Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

草野原々「幽世知能」:理解不能、切断、痛み

はじめに

草野原々のこの物語は、ひとびとの心を動かさない。そこには理解しかない。

それは小説としての失敗か。言いたいなら、言わせておけばいい。

それは小説としての成功か。わたしにはまだわからない。

物語的フィクションは、キャラクタとの情動的なつながりによって特徴づけられる。少なくともおおかたの意見はそうだ。では、情動的な切断を行う物語的フィクションは何を目指せるのか。草野原々の「幽世知能」を読むと、わたしはこの疑問に駆られる。

f:id:lichtung:20190620173234j:image

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫 JA エ 2-2)

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫 JA エ 2-2)

 

内容

キャラクタAの行為の理由、感情の理由が自由エネルギー原理に基づいてA自身によって語られる。読者はキャラクタTとともにその理論を受け入れれば、Aが理解できる。

だが結末に至るキャラクタTのAに対する行為と感情の理由を推測するに足る情報はその語りの時点では示されておらず、読者はTを理解できない。

一見もっとも理解できないキャラクタが理解可能になるが、他方で語り手に対してはより理解し難さが増す。

と、冒頭に戻ると、そこに語り手の行為の理由ははっきりと答えられている。とはいえ、わたしは彼女を理解できていない。読者はキャラクタを理解できない。理解の不可能性を味わう。

達成

彼女たちは互いを理解した。なぜ理解できているのかを読者は形式的に理解できる。しかし、読者は彼女たちがどのように理解しあっているのかを実質的に理解できない。最後に導入された幽世知能による解決は、キャラクタ達の相互理解を形式的に理解しつつ実質的に理解できない読者を可能にしている。

キャラクタだけに与えられたキャラクタ同士の相互理解を、読み手としてのわたしたちは理解できるが理解できない。わたしたちが実質的に触れられない関係性をただ形式的に理解する点に理解不可能な味わいがある。

反復

この記事の冒頭に戻る。この物語は、物語的フィクション一般が目指すような、キャラクタとの情動的つながりを意識的に切断している。とすれば、読者は求めていたものの行方不明に驚く。

だが、驚くべきなのは読者なのかもしれない。なぜわたしたちは存在しないキャラクタたちの関係性に情動的につながれると思ったのだろうか。なぜわたしたちは、その関係性を覗き見、それに部分的にせよ同一化、共感、同情できると思ったのだろうか。

草野にとって、小説は、情動を感染させ、同一化をもたらす透明なメディアではない。草野は、小説の不透明さと、虚構世界への読者のアクセス不可能性を模索しているように思える。

その試みは、正直に言って、未だ途上だ。草野の物語と草野が物語に組み込む抽象的な理論は、キャラクタへのアクセス以前に、物語へのアクセスを困難にさせる。これが草野の意図なのかわたしにはわからない。だが、キャラクタへのアクセス不可能性によって独特の鑑賞経験をもたらすことを目指すのなら、少なくとも物語へのアクセスをより簡便にすべきではないか。

痛みと未来

草野原々の作品の特徴は、その痛みと身体にある。わたしは、この点に草野のまだ見ぬ可能性を見出す。

草野の作品は、その痛みやひじょうに身体的な苦痛の生真面目な描写によって読者を揺さぶる。すなわち、部分的にせよ、キャラクタへのアクセス可能性を夢見させる。それは、情動的なつながりを可能にする。だが、それは、とても厳しく、痛みに満ちたつながりだ。

草野の痛みの描写に、わたしは、草野の、キャラクタへの生真面目で清廉な態度を垣間見る。わたしたちはキャラクタとつながることはできる。だが、それは痛みというごく限られたアクセス回路によって。わたしたちは、痛みによってのみキャラクタと同一化できる。

この痛みの倫理をわたしは好ましく思う。草野が次にどのような作品を発表していくか、想像もつかない。草野自身が気づいているのかわからない。いずれにせよ、ここに、草野原々の描く痛みに惹きつけられる者がここにいることを記す。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「草野原々「幽世知能」:理解不能、切断、痛み」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/2019/06/20/草野原々「幽世知能」:理解不能、切断、痛み>.