Lichtung Criticism

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『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜

概要

  • 『鳩羽つぐ』という作品のうちのさまざまな表象の意味の考察にとどまらず、その作者の意図やその作品を取り巻く言説をも考察の対象とし、それらを分析美学の道具立てを用いて批評することで、この作品の特殊性を明らかにする。
  • 上記の作業を通じて、『鳩羽つぐ』は、「鑑賞者にその仮のカテゴリ的意図を推測させることをその作品の意図のなかに含みもつようなカテゴリ」としての「不明なカテゴリ」のもとで鑑賞しうる作品であることが明らかにされる。
  • そのことによって、『鳩羽つぐ』はわたしたちに「不明なカテゴリ」と関係するさまざまな作品の特殊性に関する気づきを与えるということを指摘する。

『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ

鳩羽つぐ。Youtuber。最初の動画は2018年2月28日に投稿され、同時期にTwitterアカウントも取得されている。その動画に漂うどこか退廃的で不穏な雰囲気によって、ひとびとの人気を集め、多くのファンアートを生むとともに、謎めいたその設定や内容についても多くの考察を生んでいる。

この小文では、鳩羽つぐのその作品としての特殊性を明らかにする。わたしたちは投稿された動画作品とその背景にある意図、そして彼女を取り巻くさまざまな言説を分析美学の道具立てを用いて考察することを通して、鳩羽つぐという作品の特殊性を「不明なカテゴリ」という概念を用いてうまくあらわすことができることに気づくだろう。

以下、鳩羽つぐという作品そのものについて語るために、鳩羽つぐというキャラクタのみならず三本の動画を総称した作品として『鳩羽つぐ』と呼ぶことにしよう*1

カテゴリへのアクセス

『鳩羽つぐ』を観た時、わたしたちは困惑を覚える。そのキャラクタ造形が異常なわけでも、動画内で難解な表現が使われているわけでもない。にもかかわらず、わたしたちはこの作品をどのように鑑賞すればいいのかについて戸惑いを覚える。なぜなら、この作品は、わたしたちにカテゴリに関する手がかりを与えてくれないからだ。どういうことか。以下、まず一般的なカテゴリと鑑賞についての議論を行う。次に、カテゴリに関する『鳩羽つぐ』の特殊性について解説することで、「カテゴリに関する手がかりを与えてくれない」ということの重要性を明らかにしたい。

カテゴリとジャンル

まず、わたしたちのふだんの鑑賞の経験から考えよう。

わたしたちはふつうある作品をどのように鑑賞すればよいかわかる。

たとえば、ピカソの『ゲルニカ』のような一見意味内容が瞬時には理解できないような難解な作品でも、わたしたちはそれをヤカンや食べ物の一種としてみることはない。わたしたちは線や色の組み合わせによる平面状の物体が「絵画」であると判断できる。言い換えれば、わたしたちは『ゲルニカ』を絵画カテゴリに属する芸術作品として鑑賞することが可能である。

なぜなら、ふつう人為的な線や色の組み合わせがその表面上に確認できるような平面状の物体は「絵画」と呼ばれると知っているし、ピカソが画家であり、彼は『ゲルニカ』をわたしたちが「絵画」として鑑賞することを意図して描いたであろうことも知っており、「絵画」というカテゴリに属するものをどのように鑑賞すべきか(触ったり食べたり叩いて音を立ててしてはいけないこと)を知っているからだ。そして、わたしたちは絵画カテゴリに属するものを「ヤカンカテゴリ」や「食べ物カテゴリ」のなかで鑑賞したりはしない。

また、『ゲルニカ』を同じ芸術というカテゴリのなかの他の芸術のカテゴリ、例えば、「彫刻」カテゴリや「音楽」カテゴリとして鑑賞するひとがいれば奇妙に思えるだろう。彼女が「なんだこれ。『ゲルニカ』は立体感がなくてつまらないな/全然音が聴こえないぞ?」と言ったとすれば、わたしたちは「いや、これは絵画だから立体的でも音響的でもないから。そういうものだよ」と答えるだろう。

加えて、絵画カテゴリのサブカテゴリであるようなより細かいカテゴリに属する絵画としてとして、すなわち「キュビズム」というジャンルに属する絵画として、わたしたちは『ゲルニカ』を鑑賞するだろう。そうではなく『ゲルニカ』をもし「写実画」や「ポップイラスト」といったジャンルのもとで鑑賞するとすれば、それは『ゲルニカ』をすくなくともピカソの意図に沿って鑑賞したことにはならない。また、「『ゲルニカ』ってかわいくなくてつまんない」という人がいれば、「いや、これはキュビズムという絵画史のなかで現れたジャンルの作品で……」と答えるだろう。

カテゴリと鑑賞

ここで疑問に思われるひとがいるかも知れない。「べつにある作品をどんなふうに鑑賞したっていいでしょ?」

たしかにそれは自由だが、少なくとも芸術家がある作品について、それがどのように鑑賞されるかについての意図を含めてその作品をつくった場合、その意図に沿ってその作品を鑑賞するのがふつうである。その理由のひとつは簡単で、じぶんの思いつきのカテゴリにおいて、ある作品を鑑賞するより、作者の意図に沿って鑑賞した場合のほうが、ふつうその作品がよく鑑賞できるからである*2

ふたたび『ゲルニカ』を取り上げれば、わたしたちが美術史を知らずにはじめて見たとき、この作品は色彩豊かではなく、写実的でもないように見え、それほど興味をそそられないだろう。

例えばモネのうつくしい『アルジャントゥイユの橋』をみるようにこの作品をみたとき、味気なく、生気がないように感じられるかもしれない。しかしそれで『ゲルニカ』を「味気なく、生気がない」作品だとすれば彼女は『ゲルニカ』をうまく鑑賞できていないと言える。翻ってピカソの意図したであろうように『ゲルニカ』を鑑賞するとどうであろうか。

キュビズム」というジャンルにおいて、芸術家は、現実の模倣としての写実的な絵画から一歩踏み出し、さまざまなものの形のなかでもっともそのものを代表するような形を選び取り、遠近法にとらわれることなく画面に配置することによって、そのものの本質を浮かび上がらせようとする。

たとえば、あなたの好きなひとの姿を思い浮かべるとき、その眼や口元、後ろ姿や指などを断片的に思い浮かべるはずだ。そうしたあなたの好きなひとを画面に再構成するとすれば、そうした重要な断片以外をいったん忘れてしまってよい。あなたにとって重要なのはそうした断片的な部分であり、他のそれほど重要でない部分は、鑑賞者に再構成してもらえばいいのだ。

こうした発想のもとで「キュビズム」は生まれた。ものの本質を抜き取り、遠近法にとらわれずに画面に配置すること。ピカソもそのジャンルに興味を覚え、いくつもの作品を経てそして『ゲルニカ』を描いたのである。もしあなたがこうした知識をもって『ゲルニカ』を再度眺めたとしたら、あなたはどんな評価をくだすだろうか。それは「味気なく、生気がない」ものではなく、さまざまなものの重要な部分がピカソの眼によって解剖学的に抜き取られ、デフォルメされて描かれて、そしてその配置は構成的な緊張感をもち、わたしたちに解釈を誘っていることに気づくだろう。そしてあなたは「味気なく、生気がない」のではなく、「躍動的で、スリリングな」鑑賞体験を得るのではないだろうか*3

このように、わたしたちがある作品をどのように鑑賞するのかは、それをどのようなカテゴリのもとで知覚するかと密接に関わっている*4

それでは、わたしたちは『鳩羽つぐ』をどのようなカテゴリにおいて鑑賞すればよいのだろうか? 実はこの点こそ、『鳩羽つぐ』の不可解さを際立たせているのである。

カテゴリ的意図

『鳩羽つぐ』という作品は現在三本の動画とTwitterアカウントとで構成されている。ただ、Twitterアカウントがもたらす情報はあまりにも少ない*5。ゆえに『鳩羽つぐ』を構成するのはもっぱらその動画と言ってよい。しかし、わたしたちはこの動画をどのようなカテゴリに属する動画として理解すべきなのだろうか*6

f:id:lichtung:20180325051320j:image「本人のアカウントより」2018/03/25撮影。

たとえばほかのVtuberの動画ならば、その動画ジャンルは「ヴァーチャルな空間に属する概ねひとりのキャラクタがfixされたカメラの前で企画やトークを行う投稿動画」のように特徴づけられる。そして、その多くについて、その動画の作品としての意図も理解しうる。すなわち、作品が視聴者によってどのようなカテゴリあるいはジャンルにおいて鑑賞されるかについての、そして作品が視聴者にどのような反応を引き起こし、どのような内容を伝達しようとしているかについての作成者の意図をたどることができる。前者はカテゴリ的意図、後者は意味論的意図と呼ばれる。ここでは、前者のカテゴリ的意図に焦点をあてよう*7

『鳩羽つぐ』に関して、こうしたカテゴリ的意図を理解することができるだろうか? いまのところかなり難しいと言える。なぜなら、第一に、わたしたちは『鳩羽つぐ』のような非常に限られた情報しかもたない作品が属するカテゴリがどのようなものであるかについて「絵画」のようには共通理解をもっていないからである。それは「キュビズム」が初めて現れた時のような困惑をわたしたちに与える。第二に、『鳩羽つぐ』に関する公式のコメントが一切見られないことである。ある作品のカテゴリ的意図については、作者によるマニフェストやコメント、あるいはその作品タイトルによって意図を辿ることができる。しかし、『鳩羽つぐ』に関しては、こうした情報は与えられていない。

不明なカテゴリと生成されるカテゴリ

しかし、興味深いことがある。それは『鳩羽つぐ』が属するとされるカテゴリがいつのまにか生成されつつあることだ。いったいどういうことか。

たとえば、Twitterでは、

鳩羽つぐの動画は誘拐された鳩羽つぐを探すため家族がネットに公開し情報を募ったもの(その後鳩羽つぐの遺体が発見され操作は打ち切り、犯人はわからないまま動画だけが残っている)(@Fafimfafim3)*8

といった「ホラー作品」説や、

鳩羽つぐ、見た人が次々に「子供の頃友だちだった」とか「隣のクラスに居た」とか「彼女は誘拐された」「殺された」「行方不明」「犯人は見つかってない」とか言い出すので、記憶改編系のSCPかなにかだと思う(@grazeronohito)*9

のような「SCP(作品)*10」説が提唱され、いつのまにか共有されている*11。また、いくつかのサイトでも同様の説が記載されている*12

こうして、『鳩羽つぐ』の鑑賞者たちは、与えられたごくわずかな情報から、『鳩羽つぐ』という作品がどのようなカテゴリに属する作品なのかについて推測を行なっている。そして『鳩羽つぐ』を「怪異譚」や「SCP作品」として鑑賞する試みがなされている。

作者のカテゴリ的意図は以前不明だが、仮に、こうした「カテゴリ的意図の不明性ゆえに、鑑賞者たちが限られた情報から属しうるカテゴリについての推理を行い、ある仮定されたカテゴリ的意図を読み取ることを促す」ことを意図していたとするならば、『鳩羽つぐ』は「不明なカテゴリ」と呼ぶことができるような、その仮のカテゴリ的意図に関する不明性によって特徴づけられるようなカテゴリに属する作品であると言える。

つまり、『鳩羽つぐ』はそのカテゴリ的意図そのものの現時点での不明性によって特徴づけられるだけではなく、「鑑賞者にその仮のカテゴリ的意図を推測させることをその作品の意図のなかに含みもつようなカテゴリ」である「不明なカテゴリ」に属する作品であると言える*13

意図の不明性

だが、こうした推測のすべてが誤っているのではないか。すなわち、作者は仮のカテゴリ的意図を推理させることをそのカテゴリ的意図とするような「不明なカテゴリ」としてのカテゴリ的意図などもっておらず、たまたま投稿時間が空いただけかもしれない。また、たまたま不穏さをわたしたちが感じただけなのかもしれない。しかし、わたしは現在観測できる動画からこうした疑念を部分的に払拭できると考える。

まずYoutubeに投稿された唯一の動画を見てみよう。

動画の背後で流れるのはリズムの狂った『愛の挨拶』。40秒からカメラはトラックバック。白ホリゾント、右手にビニールシートで覆われた荷物や長机が雑然と置かれた倉庫のような部屋、蛍光灯、左手に機械と配線が積まれたグランドピアノが映る。

f:id:lichtung:20180325073604j:image「#0 鳩羽つぐです」より、58秒ごろ

最初はヴァーチャルな空間の映像かと思わせるが「西荻窪に住んでます」という発言とともに、映し出されてゆく周囲の状況から、ヴァーチャルなキャラクタではなく、「西荻窪」に存在するキャラクタとして理解することが鑑賞者に要求される。

f:id:lichtung:20180325074024p:image「#01 3月2日付の映像」より、2秒ごろ

映像の一つ(#01とする)、片手が映っておらず安定していない自撮り映像の存在から、この世界でのカメラ映像は実際のカメラによって撮られた映像として理解できる。ゆえに彼女以外のカメラマンの存在を読み取ってよい。少なくとも作中には彼女と「彼女以外の誰か」が存在している。

カメラアイは実際の誰かの眼だ。

こうした「彼女以外の誰かの眼」の存在の仄めかしによって「彼女はいったいどのような状況にいるのか」という謎が生まれており、鑑賞者の一部でまことしやかに共有されている一連の誘拐説の不思議な説得力がもたらされている。

また、残りのごく短い動画(#02とする)についても、雨のノイズによってその声はほとんど聞き取れないことから、また、Twitterでまったくツイートを発していなことから、鑑賞者に能動的な解釈を誘っていることが指摘できる。

こうした点から、少なくとも現時点で、『鳩羽つぐ』は、鳩羽つぐの属する空間や、カメラアイ、情報量の少なさといった特徴から、「ヴァーチャルな空間に属する概ねひとりのキャラクタがfixされたカメラの前で企画やトークを行う投稿動画」としてのVtuberという動画カテゴリには属さないような作品であることがわかる。また、こうした点から、『鳩羽つぐ』は、鑑賞者の解釈を誘うような「不明なカテゴリ」に属するような作品であるという予想を立てることが可能だろう。

不明性の系譜

もちろんその内容の解釈が多くの論争を招くような作品は『鳩羽つぐ』以前にも多く存在していた。たとえば、その内容についての論争や多くの考察本をもたらした『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)はその代表例とも言える*14。あるいはまた、現在のところ、断片的な情報から視聴者じしんが物語や意味を解釈することが作品の経験として意図されていると解釈される『Serial experiments lain』(1998)がこうした解釈を誘うような作品として『鳩羽つぐ』と関連して言及されている。

しかし、すくなくとも例に挙げたような作品はその各々のジャンルについてのカテゴリ的意図の不明性によって特徴づけられるものの、より荒いカテゴリにおいては、「アニメーション」や「ゲーム」といったカテゴリのうちで理解できる。翻って、『鳩羽つぐ』は、たしかに動画作品ではあるものの、それをたんに投稿動画として理解していいのかどうかすら判明でない。ゆえに、そのカテゴリ的意図にアクセスすることすら非常にむずかしいような作品はこれまでそれほどみられなかったであろう。

この点から、『鳩羽つぐ』はカテゴリ的意図の不明性とその意図の解釈を誘うという性質をもつ「不明なカテゴリ」のもっとも純化された作品のひとつであると言える。「不明なカテゴリ」の発見は、わたしたちに非常に興味深い気づきを与える。それは、「不明なカテゴリ」が遡及的にみずからの系譜を作り出すという発見だ。どういうことか。

ここでボルヘスカフカについて語ったの次のような表現を引用したい。

わたしの間違いでなければ、わたしがとりあげた異質のテクスト[ゼノンの逆説やキルケゴールといったカフカ以前の作品]は、どれもカフカの作品に似ている。わたしの間違いでなければ、テクストどうしは必ずしも似ていないが、これは重要な事実である。程度の違いこそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と洗われているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。すなわち、この事実は存在しないことになる。(中村健二訳「カフカとその先駆者たち」)*15(太字強調は筆者)

池内紀はこの引用の解説のなかで、「ひとたびカフカを読んだことがあれば、いや応なく先行する詩文の読みが変更される」と述べて「おのおのの作家はみずからの先駆者を創り出す」とまとめる。

こうした知見を踏まえてみると、わたしたちが発見した『鳩羽つぐ』による「不明なカテゴリ」は、わたしたちに、先行する作品が織りなす系譜についての新たな気づきを与える。すなわち、『鳩羽つぐ』を鑑賞することで「不明なカテゴリ」に属する作品が遡及的に見つけ出されてゆく。こうした発見によって次のような感想を説明することができる。

現実の(?)鳩羽つぐがこの地上から永遠に姿を消して久しい一方、インターネットでは鳩羽つぐの二次創作絵が大量に描かれたりダークウェブで彼女の未公開フッテージが流通していたり(要出典)と鳩羽つぐの概念化が着々と進行しているので実質『Serial experiments lain』(@matecha02)*16

鳩羽つぐとlainの類似性を指摘すると何がいいかって、lainの劇中での出来事が現実に起こったんじゃないかって思わせてくれることなんだよな。というか、こういうことを個人それぞれに考えさせることができてる時点で鳩羽つぐの表現は勝ちだと思う。(@gassperi)*17

『鳩羽つぐ』はこれまでのVtuberという動画ジャンルとは大きく異なるというだけでなく、純化された「不明なカテゴリ」を提示する。そして、みずからの系譜を遡及的に創り出す。この点で非常に興味深い作品であるといえよう。

ナンバユウキ(@deinotaton:https://mobile.twitter.com/deinotaton

*1:この論考の初稿は3月25日に書かれた。ゆえに、#3の動画については考慮されていない。

*2:「よく鑑賞できる」という表現はいささかあいまいに聞こえるかもしれない。実のところどのような鑑賞がよいのかにはいくつかの立場がありうる。たとえば、わたしたちにより多くの美的経験をもたらすような鑑賞がよい鑑賞であるという「受容価値」を重視する立場は、作者の意図じたいにはこだわらないだろう。しかしこの場合も、何もないところから、完全に恣意的なカテゴリを選んで鑑賞することはできない。すくなくとも作者の意図を手掛かりに作品がよく鑑賞できるカテゴリを探すだろう。あるいは、作者が作品で行おうと意図した芸術的な達成をよく判断する鑑賞がよい鑑賞であるという「成功価値」を重視する立場もあるだろう。わたしは後者の立場に共感をもっているが、前者の立場を取る場合でも、『鳩羽つぐ』のような新しい作品を鑑賞する際にその作者の意図を想定することは、そのもとで鑑賞することでより多くの美的経験をもたらすようなカテゴリを見つけ出すことに役立つだろう。こうした作者の意図と作品の価値についての議論は、以下に詳しい。Carroll, Noël. On criticism. Routledge, 2009. 邦訳は、ノエル・キャロル『批評について』森功次訳、勁草書房、2017年。また、以下のまとめも参照してほしい。ノエル・キャロル『批評について』 - Lichtung

*3:以上の記述は以下を参照した。エルンスト・H・ゴンブリッチ『美術の物語』ポケット版、天野衛、大西広他訳、ファイドン株式会社、2011年。

*4:この議論はケンダル・ウォルトンの「芸術のカテゴリー」においてなされている。Walton, Kendall L. "Categories of art." The philosophical review 79.3 (1970): 334-367. 森(2015)によれば、ウォルトンはある作品が正しく知覚されるカテゴリを同定する条件として次の条件をまとめている。⑴そのカテゴリーにおいて見たときに、標準的特徴が比較的多くなり、反標準的特徴が最も少なくなるカテゴリー。⑵作品が最もよく見えるカテゴリー。⑶作者が意図していたカテゴリー。⑷作品が提示された社会において確立しており、はっきり認識されているカテゴリー。森功次「ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。」http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20150608

*5:彼女がルイヴィトンの公式アカウントをフォローしていることのみが分かる。

*6:『鳩羽つぐ』は芸術ではないのだから、「芸術のカテゴリー」におけるような議論を用いることができないと考えることができるかもしれない。しかし、『鳩羽つぐ』が属するような人工物の形式が芸術形式かどうかは現時点で判明ではなくとも、『鳩羽つぐ』はふつう芸術作品がもつようないくつかの特徴、たとえば、形式的な複雑性、独創性、高度な技術、美的質の存在、知的な解釈の挑発といった特徴をもつことから、ある立場からは芸術作品であるとみなすことができると考える。ゆえに、「芸術のカテゴリー」における議論を援用しても構わないと考える。こうした芸術の定義については以下を参照してほしい。松永伸司「芸術の定義形式としてのクラスタ説」『カリスタ 』17, (2010): 24-51。および、Gaut, Berys. ““Art”as a cluster concept.”in Theories of Art Today., ed. by Noël Carroll University of Wisconsin Press, London, 2000. また、芸術形式と芸術作品の違いについては、松永伸司「ビデオゲームは芸術か?」『カリスタ』19, (2012): 27-55. を参照。芸術の定義全般の簡単なまとめは以下も参照してほしい。SEP:芸術の定義 - Lichtung

*7:ふたつの意図の整理については以下を参照した。Rollins, Mark. "What Monet meant: Intention and attention in understanding art." JAAC 62.2 (2004) モネの作品を例に取り、複雑な慣習的知識のみならず、初期の視覚野で処理される情報も作者の意図を読み取る重要な資源として用いられている可能性を論じている。

*8:@Fafimfafim3 による3月18日付のツイートから引用。2018/03/25閲覧。

*9:@grazeronohito による3月21日付のツイートから引用。2018/03/25閲覧。

*10:「SCP」とは、「「SCP」と呼称される自然法則に反した物品・場所・存在を取り扱う架空の組織の名称であるとともに、それについての共同創作を行う同名のコミュニティサイトである」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/SCP財団 2018/03/25閲覧。

*11:筆者がはじめて『鳩羽つぐ』を知ったのはちょうど動画投稿と同時だったが、こうした説を目にしたのはちょうど昨日2018/03/24である。

*12:たとえば「ピクシブ百科」https://dic.pixiv.net/a/鳩羽つぐ 2018/03/25閲覧。「ニコニコ大百科http://dic.nicovideo.jp/t/a/鳩羽つぐ 2018/03/25閲覧。

*13:ここで、その仮のカテゴリ的意図じたいに正解は存在しないかもしれない。すなわち、仮に存在しうるカテゴリ的意図を推測させることがカテゴリ的意図なのであって、仮に存在しうるカテゴリ的意図は存在しないかもしれない。あるいは複数存在し、そのどれかがこれから選択されるのかもしれない。いずれにせよ、わたしは『鳩羽つぐ』が「不明なカテゴリ」に属することが作者によって意図されている可能性を主張したい。そこから、このカテゴリのもとでこの作品を鑑賞することを提案する。

*14:たとえば1997年の新書ベストセラーには、『新世紀エヴァンゲリオンの謎(I・II)』や『新世紀エヴァンゲリオン完全攻略読本』と言った書名が並んでいる。「トーハン調べ 1997年 年間ベストセラー」https://www.tohan.jp/pdf/1997_best.pdf 2018/03/25閲覧。

*15:池内紀編訳『カフカ短編集』岩波書店、1987年

*16:@matecha02による3月21日付のツイートから引用。2018/03/25閲覧。

*17:@gassperiによる3月24日付のツイートから引用。2018/03/25閲覧。