Lichtung Criticism

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バーチャルYouTuberスタディーズ入門:コミュニケーション・ボディ・エコロジィ

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はじめに

ユリイカ』七月号 特集 バーチャルYouTuber 発売されました。

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

わたしも一編、「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」という論考を寄稿しております。論考では、さまざまな研究分野を横断しながら、VTuberの批評や研究のための手がかりになるような概念をつくることを試みました。ただ、紙幅の都合、各文献の詳細な解説は行えませんでした。

そこで、VTuberを批評、分析、あるいはそれを手がかりにコミュニケーションや現実と虚構、そしてバーチャルの関係を考察したい、というひとびとの役に立てればと思い、(勝手に)連動企画「バーチャルYouTuberスタディーズ入門」と題して、これまでに読んだ文献や目を通した文献を中心にリストをつくりました。寄稿した論考のサイドノートとして楽しめるようにつくってありますので、ぜひお手元にご用意のうえお読みくださいませ。また、わたしは読まないぞという方も、おもしろそうな文献を見つけてこれからの考察や批評に役立てていただければと思います。

ひろく、VTuber、バーチャルアイドル、YouTuberといった文化を考察するひとのための手がかりになればうれしいです。

また、ご感想などありましたら #三つの身体 でつぶやいていただけると、(元気があれば)拝見しにゆきますのでよろしくおねがいします。

三つの身体

いきなり宣伝です。この論考は、主に、⑴コミュニケーション研究、⑵美学、⑶ファン研究の文献を手引きとして、鑑賞を整理するにあたって重要な概念をつくろうとしたものです。概要を引用してみましょう。

本稿では、メディア/コミュニケーション研究、美学、そしてファン研究を手がかりに、VTuberの鑑賞実践を分析、整理し、批評や解釈、あるいは研究の有用な道具立てとなるような概念をつくりだすことを試みる。

はじめの二つのセクションでは、鑑賞者とVTuberの関係を軸に、VTuberの特徴が、その鑑賞の対象としての構成要素の複雑な関係性に見いだせることを明らかにする。その後、よりひろい視野から、VTuberを取り巻く鑑賞実践の総体を「環境」をキーワードに考察することで、VTuberという文化が、鑑賞者によるVTuberの動画やテクストの絶え間ない解釈と再構築とを特徴とするものであることを指摘する。

拙稿では、二つの主張をしています:まず、VTuberの鑑賞の対象は多層の「身体」からなること、そして、VTuberの鑑賞実践はその総体を「環境」というキーワードで捉えられること、です。

構成は以下の通りです。

  • はじめに
  • 第一節:VTuberとは誰か?
  • 第二節:身体は重なり合う
  • 第三節:鑑賞の環境学
  • おわりに

新規追加要素と旧要素

拙稿は、ブログで発表した以下の論考を再構築し、さらに「環境」に関する新たな議論を加えたものです。

ブログの論考(旧論考)とユリイカ論考(新論考)とを比較して、アップデートされた要素に、以下の三つがあります。

  1. 「ペルソナとして」、「キャラクタとして」という定式化を「パーソンのペルソナとして」、「キャラクタのペルソナとして」と再整理した。
  2. キャラクタとペルソナとパーソンとの関係の分析の追加。
  3. 「環境」をキーワードに、VTuberの鑑賞実践を、鑑賞者の実践に焦点を当てた分析の追加。

また、紙幅の都合上、新論考には盛り込めなかった旧論考の要素は、これらの三つがあります。

  1. ペルソナ-オーディエンス関係の研究紹介(viz., 社会関係のスペクトラムとBrownのパスフロウモデル)。
  2. 具体的なVTuber作品の批評(vi., 『鳩羽つぐ』と『高い城のアムフォ』)
  3. 倫理的問題(viz., 画像表象とペルソナとキャラクタの画像のエスニシティ・ジェンダ論)

なので、旧論考を読んだ方も、新論考を読んだ方も、ご関心に応じて、どちらも読んでいただけると幸いです。

宣伝はこのくらいにして、以下では、旧新論考を書くにあたって読んだものの、直接参考文献に入れることはできなかった論文も含めて紹介してゆきます。

第1節:コミュニケーション

1. パラソーシャル関係|Parasocial Relation

まず、第一節のパラソーシャル関係およびメディアペルソナの概念に興味をもったかたもいるでしょう。この二つの概念が提示されている基本文献は以下です。

  • Horton, D., & Richard Wohl, R., 1956, “Mass communication and para-social interaction: Observations on intimacy at a distance,” Psychiatry, 19(3), 215-229.

理論的な枠組みを提示してはいますが、それを裏づけるデータはまだ出揃っていませんでした。これ以後、ペルソナ概念とパラソーシャル関係の経験的研究と並行して、その概念の明確化やどのような認知的側面が関係しているのかが研究されてゆきます。経験的な研究は多くあり、そのひとつひとつが魅力的な問いと実験方法を提示していますが、個別に見てゆくと、ともすると大きな流れが見えなくなる可能性もあります。そこで、概観を得るためのまとめとして、この三つを読むとよいでしょう。

  • Giles, D. C., 2002, “Parasocial interaction: A review of the literature and a model for future research,” Media psychology, 4(3), 279-305.
  • Hartmann, T., & Goldhoorn, C., 2011, “Horton and Wohl revisited: Exploring viewers' experience of parasocial interaction,” Journal of communication, 61(6), 1104-1121.
  • Brown, W. J., 2015, “Examining four processes of audience involvement with media personae: Transportation, parasocial interaction, identification, and worship,” Communication Theory, 25(3), 259-283.

まず議論の総体を眺めるならGiles(2002)を、つぎに、HortonとWohlのアイデアを詳しく考えるならHartmann(2011)を、そして、パラソーシャル関係にとどまらず、ペルソナ-オーディエンス関係(PAR)に関する研究を概観するならBrowm(2015)を読むとよいでしょう。

2. メディア|Media

拙稿ではそれほどふれられませんでしたが、メディアにおけるPARの多様性とその違いもそれとして研究すべきではあります。というのも、鑑賞者がペルソナと出会うのは、さまざまなメディアを介して、いろいろなレベルにおいてなのですから。たとえば、以下の論文をみてください:

  • Bond, B. J., 2016, “Following Your “Friend”: Social Media and the Strength of Adolescents' Parasocial Relationships with Media Personae,” Cyberpsychology, Behavior, and Social Networking, 19(11), 656-660.
  • Stever, G. S., & Lawson, K., 2013, “Twitter as a way for celebrities to communicate with fans: Implications for the study of parasocial interaction,”  North American journal of psychology, 15(2), 339.
  • Vinney, C., & Vinney, L. A., 2017, “That sounds familiar: The relationship between listeners’ recognition of celebrity voices, perceptions of vocal pleasantness, and engagement with media,” Journal of Radio & Audio Media, 24(2), 320-338.

前者は二つはTwitterにおけるペルソナとオーディエンスの関係に、そして、Vinney & Vinney(2017)は、ペルソナの声とそれに対する親しみに的を絞った研究です。この論文は、同時に、前述のBrown(2015)において提示されたパスフロウモデルの批判も行なっており、興味深い論文です。

以上は引用しなかったのですが、VTuberにおいてはSNSの役割、そして声による親しみの形成も興味深いトピックになり得るでしょう。

3. パラソーシャルブレイクアップ|Parasocial Break-up

註でしかふれられませんでしたが、パラソーシャルブレイクアップ、すなわち、スキャンダルなどによるパラソーシャル関係の壊れについての研究もあります。

  • Cohen, J., 2004, “Parasocial break-up from favorite television characters: The role of attachment styles and relationship intensity,” Journal of Social and Personal relationships, 21(2), 187-202.
  • Hu, M., 2016, “The influence of a scandal on parasocial relationship, parasocial interaction, and parasocial breakup,” Psychology of Popular Media Culture, 5(3), 217.

Cohen(2004)はパラソーシャルブレイクアップの重要な論文と言えます。拙稿で文献にあげたのは後者で、こちらはスキャンダルとの関係に焦点を当てたものです。PARにおいて特徴的なのは、ふつうの対人関係ではそれほど衝撃的ではないような事態(e.g. 本人の顔が知られる、交友関係が知られる、経歴が明らかになる)ことによってPARが壊れ、オーディエンスが反応することでしょう。いわゆる「偶像化」と呼ばれる現象はこの方面からより明確に概念化/明確化する必要があるでしょう。

4. 擬人化|anthropomorphism

また、VTuberの「実在感」は、その生成過程はパラソーシャル関係から、そして、より広い視野からは、擬人化(anthropomorphism)研究の視点から分析できるでしょう。

  • Epley, N., Waytz, A., & Cacioppo, J. T., 2007, “On seeing human: a three-factor theory of anthropomorphism.,” Psychological review, 114(4), 864.

  • Epley, N., Waytz, A., Akalis, S., & Cacioppo, J. T., 2008, “When we need a human: Motivational determinants of anthropomorphism,” Social cognition, 26(2), 143-155.

  • Gardner, W. L., & Knowles, M. L., 2008, “Love makes you real: Favorite television characters are perceived as “real” in a social facilitation paradigm,” Social Cognition, 26(2), 156-168.

基本文献は前のふたつで、引用したのは最後のものです。Gardner(2008)は、「実在感」がオーディエンスにおいて感じられているだけではなく、その動作性テストから、感じられた実在感が、オーディエンスの動作にじっさいに影響を与えていることが示唆されており、非常に興味深い研究です。また、擬人化は、現象の理解や認識論とも関係しているでしょうし、美学的にも想像や隠喩の問題として議論されています。

5. スター研究|Star Studies

スターというトピックに関しては、映画研究において蓄積があります。その概観としては、

  • Hayward, S., 2013, Cinema studies: the key concepts (New York, Routledge).

そして、Dyerの著作にあるスターのイメージ形成の議論から手がかりを得ました。

  • Dyer, R., & McDonald, P., 1998, Stars, new ed. (London: British Film Institute). リチャード・ダイアー『映画スターの「リアリティ」 : 拡散する「自己」』浅見克彦訳(青弓社、2006年)。

まとめと展望

以上で扱ったトピックと概念は、VTuberにとどまらず、ペルソナと鑑賞者が関係する多くの社会的関係に対する分析枠組みとして有用でしょう。たとえば、二次元/三次元アイドル、有名なツイッタラー、といった隣接する対象のみならず、政治家や革命家のメディアペルソナの分析と批判にも用いられうるはずです。

ペルソナ一般は、それにふれる者とのあいだに、いつのまにか親密な関係をつくりあげうるのであり、それは使いようによっては、生活に癒しとリズムを与えうるし、たほう、回避すべき事態も引き起こせるでしょう。ゆえに、感性がどのようにハックされうるかを、前もって分析しておくことは無駄ではないはずです。

第2節:ボディ

1. キャラクタの画像|Picture of Character

  • 高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」Contemporary and Applied Philosophy 第六号、16-36項、二〇一四年-二〇一五年、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/226263(2018年6月27日最終アクセス)。

  • 松永伸司「キャラクタは重なり合う」、『フィルカル』Vol.1-No.2 76-111項、二〇一六年。
  • 高田敦史「「キャラクタは重なり合う」は重なり合う」うつし世はゆめ/夜のゆめもゆめ、http://at-akada.hatenablog.com/entry/2016/10/22/213559、二〇一六年 (2018年6月27日最終アクセス)。

キャラクタの画像(図像)の想像とフィクションの議論に関しては、上の論文を読むとよいでしょう。

フィクションにおけるキャラクタとその画像(picture)の独特の関係づけについての問題を定式化し、描写の哲学の議論をもとに、キャラクタに関する「分離された対象」のアイデアを提示したのは高田(2014-2015)の論考です。これを受けて、「キャラクタ空間」、そして「Pキャラクタ(パフォーミングキャラクタ)」、「Dキャラクタ(ダイエジェティックキャラクタ)」の概念を導入したのが松永(2016)で、その応答として高田(2016)が書かれています。

拙稿ではこれらの議論から、キャラクタの画像とキャラクタの違いの区別の導入に関して多大な影響を受けています。

2. 身体|Bodies

  • Cavell, S., 1979, The world viewed: Reflections on the ontology of film (Harvard University Press). スタンリー・カヴェ ル『眼に映る世界 : 映画の存在論についての考察』石原陽一郎訳(法政大学出版局、二〇一二年)
  • Hopkins, R., 2008, “Depiction,” In The Routledge Companion to Philosophy and Film (pp. 84-94), (Routledge).
  • Riis, J, 2008, “Acting,” In The Routledge companion to philosophy and film (pp. 23-31), (Routledge).
  • 灰街令、2018年a「キャラジェクトの誕生」新・批評家育成サイト-ゲンロンスクール、http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2748/(2018年6月27日最終アクセス)。

  • ——、2018年b「「キャラジェクトの誕生」補論——杉本憲相」試論たちの箱庭、http://reihaimachi.hatenablog.com/entry/2018/03/31/003906(2018年6月27日最終アクセス)。

  • 松永伸司「俳優、着ぐるみ、VTuber」、9BIT: GAME STUDIES & AESTHETICS、http://9bit.

    99ing.net/Entry/87/、二〇一八年(2018年6月27日最終アクセス)。

  • 猪口智広「ヴァーチャルなキャラクターの操演と動物性についての試論」『ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、223-229項、二〇一八年。

カヴェルは先日逝去されたアメリカの哲学、そして美学を代表する哲学者です。彼は、幅広い考察を行なっていますが、拙稿ではその映画の哲学に関する代表作の一つである『眼に映る世界』における、starとactor、そしてcharacterの独自の関係性に関する第四章の議論に影響を受けています(カヴェルの議論を参照しているHopkins(2008)、Riis(2008)も手がかりにしています)。

また、独自の視点からキャラクタの身体についての分析を行った、灰街(2018)はキャラクタの画像が表象するキャラクタとそれを使う者との関係を考察する上で、手掛かりとなった論考です。

松永(2018)は三層理論を用いた比較美学の試みを行なっており、議論の発展が見込めるでしょう。じっさい、猪口(2018)は、その枠組みをファーリー・ファンダムの鑑賞実践に応用しつつその特殊性の分析を試みています。さまざまな身体の鑑賞に焦点を当てた分析はさらなる可能性をもっているでしょう。

3. 虚構とバーチャル|Fiction and Virtual

  • シノハラユウキ『フィクションは重なり合う 分析美学からアニメ評論へ』logical cypher books、二〇一六年
  • シノハラユウキ「デイヴィド・チャーマーズ「ヴァーチャルとリアル」」logical cypher scapehttp://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20180425/p1、二〇一八年(2018年6月27日最終アクセス)。
  • Chalmers, D. J., 2017, “The virtual and the real,” Disputatio, 9(46), 309-352.
  • ナンバユウキ「ヴァーチャルリアリティはリアルか」 Lichtunghttp://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/04/21/ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、二〇一八年(2018年6月27日最終アクセス)。

VTuberよりひろく、VR世界は、その存在論的地位に関する疑問も多くあります。リアルとフィクションのあいだに、「バーチャル」といった存在論的な隙間はありうるのかどうか。

まず、Chalmers(2018)の論考は、バーチャルは現実と同様の存在論的地位をもつとする、「デジタル実在論」を擁護しています(cf. ナンバ 2018)。しかし、チャーマーズの議論に関して、シノハラ(2018)が指摘するように、バーチャリティを、美学的な道具立てを援用しつつ想像や虚構性の概念から分析する可能性も大いにあります(わたしもこちらの戦略に興味をもっています)。

また、とくに作品における虚構世界がどのような関係にありうるのかを議論した著作に、シノハラ(2016)のものがあり、想像の関係を考察する際には、そして、想像と虚構の概念を整理する際にはお世話になりました。

まとめと補足

第2節のトピックと概念のいくつかは美学における議論から生まれたものです。じつのところ、拙稿ではそれほど表立って引用がなされてはいませんが、論考の全体を通しては、分析美学と呼ばれる領域における方法論や問題意識に影響を受けているといえるでしょう。こうした分析美学の入門書としては:

  • ロバート・ステッカー『分析美学入門』森功次訳(勁草書房 二〇一六年)。

 

分析美学入門

分析美学入門

 

があげられます。また、より具体的なトピックに絞ったもので、より手に取りやすいと感じるものとしては、「批評とは理由にもとづいた価値づけである」という主張を、反論と再反論を繰り返すなかで提示してゆく、分析美学的な批評の哲学の入門としては:

  • ノエル・キャロル『批評について:芸術批評の哲学』(勁草書房 二〇一七年)。
批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

があります。さらに、分析美学全体の雰囲気はこちらの記事がよく伝えているように思われます:

VTuberのような勃興ジャンルの鑑賞実践を整理し、そこで用いられている概念を明確化する際には、こうした道具立てを用いることも有力なアプローチの一つであると考えています。

第3節:エコロジィ

1. ファン研究|Fan Studies

  • Pearson, R., 2010, “Fandom in the digital era,” Popular Communication, 8(1), 84-95.
  • Thomas, B., 2011, “What is fanfiction and why are people saying such nice things about it?” Storyworlds: A Journal of Narrative Studies, 3(1), 1-24.

ファン研究は1970年代からはじまりました。Thomas(2011)はその発展を跡づけており、どのような問題意識からファン研究がはじまり、進展していったのかが概観できます。また、デジタルな環境がもたらすファンダムのあり方の変化についてはPearson(2010)を参照しています。

2. 環境|Ecology

  • Cooper, M. M., 1986, “The ecology of writing,” College English, 48(4), 364-375.
  • Turk, T., & Johnson, J., 2012, “Toward an ecology of vidding,” Transformative Works & Cultures, 9.

ファンにおける文化形式の鑑賞実践を「環境」をキーワードに捉える方針は、主にこの二つの論考から手がかりを得ました。Cooper(1986)はライティング教育の視座から、書き手と読み手の関係を考察するなかで環境概念を提示しています。Turk(2012)はそれを発展させ、ファン動画がどのように作成され、そしてどのように鑑賞されているのかを具体例とともに分析しています。

まとめと発展

鑑賞実践に注目するアプローチは、とくに特定の鑑賞実践を引き起こすことを目的としているような作品の関して、より重要になるでしょう。たとえば、VTuberジャンルにおいて鑑賞されうるような『鳩羽つぐ』や『高い城のアムフォ』は、作品の解読や、その作品内で用いられる言語の読解という鑑賞も可能な点で、こうした実践指向の鑑賞分析が必要になるものでしょう。

たとえば、以前、『鳩羽つぐ』を「不明なカテゴリ」として、鑑賞者に積極的な解読を誘うことを意図した作品として分析しました:

ナンバユウキ「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503(2018年6月27日最終アクセス)。

この時点では、環境概念を手にしていなかったために、鑑賞実践を部分的にしか分析の手がかりとすることができませんでした。鑑賞の環境概念の彫琢とともに、その概念を用いてこの議論をアップデートする必要があるでしょう。

あとがき

わたしは、アイドルやスター、フィクショナルキャラクタにひとがなぜ魅了されるのかに、興味をもっていました。というのも、知人のいく人かはこれらにつよく魅了されているが、じぶんはそれに比べるとあまり没入して鑑賞してはおらず、なぜこのような鑑賞経験のちがいがあるのだろうと疑問に思っていたのです。

そこで現れたVTuberは疑問の詰まったからくり箱のようでした。どこから開けるべきか、どうすれば開くのか……その意味でわたしはVTuberという謎めいた文化の解読につよく魅力を感じています。加えて、そのペルソナの周囲でどのような鑑賞実践が形成されているのかにも興味を覚え、論考を書いた次第です。そして、さまざまな研究を辿るなかで、魅力的な概念に出会い、疑問のいくつかは定式化され、問いを問うための手がかりを得ることができました。

本稿が、そして拙稿が、実際に鑑賞実践のうちにあり、批評を行ないたいと思うひと、あるいは、この文化のもたらす問題に目を光らせるひと、そのほかさまざまなひとにとっての、VTuberについて考えるための足がかりになればと思います。

VTuber研究、そしてVRの環境の研究が、さまざまなレベルで開始され、知見が深まってゆくことを楽しみにしています。さらに、それらの研究から、つぎの文化や社会を、のみならず、気づかれていなかった過去の文化の系譜を考察する手がかりが生まれることを期待しています。

さいごに

さいごに宣伝を。現在、以上で紹介した各トピックの掘り下げのご依頼、また、VTuber、VR世界の出来事や概念の分析、批評のお仕事をお待ちしております。

VTuberの批評と分析については本ブログを、その他、どんな対象を研究しているのかなどは、もう一つのブログからご確認いただければと思います:

http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/07/31/225311

美学と哲学の立場から、概念の整理や批評を通して、あたらしい文化実践をよりいっそうゆたかにするとともに、文化実践がはらむ問題について取り組むための枠組みをつくってゆきたいとも考えています。

ナンバユウキ(美学) Twitter: @deinotaton