Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

作画崩壊の美学

はじめに

DIESKEによる「作画崩壊の形式的な分析に向けたノート」は、「「作画崩壊」概念の実相を描きだすこと」を目指し、前半では、作画崩壊をめぐる言説を整理し、この概念がある作画を作画崩壊かあるいはそうでないかを分類するための「分類概念」としては定式化困難であることを示し、後半では、ヴァルター・ベンヤミン の「理念」という概念を手がかりに、この概念を捉える作業を行なっている(DIESKE 2019)。

この作業は、しばしばアニメーション鑑賞者のあいだで議論の的になるような「作画崩壊」という概念を分析的に明らかにする試みとして、さらに、作画崩壊精神分析的に捉え直そうとする試みとして、美学的にひじょうに興味深いものである。わたし自身、これまで作画崩壊を哲学的に考察したことがなかったが、触発され、いくつかのアイデアが浮かんだ。

本稿では、DIESKE(以下著者とする)の主張を参照しつつ、著者が行かなかったルートを進む。第一に、「作画崩壊」と呼ばれる事象を「崩れ」概念と達成への貢献の概念から特徴づけることで、弱い分類概念として定式化可能であることを示す。第二に、著者が指摘した作画崩壊のある種の美的価値について、「機能不全の笑い」をキーワードに考察する。そしてさいごに、作画崩壊の美的特徴を一般化して、「ミス」によってもたらされる特有の美的価値について、ビデオゲームにおける「バグ」を例に考察する*1

本稿は、作画崩壊を、特定の標準から逸脱する画像、「ミスピクチャ」として定義し、それがなぜ特有の「笑い」をもたらすのかを分析し、さらに、それを敷衍し、ビデオゲームのバグを例にとりつつ、「ある種の崩れによって特有の美的価値を持つ」対象を「ミスワーク」として定義し、作画崩壊とミスの美学を分析美学の視座から展開する。

  • keyword:作画崩壊、崩れ、ミスペインティング、ミスワーク、バグ、笑い

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1. ミスピクチャとしての作画崩壊

1.1. 崩れの定義

著者は、まず、「作画崩壊を分類概念として定式化するこ〔と〕は困難である」〔〔と〕は筆者による挿入〕ことを示そうとする。ここで、「分類概念」について「確定記述の集合」と定義されている。詳細な解説はないが、議論のために、「分類概念とは、その概念を用いることで、確定的に、客観的に、特定の対象がその概念が指示する特定の集合に属するかどうかを判別できるような概念」と理解しよう。たとえば、「優しいひと」は分類概念ではないだろう。いったいどのような条件を満たせばあるひとはこの概念を用いて、あのひとが特定の「優しいひと」集合に属するかどうかを判別できるのか定かではない。これに対して、「自然数」は著者の意味で分類概念と言えるはずだ。

さて、著者は議論の準備として、まず「作画崩壊をめぐる」論争の構図を次のように描く。

ある視聴者が作画Aを作画崩壊であると主張し、違う視聴者が作画崩壊ではないと反論する。そこで争点となるのはおおむね、以下の二点だ。

(1a)「崩れ」が意図的か/無意図的か。

(1b)「崩れ」が部分の集合としての作品=「物語」に貢献しているか/貢献していないか。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

本稿の目的にとって問題になるのは、ここで、「崩れ」という概念が定義なしに導入されていることだ。著者は、「基調デザインから大なり小なり逸脱しているという意味で作画Aは「崩れて」いる」、あるいは、「アニメーションでは「崩した」作画表現が、意図して導入されることがある。どうしてか。それはキャラクターの感情やスピード感などを強調するうえで、「崩した」作画が効果的な事例があるからだ」としており、常識的にはその意味は理解できるが、本稿で重要な概念のひとつであるため、より正確な定式化を行う必要がある。

そこで、崩れの必要十分条件を定式化しよう。ここで、崩れの必要十分条件とは、「崩れであるためにはその条件を満たす必要があるだけでなく、その条件を満たす場合に必ず崩れでなければならないという条件」である。

「崩れ(collapse)」とは、すなわち、

  • あるアニメーション作品Wの特定の作画が「崩れている(be collapse)」とは、それが次のいずれかの、あるいは両方の条件を満たすような特定のアニメーションの画像*2であるとき、かつそのときに限る。:(C1)作品Wの他のシーンの画像が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような画像である。(C2)作品Wが属するとみなされるアニメーションのジャンルの画像が持つ標準的特徴を持たないような画像である。

たとえば、(C1)について、作品Wの他のほとんどのシーンにおいて、あるキャラクタの顔の作画は、公式のキャラクタデザインに代表されるような作品Wにおける標準的特徴を満たしているとする。ところが、最終話に近づくにつれ、キャラクタの顔の画像はそうした標準的特徴を満たさなくなった。この時のキャラクタの顔の作画は、「作品Wについて」崩れていると言える。

あるいは、作品Wの特定の顔のすべてのシーンのキャラクタの顔の各部分が奇妙な配置(たとえば、つねに、正対する画像であっても、両目の大きさが左右非対称である場合)になっており、しかし、それが、その作品Wの公式のキャラクタデザインに準拠したものである時、(C1)に関しては崩れの必要条件を満たさない。しかし、ここで、(C2)に注目すれば、その作品Wが属するとみなされるジャンルが持つ標準的特徴を満たさないのであれば、それは「ジャンルについて」崩れていると呼びうる*3

ここで、以上の崩れの必要条件は、「記述的(descriptive)」なものだということに注意しよう。ここでは、そうした崩れが芸術的価値をもたらすか否かは判断されていないし、崩れを満たすからといって、特定の価値がすぐさまもたらされるわけではない。崩れはあくまで様々な標準的特徴からの外れである。

1.2. ミスピクチャとしての作画崩壊の定義

著者の議論に戻ろう。ここに著者の提示する論争の構図を再掲する。

ある視聴者が作画Aを作画崩壊であると主張し、違う視聴者が作画崩壊ではないと反論する。そこで争点となるのはおおむね、以下の二点だ。

(1a)「崩れ」が意図的か/無意図的か。

(1b)「崩れ」が部分の集合としての作品=「物語」に貢献しているか/貢献していないか。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

著者は、(1a)は、しかし、意図の読み取りの難しさゆえに判断基準としては有用でないとする。そして、(1b)を取り上げそれに従って議論を進める。ここでは(1a)についてはいったん保留して議論を進めよう。

そして、著者は、論争を行なう「いずれの立場においても議論の前提として(自覚的/無自覚的を問わず)合意されている事柄」として、次の三点の条件を提示する。

(2a)作画Aは「崩れて」いる。

(2b)「作画崩壊」の外延かどうかは「物語」への貢献いかんによって判断される。

(2c)「作画崩壊」は稚拙な作画を内包する。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

この条件の提示において、著者は「物語」への貢献としているが、必ずしも明確に物語をもたないアニメーション作品も含めたいので、アニメーション作品の芸術的達成への貢献としてよいだろう。

ここで「芸術的達成」とは、芸術的価値の達成である。芸術的価値(artistic value)とは、分析美学においていまなお様々な議論が繰り広げられているが、ミニマルな特徴としては、次のような価値Vのことである。すなわち、

  • ある作品Wが持つ価値Vが芸術的価値であるのは、次のとき、かつそのときに限る。ある価値Vはある種の価値Yであり、Vはある作品のメディウム、ジャンル、テーマ、テクニック、展示の様態、芸術種、あるいは、その他の芸術的特徴を介して現実化される。(cf.Simoniti 2018, 76)

ここで、その価値の種類は、典型的な例では、経済的価値でもなく、政治的価値でもないような、ときに美的価値であるような、あるいは倫理的価値でもあるような作品それ自体の価値である*4。そして、特定のメディアを介してそうした特定の種類の価値が現実化されるときに価値Vは芸術的価値と呼ばれうる。そして、芸術的達成への貢献とは、そのような価値の達成への貢献である。

さて、(1b)を引き継いだ(2b)における判断の際に用いられている作画崩壊概念は、明らかに、「評価的(evaluative)」な概念であることに注意しよう。著者が指摘するように、作画崩壊」という概念は、「崩れ」という記述的概念のみならず、その「崩れ」が作品の芸術的達成に貢献しているかどうかという評価的概念として用いられている。すなわち、作画崩壊とは文字通り、作品の達成の「崩壊」を招くような作画なのだと理解される。

ここで、著者は、ゆえに、「作画崩壊」概念は「確定記述の集合という意味での分類概念として定式化することは困難」だとして、ベンヤミンの「理念」を用いた議論を行う。本稿では以降の議論に本格的には立ち入らない。

著者が指摘するように「作画崩壊」概念は、なるほど、数学的集合のように属するものとそうでないものを確定的に分けられる概念ではない。「「作画崩壊」に含まれるか否かを識別する基準が主観的であいまいとなれば、「作画崩壊」は分類概念とはもはやいえまい」との結論は、分類概念の定義上正しい。

しかし、「作画崩壊」は著者の意味での確定的な分類概念ではないにせよ、一般的な意味では、特定の作画が作画崩壊か否かを判別することができるような、実践的な意味での分類概念、あるいは弱い分類概念でありうる。

まず、実践において用いられる概念の多くは、著者の要求を満たすことはできない弱い意味での分類概念だろう。たとえば、「芸術」「精神病」「存在」といった概念は、実践的には使用されているものの、「確定記述の集合」ではありえない。そうであれば、著者がこの概念を「理念」として捉えるのとはべつの概念的改訂を行う可能性も残されている。

作画崩壊という概念は、わたしが上で定式化した崩れの条件と、著者が整理した貢献条件を組み合わせれば、ある程度の粒度をもった必要十分条件を伴う概念として、弱い分類概念として定式化できる。

  • 次のふたつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、あるアニメーション作品Wの特定の作画は作画崩壊している。:(1)その作画が崩れている。かつ、(2)その作画が作品Wの芸術的達成に貢献していない。

わたしは、作画崩壊のニュアンスが揶揄的なものであるために、それをたんに「ミスピクチャ(mispicture)」と呼びたい。くどくなるが、再定式化すれば、

  • 次のふたつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、あるアニメーション作品Wの特定の作画はミスピクチャである。:(MP1)その作画が崩れている。かつ、(MP2)その作画が作品の芸術的達成に貢献していない。

この「ミスピクチャ」概念は、たしかに、記述的のみならず評価的ではあるが、しかし、(MP1)と(MP2)のふたつの条件を満たす特定の作画についてある程度以上客観的な基準をもった弱い分類概念として使用可能だろう。

ここで、次の想定反論が考えられる。(MP2)の貢献条件は主観的なものであり、弱い分類概念ですらないのではないか。という反論だ。たしかに、特定の作画がその作品の芸術的達成に貢献しているかどうかは、その作品をどのように解釈し価値づけるかと密接に関わっている。問題は、芸術的達成の客観的条件をどの程度担保できるかになる。

こうした芸術的達成の客観的条件はウォルトンが提示したカテゴリに基づいて提示可能だろう(Walton 1970; cf. Carroll 2009)。たとえば、スプラッタシーンで満ちた映画は、スプラッタホラーとして、そのカテゴリにおいて高い達成を行なっているが、ロマンス映画として知覚した時、明らかに低い達成しか行なっていないと判断されるだろう。同様に、あるアニメーション作品Wの作画がその作品の芸術的達成に貢献しているかどうかはその作品が属するカテゴリに基づいて部分的にせよ判断できるだろう。

たとえば、その作品が既存のジャンルにはまったく属さないような新たな前衛的なアニメーションであれば、それが一見属するようにみえたカテゴリからは逸脱しているために、条件(MP1)を満たしていたとしても、(MP2)を満たさない場合がある。つまり、そのカテゴリにおいての達成に貢献している場合がある。このように、カテゴリに基づけば(MP2)についてもある程度客観的な条件を提示することができる。ゆえに、「作画崩壊」の基準は主観的であいまいであるとは限らない。

したがって、以上より、作画崩壊を弱い分類概念として定式化することは可能である。その定式化は、作画崩壊の概念使用の実践をある程度は救っているとわたしは考える。ミスピクチャ/作画崩壊概念は、たしかに、著者が定義づけるような分類概念そのものではないが、実践には十分有用な概念として用いることができるだろう。

2. 作画崩壊の美学

以上の議論は、著者がそのあとに行う精神分析的な作画崩壊の考察とは必ずしも対立するわけではない。だが、おおきく二点指摘しておきたいことがある。

2.1. 概念と道具

第一に、ミスピクチャとして作画崩壊を理解した場合、ベンヤミンの「理念」概念を導入するかどうかは選択可能なものになる。

ミスピクチャ概念は、崩れの必要十分条件と、芸術的達成の貢献から作画崩壊を定式化可能であり、そして、こうした単純な概念的道具立てですむなら、そちらのほうが作画崩壊概念を用いる際に理解しなければならない前提や概念を節約でき、より実践に使いやすいと考える者にとっては、本稿のミスピクチャとしての作画崩壊概念も概念的道具として持っておいても損はないだろう。もちろん、精神分析的考察への繋げやすさの関連もあり、一概に概念の節約性が美徳とされるかどうかは使用者によって異なるだろう。

2.2. 機能不全の美的価値

第二に、作画崩壊の価値に関連して。ミスピクチャは、たしかに、その作品の芸術的達成を時に阻害するが、しかし、それが特定の美的価値を持たないわけではないミスピクチャは笑いを誘う場合もある。先に言っておけば、ミスピクチャは、「本来の機能を果たさないことによる美的価値」を持ちうる。こうした笑いについてひとつの議論をみてみよう。

笑いに関する哲学において、「不一致説(incongruity theory)」が有力な説のひとつとして提示されている。ここで不一致説とは、一般に想定されるパターンの裏切りによって笑いがもたらされうる、という理論である。ユーモアの美学研究者であるジョン・モレオールは、『コミックリリーフ(Comc Relief)』(2009)において、この理論にふれ、つぎのように説明している。彼によれば、この理論は、

人間の経験が学習されたパターンに沿って働くという事実に基づいている。わたしたちが経験したことは、わたしたちが経験するものに対処するための準備になる……。ほとんどのばあい、経験は上述のような精神的パターンに従う。〔こうして〕未来は過去のようになるのだ。しかし、ときどき、わたしたちは、あるものの部分や特徴がこの精神的パターンに違反するものを知覚あるいは想像する。 (Morreall 2009, 10–11)

わたしたちは過去の経験を用いて未来を想定する。ボールは投げれば落ちてくるのであり、がたいのいいライオンはおそろしい。だが、投げたボールがどこまでも浮いてゆけば、ライオンがかわいらしく腹を見せれば、ユーモラスになる。この違反こそが笑いをもたらす。モレオールはこんな例をあげている。

ぼくは猫が好きだ。かなり鶏肉に近い味がするしね。(ibid., 51)

「猫が好き」の想定される意味は、その見た目やふるまい、性格の愛らしさにかんする好意だろう。だが、その想定は違反され、「味」にかんする意味であると判明し、笑いが起きる。つまり、既知の「精神的なパターン」が裏切られることによって笑いがうまれる(ナンバ 2018)。この不一致説から、ミスピクチャがなぜ笑いを誘うのか分析できるかもしれない。

ミスピクチャは、崩れの条件、すなわち、(C1)作品Wの他のシーンの画像が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような画像、あるいは(C2)作品Wが属するとみなされるアニメーションのジャンルの画像が持つ標準的特徴を持たない、という条件を満たすことで、第一に、作品Wの、あるいはその作品Wが属するようにみえたジャンルの標準的特徴を裏切り、さらに、それが本来貢献するはずの作品の芸術的達成に貢献せず、むしろ作品の達成を「崩壊」させるという二重の裏切りによって、本来の機能が果たされないことによってなんとも言えない脱力性の笑いや微笑みを誘う。こうした機能不全の笑いの例として、わたしは、芭蕉連句にみられるような「をかしみ」を思い出す。

そのままに転び落ちたる升落とし   去来

ゆがみて蓋の合はぬ半櫃  凡兆

作品Wがそもそもそれほどの芸術的価値をもたなかったとしても、その作品におけるあるミスピクチャの言い尽くせぬ機能不全のおかしみによって、そのミスピクチャのみがネットミームとして生き続けるということもあり得る話だろう。

3. ミスの美学

以上の議論によって、ミスピクチャとしての作画崩壊についての特徴づけを行なうことができた。しかし、ミスピクチャに関して、以上では、その「意図」に関する議論を行ってこなかった。以下では、ミスピクチャに関する意図の概念について考察するなかで、この概念を敷衍し、より一般的な崩れに由来する現象を分析する。

第一に、ミスピクチャ概念と意図概念から、ミスワークという概念を提示し、第二に、ビデオゲームにおけるバグを取り上げ、それがミスワーク概念からどのように説明できるのかを考察する。

3.1. ミスワーク

ミスピクチャの美的価値の一部は、それが意図せざる結果によってもたらされているという否定形の意図条件を満たすことで生み出されていると考えられる。もし、ミスピクチャの条件を満たす画像があったとして、それが意図的に作られたものである場合、すなわち、意図的なミスピクチャである場合、非意図的なミスピクチャが持つ、奇妙な形態や、なんとも言えない表情が「指示のミス」あるいは「納期の厳しさ」もしくは、「設定ミス」から生まれた、というネガティブな由来からもたらされる美的価値を持たないように思われる。そして、非意図的なミスピクチャがもたらす「をかしみ」も、そのミスピクチャが、どうにもならない事態や様々な条件の欠乏に由来するのではなく、意図を伴ってもたらされているのだとすれば、くさみのあるつまらないものになるだろう(cf. 松永 2017)*5

したがって、ミスピクチャの典型的な美的価値は、ミスピクチャの条件を満たし、かつ、制作者が、それがミスピクチャであることを意図せずに作られたものであること、という、否定形の意図条件を満たしてはじめてもたらされるもののように思える。

こうした否定形の意図条件を満たすミスピクチャのような制作物を、「ミスワーク(miswork)」と呼ぶなら、ミスワークはミスピクチャのみならず、ビデオゲームのバグ、演奏のミスタッチ、失敗したクッキーなどを含みうる。すなわち、

  • 次のみっつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、ある作品Wの特定の要素はミスワークである。:(MW1)その要素が崩れている。かつ、(MW2)その要素が作品の芸術的達成に貢献していない。かつ、(MW3)(MW1)と(MW2)とが制作者の意図なしに達成されている。ここで、ある作品Wの特定の要素が崩れているとは、それが次のいずれかの、あるいは両方の条件を満たすような特定の要素であるとき、かつそのときに限る。:(C1)作品Wの他の要素が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような要素である。(C2)作品Wが属するとみなされるジャンルの要素が持つ標準的特徴を持たないような要素である。

3.2. バグ

たとえば、ビデオゲームのバグはミスワークの条件を満たすだろうか。

ここで、美術家大岩雄典とゲーム研究者松永伸司によるトークイベント「バグる美術」において次のような示唆的な指摘が行われている。なぜある現象がバグに見えるのかについて、ビデオゲームスーパーマリオブラザーズ』のプレイヤキャラクタである「マリオ」がある時、これまで入れなかったステージのオブジェクトであるレンガに入れるようになったという例を挙げている。

大岩:その現象が起こるまでのゲームプレイで、「レンガに重なる」という状況になったためしがなく、プレイヤーは「レンガは、マリオがどう行動したところで、入らせないようになっている」と学ぶ。現実の人間は土を掘ったりできるけれど、ゲーム内でマリオはそういった行動をとれない。そう把握したあとで、理由はわからなくとも「レンガの中に入ってしまった」ときに、「このステージからマリオはレンガに入れるようになったんだ」とは思わないですよね。そうではなく、何かおかしくなったのだと思う。それまで考えていたルールとそぐわないことが起きてしまったとき、バグに見える

松永:バグというのはとりあえず〈おかしく見える〉んですが、その〈おかしさ〉がどうやってわかるのかと言うと、挙がったように、「今までは通れなかったところへ、何故か前触れもなくいきなり通れてしまった」とき、つまりそれまであったスタンダードから逸脱したことが理由になっている。さらにもうひとつ、マリオというのは人間なので、壁の中を歩けないはずですね。それが画面上では歩けるようになってしまっている。今まで歩けていたかどうかとは無関係に、「人間は壁の中を歩けない」という前提に反している点も、〈おかしさ〉の理由になっている。われわれの世界では壁の中を人間は歩けないけれど、このゲームが見せているフィクション上では歩けてしまっている、という場合は、フィクションを経由して、システム上のバグを認めているケースですね。逆にフィクションとしておかしくはなくとも、今までのルールに反するということでバグが認められることもある。この『スーパーマリオブラザーズ』のケースは、フィクションが効いているケースだと思います。(大岩 2017)〔強調と発言者の表記の変更は筆者〕

ここから、ミスワークの特徴づけがビデオゲームのバグにも応用できることが確認できる。

例のように「キャラクタがレンガの中を歩ける」というバグは、『スーパーマリオブラザーズ』というゲームの標準的なルールあるいはそのフィクションから逸脱している。すなわち、そのゲームの他の要素が持つゲームWにおける標準的特徴(標準的なルールや虚構的真理の集合)を満たさない。

あるいは、ゲームが属するとみなされるゲームジャンルの要素が持つ標準的特徴を持たない。そして、このバグは、このゲームWの芸術的達成には貢献しているとは言えない*6

そして、このバグは制作者の意図にないものである。以上から、ゲームのバグはミスワークである。ミスワーク一般はミスワークであるがゆえに、笑いの他にも、「謎めいた」「不気味な」「狂気じみた」「異様な」といった独特のネガティブな価値や、それをはじめて発見した際の驚きや興奮をもたらしうるだろう。

さらに、ビデオゲームのバグは、スピードランにおけるような「ゲームメカニクスパルクール」とも言うべき遊びを生み出す。パルクールが市街地の本来意図したデザインを利用して組み換え、異なる遊びを見出すのに比して、スピードランのいくつかは、ゲームメカニクスのバグに代表されるミスワークを利用してあらたに作り出された遊びを生み出す(cf. Scully-Blaker 2014)。こうしたミスワークの組み合わせが巧みであるほど、鑑賞者は、特定のスピードランやその記録動画に「機知に富んだ」、あるいは「爽快な」といった概念を帰属させうるだろう。この実践からも確認できるように、ミスワークをめぐる豊かな美的実践が存在し、それらは哲学的考察の対象としてひじょうに魅力的である。そして、そうした実践の記述や分析に際して、本稿のミスワークの特徴づけは概念的枠組みとして手がかりを与えるだろう。

以上、作画崩壊の特徴づけから、ミスワーク一般の特徴づけへと一般化を行い、その例としてビデオゲームのバグを取り上げた。十分な検証はなされていないが、この特徴づけはいままで十分に美学において議論されてこなかったような、作画崩壊からビデオゲームのバグをも含みこむような「ミスの美学(aesthetics of miss)」を考察する有用な手がかりとなるだろう。

おわりに

本稿は作画崩壊概念をミスピクチャとして概念化し、ある程度の分類能力を持ちうる概念として定式化した。そして、機能不全の笑いをキーワードに、ミスピクチャがもたらすおかしみをその特徴づけから考察し、さらに議論を一般化し、ミスワークの概念を提示した。

作画崩壊や、ミスにはまだまだ気づかれていないような哲学的問題がありうるだろう。本稿がそうした問いを問う美学、すなわち「作画崩壊の美学」、「ミスの美学」の手がかりとなれば幸いである。

また、作画崩壊とネットミーム作画崩壊と笑いなどを問う作画崩壊の美学、あるいは、バグなどのミス一般の美的価値や美的経験を問うミスの美学の原稿依頼をお待ちしています。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

Carroll, N. 2009. On criticism. Routledge.

DIESKE. 2019.「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」note、 https://note.mu/daisuke_tanaka/n/na51225b7d26e.(2019/02/25最終アクセス).

松永伸司. 2017. 「バグとフラグの話」9BIT: GAME STUDIES & AESTHETICS、 http://9bit.99ing.net/Entry/77/.(2019/02/25最終アクセス).

Morreall, J. 2011. Comic relief: A comprehensive philosophy of humor. John Wiley & Sons.

ナンバユウキ. 2018. 「高い城のアムフォの虚構のリアリズム––––虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実.(2019/02/25最終アクセス).

大岩雄典. 2017. 「トークイベント「バグる美術」」euske oiwa、 http://www.euskeoiwa.com/texts/20170313_bugmeetsart_talk.html. (2019/02/25最終アクセス).

Scully-Blaker, R. 2014, “A Practiced Practice: Speedrunning Through Space With de Certeau and Virilio.” Game Studies. 14 (1). http://gamestudies.org/1401/articles/scullyblaker.(「〈実践される実践〉:ド・セルトー、ヴィリリ オとともに空間をスピードランする」大岩雄典訳、euske oiwa、 2018年。 http://www.euskeoiwa.com/texts/20181101_speedrun.html.(2019/02/25最終アクセス))

Simoniti, V. 2018. “Assessing socially engaged art.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 76 (1), 71-82.

Walton, K. L. 1970. “Categories of art.” The philosophical review, 79 (3), 334-367.

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「作画崩壊の美学」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/aesthetics.of.mis.picture

*1:なお、著者が第2節および第3節で議論する精神分析的議論には直接立ち入らない。

*2:ここで、画像(picture)は静止画(still picture)のみならず動画(motion picture)も指す。

*3:たとえば、現在の京都アニメーションの絵柄に慣れている者は、『涼宮ハルヒ』の第1期の公式のキャラクタデザインにある程度の違和感を覚えるかもしれない。こうした違和感を抱く者は「現在の京都アニメーション」というカテゴリにおいて『涼宮ハルヒ』第一期を鑑賞しており、この者にとっては、この作品は崩れてみえる。とはいえ、この者がだんだんとこの作品を見続けているうちに、あるいは、この頃の京都アニメーションの絵柄はこれだったな、と思い出すことで、この作品が属するとみなされるジャンルは変更されるだろう。そうすれば、この作品は、「あの頃の京都アニメーション」といいうカテゴリにおいて標準的特徴を満たすし、また、もちろん、その作画の多くは、この作品における公式のキャラクタデザインの標準的特徴をも満たすだろう。

*4:この場合、社会的変革などが価値になりうるようなソーシャリィ・エンゲージド・アートなどを除く。

*5:もちろん、細心の注意を払って、あたかも自然に作り出されたかのようなミスピクチャは、ミスピクチャそのものとしての価値は下がるかもしれないが、そうした技量に由来する高い価値づけはなされうるだろう。

*6:この点は、芸術的達成を制作者の意図に基づけるか否かでどの程度確からしいかが変わってくるだろう。