Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

『ガールズ ラジオ デイズ』––––周波数を合わせて

はじめに

小説、ラジオ、アプリ––––複数のメディアで作品世界を作り上げる作品、「ガールズラジオデイズ」。

ガルラジ*1については短期間にいくつものブログ記事が書かれている(萌黄 2019; Nobu 2019; シノハラ 2019a, 2019b; 鶏七味 2019; yunaster 2019)。本稿では、こうした先行する記述で触れられていた本作のメディアの特徴に焦点をあて、この作品の鑑賞経験の独自性、とくに、その「リアル」な質感がいかにしてもたらされているのかを分析美学を手がかりに問い、そして明らかにすることを目指す*2

本稿の構成は以下の通り。第一に、ラジオというカテゴリに関する議論を行い、それだけでは本稿の問いに答えるには不十分であることを確認し、第二に、メディアの存在論的な特徴に注目する。最後に、共感の概念から鑑賞経験を分析し、前節の議論と総合し、ガルラジがもたらす「リアル」な質感を分析し、明示化する。そして、以上の議論から、十全な鑑賞のためには、ガルラジを、他でもなく、いま、鑑賞しなければならない理由が明らかにされる

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1. ラジオというカテゴリ

ガルラジは、ラジオとして鑑賞される。すなわち、ラジオというカテゴリのもとで鑑賞される。本作はキャラクタ自身や公式HPにも記載された情報に基づけば、そのようなカテゴリのもとで鑑賞されることを前提としている。

しかし、鑑賞者は、しばしば指摘されるように、「明らかに虚構的だが、しかし、どこかでリアルさを感じる」ような独特な鑑賞経験を行っており、他のラジオ番組と同様な鑑賞経験をしているわけではない。この特殊な経験はどのような特徴に由来するのだろうか。

ここで、ガルラジが、ラジオとして鑑賞される作品であり、かつ、物語的フィクションでもあることに注目しよう。

ふつう、ラジオは現実の人物が現実のリスナーあるいは鑑賞者に向かって放送されるノンフィクション作品である。だが、ガルラジにおいては、フィクショナルキャラクタが、しかしフィクショナルであることを部分的に強調せずに、かつ、リアルタイムであるかのように配信を行なっており、それが現実の鑑賞者へと届けられる。

鑑賞者は、現実のじぶんたちに伝達される現実的な情報としてラジオを想像的に聴く。つまり、ガルラジは明らかに物語的フィクションではあるが、ノンフィクショナルなものとして想像的に聴取する。この点に、現実的なラジオとフィクショナルな物語を組み合わせたガルラジの作品としての独自性を見出せる。つまり、ガルラジは、ラジオというメディアを意識的に表現の素材あるいはメディウムとしている点で独自な鑑賞経験をもたらしている*3。とはいえ、この特徴づけは十分にガルラジの独自性を拾いきれているわけではない。

2. 貫世界的メディア

こうしたカテゴリの操作に加えて、メディアに関してガルラジは興味深い試みを行なっている。次にこの点を考察しよう。ガルラジの鑑賞者は、しばしば、アプリにおけるつぶやきがもたらす「リアル」な質感について言及している(シノハラ 2019b)。これはラジオとカテゴリの議論だけでは説明できない。それでは、どのような概念によって説明できるだろうか。

ここで虚構世界と現実世界をまたぐメディアの存在に注目することからはじめよう。

ふつう虚構世界を表象する対象は当の虚構世界には存在しない。たとえば、現実世界には、漫画原作版『ゆるキャン△』とアニメ版『ゆるキャン△』が存在するが、これらのメディアは『ゆるキャン△』の虚構世界内に存在しない。対して、ガルラジにおいては、そのラジオ、アプリは、現実世界のみならず虚構世界にも存在し、キャラクタたちはこれらのメディアに言及することができる。

こうした「ある虚構世界を部分的にせよ表象する現実世界において存在するメディアであり、かつ、ある虚構世界内のキャラクタがその標準的な虚構世界内において言及、関係可能なメディア」を「貫世界的メディア(transworld-media)」と呼ぼう*4

たとえば、〈『ゆるキャン△』の虚構世界に漫画版『ゆるキャン△』やアニメ版『ゆるキャン△』が存在する〉という命題は偽であり、『ゆるキャン△』の漫画、アニメは『ゆるキャン△』に関して貫世界的メディアではない。

これに対して、ガルラジにおいては、〈ガルラジの虚構世界にラジオ番組『ガルラジ』やガルラジアプリが存在する〉は真である。ゆえに、ガルラジにおいてはガルラジのキャラクタを表象するメディアは貫世界的である。

もちろん、こうした貫世界的メディアを持つ作品は珍しいわけではない。たとえば、『指輪物語』の小説の本は、『指輪物語』世界内に存在しているとみなすことは可能だろう。また、『鳩羽つぐ』における「鳩羽つぐ」の動画やクラウドファンディングで提供される鳩羽つぐのVHSや夏休みの日記帳は貫世界的メディアであり、あるいは、『高い城のアムフォ』における動画『高い城のアムフォ』もまたこの作品の主要なキャラクタであるアムフォが言及できる貫世界的メディアである(cf. ナンバ 2018a, 2018c; 難波 2018b)。

こうした貫世界的メディアはおしなべて、ある種の「リアル」な質感をもたらすように思われる。たとえば、先のシノハラが指摘するように、つぶやきを見ることで引き込まれる感覚がある。とはいえ、なぜそのような質感がもたらされるのだろうか。

この点を明らかにするために、次に、「共感」の概念を手がかりに分析を行う。

3. 心は重なり合う

ここで共感の特徴づけにあたってケンダル・ウォルトンの議論を参照しよう。彼は、「共感(empathy)」を、鑑賞者が、現在の心的状態(情動、欲望、信念、意図など)をサンプル(sample)として、ある目標(他人、じぶん、キャラクタ)の心的状態の特定の理解を行うことだとした(Walton 2014, 9)。

たとえば、現実において、ふたりで同じ花を見ていて、あなたが「美しい」と感じ、静かで満ち足りた心的状態である時、ふと隣に立った彼が「美しい」と呟いた言葉を聞き、その穏やかな横顔を見た時、あなたは、彼に一層親近感や結びつきを感じる。そうした結びつきを可能にするのは、あなたが目標である彼の心的状態をその言葉、抑揚、表情から知覚し、そして、その心的状態を自身の心的状態をサンプルに確かに理解したからだ*5。こうした共感を行うことで、あなたは、目標の心的状態を実感を伴って理解できたために、目標との「心の距離」の近づきを感じる*6

さて、話を戻して、この特徴づけから、つぶやきのリアルさを部分的にせよ説明しよう。

重要なのは、共感の際にサンプルとして用いられる心的状態は現在のそれだということだ*7。この時、小説の場合、それを読んでいる際の鑑賞者の心的状態とキャラクタのそれとは、ふたつの異なる世界の異なる時間の上にある。

だが、ガルラジにおいては、つぶやきに代表される、よりリアルタイムに近い表象によって、鑑賞者の心的状態とキャラクタの虚構的心的状態とを(もっとも著しい場合にはほぼ同時に)重ね合わせることができる。鑑賞者はこうした心的状態の同期を行うことで、意識的にであれ、無意識的にであれ、自身とキャラクタのある種の想像的な「心の近さ」と感じるのではないか。そうした「近さ」を感じることで両者の心的な結びつきは強化される*8

加えて、前節の貫世界的メディアの効果はここで発揮される。鑑賞者とキャラクタとがアクセスしている情報は、現実と虚構世界で一致している。ゆえに、鑑賞者の抱く心的状態をキャラクタの虚構的心的状態と重ね合わせる際の精度は一層高まっている。つまり、貫世界的メディアであるアプリにおけるつぶやきが可能にする共感の精度の高さと時間的近さによって、ガルラジのリアルタイムの鑑賞者は、ふたつの心的状態を想像的に、よりリアルに重ね合わせることができる(図1)。

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こうした特徴づけから、なぜガルラジをいま聞かねばならないのかも説明できる。先に指摘した重ね合わせを行うためには、すなわち、ラジオ、つぶやきによって惹き起こされる心的状態をキャラクタの虚構的心的状態と重ね合わせ、ある種のリアルで臨場感のある美的経験を行うためには、この作品をリアルタイムで鑑賞する必要があるのだ

「ガルラジを今すぐ追いかけろ」と誰かが言った(鶏七味 2019)。「2019年はガルラジが来る」との声が聞こえた(yunaster 2019)。タイミングは無限にあるわけではない。「ラジオのアーカイブはラジオではなく、『ラジオのアーカイブ』なの」だ(鶏七味 2019)。「ラジオデイズ」は無限に続かない。2019年のいまだけに『ガールズ ラジオ デイズ』の鑑賞経験は出現している。

おわりに

本稿では、メディアと鑑賞者の心的経験に焦点をあて、ガルラジの鑑賞経験の独自性について考察を行った。

もしまだなら、『ガールズ ラジオ デイズ』のアプリをダウンロード、視聴し、この興味深い試みを鑑賞してみてほしい。あるいは、あらためて鑑賞を行ってみてほしい。その際に本稿の分析が鑑賞経験の深化になんらかの寄与ができれば幸いである。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

萌黄えも. 2019. 「ルラジ」note、 https://note.mu/nadeshiko_yuz/n/ne008bbcd22e5(2019/01/16最終アクセス).

ナンバユウキ. 2018a.「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503.(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2018b.「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン.(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2018c.「『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム——虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実.(2019/01/16最終アクセス).

難波優輝. 2018a. 「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50 (9)、特集バーチャルYouTuber青土社、117-125項.

––––. 2018b.「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号、81-87項. 

Nobu V. 2019.「声優ラジオが好きなオタクへ キャラクターによるラジオ「ガルラジ」を聴いてみませんか? #2019年はガルラジが来る」『浅瀬文書』、http://nobu-v.hatenablog.com/entry/2019/01/12/155838(2019/01/16最終アクセス).

シノハラユウキ. 2019a. 「ガルラジの『ラジオ番組っぽさ』『生っぽさ』について」『プリズムの煌めきの向こう側へ』、http://sakstyle.hatenablog.com/entry/2019/01/14/002843(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2019b. 「ガルラジと『つぶやき』」『プリズムの煌めきの向こう側へ』、 http://sakstyle.hatenablog.com/entry/2019/01/16/000624(2019/01/16最終アクセス).

鶏七味. 2019. 「ガルラジを今すぐ追いかけろ」note, https://note.mu/torishichimeee/n/n659ab001b550(2019/01/16最終アクセス).

yunaster. 2019. 「ガルラジー『ガールズ デイズ ラジオ』が面白い」『yunastrの雑記帳』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/01/03/142336(2019/01/16最終アクセス).

Walton, K. L. 2014. “Empathy, Imagination, and Phenomenal Concepts.” In In other shoes: music, metaphor, empathy, existence. 1-16. Oxford University Press.

*1:以下「ガルラジ」は「ガールズ ラジオ デイズ」を指す。

*2:全体像については、上記のブログが優れた見取り図と現象的記述を与えてくれているためそちらを参照してほしい。

*3:本稿では扱えないが、こうしたリアルさは、声優の演技によってももたらされているだろう。この点については、シノハラ(2019a, 2019b)を参照せよ。

*4:ここで「標準的」とは、CMなどにおいての番組や作品の宣伝の際に、キャラクタが自身を表象する漫画やアニメに言及、関係するような「非標準的」場合以外を指す。

*5:つまり、あなたは、〈彼の心的状態はPである〉という命題的知識に加えて、〈Pであるとは、わたしがいままさにあるこの心的状態である〉という命題的知識にとどまらない現象的な実感を伴った理解を手にしているために、彼の心的状態について深い理解を行うことができる(cf. ibid.)。

*6:あるいは、物語的フィクション、たとえば、ホラー映画において、不気味な人形に追いかけられる主人公に対して、鑑賞者が、恐ろしい音楽や忙しないカメラワークによって惹き起こされた「追われ続ける恐怖」といった、自身の(現実的にあるいは想像的に)抱いている情動をサンプルとして、主人公の表情や息遣いから、彼女が現在鑑賞者がある心的状態にあると理解する行為が共感と呼ばれる。こうした共感に基づいて、そうしたキャラクタとのある種の一体感を抱くことができる。

*7:ウォルトンは、現在ではなく、過去の心的状態を手がかりに目標の心的状態の理解を行うことを「ある種の共感」として区別している(ibid., 15)。

*8:こうした心的状態の理解の実感によって、キャラクタと鑑賞者とは特定の社会的関係を取り結びはじめるだろう。こうした直接的に対面していないが、人間のあるいは擬人的な画像や動画と鑑賞者の間で作り上げられる「パラソーシャル関係(para-social relationship)」については、ナンバ(2018b)、難波(2018a)を参照せよ。