Lichtung Criticism

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『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実皮膜のオントロジィ

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Abstract

  • 『高い城のアムフォ』は、投稿動画と異世界語という形式を、物語世界を構成し、鑑賞者をその世界に組み込む要素として利用することで「リアルな虚構」をつくりだし、同時に、VTuberカテゴリのもとで人形劇を鑑賞させることによって、VTuberの身体の構造と物語世界の虚構性とを鑑賞者に意識させ「虚構のリアル」を暴露する。『高い城のアムフォ』は「リアルな虚構」と「虚構のリアル」、あるいは虚構への没入と虚構からの分離とのあいだに鑑賞者を引き込むことで、鑑賞者に独特な鑑賞経験をもたらしつつ、虚構性とVTuberカテゴリへの反省を促す「虚構のリアリズム(realism of fiction)」作品である。

Keywords

  • 虚構のリアリズム(realism of fiction)、三層理論(three tiered theory)、二重視(double vision)、人形(puppet)、バーチャルYouTuber(Virtual-YouTuber)、物語的フィクション映画(narrative fiction film)

はじめに

『高い城のアムフォ』。2018年1月、盛り上がりをみせるバーチャルYouTuberシーンに現れ、その差はあるとはいえ、デジタルな2D、3Dモデルが一般的な状況に、パペットと実写映像という独特のビジュアル、独自につくりあげられた言語、そしてどこか懐かしい雰囲気で、またたくまにひとびとの目を奪った。

本稿では、『高い城のアムフォ』を構成する、「映像」「人形劇」、そして「VTuber」という三つの要素に注目しながら、映画の哲学、メディア論、そして、パペットスタディーズを参照しつつ『高い城のアムフォ』が生み出す「虚構のリアリズム」作品としての価値を描き出す。

これから、さまざまな概念を手がかりに分析と批評を行なっていく。そのなかで魅力的な概念たちに出会ったら、どうかあなたのもとへ連れて帰ってくれればうれしい。そしてこれからのVTuber作品、人形劇、あるいは映像作品や演劇作品への批評と考察に、さらには、虚構とバーチャルの意味を考える手がかりとして役立ててくれればさいわいである。

それでは、虚構と現実の交差する『高い城のアムフォ』の異世界へと進んでいこう。

1. 世界の組み込み

1.1. 異世界のルール

異世界とわたしたちの世界が関係する作品、たとえば、わたしたちの世界に住む主人公が事故によって異世界に転送、あるいは転生するという、異世界転生ものを視聴していて不思議に思うことはないだろうか。「異世界に行ったのになぜ日本語が通じるのだろうか?」

こうした異世界転生もののルールを意識し、じっさいに異世界に行けば異世界語が話されているだろうという直観をそのままやり通す、Fafs F. Sashimi『異世界転生したけど日本語が通じなかった』(2018年現在連載中)という作品も見られる*1。この作品はその説明にもある通り「あなた方が見てきた異世界転生ものは実際に異世界のものではない」と指摘し「我々が新たに本物の異世界転生ものをお見せしましょう」と宣言する挑戦的な作品となっている。

この作品をヒントにわたしたちは『アムフォ』*2の挑戦を評価できる。『アムフォ』においては「カムツ言葉」という異世界語が用いられており、わたしたちはそれをじっさいに聞くことができる。その言葉は体系を備えた人工言語であり、わたしたちが『アムフォ』の動画を鑑賞するとき、その字幕の助けなしでは、わたしたちはほんとうにアムフォの言葉がわからない。

つまり『アムフォ』は「本物の異世界もの」と呼べるようなあり方をしているのだ。このことにより、『アムフォ』はより形式的なほんものらしさの度合いを高める。その異世界ものの完遂のための人工言語の使用が『アムフォ』の形式におけるある種のほんものらしさをもたらしている一つの重要な要素であるといえる。ただ、これだけで『アムフォ』の特色を尽くせるわけではない。次節では、その映像に注目することで、『アムフォ』が鑑賞者と異世界とをどのように結んでいるのかを明らかにしよう。

1.2. 映像の透明性

さて、ここで議論のためにすこしだけ回り道をしよう。映画をみているとき、こんな疑問を抱いたことはないだろうか。「このショットは誰の視点なのか?」

いかにリアリスティックな、あるいはファンタジックな映像でも、いったん意識すると、わたしたちは、いったいどこからこのカメラが撮られているのか、と疑問に思うことができる。だが、もちろん、ふつうこのような問いを抱いたりはしない。

たとえば、映画版『指輪物語』を観ているとき、主人公のビルボたちが住む中つ国にわたしたちの世界そっくりな撮影機材があり、ビルボの仲間であるサムやピピンがハンディカムをもって(魔法使いのガンダルフに「くれぐれもバッテリー切れに注意することじゃ!」と忠告されながら)エルフやドワーフたちの活躍を撮影しているとは想像しないだろう。そうではなく、わたしたちはごくしぜんに、画面上の映像がどのようにその物語世界のなかで撮影されたのか、といった手段にそれほど注意を払うことなく映像に見入っている。描写の哲学の研究者であるロバート・ホプキンス(Robert Hopkins)は、こうした現象を「壊れた写真的経験」という映画鑑賞の基本的なモードとして指摘している(Hopkins 2008)。つまり、わたしたちは、ふつう、わたしたちが観ているものを、瞬間ごとに、演技や舞台装置を撮影したものとして意識しながら観ているわけではなく、あたかもドキュメンタリ映画を観るように、それが現実的なものを撮影した記録と類比的に観ているのだといえる。映画はその機械的な複製技術によって、カメラが捉えるものをそのまま記録することもできる。そして映画的カメラのみならず、写真的カメラは対象をそのまま記録する。こうしたカメラの記録性や、対象との因果的な関係性から、この経験が可能になっている、とホプキンスは指摘している。

こうしたカメラの技術は、しかし、作品への没入を可能にする十分条件ではない。これに加えて、物語映画は、透明な語りを通して鑑賞者に物語世界を提示する。ここで、「透明な語り(transparent narration)」という言葉は、ジョージ・ウィルソン(George Wilson)が指摘した、映画における、わたしたちがその語りを鑑賞するさいに違和感を覚えないような、ある意味ではしぜんな映画的語りのことだ(Wilson 2006)。すなわち、透明な語りとは、その映画的語りを構成するショットについて、その映画作品の登場人物や、もの、状況の視点から知覚しうるようなショット、つまり間主観的な位置からのショット、もしくは、キャラクタの視点に近いショット、あるいはキャラクタの心象を描いたショットによって構成されているような映画的語りである。

こうした透明な語りは、おおくの映画の基本になっている。わたしたちは『指輪物語』において、中つ国の映像がいかにしてわたしたちのもとに届き、それをなぜわたしたちが映画館やリビングで鑑賞しうるのかについて疑問を覚えたりしない。あるいは銀河系間における戦艦同士の壮大な戦いに驚きながら、いったいどこから撮影しているのかと悩むことはない。というのも、こういった作品においては、透明な語りにある程度習熟したひとにとっては、この語りに違和感を感じることじたいが奇妙で、映画を映画として鑑賞できていないことになるだろうからだ。

わたしたちはフィクショナルな映像作品を鑑賞する際、こうした奇妙な問いを立てることがないようななんらかのルールに習熟しており、そのルールのもとで作品を鑑賞している。さらにより不透明な語りについても、わたしたちはそれをしぜんなものとして受け入れている(Wilson 2006: 87)*3。そして、こうした語りの透明性に反省を加えた映画作品もある。たとえば、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)といったいわゆる「モキュメンタリーフィルム」と呼ばれる映画作品は、こうした映画鑑賞のルールに反省を加えることで、鑑賞体験の迫真性をより増大させようとしている。この作品は、実際にある虚構世界の人物が手にしたハンディカムによって映像が撮影され、その映画をわたしたちが鑑賞するという形式を採用しており、このことによって、これを鑑賞するわたしたちがいっそう作品に没入する可能性を高めているだろう(cf. Thomson‐Jones 2009)。

1.3. 世界へと組み込まれる鑑賞者

『アムフォ』ではこうした透明な語りの問題に関して、興味ぶかい表現を行なっている。以上議論してきた作品でいえば『アムフォ』は後者の語りの透明性に反省的な作品の系列に属するといえる。この作品は、語りの透明性に向き合うことで、映画観賞の態度に反省を加えている。

『アムフォ』という作品の投稿動画は異世界からの投稿であるとされており、わたしたちがその動画をYoutubeで鑑賞するという鑑賞のルールそのものが作品のなかに組み込まれている。つまり、以上で例示したようなモキュメンタリーの形式をとる作品は、映像内のショットの語りの透明性について反省を加えたという点で特徴的であるが、『アムフォ』はそれにとどまらず、わたしたちがある映像を鑑賞するルールじたいに反省を加えているのだ。

いかなる意味であれ、バーチャルな存在がわたしたちのことを知りうるのか? わたしたちにアクセスできるのか? それはいかなる世界に存在しているのか? といった設定を、この作品は問い直している。作品内で言及されているように、『アムフォ』は異世界から行き着いたわたしたちの撮影機材を用いて、なんらかの方法で情報をやりとりし、翻訳者によって翻訳されて届けられている。こうした設定と異世界語とが、たんに作品の修飾に終わるのではなく、投稿動画という形式に組み入れられることで、映像作品における語り手の問題に反省を与え、鑑賞者を物語世界へ引き込む力をうみだしている。つまり、『アムフォ』は、投稿動画という形式を、その物語世界を構成し、鑑賞者をその世界に組み込む要素として利用している、ルールにすぐれて自覚的な作品である。投稿動画という形式を作品に組み込むことで、鑑賞者にルールへと意識を向けさせる作品を提示した試みの意義はおおきく、この点でも、すぐれた作品としての評価されるべきだろう*4。『アムフォ』のおもしろさのひとつには、こうした鑑賞者の物語世界への組み込みにあるといえる。つまり、鑑賞者を引き込む、あたかもそこにあるような異世界を、いわば、「リアルな虚構」をもたらすことに成功している。

2. 人形の身体

2.1. 虚実皮膜のオントロジィ

『アムフォ』を鑑賞するとき、鑑賞者は人形(puppet)をキャラクタの表象として見立てて鑑賞している。つまり、「人形劇(puppetry)」という表現カテゴリにおいてこの作品を鑑賞している。本節の前半では、近年のパペットスタディーズを参照しつつ、人形劇という芸術形式の観点から『アムフォ』を分析する。後半では、VTuberを分析する枠組みである「三層理論」を用いて、VTuberカテゴリと人形劇カテゴリにおいて『アムフォ』が鑑賞されることによってどのようなユニークな効果がうまれているのかを明らかにする。

まず、最初のキイワードは、『アムフォ』における「アムフォ」の「原初性(primitiveness)」である。「アムフォ」は明らかに人形である。しかも、それはわたしたちにあたかも生きているかと錯覚を惹き起こすような、たとえば、映画版『指輪物語』におけるゴラム(ゴクリ)のような、3D技術によって巧妙に仕上げられたものというよりは、はっきりそれとわかる素朴な人形である(図1)*5

f:id:lichtung:20180809225809p:image図1:『高い城のアムフォ』「人形劇系異世界YouTuberはじまります【#1】」筆者によるスクリーンショット*6

人形は、たしかに、その擬人的なかたち、その動き、そして、動きに同期する声をそれぞれ調整することによって、まるで生きているかのように感じられる(Tills 1990)。しかし、むろん、ほとんどのひとは、想像においては虚構のうちに入り込んでいるとしても、人形が人形であること、それが生きてはおらず「オブジェクト」すなわち「モノ」であることをも同時に認識している。もし、モノが「アニメイト」され、生きているかのような錯覚をもたらすことのみがその魅力なのだとしたら、人形劇はより説得力のある「アニメーション」や映画に完全に取って代わられてしまっているはずだ。だが、人形劇はむしろ、わたしたちがパペット、マペットストップモーション、そのほかさまざまな種類の人形劇あるいは人形を用いた作品において確認できるように、「オブジェクト性」を強調することでいまなおその生命を得ている(Price 2013)。

人形劇の魅力のひとつは、人形研究者であるローマン・パスカ(Roman Paska)が呼ぶところの「原初主義(primitivism)」にある。人形劇は、 いっぽうでそれが生きているかのような錯覚的な体験を惹き起こしつつも、そうした「錯覚主義(illusionism)」的な達成のみを目標とせず、たほうでそれが人形であることを、その造形そのものから、さらには、操者や操作のための紐や棒を隠さないことで、あからさまに示す*7。すなわち、

原初主義は錯覚主義とは異なり、鑑賞者の焦点を外側の〔モノとしての〕しるし(sign)と内側の模倣のプロセスとのあいだで意識的に揺れ動かそうとする。そして、原初的な人形は、パフォーマンスにおける表現媒体としてのそれじたいのうつろさを暴露する、あからさまな目立ちたがりなのだ。(Paska [1990] 2012:139, Price(2013)の引用による)*8

人形はモノとしての「しるし」すなわち、その生地、素材、人工性を隠さず、同時に、それでもなお、その動きによってあたかもその息吹を感じさせる。鑑賞者を想像を誘いながら、モノとして自己を顕示する。人形は目立ちたがりなのだ。

この鑑賞経験は、人形研究においてしばしば参照される論考『人形の美学へ』(1990)において、人形の記号論と美的特徴の包括的な分析を展開したスティーブ・ティリス(Steve Tillis)の「二重視(double vision」の理論においてより鮮明に説明される。これは、鑑賞者は人形を、いのちのない「オブジェクト」として「知覚(perceive)」しつつ、同時に、あたかも生きているような「ライフ」として「想像(imagine)」する、という理論である(Tillis 1990: 126-127)。ティリスによれば、人形劇は「オブジェクト(object)」と「生命(life)」の存在論的なありように関する鑑賞者の思考を試すことで、特定の鑑賞経験をうみだしている。

パフォーマンスのあいだ、鑑賞者は、知覚(perception)と想像(imagination)とを介して、人形を、「オブジェクト」かつ「生命」として、〔この〕ふたつの見方において同時に「みている」。(Tillis 1990: 135)

人形は、パフォーマンスのあいだ、まるで生きているかのように、すなわち「イキモノ」として想像されるが、同時に、オブジェクトすなわち「モノ」としても知覚されている。こうして、パフォーマンスのあいだじゅう、人形の「いわばその存在論的地位は、つねに不確かな境界のうちにある」(Tillis 1990: 136)。この「不確かな境界」は、ティリスによって、近松門左衛門の「虚実皮膜の間」と比較されている*9

藝といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也……虚にして虚にあらず実にして実にあらず……(Tillis 1990: 135)

人形が舞台に上がったとき、それは現実と虚構の境界線にたたずんでいる。鑑賞者によって、人形は虚実のあわい、すなわち虚実皮膜で生きはじめる。いわば、物と生物との虚実皮膜のオントロジィの境界線において人形劇は楽しまれるのだ。

ティリスは、二重視の理論を手がかりに、鑑賞における、知覚と想像というふたつのみかた組み合わせから、小道具や舞台装置、そして、演者と比較し、こうした人形の独特な地位の明確化を試みている。 

f:id:lichtung:20180809225904j:image図2:さまざまなオブジェクトの知覚と想像

この図2は、舞台に関係する諸対象が、「モノ(object)」として、あるいは「イキモノ(life)」として、想像あるいは知覚されるあり方を分類したティリスのダイアグラムを再整理したものである(Tillis 1990: 174)。

まず、「舞台対象(staging objects)」は舞台上の小道具や背景などの舞台装置を指す。これらは、モノとして知覚されるし、モノとして想像される。なるほど、特定の舞台装置、たとえば、海の波を表すようなものは、動いてはいる。しかし、それらははっきりとモノとして知覚されるし、想像される。つぎに、「演者(actors)」はもちろん、イキモノとして知覚、想像される。さいごに、「人形(puppets)」はこれらのあいだに位置している。なぜなら、人形は、モノとして知覚され、同時に、イキモノとして想像されるからだ。つぎの節では、『アムフォ』におけるその利用のしかたを議論するために、こうした二重視がどのように利用されるかを紹介したい。

2.2. 笑いと不気味なもののデュアリズム

こうした人形の二重視がもたらす効果は、作品においてどのように表現の資源として用いられるのだろうか。ここで、その理解のために、やや、『アムフォ』そのものから離れ、ふたつの事例を紹介する。それは二重視と「笑い」、そして「不気味なもの」の事例である。

第一に、二重視と笑いについての議論をみてみよう。演劇学の研究者ジェイソン・プライス(Jason Price)は、人形の二重視の経験を、ユーモアの「不一致説」と組み合わせることで、人形劇において特徴的なユーモアの分析を試みた(Price 2013)。

ここで「不一致説(incongruity theory)」とは、ユーモアに関する理論であり、一般に想定されるパターンの裏切りによって笑いをもたらされうる、という理論である。ユーモアの美学研究者であるジョン・モレオール(John Morreall)は、『コミックリリーフ(Comc Relief)』(2009)において、この理論にふれ、つぎのように説明している。彼によれば、この理論は、

人間の経験が学習されたパターンに沿って働くという事実に基づいている。わたしたちが経験したことは、わたしたちが経験するものに対処するための準備になる……。ほとんどのばあい、経験は上述のような精神的パターンに従う。〔こうして〕未来は過去のようになるのだ。しかし、ときどき、わたしたちは、あるものの部分や特徴がこの精神的パターンに違反するものを知覚あるいは想像する。 (Morreall 2009: 10–11)

わたしたちは過去の経験を用いて未来を想定する。ボールは投げれば落ちてくるのであり、がたいのいいライオンはおそろしい。だが、投げたボールがどこまでも浮いてゆけば、ライオンがかわいらしく腹を見せれば、ユーモラスになる。この違反こそが笑いをもたらす。モレオールはこんな例をあげている。

ぼくは猫が好きだ。かなり鶏肉に近い味がするしね。(Morreall 2009: 51)

「猫が好き」の想定される意味は、その見た目やふるまい、性格の愛らしさにかんする好意だろう。だが、その想定は違反され、「味」にかんする意味であると判明し、笑いが起きる。つまり、既知の「精神的なパターン」が裏切られることによって笑いがうまれる。この不一致説と二重視を組み合わせ、プライスはつぎのように述べている。

オブジェクトは、それじたいではもちえないことをわたしたちが知っている生命力をわたしたちに想定させることで、精神的パターンに違反し、結果としてユーモアにつながる喜びをもたらす。この点で、人形の鑑賞のありかたと不一致によるユーモアは、おなじしかたで作動するものとみなせる(Price 2013)。

人形は、いのちをもたない。それはふつうみなが知っている。だが、その人形が動きはじめたとき、——それがおどろおどろしい音楽やくらやみのなかでなければ——わたしたちの「モノにはいのちがない」という精神的パターンを裏切り、ユーモラスになるのだ。

たとえば、プライスは人形師の女性コンティと猿の人形モンクのコンビ「ニナ・コンティとモンク(Nina Conti & Monk)」のパフォーマンスの例をあげている。パフォーマンスの途中、猿の人形モンクは、その手のマジックテープが身体に張りついてしまい、やむをえず勢いよく剥がしたところで「ああ!」とうめき声をあげ、悲鳴とともに観客席には笑いが巻き起こる——「人形は痛がらないのに痛がる!」。そのあとに、猿の人形モンクは、じぶんがほんとうに猿なのかどうかを訝しむ。

モンク:おれはほんとに猿なのか?

コンティ:ええ、もちろん。

モンク:すると、おれの手がマジックテープになってる意味がわからないんだが。

コンティ:そのことは気にしないで。

モンク:それに、ケツにタグが付いてる。「Made in Taiwan」って。

(Conti 2007: n.p.)*10

ここでは、人形のモノ性が、生きているかのように喋る人形じしんによってあらわにされる。人形がじぶんは人形であることに疑問をもつ。そして、鑑賞者は、「彼は猿である」という想定を裏切られる。「精神的なパターン」が裏切られ、笑いがうまれている。もちろん、不一致による笑いはほかの表現形式でも起こりうる。だが、人形劇は、そもそも、その人形の二重視という鑑賞のされ方を資源として、より容易に、そして劇的に、鑑賞者の精神的パターンを裏切り、想像と知覚を越境し、笑いを引き起こしうるのだ*11

プライスが注記しているように、人形劇がかならずしもつねにユーモラスな形式であるわけではない。それとはへだたって、人形劇はときに二重視によって「不気味な」効果をもたらすこともある。

人形学の研究者で実践家でもあるジョン・ベル(John Bell)は、フロイトの分析に基づいて、人形が「不気味なもの」でありうると指摘している。ベルは、人形が、いのちのないオブジェクトにもかかわらず、まるで生きているかのようにうごめくことで、原初に克服したはずのアニミズム的な自然理解のあり方、すなわち、自然のはたらきに超自然なにかを読み取るような理解のあり方を鑑賞者に想起させ、近代的な精神に抑圧された前近代的なものの回帰としての「不気味なもの」を体現するものであると指摘している(Bell 2014)。

フロイトは、不気味なものを原初的な感情や幼児感覚に結びつけている。それは「不安や恐怖をひき起こすもの」に属しており、とくに前者に焦点を当てれば、そのような力は「アニミズムといういにしえの世界観」と関わっている。すなわち「不気味な感情」は「思考の万能、即座の欲望成就、秘密の力による害、そして死者の回帰」といった、自然のはたらきに物質的、物理的に現実を超えた力を読み取るような古い思考の回帰によってひきおこされる(フロイト 1919[2016])。フロイトの言葉を聞こう。

こうしたところで不気味な感情の発生をみちびく条件は、見誤りようがないであろう。わたしたちは、あるいはわたしたちの原始の祖先は、かつてそれらの可能性を現実のものであると見なし、それらの出来事の到来を現に信じていた。今日、わたしたちはそんなことを信じていない。そうした思考様式は克服されたわけである。とはいえ、その新しい信念に確たる自信があるわけでもない。古い信念はまだわたしたちのなかに生きており、それが裏づけられる機会を待ちうけている。したがって、遠ざけられた古い信念に裏づけを与えるかに見えることが今わたしたちに起こると、たちまち不気味な感情が発生……する。(フロイト 1919[2016]: 253-254)

わたしたちはすでに前近代的アニミズムを脱したと思いなしている。しかし、その自信はふとしたときに——いのちをもたないはずの人形が動き出したとき——揺らぎ、その思いなしが抑圧していた「原初(primitive)」の世界が回帰する。これが、フロイトの不気味なものについての分析であるとベルは整理する(Bell 2014)。

こうしたユーモアと不気味さは、排他的ではない。ユーモアが不一致によるおかしさから、不気味さがいのちをもたないものがいのちをもつかにみえることで呼び起こされるフロイト的な原始の回帰からやってくるなら、いのちをもたないものがいのちをもつことによって不気味な感情が引き起こされつつ、なおもユーモラスであるような、逆に、笑いながら、不気味さを感じさせるような不気味なユーモアもありうる。ことば遊びはこれくらいにして、具体例をみてみよう。たとえば、わたしたちはパペットカンパニーBlind Summitの公演『The Table』において、不気味な笑いを見出す。

主人公のモーゼス(Moses)がテーブルの上で過ごす12時間が公演では提示される。モーゼスはコミカルに踊り、宙を舞う。それらの動きはいきいきとしてはいるが、人形であることをはっきりと示す。モーゼスは軽妙に観客に話しかけ、笑いを誘う。同時に、あまりにいきいきとしていながらも、機械的にふるえ、奇妙な動きをみせ、どこか不気味で不安を掻き立てる。彼の顔がこちらに向けられると、どこか落ち着かなくなる。彼はほんとうに、人形なのか。

人形は、二重視をその本質的な部分とすることで、しばしば、笑い、不気味さ、あるいはその両方を、鑑賞者たちにひきおこす。ここから、もしかすると、それは本質的にユーモラスであり、かつ同時に、不気味でもあるのかもしれない。人形は、二重視を可能にする人形は、その存在のあり方によって、本質的にわたしたちに不気味な笑い、ユーモラスな不気味さをもたらすのかもしれない。

この考察の当否は置くにせよ、以上から、人形のオブジェクト性と生命性との二重視は、笑いと不気味さといった効果を鑑賞者にもたらすための重要な資源として用いられていることがみてとれる。このように。二重視は、さまざまな論者が指摘する人形の特徴を理解する枠組みとして有用なものであることが確認できる。もちろん、二重視が可能にする人形の二重性は、それだけでは笑いや不気味さをもたらすわけではない。それ以前に、まず表現の資源として存在する。この資源は、笑いや不気味さをもたらすためにのみ用いられるわけではなく、おのおのの作品やパフォーマンスによってさまざまに利用される。ちょうど、鳥の翼という構造が、空を飛ぶためや、求愛行動、あるいは、海を泳ぐために利用されるように、二重視という構造は、笑い、不気味さといったことなる効果をうむための手がかりとして、さらには、さまざまな表現の道具として利用することのできる、人形劇という表現形式がもつ際だった特徴なのだ。

2.3. 中間世界の存在者

本節では、虚実皮膜のあわいにあるという人形の存在のあり方について、考えたい。そうすることで、『アムフォ』の「アムフォ」が人形であることによってこそ生み出される効果とはなにかについて考える手がかりをつくりたい。

ここで、わたしは、虚実のあいだにたゆたう存在として、パウル・クレー(Paul Klee)の子どもたちを思い出す。といっても、もちろん彼の実子ではなく、作品群に現れる子どもたちのことだ。彼ら、彼女らは、あいらしくも、わたしたちをどこか落ち着かなくさせる。

f:id:lichtung:20180810124822j:image図3:パウル・クレー『腹話術師、沼で叫ぶ人』(1923)*12

子どもたちについて、クレーはこう述べている。

僕が言おうとしているのは、たとえば未だ生まれざる者と死者の国、来ることができ、来たいと思っているのだが、しかし来なければならない筋合いはない者たちの国、つまり中間の世界だ。少なくとも僕にとっては中間の世界だ。そう呼ぶわけは、人間の五感が外的に捉えることのできる世界の隙間に、僕はその世界を感じ取るからだ。……子どもや狂人、未開人には、その世界が今なお見えている。もしくは今ふたたび見えるようになっている。(Schreyer 1956, S. 171; 223:『パウル・クレー』展覧会図録(2015)より引用。)*13

クレーの作品に住むのは、未だ存在していない者たち、そして、すでに存在しなくなってしまった者たち、存在しない子どもたちだ。クレーの子どもたちは画面のなかでしずかに息をしているが、四方は守られ、わたしたちもまた向こうへと引き込まれることはない。けれども、人形は、そこにいる。鑑賞者は空間に占めるその質と量を知覚する。

クレーの例示するものたちよりもよりひろいいみで「存在しない者たち」が、どうすればわたしたちと出会うことができるのか、わたしたちはどうすればそのような想像的な遭遇が可能なのだろうか。この問いに対して、人形のあり方を考えることで取り組んでみたい。

ここで、彫刻家、画家である加藤泉の作品を手がかりに、この問いを問うてみたい。

とくに有名な『無題』(2004)に注目しよう。それはたしかに、人形劇のように動くことはない。しかし、台座なしに、両足で立ち、壁に両手をつけ、こちらを向くような姿勢は、ふつうの彫刻よりも、より鑑賞者を意識しているようで、いまにも動き出すかにみえる。そうして、この作品は、展示される人形でありながら、これまで議論した人形の二重視を可能にするといえる。この作品を見ている者は、それがメディアを通した鑑賞であれ、落ち着かない、ざわざわとした気分になる。動くはずがない、と理解し、それが彫刻であることを知覚しているのと同じほどに、それが動き出すような想像を行う。それは、加藤のその他の人型を描いたドローイングや絵画と比較すればわかるように、そのモノ性によって、つまり人形であることによって可能になっている。人形であるからこそ、『無題』(2004)は不気味で、しかし、あるいは奇妙な両生類や魚類の幼生のようにどこかあいらしく感じられる。彼の幼生のそして原初の呪術的な生きものを思わせる作品群は、この人形の力を引き出している。

このように、人形はモノであることを知覚させつつ、イキモノであることを想像させることで、この世界には存在しない者たちをその身に宿すことができる。そのような想像を可能にする。だが、たんに想像させるなら、もちろんほかの形式によっても可能だ。他の形式との違いは、第二節の冒頭に戻れば、その「原初性」、とくに「モノ」としてのはっきりとした現前性にある。人形はそれによって、それが、まるで生きているかのように想像させることを可能にする。人形は、わたしたちの前に迫ってくることによってこそ、すなわち、「モノ」であると知覚されることで、わたしたちに、存在しない者たちとの遭遇の想像を可能にする。知覚と想像とが、手と手を取り合って、人形を虚実皮膜のあわいに立たせる。わたしたちは、二重視を介して、非存在の住人たちと遭遇する。

「アムフォ」もまた、存在しない子どものひとりなのだ。アムフォはたんに絵ではない。それは人形である。そのモノ性によって、それはそれが生きているという想像を下支えする。「アムフォ」はそうして、あわいに立ち、異世界とこの世界の中間に『アムフォ』という映像メディアはある。『アムフォ』という作品そのものは、メディアの中にだけ存在して、それじたいでひとつの中間世界をかたちづくっている*14。以上の議論から、「アムフォ」が人形であるからこそ発揮できる力とは、「モノ」であるがために、知覚と想像の化合を可能にする力であるといえる。

2.4. 三つの身体

前節まででは『アムフォ』が「人形劇」であることから、その特殊性を議論する前提として、人形劇一般の特徴をやや詳しく提示した。本節では『アムフォ』と「VTuber」カテゴリと関連していることから、後者に注目して、二重視の構造との関係に関する議論を行う下準備をしたい。

VTuberとはどのように鑑賞されるカテゴリなのだろうか。ここで、拙論(難波 2018)において提示された「三層理論」に基づいて、VTuberというカテゴリを特徴づけよう。

三層理論(three tiered theory)」とは、VTuberとは何でありうるか、とくに、わたしたちはそれらの何に魅入られているのだろうか。この問いに応えるために提示された枠組みで、その主張は「VTuberの鑑賞の対象は、パーソン、メディアペルソナ、そして画像的フィクショナルキャラクタの三層の身体から構成され、それらの関係づけにおいて、それぞれが、あるいはその総体が、そのつど、鑑賞者の鑑賞の対象になっている」というものだ。

三層の身体を構成する、じっさいのひとである「パーソン(person)」そのパーソンのメディアを介した現れである「メディアペルソナ(media persona(e))」そして、パーソンが用いるひろい意味でのアバター、「フィクショナルキャラクタ(fictional character)」について、それぞれの意味をかんたんに説明しよう。

まず、「パーソン」はじっさいのひとであり、ふつうオーディエンスによってはアクセスできない対象であって、いわゆる「中の人」として呼ばれる、「ヒト」として理解される対象である*15。つぎに、そのパーソンのメディア上での現れである「メディアペルソナ」という概念は、Horton & Wohl(1956)によって、テレビの出演者とオーディエンスとがむすぶ独特な関係を説明するために提唱された概念である。テレビ上のメディアペルソナとオーディエンスは、ふつう相互関係しえないにも関わらず、オーディエンスは画面上のメディアペルソナに対してあたかも現実の人物に対するような親しみを感じることで、「パラソーシャルなインタラクション(Parasocial Interaction: PSI)」を行う(Horton & Wohl 1956)。こうした親しみを感じるようなインタラクションが持続することでつよく形成された関係は「パラソーシャルな関係(parasocial relationship: PSR))」と呼ばれる。いわゆる「中の人」と呼ばれる対象は、じつのところ、パーソンとペルソナとを混合させたものだ。

さいごに、ひろい意味でのアバター、擬人的な画像が表象している対象を「フィクショナルキャラクタ(fictional character)」と呼ぶ。VTuberが鑑賞されるとき、オーディエンスによってこれらのいずれか、あるいは複数に焦点が当てられている。つまり、

VTuberの鑑賞の対象の構成要素はパーソン、ペルソナ、そしてキャラクタという三つの身体とに分けられる。そして、ペルソナとキャラクタの画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら……ペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている。(難波 2018: 121)

f:id:lichtung:20180809230006j:image図4:バーチャルYouTuberの三つの身体

図4を参照しつつ具体例にそって解説してゆこう。たとえば、『輝夜月』というVTuberは、「輝夜月」の動きをつくりだしているひとであるパーソンと、TwitterYouTube、各種イベントでみられ、ファンによって共通理解としてつくりあげられる特定のペルソナイメージをもつ。ここで、ペルソナイメージとは、ペルソナの性格やその背景が鑑賞者に与える印象の総体を指す。ペルソナイメージは、パーソンじしんの性格や印象とつねに一致するわけではなく、その多くは、メディアを介してのみ構築され得たもので。そうしたペルソナイメージとパーソンの性格とはかならずしも一致しない(難波 2018: 119, 123)。 そして、『輝夜月』の知覚可能な見た目は、「輝夜月」というフィクショナルキャラクタの画像であり、パーソンのそれではない。また、「輝夜月」というフィクショナルキャラクタには性格がほとんど存在せず、鑑賞者が『輝夜月』の性格とみなしているのは、「輝夜月」の動きをつくりだしているパーソンがメディアを介して現れたペルソナイメージである。

鑑賞者は「輝夜月」というフィクショナルキャラクタの画像のかわいさ、すなわち、その造形的なかわいさと、『輝夜月』というメディアペルソナイメージの愛らしさ、あるいは、『輝夜月』のパーソンについてのなんらかの知識を、意識的ではないにせよ総合させながら、『輝夜月』というVTuberの総体を鑑賞している。

2.5. 分離する身体

さて、これまで、人形劇の二重視、そしてVTuberの三層理論といった概念を導入してきた。こうした道具立てから、異世界系人形劇である『アムフォ』はどのように分析、批評できるのだろうか。

まず、『アムフォ』はどのようなカテゴリにおいて鑑賞されるのかを確認しよう。そのことは、第一節において詳しくみてきたように、「異世界」からの「投稿動画」という形式を、その言語と設定によってつくりだしていることから、さらに、加えて、SNSにおいて、「アムフォ」は、そのパーソンであると思われるボンタとは異なる存在として提示されていること、そして、『アムフォ』の第一話で言及され、Twitterのプロフィール欄に「VTuber(?)」とあることから読み取れる。つまり、『アムフォ』は、まず、三層の身体をその鑑賞の対象としてもつVTuberカテゴリにおいて鑑賞される。

VTuberカテゴリにおいて鑑賞されるとは、すなわち、VTuberに特徴的な三つの身体と関連してこの作品が鑑賞されるということだ。

とはいうものの、『アムフォ』は一般的なVTuberカテゴリにおいてのみ鑑賞されるわけではない。その映像に映る要素から、そしてなにより、「異世界系人形劇」という名称からわかるように、この作品は「人形劇」としても鑑賞される。このふたつのカテゴリはどのように関係しあうのだろうか。まず、三層理論を参照しつつ、「アムフォ」の身体のイメージを分析しよう。

まず、パーソンとペルソナの関係に注目しよう。「アムフォ」のパーソンは翻訳者として目されているボンタ氏である。だが、この両者は明らかに一般的なVTuberにおけるそれらとは異なる関係をもっている。一般的なVTuberにおいては、パーソンは、物語世界におけるキャラクタを「演じて」いるわけではなく、そのつど鑑賞者との相互作用によってつくりだされるペルソナを「装って」いる。たとえば、『輝夜月』という演じるべき「キャラクタ」は、わずかな設定はあるにせよ、シャーロックホームズやハムレットのようには存在せず、『輝夜月』のパーソンや鑑賞者によってつくりだされていくペルソナのみが存在するのであり、VTuberのパーソンは、演じるべきキャラクタをもたず、そのつどつくりあげていくペルソナを瞬間ごとに装っているのだ。「アムフォ」のばあい、ちょうどVTuberがそうであるように、投稿動画内に現れる「YouTuberとしてのアムフォ」がメディアペルソナであり、そのうちには、異世界人としてのアムフォというパーソンが存在するように想像される。だが、『アムフォ』におけるパーソンとペルソナとはVTuberにおけるような癒着はなく、両者はたがいにひきはがされている。ここにこそ前節で議論した人形劇の二重視が表現の資源として役立てられている。

そのことを明らかにするために、ペルソナとキャラクタの関係を分析しよう。一般に、VTuberの身体においては、それが2Dにせよ3Dにせよあるていどのリップシンクやモーショントラッキングによって、そのキャラクタの画像とペルソナとを重ね合わせることができる。しかし、「アムフォ」は人形であることによって、その「オブジェクト性」と「生命性」とを同時に示し、よりつよく原初的なモノ性をあらわにする*16。それにより、「アムフォ」のキャラクタの画像とペルソナとは、結びつきを、いっぽうでは想像的に維持しながら——「これはアムフォである」——たほうでは、知覚において引き離す——「これは人形である」——つまり、「アムフォ」というペルソナが具体的なかたちをもって現れるところの人形、すなわち画像としてのキャラクタが、一般的なVTuberよりも、より原初的で、そのモノ性をあらわにしている。

人形に特徴的な二重視におけるモノ性の顕示によって、『アムフォ』はVTuberカテゴリにおいて鑑賞されることを意図しつつも、そのカテゴリにおいて重要なペルソナとキャラクタとの重ね合わせをみずから分離させる。そのことによって、さらに、ペルソナとパーソンの分離も開始される。というのも、程度の差はあるにせよ、VTuberにおいては可能な、パーソンの動きと画像が同期することによる、パーソンとペルソナ-キャラクタの画像との関連づけは『アムフォ』においては起こりえないからだ。人形には人形使いがいる。人形と人形使いは、人形使いの腕がどれほどたくみでも、同一視されることはない。人形に命が宿るほどに、それは人形であることをますます明らかにしてゆく。そして人と人形とは、互いのちがいをきわだたせる。人形の限界ではなく、二重視を可能にするその可能性だ。

『アムフォ』はパーソン、ペルソナ、キャラクタの三層を仮構させながら、パーソンとペルソナとを、ペルソナとキャラクタとを分離する。こうして『アムフォ』はVTuberカテゴリそれじたいにたいする批評的な作品となる。『アムフォ』は、主として映像の形式と言語がつくりあげる「投稿動画」という設定によってVTuberというカテゴリにおいて鑑賞されるように鑑賞者を誘いつつ、そのカテゴリにおいて人形劇を提示することで、VTuberの三つの身体の構造を、人形劇における身体の二重視によって、そして、人形劇に特徴的なその人形の操者の存在をあらわにすることによって、パーソンとペルソナ、ペルソナとキャラクタ、もちろんパーソンとペルソナの身体をはっきりと分離させ、こうして、作品それじたいによってVTuberというカテゴリを分析し、提示している。つまり、『アムフォ』は、人形劇という形式をVTuberという形式に組み合わせることによって、虚構性そのものを鑑賞者に意識させ、両者のメカニズムを露わにする、いわば「虚構のリアル」を提示する。

3. 虚構のリアリズム

アムフォはVTuberの構造を探り当てることによって、同時に、「虚構性」をもその作品のなかで主題としている。映像と言語という形式においては、『高い城のアムフォ』は物語世界の中に鑑賞者を組み込むことで、べつの世界の実在感を高めているいっぽう、たほうで、人形劇という形式においては、鑑賞者は、物語に没入しつつ、虚構性を意識させられる。ちょうど、人形劇の「二重視」がそうであるように、『アムフォ』は虚構世界に没入させつつ、しかし、それが虚構であることを意識させることで、鑑賞行為の担い手であることを意識させることで、彼女らが観ているものの虚構性を浮き立たせ、鑑賞者に虚構性それじたいへの注意を促す。

そうして、鑑賞者が、たんに受動的な傍観者ではなく、虚構世界を立ち上げるためのメンバーの一員であるということ、そして、その虚構世界を維持してゆくためには、作者のみならず、それを受容する鑑賞者の力をも必要とするということを示している。それはひるがえって、鑑賞者をその想像に引き込んで離さないことで、パラソーシャル関係を築くVTuberのしくみへの冷静なまなざしを鑑賞者に提示することにもなる。アムフォはわたしたちを見つめる。アムフォとわたしたちの目は合わない。それはいきいきと異世界で生きているが、同時に、どこまでも人形である。『アムフォ』はユーモラスである。同時に、しずかにただよう不安。風は吹き、ふれると風ではなくなる。風は中間にしか存在しない。アムフォ。amu-fo。風を-想う。中間世界の子ども。

『高い城のアムフォ』は、投稿動画と異世界語という形式を、物語世界を構成し、鑑賞者をその世界に組み込む要素として利用することで「リアルな虚構」をつくりだし、同時に、VTuberカテゴリのもとで人形劇を鑑賞させることによって、VTuberの身体の構造と物語世界の虚構性とを鑑賞者に意識させ「虚構のリアル」を暴露する。『高い城のアムフォ』は「リアルな虚構」と「虚構のリアル」、あるいは虚構への没入と虚構からの分離とのあいだに鑑賞者を引き込むことで、鑑賞者に独特な鑑賞経験をもたらしつつ、虚構性とVTuberカテゴリへの反省を促す「虚構のリアリズム(realism of fiction)」作品である。

『アムフォ』は、人形とVTuberの両方へとわたしたちの思索を誘う。本稿で取り上げた二重視は人形だけに限られるのか。VTuberはあらたなデジタル化された人形、いわば「バーチャルなパペット」なのか。本稿における考察が、いくばくかなりとも『アムフォ』の魅力を引き出すものであること、そして、バーチャルリアリティと人形のそれぞれについての、そして、それらが交差するあらたなトピックに足を踏み入れるための入り口となることを期待する。

おわりに

『高い城のアムフォ』は、わたしがVTuberという文化を知るきっかけになった作品であり、同時に、途中でふれた、拙稿「バーチャルYouTuberの三つの身体」の重要なアイデアの源泉となった作品でもあります。どこか懐かしく、なぜかすこし寂しげな雰囲気に心を奪われ、鑑賞をはじめました。

『アムフォ』からVTuberに関心をもったゆえか、わたしのVTuber文化への興味のひとつは、その表現形式としての媒体の特殊性と、それを批評的に操作することでうみだされる(未来の)作品群とに向かっています。VTuber文化は企業の参入により、これからその経済的な存在感を増してゆくだろうし、個人系VTuberも、技術の一般化によりますます増大するでしょう。VTuberという表現形式の枠組みのなかで洗練をめざすVTuber作品の批評もむろん重要ですが、それと同時に、その媒体を利用してさまざまな斬新な表現の試みを行なっているVTuber(あるいはVTuberを特徴づける要素を用いた作品)を評価する文化が発展することを期待しています。VTuberの媒体としての特徴に批評や操作を加えつつ、わたしたちに多様な鑑賞経験をもたらしてくれるさまざまなVTuber作品が生まれることを、一鑑賞者として楽しみにしています。

また、最後になりましたが、画像の引用を快く許諾していただきました翻訳者の巡宙艦ボンタさんには感謝を申し上げます。そして、末尾になりましたが、異世界の興味ぶかいお話を伝えてくれるチャーミングでミステリアスで、すてきな呪術師、アムフォに最大限の感謝を込めて。

rakn! amufo! i yomi nya ki wor wic.

imi cnom amara rus.

Yuuki Namba.

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

引用例

ナンバユウキ、2018年「『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム——虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実。

参考文献

青木孝雄、1989年「近松の〈詩学〉について:『難波土産』冒頭のテクスト読解に即して」『藝術研究』(2)、(広島芸術学研究会)、37-51項。

石川潤ほか編、2015年『パウル・クレー だれにも ないしょ。』(読売新聞社

Bell, J., 2014, “Playing with the eternal uncanny: The persistent life of lifeless objects,” The Routledge companion to puppetry and material performance, 43-52.

フロイト・S「不気味なもの」、H. ベルクソン、S. フロイト、2016年『笑い/不気味なもの 付:ジリボン「不気味な笑い」』原章二訳(平凡社)205-271項。

Hopkins, R., 2008, “What do we see in film?” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 66(2), 149-159.

難波優輝、2018年「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、117-125項。

Price, J., 2013, “Objects of humour: The puppet as comic performer,” Comedy Studies, 4(1), 35-46.

Thomson‐Jones, Katherine., 2009, “Cinematic Narrators,” Philosophy Compass 4.2, 296-311.

Tillis, S., 1990, Towards an Aesthetics of the Puppet, (Master dissertation).

Wilson, George., 2006,  "Transparency and twist in narrative fiction film." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 64.1, 81-95.

画像引用

『高い城のアムフォ』2018年。人形劇系異世界Youtuber 高い城のアムフォ - YouTube

*1:https://kakuyomu.jp/works/1177354054883808252

*2:以下『高い城のアムフォ』は『アムフォ』と略記する。

*3:たとえば、『ブロンドの殺人者』(1944)において、カメラは主人公を非人称的に撮影しながら、その心情が画面上に表象されている。一人称視点において登場人物の酩酊状態や幻覚を表象することを超えて、「ねじれた」ショットが現れている。こうした例は媒体の不透明性を高め、一般的な映画を鑑賞する際のルールをさらに複雑にしている。

*4:たとえば、VTuber(以下「VTuber」は「バーチャルYouTuber」を指す。)というカテゴリを利用して、独自の鑑賞経験をもたらしている『鳩羽つぐ』もまた、こうした映像のルールに自覚的であり、鑑賞者を物語世界に組み込む作品であるといえるだろう。

*5:加えて、その装飾品や小道具もまた、ひとの手でつくられた素材感あふれるものたちであるし、ひとの手がはっきりと映りこむこともしばしばみられる。

*6:https://youtu.be/QaSBDeX3Y1k

*7:たとえば、文楽における操者やおおくの子ども向けの人形劇における操作道具の明示。

*8:Paska, Roman ([1990] 2012), ‘Notes on puppet primitives and the future of an illusion’, in Penny Francis (ed.), Puppetry: A Reader in Theatre Practice, Basingstoke, Hampshire: Palgrave Macmillan, pp. 136–40.

*9:この部分の近松の主眼は、人形の造形的性質のみならず、その台詞を含めて、「実」らしさと「虚」との均衡が浄瑠璃の制作においてどう扱われるべきかについてであり、かならずしも、人形そのものの存在論的地位に限定される議論をしているわけではない(cf. 青木 1989)。また、二重視に直接関係する議論を近松が行なっているわけではなく、ティリスも述べているようにいくぶんか比喩的な言葉の関連性において引用されている

*10:Conti, Nina (2007), Complete and Utter Conti, London: Mike Perrin For Just For Laughs Live. Priceのスクリプトより引用。

*11:あるいは、アレクサンダー・カルダーのコミカルな人形劇によるサーカス『Cirque Calder』をみてみよう。http://www.ubu.com/film/calder_circus.html: embed。ここでは人形はサーカスの最中でしばしば失敗する。そのときは、カルダーがにょっと手を出して、(むりやり)成功に導いてしまう。ここでは、人形が、いきいきと自在に動いており、鑑賞者は、「これはいきているサーカスの劇団員たちだ」と想像しているのに、カルダーが想像の外から介入してしまうことで、そのお約束はやぶけ、精神的パターンは裏切られる

*12:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Ventriloquist_and_Crier_in_the_Moor_MET_DP-820-001.jpg

*13:Schreyer, Lothar, Erinnerungen an Strum und Bauhaus, München 1956

*14:あるいは、『アムフォ』は、異世界のアムフォが異世界で行なっている人形劇なのかもしれない。『アムフォ』において映るのは、アムフォがつくった人形、その手はアムフォの手だ。すると、『アムフォ』に登場する人物たちも、おそらくはアムフォひとりで操作する人形たちということになる。性を剥奪されたところまでは真実だが、それを取り戻した話も、妹との再会もすべてお話のなかでのできごと。と考えると、とても物寂びた作品に変貌する。この想定は魅力的ではあるが、どのように擁護できるのかは本稿では問わないことにしたい。いずれにせよ、『アムフォ』のこの世界での、この世界の人間が理解するところの魅力や興味ぶかい点は、以上の想定が正しいにせよ、ふつうに人形劇と理解するにせよ、本稿の議論には直接関係しない。

*15:「パーソン」は「ヒト」として理解される対象であればよく、いまはまだおとぎ話だが、ひじょうに精巧な機械で、感情をもっているようにみえ、わたしたちと一定の親密な関係を構築できるような知的な存在は「パーソン」になりえるだろう

*16:ひるがえって、VTuberを特徴づけるのは、そのモーションキャプチャによるパーソンとペルソナとキャラクタの重ね合わせ、重ね合わせによる境界の溶解である。