の人物に対するような親しみを感じることで、「パラソーシャルインタラクション(Parasocial Interaction: PSI)」を行う(Horton & Wohl, 1956)。こうした親しみを感じるようなインタラクションが持続することでつよく形成された関係は「パラソーシャル関係(parasocial relationship: PSR))」と呼ばれる。その後おおくの研究対象があらたに取り扱われるようになり、あたらしい技術によって可能になったさまざまなメディアにおけるPSIやPSRの研究も行われている*3。
さて、こうしたメディアペルソナの概念を用いてVTuberのあり方を捉えてみよう。わたしたちはVTuberの声や動きが因果的関係をもつパーソンの重要性を指摘した。だが、オーディエンスが直接VTuberを演じるパーソンにアクセスすることは不可能ではないがまれでしかない。オーディエンスはさまざまなメディア(e.g. Youtube、Twitter)を介したパーソンに出会っている。ゆえに、VTuberを鑑賞するさい、もっぱら、オーディエンスはパーソンではなくメディアペルソナを鑑賞している。VTuberを鑑賞しているとき、オーディエンスが鑑賞しているのはメディアペルソナでもある。
ここで、反論があるかもしれない。「なるほど、TVキャスタなどの一方向的な関係においては、それをオーディエンスとメディアペルソナとに関する、特殊な社会的関係として捉えて分析すべきだ。しかし、VTuberとわたしたちは相互関係的だ。生放送で、TwitterでわたしたちはVTuberたちと交流する。ゆえに、メディアペルソナなどとわざわざパーソンとは異なる概念をもちだして、説明を複雑にする意味はない。きみはskypeやTwitter、LINEにおいてきみが交流している対象がパーソンではなくメディアペルソナだと言うつもりかい?」
反論に答えよう。第一に、VTuberの動画作品が完全に相互関係的コミュニケーションのみで構成されているわけではないために、反論はうまくいかない。VTuberのいくつかの動画が相互関係的コミュニケーションを可能にするような形態の放送(viz. 生放送)であることは確かだ。だが、VTuberの動画の多くは録画され編集を終えた動画であって、生放送の多くリアルタイムではなく、オーディエンスはその録画を観ることになる。それらをわたしたちが鑑賞するさいにはVTuberとわたしたちとは一方的な関係をむすんでおり、そのさいVTuberはメディアペルソナとして現れている。相互関係的なコミュニケーションを行う前にわたしたちはすでにメディアペルソナとしての現れとパラソーシャルな関係を結んでいる。
第二に、メディアペルソナとオーディエンスとは一般的な意味での相互関係的なコミュニケーションを行っているわけではない。そのため、反論の例は的外れだ。わたしたちがLINEやskypeといった媒体によって他者と相互関係的なコミュニケーションを行うといったときに、運よくひとことコメントを拾われただけで話が終わったり、じぶんをよく知らないが相手のことはよく知っているような相手と会話を行うということがありうるだろうか。あるいは何百人、何千人の匿名の人間たちがひとりもしくは数人の対象をめがけてとるコミュニケーション関係をふつうのコミュニケーション関係で説明できるだろうか。こうしたVtuberとオーディエンスのコミュニケーションは、一般的な意味でのコミュニケーションであるとは言えないだろう。なので、それ特有のコミュニケーションとして区別すべきだ。そのさいに現時点で役立つ概念は、VTuberのような形態の動画を分析するのに適しているだろうパラソーシャル関係、メディアペルソナといった概念である。そこで本稿では既存の概念をつかってVTuberとオーディエンスがつくる関係の説明を試みている。現時点では、VTuberともともとの概念が説明しようとしていた対象とにいくつかのちがいはあるにせよ、メディアペルソナ概念を用いることでその重要な部分を説明できるだろう。
といっても、メディアペルソナ-オーディエンスの関係をいたずらに特殊な関係とみなすことには問題がある。ペルソナ-オーディエンスの関係は社会的関係の極の一つだ。いっぽうには顔を突き合わせた(face-to-face)社会的関係があり、たほうにはフィクショナルキャラクタが用いられるペルソナ-オーディエンスの一方向的な関係がある。こうした社会的関係の連続帯のなかでペルソナ-オーディエンスの関係を捉えるべきだろう。
コミュニケーション研究を手がかりに
それでは、VTuberにおけるペルソナ-オーディエンスの関係は社会的関係のうちでどのような位置を占めているのだろうか。Giles(2002)はパラソーシャル関係の研究をまとめた論文のなかで、社会的関係とパラソーシャル関係を二つの極としてそのあいだの連続帯を整理した。表1を見てほしい。左端の列は、オーディエンスがどのような対象と出会うか(Encounter)、一つ隣の列は、どのような位置で(Location)隣接しているのかかはなれているのか(Proximate/Distant)、つぎに、どのような関係の制限(Constraints)が公私(Formal/Informal)であるのか、どのような可能的な関係(Potential relationships)が公私でありうるのかによって分類されている。つぎに行をみてみよう。いちばんうえは一対一(Dyadic)の関係で、小集団(Smal group)、大集団(Large group)とつづく。メディアにおける姿との出会い(Encounter with Media Figure)からメディアペルソナと関係してくる。つぎは一階のPSI(First-order PSI)二階、三階のPSIと整理される。
Giles, D. C., 2002, “Parasocial interaction: A review of the literature and a model for future research,” Media psychology, 4(3), 295.
わたしたちが関心をもっているVTuberのペルソナ-オーディエンスの関係は二階のメロドラマとオーディエンスの関係と、三階のマンガ/アニメーションキャラクタとオーディエンスとの関係の中間に位置するだろう。わたしたちはVTuberと会話やチャットをおこなう可能性はあるという点で三階のコミュニケーション不可能性とは異なり、かつまた、メロドラマのキャラクタはじっさいの人間の姿をしているという点でVTuberとは異なるからだ*4。言うなればVTuberのペルソナ-オーディエンスの関係は「2.5階のパラソーシャルな相互作用」関係として分類することができるかもしれない。
さて、ここで疑問があるだろう。「このように表に位置づけてなにがうれしいの?」
答えよう。表裏一体の二つのうれしさがある。
一つめのうれしさは、類似点を発見できるうれしさだ。位置づけることで、VTuberのペルソナ-オーディエンス関係を社会的関係/パラソーシャルな関係のスペクトラムに位置するひとつとして捉えられる。すると、スペクトラム上で隣接するほかの社会的関係/パラソーシャルな関係の特徴と比較しつつこれから考察を進められる。それだけ飛び抜けているために、異様でまったくべつの概念で理解しなければならないわけではなく、さまざまな既存の知見をやりくりしてあるていど分析をすすめることができるはずだ。
たとえば、このように位置づけることで、VTuberに対するなみなみならぬ思い入れや、あるいはつよい嫌悪感など、ふつう対人においてのみ惹き起こされるような情動をなぜわたしたちは感じうるのか、それは情動そのものなのか、それとも情動めいたなにかなのか、という問いに、コミュニケーション/メディア研究の視座から(そしてそれらの知見を利用し比較する美学の視座から)取り組む手がかりを与えてくれるだろう。さらには、VTuberというモデルケースを手がかりに、VR世界におけるアバタとのコミュニケーションのあり方について考察することができるかもしれない。類似点を発見できるうれしさとは、いまある資源を活用できる可能性のうれしさだ。
二つめのうれしさは、相違点を発見できるうれしさだ。位置づけることで、VTuberのペルソナ-オーディエンス関係が、ほかの社会的関係/パラソーシャルな関係における知見ではどのように考察できないかがわかる。相違点を発見することは、VTuberの独自性を拾い上げることに役立つだろう。VR世界におけるアバタを介したコミュニケーションが、どうユニークであり、どのような独自の価値をもちうるのか、そしてどのような特殊な社会的、倫理的問題と関係しうるのかを分析する手がかりになる。相違点を発見できるうれしさはそのユニークさがもたらす美点と問題とを明らかにできるうれしさだ。
ここでは、そのうれしさの一端を提示しておきたい。まず、一つめの、VTuberのペルソナ-オーディエンス関係にパラソーシャルな関係の分析をあるていど適用できるうれしさを感じてみよう。
Brown(2015)は、ペルソナ-オーディエンス関係を対象としたコミュニケーション/メディア研究をまとめた論文で、ペルソナ-オーディエンス関係生成の四つのプロセスとパス-フロウモデルを提案した。彼は、ペルソナ-オーディエンス関係が「移入(Transportation)」「パラソーシャルインタラクション/関係(Parasocial Interaction/ Relationship)」「同一化(Identification)」「崇拝(Worship)」の四つのプロセスから構成されるという仮説を提案した。それが下図にまとめられている。これらは、レベルIからレベルIVまでのプロセスの関係を図示したものだ。
Brown, W. J., 2015, “Examining four processes of audience involvement with media personae: Transportation, parasocial interaction, identification, and worship,” Communication Theory, 25(3), 272.
レベルIにおける「親しみ/以前の親しみ(Familiarity/Prior)」と「知覚的リアリズム(Perceived Realism)」とは移入をもたらし、「好み/魅了(Liking/Attraction)」と「同類性/類似性(Homophily/Similarity)」にはパラソーシャルインタラクション/関係をもたらす。レベルIIでは、移入とパラソーシャルインタラクション/関係とはさらに相互作用する。そして、レベルIIIでそれらは同一化をもたらし、それがつよくなったものがレベルIVの崇拝の段階である。
このモデルに沿ってペルソナとオーディエンスの関係を考察してみよう。それとともに、Brownによる各プロセスの定義をみてゆこう。まず、オーディエンスは二つの並行する関係をペルソナと結ぶ。それは移入とパラソーシャルな関係だ。まず前者は、ある物語世界に移入するようにオーディエンスを引き込む。
ここで、移入とは、メディアの鑑賞や、メディアを介した出来事への参加を通して、「ある物語(narrative)に完全に没入するようになるプロセス」であり、それは「メディア消費者が物語世界のひとであるかのように考え、感じたときに開始する」。そして、移入は「その物語世界やペルソナの生き生きとしたイメージによって特徴づけられる」。物語はフィクションでも現実の物語でもよい。たとえば、VTuberが知名度をあげてゆく物語や、あらたな仕事上の、個人的な問題への挑戦などにオーディエンスは没入し、あたかもじぶんがその物語のなかの一員であるかのように考え、感じるようになる。その要因は、親しみと知覚的リアリズムだ。繰り返しの接触によってペルソナにオーディエンスが親しみを感じること、そして、その物語がいかにもありそうなことによって、オーディエンスを物語への没入に誘い込む。
つぎにパラソーシャルインタラクション(PSI)とは、「メディアを介したペルソナとの想像的関係を発展させるプロセス」である。PSIはメディアを介してペルソナとともに時間を過ごすことで開始される。このプロセスは、「知覚されたペルソナとの関係の発展とペルソナをよく知っているという[感覚]によって特徴づけられる」*5。このプロセスもまた二つの要因によって、すなわち、「好み/魅了」と「同類性/類似性」によって引き起こされる。前者は、ペルソナがオーディエンスにとって、どれほど魅力的か、それとはべつにオーディエンスがそのペルソナにどれほどの類似性を見てとるかによって変化する。
つぎにこれらの関係は相互作用する。移入はパラソーシャルな関係を強化し、逆もまたしかり。そして、これらによってオーディエンスはVTuberと同一化をはじめる。同一化とは、「メディアペルソナのアイデンティティに従おうとするプロセス」である。同一化は、オーディエンスが、「ペルソナの態度、価値[観]、信念、あるいは振る舞いを共有あるいは取り入れることで、ペルソナのアイデンティティを引き受け始めたとき開始する」。
そしてさらに関係が強化されるとペルソナ-オーディエンス関係は質的に異なる段階に到達する。それが崇拝の段階だ。崇拝とは「メディアペルソナへの熱中、傾倒、そして愛を表現するプロセス」である。これは「つよい忠誠心」と、特定のペルソナを崇拝するためなら「じぶんの時間、金銭、そして自由を喜んで捧げる」という点で特徴づけられる。まれにしか起こらないとされるが、この段階になると、オーディエンスは時間や金をペルソナに用いてもいいと思うようになる。
各要素の性質を記述する研究はBrownがまとめているようにすでに豊富にあり、これからの研究も期待できる。ゆえに、以上あげた四つのプロセス、すなわち、移入、パラソーシャルインタラクション、同一化、そして崇拝じたいは、メディアペルソナとオーディエンスの関係として重要であり、また分析の視座として用いることができるだろう。だが、このモデルを経験的にサポートする研究はまだじゅうぶんに出揃っているわけではない。このモデルはVTuberの鑑賞体験をあるていど説明するように思える。しかし、現段階では、有望かもしれないが、競合するさまざまなモデルのうちでの仮説的なプロセスのモデルの一つとして捉えるべきだろう。
スター研究を足がかりに
さて、二つめのうれしさはどのようなうれしさだろうか。これは、パラソーシャルな関係を手がかりに、VTuberの特殊性を見つけられる可能性についてのうれしさだ。
それでは、VTuberのメディアペルソナの特殊性とはなにか。それは、VTuberのメディアペルソナがまとうスター(star)性である。こうしたスター性に関する研究は主に映画研究や社会学の領域でなされてきた。ここで、スターに関する定義を概観し、それがVTuberの分析にどのていど使えそうかを調べてみよう。
Hayward(2013)において、スターの五つの定義が紹介されている。それらは、⑴資本的価値としてのスター、⑵構築されたものとしてのスター、⑶逸脱としてのスター、⑷文化的価値としてのスター、⑸まなざしとしてのスターである。⑴は経済的な要素、⑵はスターイメージ構築の問題、⑶はスターじしんの自己認識や精神的問題、⑷、⑸は社会学的、芸術学的、美学的問題に関する定義である。こうしたスターの特徴のうち、ほとんどがTVキャスタやリポータといったメディアペルソナにはあてはまらない。また、⑶や⑸といった要素はフィクショナルキャラクタのメディアペルソナにもあてはまらない。先ほどのスペクトラムを用いれば、二階のPSIに現れるメロドラマのペルソナにはあてはまるだろう。そして、VTuberにもあてはまる。
試みに、構築されたものとしてのスターという視点から考察を行おう*6。ハリウッドスター研究を行ったDyerの指摘したスターイメージを構築する四つの要因を参照しよう。彼女は、第一に、製作者によって、第二に、映画出演、トークショウ、雑誌インタビュー、などといったメディアを通した活動によって、第三に、スターをめぐる批評家や評論家の語りによって、最後に、オーディエンス同士のコミュニケーションによって、スターイメージが構築されていると指摘した(Dyer, 1986, 3-4)。
スターはメディアを通してつくられたパーソンの特殊なイメージであることから、メディアペルソナの特殊例として捉えることができる。そして、VTuberのメディアペルソナとスターとはよく似た構築のされ方をしているために、VTuberをメディアペルソナのうちで、とくにスターと近しいものとして捉えることができるだろう。
VTuberの分析
さて、メディアペルソナとスターの概念を手がかりに考察を行おう。こうしたメディアペルソナがオーディエンスによってアクセス可能なものとなるのは、パーソンの性質の一部分がTwitterや動画といったメディアを通して選別されることによってである。その選別にはパーソン、そして周囲の製作者が関わっているだろう。オーディエンスは、そうしたメディアペルソナと現実の社会的関係とは異なった独特な関係をもつだろうし、それはコミュニケーション研究においてよく分析されうるような関係だろう。
パーソンとメディアペルソナは、後者がパーソンの意思をしばしば超えるように、製作者と視聴者とによって形成され続けるという点で明らかに異なっている。その性質は、先ほどあげた四つに代表されるような複雑な作用のうちで形成される。メディアペルソナもまた、製作者、メディアを通した活動、批評家の語り、オーディエンス同士のコミュニケーションによってつくりあげられるものでありパーソンとは異なるものであるのだ。
また、パーソンとメディアペルソナのちがいとして、パーソンがメディアペルソナの性質に反するような行為を行い、それが暴露された場合、それがパーソンとしては問題のない行為であったとしても、メディアペルソナの統一性の一部は損なわれうることがあげられる。また、パーソンの違法な行為が暴露された場合、メディアペルソナは一貫性を失いうるだろう。
そして、視聴者のうちには、メディアペルソナの後ろ側にあるパーソンのすがたを覗こうと掻き立てられるものもいるだろうし、そうした掻き立てと推測は特定の視聴者の集団においては重要な鑑賞実践とされてもいるだろう。こうした窃視的な鑑賞に際しては、パーソンとしてのVTuberが鑑賞の対象になっている場合もあるだろう。
以上の議論から、VTuberとは誰か? という問いに対して、「わたしたちは、メディアペルソナでもあり、パーソンでもある」と答えることができる。メディアペルソナはパーソンとは異なった関係をオーディエンスと結び、そしてそのメディアペルソナはさまざまな特殊な要因によって構築される。以上で紹介したように、本節ではVTuberをコミュニケーション研究とスター研究から研究することを提案した。
でも、と疑問が浮かぶだろう。「なるほど。勉強になる。でもちょっといいかしら? VTuberのメディアペルソナの特殊性がスター性だと言うのね? じゃあVTuberは20世紀よりこのかたずっとあったスターの特殊性に還元されてしまうのかしら? そんなことはないでしょ。この分析はVTuberの特殊性を掬い取れてないんじゃないの?」
その通りだ。このままでは、VTuberはペルソナのとスターで説明できるところは説明できます。説明できていないところは知りません。ということになってしまう。つぎのセクションでVTuberの特殊性について議論しよう。
2. ペルソナとキャラクタ:美学的研究から
第一セクションではパーソンと区別されるメディアペルソナ(以下「ペルソナ」とする)を取り上げ、その性質について考察を行った。このセクションでは、ペルソナとキャラクタとのちがいと関係性について議論しよう。
わたしたちはVTuberをみているとき、なにをみているのだろうか。わたしたちはある画像をみている。わたしたちはメディアペルソナを鑑賞するとともに、ある人間によく似た、あるいは似ていなくとも目鼻がついたなんらかのものをみている。こうした画像が表象しているものを「フィクショナルキャラクタ(fictional character)」と呼ぼう。ここで、画像(picture)は静止画(still picture)のみならず動画(motion picture)も意味することとする。
VTuberの場合、キャラクタとペルソナは異なる。現実にはペルソナの造形的性質そのもの(e.g. 顔、たたずまい、身体)はいっさいうかがい知ることはできないが、その代わりに、キャラクタの画像をペルソナの表象としてよい、という規則があるように思われる。
キャラクタのアバターとそれを用いるパーソンとの関係と比較するとVTuberの特殊性が明らかになるだろう。ふつう、キャラクタの画像はキャラクタじたいを表象するのであって、それを演じるパーソンを表象するとはみなされない。たとえば、安室透の画像は想像的に安室透を表象するのであってその声優である古谷徹を表象するわけではない。『ロードオブザリング』のゴラムの映像は想像的にゴラムを表象するのであって、そのアクタであるアンディ・サーキスを表象しているとはふつうみなされない。
だが、VTuber、あるいはアバターにおけるキャラクタの画像は、想像的にキャラクタを表象するとともに、想像的にペルソナをも表象する。これは奇妙な関係だ。なぜこのような関係が可能になっているのだろうか。
その理由の一つは、キャラクタの画像がペルソナの動きをあるていど表象しているからだろう。ゴラムの場合もたしかにキャラクタはパーソンの動きを表象してはいるが、わたしたちはフィクションを楽しむ上では、ゴラムはゴラムであるとみなし、物語世界の外のアンディ・サーキスのことを考えない。サーキスの演技のよさについて語るとき、物語世界の外のことがらについて語っている。VTuberの場合は、ペルソナじたいがフィクショナルであって、想像的に、キャラクタのアバターとペルソナとを結びつけて鑑賞することができるし、そうすることがこのジャンルを鑑賞するための基本的な習慣だろう。
顔のないもの、性格のないもの
ペルソナとキャラクタとは異なるあり方をしている。キャラクタの画像を鑑賞しているとき、わたしたちはメディアペルソナのもつかわいさとキャラクタの画像のかわいさとを区別することができる。「ペルソナはかわいい性格をしているのに、そのキャラクタの画像が残念だ」といった発言を行うことができる。ゆえに、その差はあいまいであるとはいえ、ペルソナに関する評価は人格や性格に関するもので、その造形的性質についてではなく、造形的性質はキャラクタの画像によってのみ想像的に関係づけられるだろう。パーソンの動きのかわいさについては、それがトラッキングによってもたらされたものである限りで、パーソンに帰属させることが可能だろう。このような特徴をまとめれば、じっさいには、VTuber(あるいはVR世界のアバター)のペルソナには顔がない(’personae’ without personae)。
ここで、VTuberがアバターとして用いるキャラクタは造形的性質以上の性質をほとんどもたないことに気づくだろう。それじたいであるていどの性格や背景的性質を含んではいるが、シャーロックホームズやアンナカレーニナほどではない。たとえばそれは能面、あるいは初音ミクのようなキャラクタだろう*7。オーディエンスはVTuberをみているあいだは、いっぽうで、ペルソナにキャラクタの造形的性質を想像的に関係づけてることも可能だが、たほう、キャラクタにペルソナの性格を想像的に関係づけることもできる。しかし、じっさいのところ、キャラクタには性格がない(’character’ without character)。
以上をまとめれば、VTuberとは顔のないペルソナと性格のないキャラクタのキマイラであるといえる*8。VTuberフィクションにおいて、ペルソナとキャラクタの画像とを互いに関係づけてよいような規則が導入されているのかもしれない。こうした規則の存在をVTuberの特殊性の一つとして指摘することができるだろう。
としてのVTuber
しかし、これらは同じことをちがう言い方で言っただけなのではないか。つぎのような疑問が浮かぶだろう。「キャラクタの画像をペルソナに対応させるのも、ペルソナの性格をキャラクタに対応させるのも同じことなんじゃないの? なんでわけるの?」
しかし、両者はおおきく異なる。というのも、両者はVTuberの鑑賞のされ方の種類のちがいと関係しているからだ。どういうことか。
まず、キャラクタの画像がペルソナに対応させられているば場合、つまり、「ペルソナがキャラクタのアバターをつかっている」ものとして鑑賞される場合、オーディエンスは「ペルソナとして(qua personae)」Vtuberを鑑賞している。Vtuberは背後にじっさいのパーソンが透かし見えるようなペルソナとして鑑賞される。こうした鑑賞がなされるVTuberは、メタ的な発言をおおくできるだろうし、じっさいのパーソンのできごとや体験をVTuberとして発言しうるだろう。
これに対して、ペルソナの性格がキャラクタに対応させられるばあい、すなわち、「フィクショナルキャラクタがそこにいる」ものとして鑑賞されるばあい、オーディエンスは「キャラクタとして(qua character)」VTuberを鑑賞している。VTuberは背後にじっさいのパーソンを透かし見ることがないようなキャラクタとして鑑賞される。こうした鑑賞がなされるVtuberは、キャラクタとしてのロールプレイを重要視し、メタ的な発言を控えるだろうし、じっさいのパーソンについての発言をほとんど行わないだろう。また、オーディエンスも、パーソンについての発言を鑑賞においては控えなければうまく鑑賞できないだろう。VTuberはおおきくこれら二つの鑑賞のされ方によって区分しうるだろう。
と、聞いて納得するだろうか。反論もありそうだ。「ちょっときみ、「鑑賞」というマジックワードで、それっぽいことをいっているだけなんじゃないかい? なるほど、ペルソナに注目がなされたり、あるいはキャラクタとしてみなされたりするということはそういう風に言えばあるかもしれない。だけれど、オーディエンスがVTuberを異なる鑑賞のしかたにおいてみるというとき、ほんとうに異なるものとして経験しているのか? きみの直観しか根拠がなくないか?」
こうした問いになんとか答えよう。ここで仮説を提示したい。オーディエンスは異なる「として」鑑賞をしているとき、異なる「ゲシュタルト知覚」をしているのではないだろうか。ゲシュタルト知覚とはなにか。そのもっとも有名な例は下図のような「アヒル-ウサギ(duck-rabbit)の多義図形」だ。
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Kaninchen_und_Ente.png#mw-jump-to-license
この図形はアヒルに見えたかと思えば、ウサギにも見える。このとき「見えの変化」とはいったいなんの変化なのだろうか。それは、「〈この図を見るとはどういうことか〉という知覚経験の意識的側面」(源河 2017)の変化であるといわれる。見えが変化するとき、この図じたいが変化しているわけではない。この図の性質をわたしたちがどのようにまとめあげるかが変化している。
この図のように、Vtuberを鑑賞するさい、オーディエンスにおいては、「ペルソナとして」と「キャラクタとして」の二つの知覚経験の現象的性質が切り替わるような、独特な鑑賞が行われているのではないか。あるときは、パーソンも鑑賞の対象となるような現実のペルソナとして、あるときは、パーソンの存在を除外したフィクショナルなキャラクタとして。
これらは、同時にはもういっぽうの知覚を行うことができない。あるVTuberは主にキャラクタとして鑑賞されるだろうし、あるいはほかのVTuberはもっぱらペルソナとして鑑賞されるだろう。しかし、どちらでも知覚してよいものがあってもよい。これらの知覚が一つのVtuberにおいて、ある時間ごとにそのつど切り替わらないということはないだろう。
これはひたすらに特殊というわけではない。あるスターペルソナとそのキャラクタとのあいだにおいてもこうした反転する知覚が行われていると思われるからだ。わたしたちはスターがキャラクタを演じているとき、そのスターのパーソンとしてのあり方を気にせずにフィクションを楽しむこともできるし、そのスターが演じているということじたいを楽しむこともできる*9。
ただし、演劇や映画においては、あるペルソナとそれが演じるキャラクタとは作品単位で区切られている。ペルソナが作品のインタビューに現われるとき、それははっきりとペルソナそのものだろう。しかし、VTuberのばあい、つねにペルソナとキャラクタとはペルソナとしての、あるいはキャラクタとしてのというペルソナ-キャラクタ関係を結んでおり、それらが相互作用しうるという点で特殊であるといえる*10。
メディアペルソナとフィクショナルキャラクタとはかなり近しいものであり、しばしば混同されうるが区別しうるものだろう。そうだとすれば、それを区別しやすいように、突飛でないような概念を導入することは、分析や批評の役に立つのではないか。ゆえに、わたしはここで、キャラクタとペルソナとを異なるものとみなしうるし、個別のものとして扱うことができるし、それらが独自の関係を結びうると主張したい。
3. キャラクタとパーソン:倫理的問題にふれる
第二セクションでは、ペルソナとキャラクタのちがいと関係性について議論を行った。Iの最後の本セクションでは、キャラクタとパーソンの関係性について二点だけ問いを指摘しておきたい。
第一に、パーソンとキャラクタにおける自己認識について。パーソンじしんはじぶんの動きがキャラクタを表象するアバターによってトラッキングされていることで、キャラクタとじしんとにとくべつな関係を発見するのではないだろうか。たとえば、あるキャラクタのアバターをパーソンが用いているときに、そのアバターに対する不適切な行為(e.g. 過度にプライベートな接触)が行われたとき、それはパーソンに対するハラスメントであるとパーソンはみなしうるだろう。こうした特殊な関わりは、キャラクタのアバターをパーソンが繰り返し長期間用いることで、パーソンがキャラクタのアバターを用いていないときにも持続するようになるのではないだろうか。
第二に、パーソンとキャラクタのジェンダについて。キャラクタとパーソンの関係には、奇妙なところがある。たとえば、VTuberのいく人かは、パーソンのジェンダとキャラクタが表象するジェンダがちがう。これは一般的な演劇や映画ではみられない。演劇ではタカラヅカや歌舞伎、お能といったジャンルをのぞいては男性が女性を演じることも、女性が男性を演じることもないし、映画においてはそのような例はほとんどみられない。また、タカラヅカにせよ女形にせよ、パーソンはなるべく他のジェンダのステレオタイプを表象できるように声や格好を似せる。しかし、VTuberやVR世界ではそうしてもよいしそうしないこともできる。
こうしたパーソンとキャラクタの問題はここではほんのかるく指摘するにとどめて、のちほどふれることにする。
II. 三層理論
以上の議論において、わたしたちは以下の三つの概念を導入した。
- パーソン(person):じっさいのひと(person)。メディアペルソナが依存しているものであり、キャラクタを演じたり用いたりするものである。パーソンの性質の一部はメディアを通してメディアペルソナの性質とみなされる。わたしたちは通常パーソンにはアクセスできないが、スクープやスキャンダルによってその姿が暴露されることがありうる。
- メディアペルソナ(media persona(e)):パーソンがメディアを通して、さまざまなメディア(e.g. ラジオ、テレビ、YouTube、Twitter)においてオーディエンスによってみられた姿。パーソンの性質を部分的にもつときもあり、パーソンの性質が部分的に消去されることもある。パーソンがもともともたなかったような性質が、撮影、出演、トーク、インタビュー、などといった活動によって付加され続ける。メディアペルソナと一致しないようなパーソンの性質の暴露によって、形成された性質が破綻をきたすこともある。
- フィクショナルキャラクタ(fictional character):パーソンがアバターとしてその画像を用いるフィクショナルキャラクタ。フィクショナルキャラクタには造形的性質のみをもつようなキャラクタとそれ以外にも物語におけるようなさまざまな性質をもつキャラクタがあり、このうちパーソンは前者のキャラクタの画像をアバターとしてしばしば用いる。
つぎにこれらの概念がどのように分析に用いられるのかを考察しよう。
1. 何がかわいいのか
三つの概念を用いることで、わたしたちがVTuberを評価するさい、なにを対象としてそれを行なっているのかを整理することができる。
たとえば、「XというVTuberがかわいい」という発言を取り上げてみよう。このとき、発言者の評価の帰属先として考えられるのは、つぎの三つの対象である。
一つは、フィクショナルキャラクタとしてである。VTuberが用いるアバターが表象するキャラクタの容姿や表情の性質についての評価が含まれている場合がある。
二つに、メディアペルソナとしてである。メディアを通してアクセスできるメディアペルソナの性格や考え方に関しての評価が含まれている場合である*11。
最後に、パーソンとしてである。メディアペルソナではなく、素のすがたであるとみなすとき、発言者はリアルなパーソンの性格やふるまいについての評価を含んでいる場合がある。
注意しなければならないのは、これらは各々の評価の帰属先として区別できるものの、じっさいの発言や経験においてははっきりと区別されているわけではないということだ。それどころか、こうした各要素が同時にわたしたちに作用することによって、VTuberがもたらす特有な経験が可能になっているはずだ。しかし、こうした経験を分析するための仮説として、わたしたちが議論してきた三つの概念はあるていど有望であろう。つぎに、三つの概念にさらに肉づけをしてゆこう。
2. バーチャルユーチューバの三層理論
下図をみてほしい。これらは上の三つの概念とその関係とを表したものである。
「バーチャルユーチューバ(Virtual-YouTuber)」はパーソン、メディアペルソナ、フィクショナルキャラクタの三層からなる。そして、しばしば「中の人」や「魂」と呼ばれる対象は、パーソンとメディアペルソナをまたいだものだろう*12。こうした対象としてVTuberが鑑賞されているとき、オーディエンスは「ペルソナとしてのバーチャルユーチューバ(Virtual-YouTuber qua personae)」を鑑賞しているといえる。
つぎに、パーソンを鑑賞の対象としないようなVTuberのジャンルもあるだろう。あるいは、パーソンに言及しないことが重要な鑑賞の規則になっている場合もあるかもしれない。その場合、鑑賞されているのは、フィクショナルキャラクタとしてのなにかであり、これを「キャラクタとしてのバーチャルユーチューバ(Virtual-YouTuber qua character)」と呼ぶ。
VTuberはキャラクタの性質とメディアペルソナの性質とが一体となって鑑賞されるところにその特有性がある。概念においてはメディアペルソナとキャラクタの画像とをべつべつのものとして区別できるが、鑑賞の時点では一人の人格をもったペルソナあるいはキャラクタとしてVTuberを鑑賞しているだろう。
以上の三つの要素によってVTuberが構成されており、それぞれの要素が互いに影響することでVTuber独特の鑑賞体験がもたらされているという主張を、試みに「三層理論(three-tiered theory)」と呼ぶことにしよう。三層理論によって説明されるような、それぞれ層の異なる身体に関する鑑賞が重なり作用し合うことで、VTuberの独特な鑑賞の経験がもたらされているといえるだろう。
Vtuberのさまざまな構成要素を分析することも、それらの他の対象との共通性やちがいを他者に伝えるにさいして威力を発揮するだろう。あるいはまた、それは、VTuberの作品分析やその倫理的問題に関して議論するための共通の言語となりうるだろう。
と言って読み手を説得できるだろうか? でできるなら世話はない。そこで、以降のセクションでじっさいに作品分析と倫理的問題の議論に以上の三層理論をつかってみよう。
III. 批評:鳩羽つぐと高い城のアムフォ
さて、以上のようなVTuberの分析にみたところあてはまらないものの、ある側面からはVTuberのカテゴリで鑑賞されうる存在について議論しよう。こうした議論は、わたしたちの三層理論にちがう角度から光をあて、その批評への応用可能性を提示してくれるだろう。
1. 不明性の生成:鳩羽つぐ
鳩羽つぐというYoutuberはいっけんこれまでのVTuberのカテゴリにおさまるように思える。しかし、そのメディアペルソナとパーソンは明らかではなく、加えてじっさいのメディアペルソナとパーソンが鑑賞の対象になっているわけでもない。それでは。『鳩羽つぐ』という作品はVTuberによる映像作品として鑑賞するべきではないのだろうか。そうではない。
『鳩羽つぐ』という作品は、鑑賞者が鳩羽つぐという想像上のパーソンの内実を想像することを誘うことで、鑑賞者たちに無数のテクストを生産させ、それらのテクストが集まることで、鳩羽つぐという謎めいたパーソンが立ち上がってくるという独特なあり方をしている。それを可能にしているのは、動画がもたらす不穏な雰囲気や手がかりのすくなさ、なにより、作者のカテゴリ的意図の不明性である*13。
ここで反論があるだろう。「パーソンではなくて、たんにキャラクタが鑑賞されているのではないか?」
もし、『鳩羽つぐ』がVTuberの文脈のなかで鑑賞されなかったならば、鑑賞者は、鳩羽つぐをたんにキャラクタとして鑑賞しただろう。しかし、鳩羽つぐじしん「Youtuber」を自称していることからもわかるように、わたしたちは『鳩羽つぐ』を「Youtubeに投稿された動画」として鑑賞するように誘われる。つまり、わたしたちは「鳩羽つぐが、あるいは鳩羽を撮った何者かが投稿した動画」として『鳩羽つぐ』を鑑賞する。このことは、鳩羽つぐ(あるいは彼女を撮った何者)がどこかにいるというフィクショナルな設定に鑑賞者が参加することを促す。それによって、「『鳩羽つぐ』に写っているのは、じっさいのパーソンのメディアペルソナである、しかしそのパーソンはどのような状況にいるのかはいまだ不明である」というフィクションに参加するように誘われる。このことは、『鳩羽つぐ』の動画じたいのいわゆる「実在感」を高める、すなわち、メディアペルソナをもたらすパーソンが、あたかもどこかにじっさいにいるようなフィクショナルな物語を想像することを可能にしているといえる。言い換えれば、『鳩羽つぐ』は、VTuberを構成するフィクショナルキャラクタを想像的に消去させ「パーソンのメディアペルソナのみが動画内に現れている」という想像を喚起させる。
『鳩羽つぐ』はこのようにVTuberという形式がもつパーソン、メディアペルソナの鑑賞という性質を利用することで独特な作品として鑑賞されうる。ゆえに、鳩羽つぐは典型的なVTuberとは言えないものの、VTuberやYoutuberというカテゴリや、そのメディアペルソナ性を利用したすぐれて批評的な作品であるといえる*14。
2. 異世界からの批評:高い城のアムフォ
高い城のアムフォというYoutuberは、VTuberというカテゴリから意図的にはみ出しつつ、それに対して鳩羽つぐとは異なる観点からVTuberという存在に対する批評を行なっている。
アムフォは異世界の住人であり、じっさいに異世界から動画を投稿している。その点では、『鳩羽つぐ』にもみられるようなフィクションにおける「投稿動画はほんとうに投稿動画である」という設定がもたらすドキュメンタリのようでドキュメンタリではない、すなわち、ドキュメンタリを模したようなモキュメンタリ性をもつ。それを支えるようにして、アムフォは異世界語を話す。このようにして、動画のなかに映された存在が、キャラクタにとどまらず、あるじっさいのパーソン、メディアペルソナであるように鑑賞するように誘われる。
こうしたモキュメンタリ性を『鳩羽つぐ』が追求するいっぽうで、たほう、『高い城のアムフォ』は豪快に破壊する。『アムフォ』はこのようなていねいな設定の構築に反するように、人形劇であることをまったく隠さない。そうすることで、じしんの鑑賞態度についての再考を鑑賞者に促す。
鑑賞者がYoutuberやVTuberの動画で観ているのはパーソンにみえて、その実巧妙に構築されたメディアペルソナであり、かつまたその魅力的なキャラクタは、その実つくりあげられた人形であることをユーモラスに示しつづける。この意味で『高い城のアムフォ』はVTuberに関する批評的作品であるといえるだろう。
IV. 倫理:画像と表象
以上のような分析に基づいてつくられた三層理論は、VTuberに関する倫理的問題を議論するための道具立てを提供できるとわたしは考えている。ここでは二つの問題にすこしだけ触れたい。
1. 「誰の画像なのか?」:画像の問題
VTuberの姿を描いたファンアートは数多くつくりだされ、VTuberがそれに言及したり、引用することも多々あり、Vtuberの鑑賞にさいしてそれらの表象を鑑賞することもまた実践の一部を構成しているといえるだろう。ここで問われるのはつぎの問いだ。
- VTuberの画像とはいったい誰の(なんの)画像なのか?
I-2セクションの議論を踏まえれば、VTuberの表象はたんにキャラクタに関するもののみならず、メディアペルソナにも関係するものだろう。なぜなら、VTuberのペルソナとキャラクタとは密接に関わっており、後者は前者と特殊な対応関係を結んでいるからだ。そしてまた、パーソンとキャラクタの画像もある関係をもっているだろう。
たとえば、鳩羽つぐの画像は、たしかにそれを鑑賞するかぎりでは、想像上のパーソンの表象であるかもしれないが、しかし、じっさいのメディアペルソナやパーソンとはほとんど関わりをもたないために、ほかのVTuberの画像の問題とは異なる問題のあり方をしているといえる。鳩羽つぐの画像は、物語世界の外では、たんにキャラクタを指示しているはずだ。
対して、VTuberの画像は、フィクショナルキャラクタの表象であるとともに、ある特定の実在するパーソンを対象としても用いることができる。もしある画像が、「ペルソナとしてのバーチャルユーチューバの画像」であれば、それはちょうど、著名な政治家を風刺画によって表象することで当人を揶揄するような画像であり、「キャラクタとしてのバーチャルユーチューバの画像」であればそれは声優とキャラクタの関係として類比的に理解することができるかもしれない。前者のばあい、VTuberは、じしんが用いるキャラクタの画像(3D、2Dモデルや静止画)に関してある種の肖像権をもつかもしれない。この点でVTuberの画像はたんなるフィクショナルキャラクタの表象にはとどまらない問題をもっているといえる。
2. 「彼は女の子なのか?」:ジェンダと人種の表象の問題
アバタはパーソンとは異なるジェンダイメージを表象することができる。たとえばあるヘテロセクシャルな男性であるパーソンが女児のフィクショナルキャラクタをアバターとしてまといつつ、男性としてのメディアペルソナをもつ場合がある。さらには、パーソンの出自とは異なるエスニシティや人種を表象するキャラクタを身にまとうことができるだろう。
こうしたパーソンがもたないようなジェンダ、エスニシティ、そして人種のキャラクタ表象あるいはメディアペルソナをパーソンが利用することには問題はないのだろうか。たとえばつぎの問いを考えてみたい。
こうした議論は映画研究や表象文化論において、ブラックフェイスやイエローフェイスの問題として議論されてきた。たとえば、『ティファニーで朝食を』を見たとき、じぶんを日本人であると任じているひとはぎょっとするだろう。彼女の眼には、度を過ぎてコミカルでカリカチュアされた日本人であるユニオシが映る。このとき、彼女は、あるていどは日本人の性質として特定の文化においてみなされているなにかを表象しているものの、つよくカリカチュアされた表象に居心地のわるさを覚える。出自を異にする文化のひとびとを表象し演技することでさまざまな問題が生じうる*15。
そうすると、先ほどのジェンダに関する問いのなにが問題かも明らかになる。
あるいは、もう一つの問題を考えることもできる。
- ジェンダを異にするパーソンが、異なるジェンダのメディアペルソナを身に纏うことでどのような問題が生じうるのだろうか?
こうした議論は杞憂だろうか。そうではない。Eaton(2012)が指摘するように、ある特定の社会実践のなかで、特定の様式によってジェンダを表象することは、あるジェンダの不平等な社会的地位を保存し、その不平等性を促進する原因になるかもしれない*16。VTuberが、あるいはアバターの使用がこうした問題と関係しうること、そして、どのような問題がありうるかを先んじて考えておくことは、杞憂にはならない。個人間のアバター使用の倫理的規定のみならず、ジェンダやエスニシティ表象のルールをつくりあげることに役立つだろう。
以上の二つの議論はVTuberの問題にとどまらない。わたしたちがVRの世界でコミュニケーションをとることがふつうになったときにも、わたしたちのアバターの他者による表象がどこまで許されるのか、アバターの肖像権とは何か、VR世界におけるセクシャルハラスメントの範囲という実践的な問題とも関わりあう。こうした問題は美学と倫理学、そして心理学やコミュニケーション研究の交差するところだろう。これまで組み立ててきた三つの概念がこうした議論に少なからず貢献することを期待する。
おわりに
本稿では、第一に、VTuberの分析のために、パーソン、メディアペルソナ、そしてフィクショナルキャラクタという三つの概念を導入した。第二に、特定のVTuberを三つの概念を用いて分析することで、それらの特殊性を明らかにして、よってこれらの概念の批評への応用可能性を示した。第三に、VTuberやVRアバターが引き起こしうる倫理的問題の整理に、三つの概念があるていど有用であることを示した。
本稿はVTuberの分析を行なったが、それによって得られた概念はVTuberという特殊な事例のみならず、VR世界におけるパーソンとメディアペルソナ、そしてキャラクタの関係についての分析にも用いられうるだろう。さらにまた、VR技術がもたらすあらたな身体の捉え方や、既存の概念では説明できない倫理的問題などを扱うための手がかりになるだろう。さらには、よりひろく、フィクションとはなにか、あるキャラクタに共感するのはなぜか、といった問いのモデルケースとして、VTuber、ならびにVR世界におけるアバターはぴったりではないだろうか。
VTuberやVRの世界の可能性は未知数であり、それがもたらしうる美学的、倫理学的、心理学的問題もまた限りないものだろう。本稿が、そうした問題に取り組むための手がかり、道具をわずかでも提示できたならうれしく思う。
ナンバユウキ(美学と批評)(Twitter: @deinotaton:https://mobile.twitter.com/deinotaton)
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誤植の訂正など
5/23、人名や作品名などの誤植を訂正。そのほかの内容は変更していません。
注
*1:「バーチャルユーチューバはいかなる意味でバーチャルなのか」という問いは、バーチャルという言葉の多義性を考えるとそれほどやさしい問いではないかもしれないし、そもそもバーチャルという言葉は対象に即していないという批判がありうるかもしれない。本稿ではこうした問いについてはふれないが、「バーチャルユーチューバ」における「バーチャル」という言葉はそれほど突飛なつかわれかたではないだろうと考える。たとえばChalmers(2017)の分類をみよ。cf. ナンバ(2018c)
*2:VTuberの声については、パーソンとキャラクタの身体の動きの関係と比較して、もうすこし複雑な対応関係もある。たとえば、パーソンによって音声入力された言葉がテキストに起こされ、それが読み上げソフトによって発声されわたしたちがそれを耳にする場合もあり、ボイスチェンジャによって変化を加えられたパーソンの入力された声が出力されている場合もある(e.g. のらきゃっと)。いくつかのVTuberでは、パーソンの声はこうした複雑な加工を経る場合があるが、ふつう、パーソンの声がそのままわたしたちの耳に入ってくる。
*3:メディアペルソナに関する概観はBrown(2015)、Giles(2002)および、Hartman&Goldhoorm(2011)を参照した。
*4:こうした社会/パラソーシャルな関係のアバタを介したバージョンとしてVR世界における交流を分析することも可能かもしれない
*5:以下[]は訳者による補い。
*6:むろん、ほかの考察もありうる。本稿での選択は参照できた文献に従ったものであって、唯一の道ではない。
*7:松永(2016)は高田(2014-2015)において提起された「図像的フィクショナルキャラクター」の問題、すなわち、「われわれはいかにして画像からキャラクタの美的性質を知るのか」という問題に取り組むために二つのキャラクタ概念を提示した。松永は、造形的性質をその重要な要素とするキャラクタをPキャラクタと呼び、対して、物語世界の中におけるPキャラクタをDキャラクタと呼んだ。この意味で、VTuberの用いるアバタのおおくはある特定のDキャラクタではなく、Pキャラクタの表象である。ここで二点の問題がある:じっさいの人物を3Dモデルに再現した場合、それはキャラクタではないかもしれないし、じっさいの人物の造形的性質とその性格や歴史的背景の一部分がキャラクタ空間に登録される特殊例かもしれない。物語世界とともに有名なキャラクタ(e.g. ルパン三世、ドラえもん)をアバターにしたとき、それはPキャラクタを用いているのか、Dキャラクタを用いているのは判明ではない。
*8:しかし、つぎのような疑問が浮かぶだろう。「仮面を被ることやコスプレをすることはこうしたキマイラ的であるといえるのではないか。そうであるならVTuberの特殊性とは言えないのではないか」。たしかにこれらはVTuberのあり方と共通した要素をもつ。だが、第一に、パーソンに直接アクセスできないという点で、第二に、後述するように、キャラクタの身体がバグり前景化するという点で、これらとVTuberとは異なり、キャラクタとペルソナの間には特殊な関係性がみられる。
*9:こうしたアクターとキャラクタの二重性についての考察は、Riis(2008)、Hopkins(2008)およびCavell(1979)第四章を参照した。
*10:キャラクタはそれじたいの存在が際立つこともある。灰街(2018a, 2018b)はVTuberをその一例とするような「メディウム(その表現を支える媒体)を身体として強く前景化させながらそこにありありと現前するキャラクター」としての「キャラジェクト」概念を導入することで、VTuberの身体の二重性について考察するとともに、アバターの身体が処理の問題によってバクり痙攣するような「壊れ」について指摘している。これはいままでの議論においてはキャラクタの身体の前景化として整理することができるだろう。こうしたキャラクタの身体が壊れることで、キャラクタとペルソナやパーソンとの結びつきは一挙に引き離されるともいえる。そして、想像的にはペルソナの造形的性質の表象であるとされていたアバターは、その想像的関係の壊れによって、アバターが表象するキャラクタじたい(しかもそれはキャラクタとしてのキャラクタでもないようなキャラクタ)を現しはじめる。
*11:yukitekton(2018)が指摘する「魂」とは、メディアペルソナとパーソンの両方にまたがるような「中の人」について語ったものとして整理できる。
*12:「中の人」として個別化されているのはじつのところパーソンとペルソナとを混ぜ合わせたものである。両者は、いっぽうは実在するある人物であり、たほうはその人物の性質の一部をもつかもしれないが、そのおおくは製作者らによって加工されたものである。
*13:『鳩羽つぐ』の分析については拙稿を参照(ナンバ 2018b)。『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜 - Lichtung Criticism
*14:このように考えると、以前わたしが議論した「不明なカテゴリ」としての『鳩羽つぐ』は、やはりVTuberというカテゴリにおいて鑑賞されるものとして整理できるかもしれない。ただ、VTuberにかんする、Walton(1970)における芸術のカテゴリとしての標準的・可変的・反標準的性質については、まだ判明ではない。三層理論において指摘されるような構造があることがVTuberカテゴリの標準的性質かもしれない。
*15:Mag Uidhirは、「フィクション映画におけるアクタ-キャラクタのマッチングの美学」(2012)、「ブラックフェイスのなにがそれほどにわるいのか」(2013)において、あるキャラクタを演じるアクタとそのキャラクタの人種やエスニシティのちがいが引き起こしうる問題について、「アクタ-キャラクタの表象まちがい(actor-character misrepresentation)」という視点から、物語映画における人種の表象の問題として考察した(Mag Uidhir, 2012, 2013)。この中で彼はアクタ-キャラクタの表象まちがいに関する問題を、美的なもの、認識論的なもの、倫理的なものに分け、アクタ-キャラクタの表象まちがいはそれじたいでは倫理的問題を引き起こさず、その用いられかたこそが問題を引き起こしうると主張している。
*16:Eatonの議論のまとめについてはナンバ(2018a)