Lichtung Criticism

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表現と行為:表現行為論、芸術と政治、芸術倫理学

はじめに

表現を用いて行為を行うとはどういうことか。本稿では、J・L・オースティンの『言語と行為』における言語行為論を拡張した「表現行為論」のスケッチを行う。表現行為論は、「発表行為」「発表内行為」「発表媒介行為」の三つの概念を軸に、芸術作品や表現一般を用いた行為を分析する。本稿では、表現行為論の素描ののち、芸術作品や表現一般がいかにうすくとも持ちうる行為としての側面に注目することで、それらがある種の政治とは切り離し難いものであることを指摘する。そして、表現行為論から、芸術表現の倫理を問う「芸術倫理学」の思考可能性を議論し、さいごに、表現行為論に代表される哲学、美学における概念が実践にどのような寄与をなしうるのかについてふれる。

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1. 言語行為から表現行為へ*1

言語行為論とは何か。英米圏の哲学において著名な哲学者、J・L・オースティンの言語行為論の核となるイメージは、発語は、それ自体で何かを変化させうる行為である、というものだ。船主が「この船をクイーン・メリーと名づける!」と言って祝いの酒を叩き割るとき、それは名前の記述ではなく––––それ以前にその船には名前がない––––「名づけ」という行為そのものである。この発語によって遂行されうる行為があり、達成されうる事態がある。

オースティンによれば、言語行為は三つの性質を備えうる。第一に、「発語行為(locutionary act)」、第二に、「発語内行為(illocutionary act)」、そして第三に、「発語媒介行為(perlocutionary act)」である(Austin, 1962, ch. 6, 7)。発語行為とは、その発語という行為そのものである(「シオ、ソコニアル?」という音声を発声すること)。つぎに、発語内行為とは、発語によって成立する特定の行為(「依頼」)である。さいごに、発語媒介行為とは、その発語によって引き起こされた行為(「塩を取ってもらう」)である。

次に、この言語による行為から、非言語による行為へと議論を拡張しよう。

哲学者ジェニファー・ソールが指摘するように、発語内行為は、それが言語的なものであれ、非言語的なものであれ、つねにその都度行われる行為である(Saul, 2006, p. 236)。

たとえば、ここに「I do」と書かれたカードがあるとする。このカードは、それ自体では発語内行為を行えない。ただの物言わぬカードだ。だが、特定の文脈において、たとえば、取り調べ室での自白の際にあるひとがこれを提示したなら、それは「確認」といった発語内行為であるし、また、結婚式で神父の結婚の誓約を尋ねられたときに用いれば、「宣誓」という発語内行為となりうる、さらには、子どもを誘拐した犯人が被害者の親にこのカードを送りつけたなら、「脅迫」という発語内行為を行いうる(cf. Saul, 2006, p. 235)。

それでは、これが文字が書かれたカードではなく、特定の画像のみであればどうだろうか。少なくともオースティンの理解においては、非言語的発語内行為がありうる。

オースティンが『言語と行為』において主題的に取り扱ったのは、発された言葉であった(Austin, 1962)。だが、彼は、発されない言葉もまた、発話でありうるとみなしている(Austin, 1962, p. 60)*2。さらに、文字から離れて、非言語的な発語内行為は可能であると述べている。

……たとえば、警告する、命令する、指名する、譲渡する、抗議する、謝罪するといったことも非言語的な手段でできるが、これらは発語内行為である……。抗議というものは鼻に手を当てる軽蔑のしぐさ(snook)をしてもできるし、トマトを投げつけてもいいわけだ。(Austin, 1962, p. 118)

非言語的発語内行為においてもそれらが特定の文脈において行われる点では同様である。乾いた米を相手にぶつける、という行為は、多くの場合「侮辱」という発語内行為を成立させうる。だが、同じ行為が結婚式で適切に行われたなら、「祝福」という発語内行為を成立させうる。言語的にせよ、非言語的にせよ、発語内行為は、つねにその都度、特定の文脈のうちで遂行されうる。

たとえば、差別的な表現の画像は、それがある状況において提示されることで特定の行為となる。差別を意図する者が、その画像を、その画像が差別する集団に見せつけるという行為を行う際には、その画像があからさまに差別を描写的内容や態度としていることが被差別者に理解されるとき、「侮辱」「脅迫」といった行為を遂行しうる。だが、その画像そのものは、提示されなければいかなる行為も遂行しえない。逆に、「I do」のカードの例のように、画像の表現はそれが用いられる際の特定の行為と関係している。

この観点を手がかりに、言語表現には限定されない表現一般についての行為論を考えることができる。そのスケッチを行おう。

2. 表現行為論––––発表行為、発表内行為、発表媒介行為

ある表象作品、音楽、彫刻、ビデオゲーム、アニメーション、映画はそれ自体として行為ではない。それは物言わぬモノだ。それらが特定の行為となるのは、特定の再生や提示においてである。作品は、それが再生、提示、鑑賞されたときにはじめて特定の行為として成立しうる。まず、これらの個別の行為を、「発表行為(expressionary act)」と呼べば、発表行為において、ちょうど言語行為論における発語内行為と同様、様々な行為、「侮辱」「脅迫」「賞賛」などを遂行しうる。これらの発表行為において遂行される行為を「発表内行為(ilexpressionary act)」と呼び、それによって引き起こされる行為を「発表媒介行為(perexpressionary act)」と区別する。これら三つの発表行為、発表内行為、そして、発表媒介行為を扱う枠組みを、わたしは「表現行為論(expression-act theory)」と呼ぶこととする*3

第一に、発表行為とは、特定の文脈で特定の作品や表現を展示、提示、再生する行為である。たとえば、ある展覧会である少女の像を展示すること、ダンスを踊ること、身ぶりや指さしをすること、LINEで返信のためにハートマークや笑顔のスタンプを送ること、カラオケで気になるあのひとに向けてラブソングを歌うこと、ミーム画像を友人に見せること。ある雇用主にクビにされた怒りから元従業員がその雇用主娘の写真を雇用主に大量に送りつけること、さらには、差別行為として、特定のカテゴリに属するひとびとをカリカチュアした画像を送りつけたりプラカードを見せつけることである。

第二に、発表内行為とは、特定の文脈で行われて発表行為において遂行される行為である。少女の像の展示は、なにかを「表明」したり、「異議を唱える」行為でありうる。特定の場所でダンスを踊ることは、それが風営法によってある条件でのダンス営業を規制されていた時点では、抗議の発表内行為でありうる。返信のスタンプは、親愛の伝達や表明であり、カラオケであのひとに向けてラブソングを歌うことは、婉曲であれ「告白」の行為であり、また、雇用主に娘の写真を送ることは「脅迫」の行為であり、戦争の必要を叫ぶひとびとにピカソの『ゲルニカ』を提示することは「批判」「反対」「警告」の発表内行為でありうる。また、差別行為を意図して特定のカテゴリに属するひとびとにカリカチュアを見せつけたり送りつけることは、「侮辱」「下位づけ」の発表内行為でありうる。

第三に、発表媒介行為は、発表によって引き起こされた行為である。もし発表内行為がなんらかの行為を引き起こすなら、それが発表媒介行為だと言える。たとえば、戦争への反対の行為としての『ゲルニカ』の提示があるひとやひとびとが戦争への賛意を示すことを取りやめたりすること、あるいは、カリカチュアを見せつけられたひとびとが萎縮し、なんらかの行為を取りやめたりすることである。

表現行為論は言語行為論を拡張したものであり、様々な表現行為のうちのひとつが言語行為である(図1)。

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図1 諸表現行為論と言語行為論

オースティンが丹念にそのふるまいを調べたのは言語であり、わたしたちは、言語を人間の表現行為のもっとも際立ったひとつとみなしうるが、しかし、人間は言語以外にもゆたかな表現行為を行なっている。たとえば、イラストを用いたデモやミームを用いた会話などの画像を用いた表現行為としての画像行為論、カラオケや特定の式典、ライブパフォーマンスにおけるような音楽を用いた表現行為としての音楽行為論、あるいは、演劇における演技を用いた表現行為としての演技行為論などを考察することができる。

わたしは、オースティンの発想に基づきつつ、言語に限定されない人間の表現という行為を分析する表現行為論を展開していくことを目指している*4

3. 芸術と政治の切り離せなさ

上でスケッチした「表現行為論」の枠組みを用いることで、芸術作品や表現一般が発表行為であることがはっきりと理解できる。

芸術という制度、芸術作品、美的なもの、絵画や音楽などを使って言論活動、政治活動、表現活動をすることそれ自体はよくもわるくもない。人間はしてきたし、していくだろう(できなくなることはあるだろうし、できなくさせられてきた長い歴史があるが)。

もしおしなべて芸術や表現を使って特定のイデオロギを表明したり批判したりすることそれ自体が批判されるべきなら、もっとも身近で、美的にゆたかな芸術的なメディウムとしてのこの「言葉」すら使うことを批判されることになってしまう。それを誰も望まないだろう。

音楽、絵画、ダンス、彫刻、ビデオゲーム、アニメーションを使って言論活動できるししている。どんなうすい意味でも表現の提示とは、提示すること自体がひとつの行為であり、何かを伝えるのみならず、勇気づけ、駆り立て、命じ、説得し、批判する行為であり、いくばくかの政治の色を帯びている。なぜなら、いかなる表現の提示もそれが表現である限り、発表行為であり、そして、「奨励」「命令」「非難」などの発表内行為を遂行しうる。そして、そうした発表内行為は実際にひとびとの行為を変え引き起こす発表媒介行為をもたらしうる。

4. 芸術倫理学の試み

表現行為論の枠組みは、芸術表現の倫理を問う、いわば「芸術倫理学」を考えるための有用な手がかりになりうる*5。これまで芸術の倫理的問題を問う重要な視座のうちのひとつは、その芸術表現の「倫理的態度」を問うものである。

代表的な立場として、分析美学者、哲学者のベリズ・ゴートの議論を取り上げる。ゴートは、ある作品が倫理的に問題のある作品となるのは、それが、特定の倫理的に問題のある態度を提示していたり、そうした態度を是認するように鑑賞者にはたらきかけるためだと指摘した(Gaut, 2007, p. 68)。この点について分析美学者の森功次は次のように整理している。

倫理的に悪い行為を描写する作品が、即、倫理的に悪い作品となるわけではない……殺人者の葛藤を描くことで観賞者に倫理的反省を求める作品は、むしろ倫理的に善い作品とみなされるべきである。ゴートは倫理性を査定する基準として、作品が芸術的手法(artistic means)を通じて示す倫理的態度が作品の倫理性を決定する、という考え方を提出している。これに従えば、たんに盗み・殺人の場面を描くだけでは、作品は非倫理的な作品にはならない。また、募金する人間が登場するだけで、倫理的に善い作品ができあがるわけでもない。重要なのは作品の再現内容ではなく、作品が芸術的手法を通じて示す倫理的態度––––たとえば、〈金儲けのための農薬大量使用を許すべきではない〉という価値観を是認(endorse)したり、その価値観の是認を観賞者に要求したりといった態度––––である。(森, 2011, p. 96)*6

ゴートらの指摘は、代表としては、ある芸術表現に関する是認を指摘しているが、本稿が指摘したように、芸術表現を含む表現一般は、是認の他にも様々な行為、発表内行為を遂行しうる。そこで、ある芸術表現が倫理的に問題となりうるのは、それがどのような発表内行為を遂行しているか、というより広い意味でのいわば「倫理的行為」の観点から分析しうる。

ゴートらがただしく指摘するように、たんに芸術表現の内容としての発表行為のみならず、その発表行為においていかなる発表内行為が遂行されているのかを問うことで、ある芸術作品の倫理的価値を十分に問うことができる。一方で、ある芸術作品、たとえば映画は、暴力的な内容を提示する発表行為であるものの、しかし、その発表内行為は、特定の社会問題を指摘し、それを非難する発表内行為を行なっているなら、むしろ、倫理的にはポジティブな表現としてみなされうる。他方で、べつの映画は、その発表行為としてはとても幸せな異性愛カップルからなる家族の物語を描いていても、はしばしの表現から、全体に特定のエスニシティやマイノリティに対して差別的な下位づけや暗黙の非難といった発表内行為を遂行しているような作品がありうるとすれば、それは、発表内行為のレベルにおいて倫理的に問題のある表現として指摘しうるだろう*7

ただ、ある発表内行為がなぜわるいのかについては、さらなる議論が必要である。ひとつのアプローチは、発表内行為が、ある集団や個人に対する社会的な理解へと影響を与え、望ましくない社会状況を形成することからその発表内行為の倫理的問題を問うアプローチだ。この点については本稿では議論できない。拙稿「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」のとくに第三節と第四節を参照してほしい。

5. 手前から考えること

表現を用いた行為のわるさやよさについて、わたしたちは思うほどよくわかってない。表現の提示が「プロパガンダ」であるとは何を意味するのか、「心を踏みにじる」ことができるのか、その理解の適切さは問いうるか。表現の提示に公的資金が投入されるべきかの手前で表現使用のメカニズムが問いうる。わたしたちは表現の行為についてわかっていない。表現の適切さやメッセージを理解して議論し合うためには、表現を用いた様々な行為のあり方そのものについて考え学び合うことが必要だろう。そのために、美学が貢献できることはかなり多くのものがある。

ある表現に対して過剰な反応がもたらされるのは、一方でイデオロギの違いで、他方で、わたしたちが芸術作品や表現の行為をある程度適切に理解するための知識や枠組みを持たないから。わたしたちは何となくどんな表現も読み解けると思う。適切なカテゴリ、歴史的理解など複雑な理解の枠組みなしでは不可能なはずなのにもかかわらず。

ある表現の提示に対して、反対者と擁護者が同じ理解について語っているのかどうかから考えるべきだ。「あたまだいじょうぶ?」と言う発語が、一方では「頭に外傷を受けてないか?」と理解され、他方に「あなたの判断能力は支障をきたしてないか?」と理解されるとき、その時点で議論は成り立たなくなる。

表現の是非の議論以前に、表現についてわたしたちのある程度適切な理解に美学が役立つだろう。そのひとつとして、本稿が議論した表現行為論がある。

現時点では表現行為論の内実はかなりうすいことを認める。だが、おおまかにせよ、芸術作品や表現の内容のみならず、それがどのような行為を行なっているのかを分析する枠組みとして有用なものだとわたしは考えている。ほんとうの理論の有用さは、これを美学に適用してようやく確かめられる。

おわりに

芸術や表現がたんなる芸術や表現にとどまることはありえない。どんなに薄いものであろうと、表現一般はつねになんらかの行為である。芸術や表現を政治や行為から分離しようとする言説がみられることを考えると、表現における行為の側面は見逃されやすいのだろう。だが、表現行為論を手がかりに、これから、芸術作品を含む様々な表現がどのような行為を遂行するのかが分析されなければならない。特定の発表行為や発表内行為が適切に行われる条件とは何か。表現の適切な理解とは何かが問われる。こうした作業は、表現をめぐる苛烈な議論の手前で、その議論に参加するひとびとの前提を明白にし、より実りのある議論を可能にするだろう。わたしは美学者として、表現をめぐるひとびとの活動をよりゆたかなものにするために、概念のインフラ整備を行うことを通じて、社会をよりよいものにするために活動していく。

難波優輝(分析美学と批評)Twitter: @deinotaton

引用例

難波優輝. 2019. 「表現と行為––––表現行為論、芸術と政治、芸術倫理学Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/howtodothingswithexpressions>.

参考文献

Austin, J. L. 1962. How to Do Things with Words. Oxford University Press.(飯野勝己訳『言語と行為––––いかにして言葉でものごとを行なうか』講談社、2019年).

Gaut, B.  2007. Art, emotion and ethics. Oxford University Press.

Giovannelli, A. 2007. “The ethical criticism of art: A new mapping of the territory.” Philosophia, 35 (2), 117-12.

森功次. 2011. 「作品の倫理性が芸術的価値にもたらす影響:不完全な倫理主義を目指して」『批評理論と社会理論〈1〉』叢書アレテイア13号、93-122.

森岡正博. 2019. Tweet. <https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1157845227203256320?s=20>. (2019/08/04閲覧)

ナンバユウキ. 2018. 「芸術と倫理、倫理的批評」Lichtung, <http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/04/07/芸術と倫理、倫理的批評>.(2019/08/04閲覧)

難波優輝. 2019. 「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」2019年度哲学若手研究者フォーラム、<https://researchmap.jp/mu7d22v55-2580832/#_2580832 >.(2019/08/04閲覧)

Saul, J. 2006. “ix—pornography, speech acts and context.” Proceedings of the Aristotelian Society, 106 (1), 229-248.

訂正

2019/08/06:第一節のAustinの引用と理解に関する点の訂正。

*1:本節は拙稿を参照せよ(難波 2019, §2)

*2:この点は以前の版では引用と理解の誤りがあった。以前は「彼は、「発されない言葉」(たとえば「猛犬注意」などの看板)もまた、発語行為かどうかは別として、発語内行為でありうるとみなしている(Austin, 1962, p. 60)。」と述べていた。しかし、(Austin, 1962, p. 60)では、「書き言葉」による発話の例示をしているだけである。そのため、「猛犬注意」の例はこの引用表記では用いるべきではない(もし対応させるなら、(p. 62)と参照すべきだった)。加えて、「書き言葉」による「発話内行為」の例示とは言えない。そのため、(1)例示と引用頁の対応の誤りである。(2)「発されない言葉」が発語内行為でありうるとみなした、とオースティンが提示した、との理解に対応する引用頁としては誤りである。加えて(3)「発されない言葉」という表記は引用頁と対応しているようにみえ誤解を招くため、括弧を消去した。訂正し、訂正したものを本文に記載する。(2019/08/06訂正)

*3:これらはラテン語の「exprimere/exprimo/expressi(搾り出す、押し出す、模倣する、述べる)」に由来するわたしの造語である。“expressionary(イクスプレッショナリ)”、“ilexpressionary(イリクスプレッショナリ)”、“perexpressionary(パイクスプレッショナリ)”などという耳障りな奇妙な言葉は存在しない。

*4:本稿ではまったく触れられないが、とくに、発語内行為においてもそうであるように、発表内行為の成立に関する議論、それぞれの発表内行為において、その際に慣習がどの程度必要かどうかなどを分析、整理する際には、かなりの作業と議論が必要だろう。わたしはその作業を部分的にとどまるにせよ進めていくつもりがある。具体的に言えば、修士論文「ポルノグラフィと社会的公正」の議論において、ポルノグラフィを表現行為論から分析する作業の中で、特定のポルノグラフィが特定の発表内行為(「侮辱」「下位づけ」など)をどのような慣習や条件において行いうるかを分析するつもりである。

*5:「芸術倫理学」の表現は、森岡(2019)の次の発言に由来する。

*6:原文の引用表記を一部省略。

*7:ただ、倫理価値づけの対象となりうる芸術表現の側面は、その制作の倫理的問題をはじめ多面的である。この点については、Giovannelli(2007)および、ナンバ(2018)を参照せよ。