Lichtung Criticism

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浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』注意と分散

はじめに

浦上・ケビン・ファミリーは、作曲、編曲、演奏、エフェクト、歌唱まですべてをこなすソロユニットである。浦上の編曲はこれまでYouTube上にアップロードされており、その高度やリハーモナイズの才と音色の豊かさから一部のあいだで高い評価を得ていたが、彼の最初のオリジナル曲『芸術と治療』が先日(2019年1月20日)公開され、その類まれなる才能と音楽的豊かさに多くのひとが気づきはじめた。

本稿では、浦上の曲を、これまで聴いたことのなかったひとにも聴いて頂き、また聴いたひとのなかで、しっくりこなかったひとにもあらためてそのよさに気づいて頂き、さらに、もちろん、よさに気づいたひとにはいっそう深くその価値を味わってもらえるよう、「注意と分散」をキーワードに『芸術と治療』の聴取を分析し、そのおもしろさを明らかにする。

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経験を分析する

浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』

一聴して気づくのは、この曲からあふれ出る様々なアイデアの存在である。メロディのみならず、ハーモニー、リズム、全体の構成、音色、楽器の配置。だが、それはたんに量的なものでなく、詰め込んだだけでもなく、この曲の価値そのものとなっており、そして、この曲を何度も繰り返し聴く意味をもたらす。そして、こうした構造ゆえに、『芸術と治療』は注意と分散の作品であると言える。どういうことか。この点について分析してみよう。

この曲のもっとも際立った聴取経験、それは、「注意と分散」の経験だ。

たとえば、ピアノの位置が左から右へ、あるいはその逆へと移り変わってゆくとき(たとえば、2:50〜3:00)。いままでバッキングに徹していた楽器が印象的なフレーズを奏でるとき。そのとき聴き手の注意はそれぞれのその楽器に向けられる。聴き手は、注意をあちこちに惹きつけられ、分散させられる。

こうした注意の惹きつけと分散は、今あげた楽器のみならず、あらゆる楽器で試みられる。聴き手は次から次へと異なる楽器に注意を向けざるを得なくなる(試しに、ギターバッキングだけを追うように挑戦してみてほしい。あなたの聴取経験が豊かなほど、しかし、ほかの音へと耳が惹きつけられてしまうはずだ。)。

こうした注意と分散は、楽曲の全体的な構造によってもデザインされている。第一に、この曲のかなり特徴的なリズムに注目しよう。この曲は、ポップスにはほとんど見られないような7+8のリズムで構成されている(手拍子を叩きながら数えてみてほしい。イントロあたりで特に理解しやすいだろう)。こうしたリズムは、一般的な4拍子の曲よりもさらに、聴き手の注意を分散させることに貢献している。メロディを追おうとしても、それが小節をまたぐあいだにリズムセクションやストリングスに注意が惹きつけられる。

第二に、この曲の構成もまた、聴き手の注意を途切れさせ、方向づけを変える。すなわち、イントロとAメロの移り変わりから、また繰り返し挿入される、しかしまったく異なるキャラクタを持ったインターリュードに見られるように、あらゆる転換の場面で、楽器の音数、位置、音域などは変更され、聴き手はそれまでのセクションにおいて保ってきた注意のあり方を、そのつど再編成しなければならなくなる。

第三に、歌詞について注目すれば、それが様々な文体や態度を混合したものであることに気づくだろう。あるときは独語のように、あるときは語りかけるように。歌詞においても、様々なパースペクティブからの語りが織り交ぜられ、聴き手の注意を分散させる。

第四に、あらためてまとめておけば、この曲は全般的な楽器の配置の変化や音量、組み合わせの変化によって、聴き手の注意を惹きつけ、分散させる。

こうした四つの構造は、もちろん、多くのポップスにも多かれ少なかれみられるだろうが、しかし、その程度において、『芸術と治療』は際立っている。ふつう、聴き手が戸惑うことのないように拍子はスクエアで、メロディは行儀よく小節に収められている。そして、イントロやAメロなどで変化はあるものの、そのダイナミクスや表情がここまでおおきく変わることはない、そしてさらに、歌詞は一定のパースペクティブを保っているだろうし、楽器に関する変化はここまで著しくない。ゆえに、こうした構造的特徴は、この『芸術と治療』に特有のものとしてみてよく、そして、この作品特有の鑑賞経験を説明するのにふさわしいはずだ。

そして、こうした注意の分散を誘う構造は、聴き手がこの曲を繰り返し聴いてしまう理由の一つを説明する。聴き手は、同じ曲を聴くのだが、しかし、同じようには聴かない。あるいはより正確に言えば、聴けない。注意は聴くたびに異なる仕方で分散され、聴き手は、毎回異なる『芸術と治療』を聴く。あるときははじめベースラインとリズムセクションを聴いていて、いつのまにか中音域のストリングスに注意を払ってしまっている。注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、『芸術と治療』の価値を説明するとともに、この曲を何度も繰り返し聴いてしまう理由を説明するだろう。『芸術と治療』は一回で辿れるようになっていない、また、何度辿っても異なる姿を見せる注意と分散を特徴とする作品である。

注意と分散の美学

注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、なるほど、この作品の鑑賞経験の一部がどのようにしてもたらされるかを捉えているにせよ、しかし、なぜ特有の美的経験をもたらすのだろうか。

この点について考察するために、知覚の哲学/美学研究者のベンス・ナナイの知覚と経験に関する分析を手がかりにしたい。

彼は、『知覚の哲学としての美学』において、「分散された注意(distributed attention)」と「集中した注意(focused attention)」という概念を用いて、美的経験について、知覚の特有性からの説明を試みた(Nanay 2016)。彼によれば、典型的な美的経験とは、ある対象、あるいは対象のまとまり全体に集中するもので、かつ、そうした対象の様々な性質へと分散された注意を向けることによって特徴づけられる。たとえば、ある絵画を鑑賞することで、鑑賞者がある美的経験を行うのは、その絵という対象に集中して、そして、たんにその主題のみならず、色、形、構成など、様々な性質に分散的に注意を払うことによってである(ibid., 23)。

さて、こうした「対象への集中と性質への分散」によって特徴づけられる美的経験は、なぜ特有の、しかもある価値を持つとされる経験なのか。それは、こうした美的経験は、たんにある対象を前もって定められた見方によって眺めるのではなく、次々に変化する注意によって、様々な性質を知覚やあるいは思考によって分散的に気づき、いままで見つけ出すことのできなかったような特有な性質を見つけ出すような経験であり、それは、「わたしたちにこの世界を別様に眺め、そして注意することを可能にするから」である(ibid., 35)。鑑賞者はこうした自由な注意の戯れによって、新たな仕方で対象を味わうことで、自らの既存の知覚を解放することができる。そうした経験は、まるで「世界ともう一度はじめて出会う」ような経験を可能にする。ゆえに、美的経験はそれ特有の快楽を伴う経験なのである。そして、『芸術と治療』はこうした注意と分散とをもたらすようにデザインされた作品として独自の価値を持つ。

だが、ここで、次のような想定反論がありうる。

多くの優れた表現は、様々な仕方で美的経験をもたらすことを意図する。たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、環境音というふつう見逃され、鑑賞の対象にならないものを鑑賞するように鑑賞者を誘い、鑑賞者は、環境音という対象に集中し、そして、その様々な聞こえという性質へと分散した注意を向けることで、美的経験を行う。そう考えれば、こうした美的経験からの説明は、『芸術と治療』特有の批評としては問題があるのではないか––––。

たしかに、美的経験は一般的に作品がそれをもたらそうとするものだ。しかし、それぞれの作品に特有な価値のひとつは、(1)それがどのような対象に注意を払わせるか、そして、(2)鑑賞者において、対象に集中し、かつ性質に分散された注意をいかにして向けさせるかというふたつの方法をどのようにして達成しているのかに見出すことができるとわたしは考える。

たとえば、先ほどのケージの作品は、(1)環境音というふつう注意が向けられない対象を取り上げ、そして、それを(2)コンサートホールや楽器奏者をもちいて、鑑賞者に一般的な音楽と同じように聴取させようと目論むことで、環境音という対象に集中的で、かつ、その性質に分散された注意を向けさせ、独特の美的経験をもたらす。

同様に、浦上の『芸術と治療』は、(1)注意の対象としてはポップスであるが、(2)前説で解説したように、四つに代表される音楽の構造によって、曲それ自体を対象として、対象に集中し、かつ、様々な性質に分散された注意を向けさせることに成功している。そして、こうしたデザインの仕方は、先ほど議論したように、この作品に特有である。したがって、この作品は、独自のデザインの仕方によって独自の美的経験とその価値とを作り出しており、その意味で、ほかの作品には見られないユニークな美的経験をもたらしている。

したがって、『芸術と治療』の鑑賞経験が、こうした美的経験を助長し、深化させるようなものであることが理解される。すなわち、この作品は様々な構造によって、性質について分散された注意をもたらすようデザインされた作品だと言える。したがって、この作品は美的経験のためにデザインされた作品として際立っているのだと言える。

批評の不可能性?

しかし、とここで想定反論がありうる。こうした形式的な特徴づけは、あらゆる美的経験をたったひとつの種類の経験に還元するものであり、不合理ではないのか。ケージの作品と浦上の作品はあきらかに異なる現象的経験がなされている。もし本稿が批評を語るなら、そうした経験そのものを記述しなければならないのではないか。

この指摘は部分的にただしい。こうした美的経験の特徴づけは、あくまで形式的な特徴づけであり、個別の作品に対する経験はそれぞれに現象的に異なっていると考えることが適切だろう。

だが、そうした厚みを持った現象的経験を言葉にすることは少なくともいまのわたしには難しい。わたしが可能なのは、そうした現象的経験をもたらすような要素やそうした経験を形づくるデザインを指摘することで、それらの記述を読んだ鑑賞者があらためて作品を鑑賞し、各々に現象的経験を行うことを手助けすることだろう*1。上で行ったように楽曲の構造や響きの変化を指摘することは、現象的経験そのものに関しては有意味な情報をそれほどもたないが、しかし、そうした形式へと読み手の注意を向けさせることに成功するなら、それは浦上の曲が持つ特有のデザインへの気づきにつながり、そして、浦上の曲のひとつの経験の仕方を提示することになる。そして、その経験が部分的にせよ作品鑑賞において正当なものなら、それはこの曲の価値そのものと関わる経験であり、したがって、そうした経験へと気づかせうる本稿の記述は、有意味な情報を伝達しうる批評である。ゆえに、以上の指摘と議論は、ひとつの有意味な批評であるとわたしは考える。

本稿では、現象的経験そのものの記述ではなく、それを可能にし、あるいは気づかせ深化させうることを目的として、経験をもたらすデザインとその経験の形式的記述を行った。この先は、実際に作品を味わってみてほしい。あなた自身において、特有の現象的性格を持つ美的経験が生起するだろう。

おわりに

さいごに、浦上自身によるライナーノーツから、断片的ではあるが、この曲のメッセージを考察してみよう。浦上は次のように述べている。

「せっかく自由奔放に育った芸術性や嗜好性を、凝り固まった大人たちに無理に治療されたくない!」という青すぎる青年が居たと仮定して、その架空の人間の立場に自らの身を置いてみた結果、そこから突如生まれた自意識過剰性をテーマにした詞です(浦上 2019)

浦上は、個人的に育った芸術性や嗜好性を大人たちが治療、あるいは社会的に矯正することに反する架空の人物を想定している。ここから、この曲の歌詞の語り手はそうした「青すぎる青年」とみなせる。そして、この青年が様々な経験や思考を経てゆくさまがこの曲では語られていると理解できる。とはいえ、ここではその物語のすべてを追うことはできないが、特に重要なメッセージを辿ってみたい。

楽曲の後半、「剥がされる芸術」のあとのインターリュード。治療を施され、サナトリウムで聴くような雨の音のあと、青年は、「僕は黙ってる/僕は黙ってるのスタンスはそぐわない」と呟き、そして、朗々と歌い上げる。

君なら売られた喧嘩
優しく躱せるはず
"僕は滅茶苦茶だ"
"僕は目茶苦茶だ"、
に愛されて帰れない

もっとも印象的なフレーズのひとつ。青年は自身の「滅茶苦茶」さを再確認し、それに「愛されて」いると受け取る。それは、なるほどじぶんの他人との差異を誇り、そしてそこに才を見出すような「自意識過剰」な若者のイタさなのだが、しかし、自身の差異と才に対する真正な態度でもある。そして、芸術的才能と感性を形づくる自らの特異性を「売られた喧嘩」から守ろうとする、治療されまいとする自身への肯定でもある。こうして、大団円の響きの中で明白にメッセージは伝えられ、治療ではなく芸術を選択することの決意が語られる。

半ば仮想的なキャラクタであれ、浦上は曲中の青年にシンパシーを抱いているのかもしれない。そうだとすれば、本稿のような、表現を形式的に取り上げ、理論から理解しようとする態度は、奔放な表現に公式的な枠を当てはめる「治療」の行いかもしれない。だが、こうした「治療」を得意とする者の予想をかるがると飛び越えて、青年は、あるいは浦上は「滅茶苦茶」に表現を続けていくことだろう。

浦上はポップスをさらに豊かにしてくれる。ひとりのファンとして、そして表現を言葉によって理解しようとする者として、彼の新たな試みを確信とともに楽しみにしている。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

McGregor, R. 2014. “Poetic Thickness.” British Journal of Aesthetics, 54 (1), 49-64.

ナンバユウキ. 2019.「詩の哲学入門」Lichtung、http://lichtung.hatenablog.com/entry/introductioin.to.a.philosophy.of.poetry.lichtung.(2019/02/02 最終アクセス)

Nanay, B. 2016. “Distributed Attention.” In Aesthetics as philosophy of perception. 12-35. Oxford University Press.

浦上・ケビン・ファミリー. 2019.「”芸術と治療” メモ」note、https://note.mu/urakouji/n/n189466d6bf38.(2019/02/02 最終アクセス)

おまけ:『未熟な夜想』短評

この論考を書いているあいだに、オリジナル第二曲が発表された。

浦上・ケビン・ファミリー『未熟な夜想

またもやものすごい作品である。所感をここに再掲しておく。

浦上・ケビン・ファミリーのオリジナル第二曲『未熟な夜想』時間を操る魔法のような歌。童話のようなクラシカルな響きを伴いながら、最初は過去からはじまり、アッチェレランドして、現在に戻る。そして、ア・テンポすると過去に巻き戻る。音楽は時間を操れるのだという驚き。時間芸術としての音楽と詞の意味は重ね合わさる。歌は過去と現在を行き来きする呪文であるということ。ポップスの次を聴いてしまった。

*1:この議論は、詩の経験の言い換え不可能性の議論をヒントにしている。この点ついては McGreger(2009)を、また、日本語でのまとめについては、ナンバ (2019)を参照せよ。