Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』注意と分散

はじめに

浦上・ケビン・ファミリーは、作曲、編曲、演奏、エフェクト、歌唱まですべてをこなすソロユニットである。浦上の編曲はこれまでYouTube上にアップロードされており、その高度やリハーモナイズの才と音色の豊かさから一部のあいだで高い評価を得ていたが、彼の最初のオリジナル曲『芸術と治療』が先日(2019年1月20日)公開され、その類まれなる才能と音楽的豊かさに多くのひとが気づきはじめた。

本稿では、浦上の曲を、これまで聴いたことのなかったひとにも聴いて頂き、また聴いたひとのなかで、しっくりこなかったひとにもあらためてそのよさに気づいて頂き、さらに、もちろん、よさに気づいたひとにはいっそう深くその価値を味わってもらえるよう、「注意と分散」をキーワードに『芸術と治療』の聴取を分析し、そのおもしろさを明らかにする。

f:id:lichtung:20190125142510j:image

経験を分析する

浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』

一聴して気づくのは、この曲からあふれ出る様々なアイデアの存在である。メロディのみならず、ハーモニー、リズム、全体の構成、音色、楽器の配置。だが、それはたんに量的なものでなく、詰め込んだだけでもなく、この曲の価値そのものとなっており、そして、この曲を何度も繰り返し聴く意味をもたらす。そして、こうした構造ゆえに、『芸術と治療』は注意と分散の作品であると言える。どういうことか。この点について分析してみよう。

この曲のもっとも際立った聴取経験、それは、「注意と分散」の経験だ。

たとえば、ピアノの位置が左から右へ、あるいはその逆へと移り変わってゆくとき(たとえば、2:50〜3:00)。いままでバッキングに徹していた楽器が印象的なフレーズを奏でるとき。そのとき聴き手の注意はそれぞれのその楽器に向けられる。聴き手は、注意をあちこちに惹きつけられ、分散させられる。

こうした注意の惹きつけと分散は、今あげた楽器のみならず、あらゆる楽器で試みられる。聴き手は次から次へと異なる楽器に注意を向けざるを得なくなる(試しに、ギターバッキングだけを追うように挑戦してみてほしい。あなたの聴取経験が豊かなほど、しかし、ほかの音へと耳が惹きつけられてしまうはずだ。)。

こうした注意と分散は、楽曲の全体的な構造によってもデザインされている。第一に、この曲のかなり特徴的なリズムに注目しよう。この曲は、ポップスにはほとんど見られないような7+8のリズムで構成されている(手拍子を叩きながら数えてみてほしい。イントロあたりで特に理解しやすいだろう)。こうしたリズムは、一般的な4拍子の曲よりもさらに、聴き手の注意を分散させることに貢献している。メロディを追おうとしても、それが小節をまたぐあいだにリズムセクションやストリングスに注意が惹きつけられる。

第二に、この曲の構成もまた、聴き手の注意を途切れさせ、方向づけを変える。すなわち、イントロとAメロの移り変わりから、また繰り返し挿入される、しかしまったく異なるキャラクタを持ったインターリュードに見られるように、あらゆる転換の場面で、楽器の音数、位置、音域などは変更され、聴き手はそれまでのセクションにおいて保ってきた注意のあり方を、そのつど再編成しなければならなくなる。

第三に、歌詞について注目すれば、それが様々な文体や態度を混合したものであることに気づくだろう。あるときは独語のように、あるときは語りかけるように。歌詞においても、様々なパースペクティブからの語りが織り交ぜられ、聴き手の注意を分散させる。

第四に、あらためてまとめておけば、この曲は全般的な楽器の配置の変化や音量、組み合わせの変化によって、聴き手の注意を惹きつけ、分散させる。

こうした四つの構造は、もちろん、多くのポップスにも多かれ少なかれみられるだろうが、しかし、その程度において、『芸術と治療』は際立っている。ふつう、聴き手が戸惑うことのないように拍子はスクエアで、メロディは行儀よく小節に収められている。そして、イントロやAメロなどで変化はあるものの、そのダイナミクスや表情がここまでおおきく変わることはない、そしてさらに、歌詞は一定のパースペクティブを保っているだろうし、楽器に関する変化はここまで著しくない。ゆえに、こうした構造的特徴は、この『芸術と治療』に特有のものとしてみてよく、そして、この作品特有の鑑賞経験を説明するのにふさわしいはずだ。

そして、こうした注意の分散を誘う構造は、聴き手がこの曲を繰り返し聴いてしまう理由の一つを説明する。聴き手は、同じ曲を聴くのだが、しかし、同じようには聴かない。あるいはより正確に言えば、聴けない。注意は聴くたびに異なる仕方で分散され、聴き手は、毎回異なる『芸術と治療』を聴く。あるときははじめベースラインとリズムセクションを聴いていて、いつのまにか中音域のストリングスに注意を払ってしまっている。注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、『芸術と治療』の価値を説明するとともに、この曲を何度も繰り返し聴いてしまう理由を説明するだろう。『芸術と治療』は一回で辿れるようになっていない、また、何度辿っても異なる姿を見せる注意と分散を特徴とする作品である。

注意と分散の美学

注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、なるほど、この作品の鑑賞経験の一部がどのようにしてもたらされるかを捉えているにせよ、しかし、なぜ特有の美的経験をもたらすのだろうか。

この点について考察するために、知覚の哲学/美学研究者のベンス・ナナイの知覚と経験に関する分析を手がかりにしたい。

彼は、『知覚の哲学としての美学』において、「分散された注意(distributed attention)」と「集中した注意(focused attention)」という概念を用いて、美的経験について、知覚の特有性からの説明を試みた(Nanay 2016)。彼によれば、典型的な美的経験とは、ある対象、あるいは対象のまとまり全体に集中するもので、かつ、そうした対象の様々な性質へと分散された注意を向けることによって特徴づけられる。たとえば、ある絵画を鑑賞することで、鑑賞者がある美的経験を行うのは、その絵という対象に集中して、そして、たんにその主題のみならず、色、形、構成など、様々な性質に分散的に注意を払うことによってである(ibid., 23)。

さて、こうした「対象への集中と性質への分散」によって特徴づけられる美的経験は、なぜ特有の、しかもある価値を持つとされる経験なのか。それは、こうした美的経験は、たんにある対象を前もって定められた見方によって眺めるのではなく、次々に変化する注意によって、様々な性質を知覚やあるいは思考によって分散的に気づき、いままで見つけ出すことのできなかったような特有な性質を見つけ出すような経験であり、それは、「わたしたちにこの世界を別様に眺め、そして注意することを可能にするから」である(ibid., 35)。鑑賞者はこうした自由な注意の戯れによって、新たな仕方で対象を味わうことで、自らの既存の知覚を解放することができる。そうした経験は、まるで「世界ともう一度はじめて出会う」ような経験を可能にする。ゆえに、美的経験はそれ特有の快楽を伴う経験なのである。そして、『芸術と治療』はこうした注意と分散とをもたらすようにデザインされた作品として独自の価値を持つ。

だが、ここで、次のような想定反論がありうる。

多くの優れた表現は、様々な仕方で美的経験をもたらすことを意図する。たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、環境音というふつう見逃され、鑑賞の対象にならないものを鑑賞するように鑑賞者を誘い、鑑賞者は、環境音という対象に集中し、そして、その様々な聞こえという性質へと分散した注意を向けることで、美的経験を行う。そう考えれば、こうした美的経験からの説明は、『芸術と治療』特有の批評としては問題があるのではないか––––。

たしかに、美的経験は一般的に作品がそれをもたらそうとするものだ。しかし、それぞれの作品に特有な価値のひとつは、(1)それがどのような対象に注意を払わせるか、そして、(2)鑑賞者において、対象に集中し、かつ性質に分散された注意をいかにして向けさせるかというふたつの方法をどのようにして達成しているのかに見出すことができるとわたしは考える。

たとえば、先ほどのケージの作品は、(1)環境音というふつう注意が向けられない対象を取り上げ、そして、それを(2)コンサートホールや楽器奏者をもちいて、鑑賞者に一般的な音楽と同じように聴取させようと目論むことで、環境音という対象に集中的で、かつ、その性質に分散された注意を向けさせ、独特の美的経験をもたらす。

同様に、浦上の『芸術と治療』は、(1)注意の対象としてはポップスであるが、(2)前説で解説したように、四つに代表される音楽の構造によって、曲それ自体を対象として、対象に集中し、かつ、様々な性質に分散された注意を向けさせることに成功している。そして、こうしたデザインの仕方は、先ほど議論したように、この作品に特有である。したがって、この作品は、独自のデザインの仕方によって独自の美的経験とその価値とを作り出しており、その意味で、ほかの作品には見られないユニークな美的経験をもたらしている。

したがって、『芸術と治療』の鑑賞経験が、こうした美的経験を助長し、深化させるようなものであることが理解される。すなわち、この作品は様々な構造によって、性質について分散された注意をもたらすようデザインされた作品だと言える。したがって、この作品は美的経験のためにデザインされた作品として際立っているのだと言える。

批評の不可能性?

しかし、とここで想定反論がありうる。こうした形式的な特徴づけは、あらゆる美的経験をたったひとつの種類の経験に還元するものであり、不合理ではないのか。ケージの作品と浦上の作品はあきらかに異なる現象的経験がなされている。もし本稿が批評を語るなら、そうした経験そのものを記述しなければならないのではないか。

この指摘は部分的にただしい。こうした美的経験の特徴づけは、あくまで形式的な特徴づけであり、個別の作品に対する経験はそれぞれに現象的に異なっていると考えることが適切だろう。

だが、そうした厚みを持った現象的経験を言葉にすることは少なくともいまのわたしには難しい。わたしが可能なのは、そうした現象的経験をもたらすような要素やそうした経験を形づくるデザインを指摘することで、それらの記述を読んだ鑑賞者があらためて作品を鑑賞し、各々に現象的経験を行うことを手助けすることだろう*1。上で行ったように楽曲の構造や響きの変化を指摘することは、現象的経験そのものに関しては有意味な情報をそれほどもたないが、しかし、そうした形式へと読み手の注意を向けさせることに成功するなら、それは浦上の曲が持つ特有のデザインへの気づきにつながり、そして、浦上の曲のひとつの経験の仕方を提示することになる。そして、その経験が部分的にせよ作品鑑賞において正当なものなら、それはこの曲の価値そのものと関わる経験であり、したがって、そうした経験へと気づかせうる本稿の記述は、有意味な情報を伝達しうる批評である。ゆえに、以上の指摘と議論は、ひとつの有意味な批評であるとわたしは考える。

本稿では、現象的経験そのものの記述ではなく、それを可能にし、あるいは気づかせ深化させうることを目的として、経験をもたらすデザインとその経験の形式的記述を行った。この先は、実際に作品を味わってみてほしい。あなた自身において、特有の現象的性格を持つ美的経験が生起するだろう。

おわりに

さいごに、浦上自身によるライナーノーツから、断片的ではあるが、この曲のメッセージを考察してみよう。浦上は次のように述べている。

「せっかく自由奔放に育った芸術性や嗜好性を、凝り固まった大人たちに無理に治療されたくない!」という青すぎる青年が居たと仮定して、その架空の人間の立場に自らの身を置いてみた結果、そこから突如生まれた自意識過剰性をテーマにした詞です(浦上 2019)

浦上は、個人的に育った芸術性や嗜好性を大人たちが治療、あるいは社会的に矯正することに反する架空の人物を想定している。ここから、この曲の歌詞の語り手はそうした「青すぎる青年」とみなせる。そして、この青年が様々な経験や思考を経てゆくさまがこの曲では語られていると理解できる。とはいえ、ここではその物語のすべてを追うことはできないが、特に重要なメッセージを辿ってみたい。

楽曲の後半、「剥がされる芸術」のあとのインターリュード。治療を施され、サナトリウムで聴くような雨の音のあと、青年は、「僕は黙ってる/僕は黙ってるのスタンスはそぐわない」と呟き、そして、朗々と歌い上げる。

君なら売られた喧嘩
優しく躱せるはず
"僕は滅茶苦茶だ"
"僕は目茶苦茶だ"、
に愛されて帰れない

もっとも印象的なフレーズのひとつ。青年は自身の「滅茶苦茶」さを再確認し、それに「愛されて」いると受け取る。それは、なるほどじぶんの他人との差異を誇り、そしてそこに才を見出すような「自意識過剰」な若者のイタさなのだが、しかし、自身の差異と才に対する真正な態度でもある。そして、芸術的才能と感性を形づくる自らの特異性を「売られた喧嘩」から守ろうとする、治療されまいとする自身への肯定でもある。こうして、大団円の響きの中で明白にメッセージは伝えられ、治療ではなく芸術を選択することの決意が語られる。

半ば仮想的なキャラクタであれ、浦上は曲中の青年にシンパシーを抱いているのかもしれない。そうだとすれば、本稿のような、表現を形式的に取り上げ、理論から理解しようとする態度は、奔放な表現に公式的な枠を当てはめる「治療」の行いかもしれない。だが、こうした「治療」を得意とする者の予想をかるがると飛び越えて、青年は、あるいは浦上は「滅茶苦茶」に表現を続けていくことだろう。

浦上はポップスをさらに豊かにしてくれる。ひとりのファンとして、そして表現を言葉によって理解しようとする者として、彼の新たな試みを確信とともに楽しみにしている。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

McGregor, R. 2014. “Poetic Thickness.” British Journal of Aesthetics, 54 (1), 49-64.

ナンバユウキ. 2019.「詩の哲学入門」Lichtung、http://lichtung.hatenablog.com/entry/introductioin.to.a.philosophy.of.poetry.lichtung.(2019/02/02 最終アクセス)

Nanay, B. 2016. “Distributed Attention.” In Aesthetics as philosophy of perception. 12-35. Oxford University Press.

浦上・ケビン・ファミリー. 2019.「”芸術と治療” メモ」note、https://note.mu/urakouji/n/n189466d6bf38.(2019/02/02 最終アクセス)

おまけ:『未熟な夜想』短評

この論考を書いているあいだに、オリジナル第二曲が発表された。

浦上・ケビン・ファミリー『未熟な夜想

またもやものすごい作品である。所感をここに再掲しておく。

浦上・ケビン・ファミリーのオリジナル第二曲『未熟な夜想』時間を操る魔法のような歌。童話のようなクラシカルな響きを伴いながら、最初は過去からはじまり、アッチェレランドして、現在に戻る。そして、ア・テンポすると過去に巻き戻る。音楽は時間を操れるのだという驚き。時間芸術としての音楽と詞の意味は重ね合わさる。歌は過去と現在を行き来きする呪文であるということ。ポップスの次を聴いてしまった。

*1:この議論は、詩の経験の言い換え不可能性の議論をヒントにしている。この点ついては McGreger(2009)を、また、日本語でのまとめについては、ナンバ (2019)を参照せよ。

質感旅行スケッチ

はじめに

「質感旅行」という言葉は急に目立って現れた。本稿はその概念を公式の質感旅行的鑑賞と非公式の質感旅行的鑑賞に区別し、聖地巡礼という行為との関係を整理する。

f:id:lichtung:20190122204205j:image

経緯

聖地巡礼と質感旅行についての言説が急に目立って現れる。起源は不明だが、目立つようになった理由は『ガールズ ラジオ デイズ』という作品の流行によると言えそうだ*1

整理をしてみた。

これに対して、より明晰な整理をする方が現れる。

おもしろそうなので図示してみる。

表現に問題がかなりありそうである(図1が聖地巡礼的鑑賞、言い換えて、公式の質感旅行とする。図2が質感旅行的鑑賞のつもり。)。

ただ、この図は理論的に入り組んでいるので、もっとシンプルに考えてよいはず。また、聖地巡礼と質感旅行として区別するのもよい手とは言えないだろう。

公式/非公式の質感旅行

そこで、あらためて、上述の聖地巡礼と質感旅行とを、「公式の質感旅行」「非公式の質感旅行」として区別してみる。

  • 公式の質感旅行的鑑賞:ある物語的フィクションの画像や映像が表象している対象を現実に見つけて、その現実的対象と虚構的対象との重なりを味わう行為。

たとえば、『涼宮ハルヒ』でしばしば主要キャラクタたちが集合し、会議を行う喫茶店のモデルとなった珈琲屋ドリームに出かけていって、メロンソーダを頼んだりする行為。その際には、しばしば、「SOS団がいつも頼んでるやつだな」といった言語化しにくい妙な感動がある。

対して、こうした聖地巡礼的鑑賞のさらに特定の鑑賞の仕方として、非公式の質感旅行的鑑賞がある。

  • 非公式の質感旅行的鑑賞:ある物語的フィクションにおいて表象されていないが、しかし、その物語的フィクションに関係しているだろう現実の土地や風景を手がかりに、その物語的フィクションにおいてありえそうな事柄やキャラクタの生活などを想像する行為。

たとえば、西宮北口から梅田へ阪急電車に揺られながら、車窓を眺めて「ハルヒキョンはこの景色を見ているのだろうか」と想像して、公式には存在しない物語や出来事を楽しむ行為(「古泉は神戸大学に行ってて、六甲道のきつい坂登ってそうだな」とかも不可能ではないが、作中で示されていないほど質感旅行は難しくなるだろう。)。二次創作的聖地巡礼

ここからもわかるように、質感旅行と聖地巡礼というのは、対概念というわけではない。両者は排反ではない。聖地巡礼という大きな枠組みの中に様々な鑑賞行為があり、そのうち、公式/非公式の質感旅行が指摘されているというかたち。

非公式の質感旅行のおもしろさは、物語的フィクションの内容の現実世界における再確認の感動というより、自身でキャラクタに関して作品中には存在しない情動やイベントを現実の対象を手がかりに想像することによる美的快にあるかもしれない。

覚書

  • 質感旅行はガルラジのような音声や文字媒体が主たるメディアである作品と相性がよいかもしれない。ゆえに質感旅行について知りたければ、ガルラジを鑑賞した方がよいかもしれない。
  • 聖地巡礼的鑑賞の一形態として理解できるとすれば、ほかにも質感旅行とおなじレベルの他の聖地巡礼的鑑賞経験があるかもしれない。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

*1:通称ガルラジについては以下がわかりやすい。関係する文書のまとめは拙ブログもあります。

『ガールズ ラジオ デイズ』––––周波数を合わせて

はじめに

小説、ラジオ、アプリ––––複数のメディアで作品世界を作り上げる作品、「ガールズラジオデイズ」。

ガルラジ*1については短期間にいくつものブログ記事が書かれている(萌黄 2019; Nobu 2019; シノハラ 2019a, 2019b; 鶏七味 2019; yunaster 2019)。本稿では、こうした先行する記述で触れられていた本作のメディアの特徴に焦点をあて、この作品の鑑賞経験の独自性、とくに、その「リアル」な質感がいかにしてもたらされているのかを分析美学を手がかりに問い、そして明らかにすることを目指す*2

本稿の構成は以下の通り。第一に、ラジオというカテゴリに関する議論を行い、それだけでは本稿の問いに答えるには不十分であることを確認し、第二に、メディアの存在論的な特徴に注目する。最後に、共感の概念から鑑賞経験を分析し、前節の議論と総合し、ガルラジがもたらす「リアル」な質感を分析し、明示化する。そして、以上の議論から、十全な鑑賞のためには、ガルラジを、他でもなく、いま、鑑賞しなければならない理由が明らかにされる

f:id:lichtung:20190116025036j:image

1. ラジオというカテゴリ

ガルラジは、ラジオとして鑑賞される。すなわち、ラジオというカテゴリのもとで鑑賞される。本作はキャラクタ自身や公式HPにも記載された情報に基づけば、そのようなカテゴリのもとで鑑賞されることを前提としている。

しかし、鑑賞者は、しばしば指摘されるように、「明らかに虚構的だが、しかし、どこかでリアルさを感じる」ような独特な鑑賞経験を行っており、他のラジオ番組と同様な鑑賞経験をしているわけではない。この特殊な経験はどのような特徴に由来するのだろうか。

ここで、ガルラジが、ラジオとして鑑賞される作品であり、かつ、物語的フィクションでもあることに注目しよう。

ふつう、ラジオは現実の人物が現実のリスナーあるいは鑑賞者に向かって放送されるノンフィクション作品である。だが、ガルラジにおいては、フィクショナルキャラクタが、しかしフィクショナルであることを部分的に強調せずに、かつ、リアルタイムであるかのように配信を行なっており、それが現実の鑑賞者へと届けられる。

鑑賞者は、現実のじぶんたちに伝達される現実的な情報としてラジオを想像的に聴く。つまり、ガルラジは明らかに物語的フィクションではあるが、ノンフィクショナルなものとして想像的に聴取する。この点に、現実的なラジオとフィクショナルな物語を組み合わせたガルラジの作品としての独自性を見出せる。つまり、ガルラジは、ラジオというメディアを意識的に表現の素材あるいはメディウムとしている点で独自な鑑賞経験をもたらしている*3。とはいえ、この特徴づけは十分にガルラジの独自性を拾いきれているわけではない。

2. 貫世界的メディア

こうしたカテゴリの操作に加えて、メディアに関してガルラジは興味深い試みを行なっている。次にこの点を考察しよう。ガルラジの鑑賞者は、しばしば、アプリにおけるつぶやきがもたらす「リアル」な質感について言及している(シノハラ 2019b)。これはラジオとカテゴリの議論だけでは説明できない。それでは、どのような概念によって説明できるだろうか。

ここで虚構世界と現実世界をまたぐメディアの存在に注目することからはじめよう。

ふつう虚構世界を表象する対象は当の虚構世界には存在しない。たとえば、現実世界には、漫画原作版『ゆるキャン△』とアニメ版『ゆるキャン△』が存在するが、これらのメディアは『ゆるキャン△』の虚構世界内に存在しない。対して、ガルラジにおいては、そのラジオ、アプリは、現実世界のみならず虚構世界にも存在し、キャラクタたちはこれらのメディアに言及することができる。

こうした「ある虚構世界を部分的にせよ表象する現実世界において存在するメディアであり、かつ、ある虚構世界内のキャラクタがその標準的な虚構世界内において言及、関係可能なメディア」を「貫世界的メディア(transworld-media)」と呼ぼう*4

たとえば、〈『ゆるキャン△』の虚構世界に漫画版『ゆるキャン△』やアニメ版『ゆるキャン△』が存在する〉という命題は偽であり、『ゆるキャン△』の漫画、アニメは『ゆるキャン△』に関して貫世界的メディアではない。

これに対して、ガルラジにおいては、〈ガルラジの虚構世界にラジオ番組『ガルラジ』やガルラジアプリが存在する〉は真である。ゆえに、ガルラジにおいてはガルラジのキャラクタを表象するメディアは貫世界的である。

もちろん、こうした貫世界的メディアを持つ作品は珍しいわけではない。たとえば、『指輪物語』の小説の本は、『指輪物語』世界内に存在しているとみなすことは可能だろう。また、『鳩羽つぐ』における「鳩羽つぐ」の動画やクラウドファンディングで提供される鳩羽つぐのVHSや夏休みの日記帳は貫世界的メディアであり、あるいは、『高い城のアムフォ』における動画『高い城のアムフォ』もまたこの作品の主要なキャラクタであるアムフォが言及できる貫世界的メディアである(cf. ナンバ 2018a, 2018c; 難波 2018b)。

こうした貫世界的メディアはおしなべて、ある種の「リアル」な質感をもたらすように思われる。たとえば、先のシノハラが指摘するように、つぶやきを見ることで引き込まれる感覚がある。とはいえ、なぜそのような質感がもたらされるのだろうか。

この点を明らかにするために、次に、「共感」の概念を手がかりに分析を行う。

3. 心は重なり合う

ここで共感の特徴づけにあたってケンダル・ウォルトンの議論を参照しよう。彼は、「共感(empathy)」を、鑑賞者が、現在の心的状態(情動、欲望、信念、意図など)をサンプル(sample)として、ある目標(他人、じぶん、キャラクタ)の心的状態の特定の理解を行うことだとした(Walton 2014, 9)。

たとえば、現実において、ふたりで同じ花を見ていて、あなたが「美しい」と感じ、静かで満ち足りた心的状態である時、ふと隣に立った彼が「美しい」と呟いた言葉を聞き、その穏やかな横顔を見た時、あなたは、彼に一層親近感や結びつきを感じる。そうした結びつきを可能にするのは、あなたが目標である彼の心的状態をその言葉、抑揚、表情から知覚し、そして、その心的状態を自身の心的状態をサンプルに確かに理解したからだ*5。こうした共感を行うことで、あなたは、目標の心的状態を実感を伴って理解できたために、目標との「心の距離」の近づきを感じる*6

さて、話を戻して、この特徴づけから、つぶやきのリアルさを部分的にせよ説明しよう。

重要なのは、共感の際にサンプルとして用いられる心的状態は現在のそれだということだ*7。この時、小説の場合、それを読んでいる際の鑑賞者の心的状態とキャラクタのそれとは、ふたつの異なる世界の異なる時間の上にある。

だが、ガルラジにおいては、つぶやきに代表される、よりリアルタイムに近い表象によって、鑑賞者の心的状態とキャラクタの虚構的心的状態とを(もっとも著しい場合にはほぼ同時に)重ね合わせることができる。鑑賞者はこうした心的状態の同期を行うことで、意識的にであれ、無意識的にであれ、自身とキャラクタのある種の想像的な「心の近さ」と感じるのではないか。そうした「近さ」を感じることで両者の心的な結びつきは強化される*8

加えて、前節の貫世界的メディアの効果はここで発揮される。鑑賞者とキャラクタとがアクセスしている情報は、現実と虚構世界で一致している。ゆえに、鑑賞者の抱く心的状態をキャラクタの虚構的心的状態と重ね合わせる際の精度は一層高まっている。つまり、貫世界的メディアであるアプリにおけるつぶやきが可能にする共感の精度の高さと時間的近さによって、ガルラジのリアルタイムの鑑賞者は、ふたつの心的状態を想像的に、よりリアルに重ね合わせることができる(図1)。

f:id:lichtung:20190116150341j:image

こうした特徴づけから、なぜガルラジをいま聞かねばならないのかも説明できる。先に指摘した重ね合わせを行うためには、すなわち、ラジオ、つぶやきによって惹き起こされる心的状態をキャラクタの虚構的心的状態と重ね合わせ、ある種のリアルで臨場感のある美的経験を行うためには、この作品をリアルタイムで鑑賞する必要があるのだ

「ガルラジを今すぐ追いかけろ」と誰かが言った(鶏七味 2019)。「2019年はガルラジが来る」との声が聞こえた(yunaster 2019)。タイミングは無限にあるわけではない。「ラジオのアーカイブはラジオではなく、『ラジオのアーカイブ』なの」だ(鶏七味 2019)。「ラジオデイズ」は無限に続かない。2019年のいまだけに『ガールズ ラジオ デイズ』の鑑賞経験は出現している。

おわりに

本稿では、メディアと鑑賞者の心的経験に焦点をあて、ガルラジの鑑賞経験の独自性について考察を行った。

もしまだなら、『ガールズ ラジオ デイズ』のアプリをダウンロード、視聴し、この興味深い試みを鑑賞してみてほしい。あるいは、あらためて鑑賞を行ってみてほしい。その際に本稿の分析が鑑賞経験の深化になんらかの寄与ができれば幸いである。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

萌黄えも. 2019. 「ルラジ」note、 https://note.mu/nadeshiko_yuz/n/ne008bbcd22e5(2019/01/16最終アクセス).

ナンバユウキ. 2018a.「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503.(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2018b.「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン.(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2018c.「『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム——虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実.(2019/01/16最終アクセス).

難波優輝. 2018a. 「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50 (9)、特集バーチャルYouTuber青土社、117-125項.

––––. 2018b.「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号、81-87項. 

Nobu V. 2019.「声優ラジオが好きなオタクへ キャラクターによるラジオ「ガルラジ」を聴いてみませんか? #2019年はガルラジが来る」『浅瀬文書』、http://nobu-v.hatenablog.com/entry/2019/01/12/155838(2019/01/16最終アクセス).

シノハラユウキ. 2019a. 「ガルラジの『ラジオ番組っぽさ』『生っぽさ』について」『プリズムの煌めきの向こう側へ』、http://sakstyle.hatenablog.com/entry/2019/01/14/002843(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2019b. 「ガルラジと『つぶやき』」『プリズムの煌めきの向こう側へ』、 http://sakstyle.hatenablog.com/entry/2019/01/16/000624(2019/01/16最終アクセス).

鶏七味. 2019. 「ガルラジを今すぐ追いかけろ」note, https://note.mu/torishichimeee/n/n659ab001b550(2019/01/16最終アクセス).

yunaster. 2019. 「ガルラジー『ガールズ デイズ ラジオ』が面白い」『yunastrの雑記帳』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/01/03/142336(2019/01/16最終アクセス).

Walton, K. L. 2014. “Empathy, Imagination, and Phenomenal Concepts.” In In other shoes: music, metaphor, empathy, existence. 1-16. Oxford University Press.

*1:以下「ガルラジ」は「ガールズ ラジオ デイズ」を指す。

*2:全体像については、上記のブログが優れた見取り図と現象的記述を与えてくれているためそちらを参照してほしい。

*3:本稿では扱えないが、こうしたリアルさは、声優の演技によってももたらされているだろう。この点については、シノハラ(2019a, 2019b)を参照せよ。

*4:ここで「標準的」とは、CMなどにおいての番組や作品の宣伝の際に、キャラクタが自身を表象する漫画やアニメに言及、関係するような「非標準的」場合以外を指す。

*5:つまり、あなたは、〈彼の心的状態はPである〉という命題的知識に加えて、〈Pであるとは、わたしがいままさにあるこの心的状態である〉という命題的知識にとどまらない現象的な実感を伴った理解を手にしているために、彼の心的状態について深い理解を行うことができる(cf. ibid.)。

*6:あるいは、物語的フィクション、たとえば、ホラー映画において、不気味な人形に追いかけられる主人公に対して、鑑賞者が、恐ろしい音楽や忙しないカメラワークによって惹き起こされた「追われ続ける恐怖」といった、自身の(現実的にあるいは想像的に)抱いている情動をサンプルとして、主人公の表情や息遣いから、彼女が現在鑑賞者がある心的状態にあると理解する行為が共感と呼ばれる。こうした共感に基づいて、そうしたキャラクタとのある種の一体感を抱くことができる。

*7:ウォルトンは、現在ではなく、過去の心的状態を手がかりに目標の心的状態の理解を行うことを「ある種の共感」として区別している(ibid., 15)。

*8:こうした心的状態の理解の実感によって、キャラクタと鑑賞者とは特定の社会的関係を取り結びはじめるだろう。こうした直接的に対面していないが、人間のあるいは擬人的な画像や動画と鑑賞者の間で作り上げられる「パラソーシャル関係(para-social relationship)」については、ナンバ(2018b)、難波(2018a)を参照せよ。

【11/25 文学フリマ東京ク07・08】サークル紐育春秋『硝煙画報』第1号に『鳩羽つぐ』批評を寄稿しました

サークル紐育春秋さんにお誘いいただき、11/25、文学フリーマーケット東京[ク07・08]にて頒布予定のインディペンデントカルチャーマガジン『硝煙画報』第一号に批評を寄稿いたしました。

f:id:lichtung:20181117202946j:image

新条アカネと宝多六花がめじるし。かっこかわいい。 

『硝煙画報』について

アニメ、音楽、そして鳩羽つぐの三つの特集にくわえ、ゲーム、ファッションからはじまり、文学、映画、百合、サイエンスに関する記事、そして、イラスト、まんがにいたるまで、さまざまなカルチャーに関するあれこれを詰め込んだ、ディープな「インディペンデントカルチャーマガジン」です。

寄稿記事について

ナンバは「鳩羽つぐとまなざし——虚構的対象を窃視する快楽と倫理」を寄稿しました。分析美学を手がかりに、鳩羽つぐを美的に、そして倫理的に分析しています。分量は1万字弱です。

構成
  • 1.窃視と虚構
  • 1.1.窃視の快楽
  • 1.2.窃視者になること
  • 1.3.組み込みと窃視
  • 2.見ることの倫理
  • 2.1.鳩羽つぐを見ることは不道徳か
  • 2.2.まなざされる鑑賞者
内容

序のぶぶんでおおまかな内容と目的を語っています。

本稿では、分析美学における議論を援用しつつ、「窃視」「虚構」という概念を手がかりとして、『鳩羽つぐ』という作品がもたらす鑑賞経験の特徴を明らかにし、その倫理的問題を考察する。そして、この作業を通じて、この作品についての批評や鑑賞、あるいは研究に際して有用な概念と議論の枠組みを提示することを目指す。

本稿の構成は以下の通り。第一節では、「窃視と虚構」という概念を手がかりに、鑑賞者が担う役割と鑑賞において彼女が得ている快について分析し、『鳩羽つぐ』を虚構的で窃視的な作品として特徴づける。第二節では、虚構的対象を窃視する行為の倫理的問題を問う。

鳩羽つぐについては、いぜん、その意図の不明性に注目して、「不明なカテゴリ」という概念から分析しました*1。ですが、その特殊性を語るにあたっては、「窃視」の側面から分析する必要も感じており、断片的なアイデアを書き連ねていました。そこで今回お声がけいただき、発表するよい機会となりました。

また、さいきん、作品の倫理性とその鑑賞経験との関わりとその批評の可能性について関心をもっており、本稿では、美的なものと倫理的なものとを批評において扱うことを試みました。読み手としては、鳩羽つぐはもちろん、分析美学、作品と倫理に興味がある方も意識しています。ぜひお手にとってお読みいただければ幸いです。

ナンバユウキ 記

*1:ナンバユウキ「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503(2018年11月16日最終アクセス)。

Virtual YouTuber’s Three Bodies——Person, Persona, and Character

Introduction

What is the Virtual YouTuber (hereafter VTuber)? Who are they? Is there any uniqueness as a culture? Does it need any academic account or not?  Why are (mainly japanese) people attracted by them?

In this essay, I will make concepts to account for these questions from perspectives of media-communication studies and aesthetics. Section I , introducing VTuber, discussing about it from media communication studies, then, Section II, I try to consider its uniqueness in the imaginative appreciation relationship personae and character, finally, I summarize my account about VTuber’s Three Bodies.*1

f:id:lichtung:20180819200748j:image

I. Person and Personae

Who is a VTuber? Watching its videos, you may recognize that Vtuber’s movements and its voices are produced by someone invisible for us. Then, reading fan comments for VTuber in Twitter or YouTube, you’ll find that fans ‘talk to’ them, and sympathize/ antipathize them, even more, tell their sincere love for them, like as they do for real their friends/ lovers. So, you may consider VTuber as a real ‘person’, because 2D or 3D models (avatars) of VTuber are moving through tracking some real human, and people are ‘talking with’ and make some relationships with them akin to real one. It’s commonsensical, nevertheless, not true.

Person, however, does not directly communicate with us. Audiences make a specific communication with the mediated figure of the person. Person's appearance mediated by such media (e.g, radio, television, etc.) is called "media persona (e)" (Horton & Wohl 1956) in media / communication studies.

Audiences of VTuber do not have relations with ‘person’, but ‘media persona(e)’: the person’s figure in the media (e.g., radio, TV, YouTube, Twitter). Horton & Wohl emphasized that the relationship between persona and audiences is not interactive in many cases, nevertheless, audiences feel they contact with persona, and think make interactive relathionships like their daily face to face one.  They named this illusionistic relation as ‘parasocial relathion(PSR)’.  This illusion is mainly made by media personae’s various addressing for audiences (e.g., eye contact through camera, addressing audience names etc.). Samely, VTuber can make PSR with its audiences by such methods.

II. Character and Personae

From the perspective of media / communication studies, VTuber was characterized as a person wearing the image constructed. However, it is still not clear how the persona is appreciated. Therefore, in this section, I try to analyze the way of appreciation.

When the audiences see the VTuber, what they see is not the actual person's figure. It is a 3D or 2D anthropomorphic picture movement generated by a person's movement. Let's say what this picture represents is "fictional character".

Here you will notice important thing. That the appearance of VTuber is always related to the picture of the character. For example, in the case of a star, its face and appearance of a persona to be appreciated by audiences is undoubtedly of a star person. However, in the case of VTuber, the figure of the persona is equal to the picture of the character, and it is possible to perceive only the appearance that the movement of the person is transformed into the picture of the character. Persona does not have a ‘persona’ of a person, and viewers can only judge persona's charm from only that of a character. In watching VTuber, audience notice that an unique correspondence of persona and character is always performed. In other words, the body of the persona are always tiered with the body of the character.

In addition to this association, the characteristics of VTuber can also be found in the pluralities of the way how audience aprreciate persona. For example, a particular VTuber seems to deviate from his appearance and voice or character that can be imagined in general and to speak outrightly the experience and thought of that real person. On the other hands, there is an another type of VTuber who is not only in videos, but also even in the SNS, plays a role play, and it is appreciated by audiences as a character itself.

The style in how VTuber is appreciated can be roughly divided into two types. Firstly, if the person seems to appear clearly as in VTuber, it can be said that the audience is appreciating VTuber as ‘qua person's persona’. VTuber appreciated in such style, may be regarded as the person him/herself, and it is considered to be speaking person's experiences and ideas to some extent, as a VTuber.

On the other hands, audiences appreciate VTuber as the living character, as a persona of the character, that is, ‘qua character's persona.’ At this type, audiences place importance on role play as a character of VTuber and appreciate her as truly fictional character and avoid to remark real person of the VTuber. Also, audiences would not be regarded to properly appreciate such VTuber unless they refrain from referring to the real person in appreciation.

III. VTuber’s Three Bodies

My claim can be summarised as follows.

The appreciative objects of VTuber are divided into three bodies: person, personae, and character. Then, the personae are always tiered with the picture of the character, while the layers of the person / character and the personae are associated with each other.

In other words, the person's body is hidden, only the personae's body is appreciated. At the same time, the body of the personae are tiered by character’s body. Personae are appreciated as a person’s persona, or a character's persona.

Let's call this framework VTuber's "Three Tiered Theory". This theory may make it possible to account the unique ways of audience experiments, and it will be a clue to critique and comparison with various cultural forms(Figure I).

f:id:lichtung:20180819221637j:imageFigure I. Virtual-YouTuber’s Three Tired Theory

After words

When I first encountered the VTuber, I was very surprised and began to think its uniqueness.  Thinking through VTuber, I have got a lot of interesting ideas about not only about this culture, but also about many other cultures like idol culture, fan culture, and so on. I’ve just started investigating this cultural phenomena, so there’s left a lot question needed to answer, I will continue to study and wish for another researcher join our exploration.

NAMBA Yuuki (Aesthetics) :Twitter @deinotaton

email: deinotaton at gmail.com

Refferance

Brown, W. J., 2015, “Examining four processes of audience involvement with media personae: Transportation, parasocial interaction, identification, and worship,” Communication Theory, 25(3), 259-283.

Chalmers, D. J., 2017, “The virtual and the real,” Disputatio, 9(46), 309-352.

Cavell, S., 1979, The world viewed: Reflections on the ontology of film (Harvard University Press). 

Dyer, R., & McDonald, P., 1998, Stars, new ed. (London: British Film Institute). 

源河享、2017年『知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用』(慶應義塾大学出版会)。

Eaton, A. W., 2012, “What’s Wrong with the (Female) Nude?. Art and Pornography,” in Art and Pornography: Philosophical Essays. Maes, Hans R.V. and Levinson, Jerrold, eds. (Oxford University Press)

Giles, D. C., 2002, “Parasocial interaction: A review of the literature and a model for future research,” Media psychology, 4(3), 279-305.

灰街令、2018年a「キャラジェクトの誕生」新・批評家育成サイト-ゲンロンスクール、http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2748/(2018年5月18日最終アクセス)。

——、2018年b「「キャラジェクトの誕生」補論——杉本憲相」試論たちの箱庭、http://reihaimachi.hatenablog.com/entry/2018/03/31/003906(2018年5月18日最終アクセス)。

Hayward, S., 2013, Cinema studies: the key concepts (Routledge).

Hartmann, T., & Goldhoorn, C., 2011, “Horton and Wohl revisited: Exploring viewers' experience of parasocial interaction,” Journal of communication, 61(6), 1104-1121.

Hopkins, R., 2008, “Depiction,” In The Routledge Companion to Philosophy and Film (pp. 84-94), (Routledge).

Horton, D., & Richard Wohl, R., 1956, “Mass communication and para-social interaction: Observations on intimacy at a distance,” Psychiatry, 19(3), 215-229.

松永伸司、2016年「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』Vol.1-No.2 76-111項。

ナンバユウキ、2018年a「A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」PART I」Lichtung、http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/03/17/215144(2018年5月18日最終アクセス)。

——、2018年b「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503(2018年5月18日最終アクセス)。

——、2018年c「ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義」Lichtung、http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/04/21/ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、。(2018年5月18日最終アクセス)

Riis, J, 2008, “Acting,” In The Routledge companion to philosophy and film (pp. 23-31), (Routledge).

高田敦史、2014年-2015年「図像的フィクショナルキャラクターの問題」『Contemporary and Applied Philosophy』 6号 16-36項、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/226263(2018年5月18日最終アクセス)。

ーー、2016年 「「キャラクタは重なり合う」は重なり合う」うつし世はゆめ/夜のゆめもゆめ、http://at-akada.hatenablog.com/entry/2016/10/22/213559(2018年5月18日最終アクセス)。

Uidhir, C. M., 2012, “The Aesthetics of Actor-Character Race Matching,” in Film Fictions. Ann Arbor, (MI: Michigan Publishing, University of Michigan Library).

——, 2013,  "What’s So Bad about Blackface?," in Bloodsworth-Lugo, Mary K., and Dan Flory, eds. Race, Philosophy, and Film. Vol. 50.(pp. 51-68) , (Routledge).

Walton, K. L., 1970, “Categories of art,” The philosophical review, 79(3), 334-367. 

*1:This essay is a (very) short version of my essay: NAMBA Yuuki, 2018,  ‘VTuber’s Three Bodies——Person, Persona, and Character.’ Euleka 50(9) Virtual YouTuber: 117-125. (Japanese: 難波優輝「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、117-125項、二〇一八年。)and my blog post: ナンバユウキ、2018年「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン

『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実皮膜のオントロジィ

f:id:lichtung:20180809234337j:image

Abstract

  • 『高い城のアムフォ』は、投稿動画と異世界語という形式を、物語世界を構成し、鑑賞者をその世界に組み込む要素として利用することで「リアルな虚構」をつくりだし、同時に、VTuberカテゴリのもとで人形劇を鑑賞させることによって、VTuberの身体の構造と物語世界の虚構性とを鑑賞者に意識させ「虚構のリアル」を暴露する。『高い城のアムフォ』は「リアルな虚構」と「虚構のリアル」、あるいは虚構への没入と虚構からの分離とのあいだに鑑賞者を引き込むことで、鑑賞者に独特な鑑賞経験をもたらしつつ、虚構性とVTuberカテゴリへの反省を促す「虚構のリアリズム(realism of fiction)」作品である。

Keywords

  • 虚構のリアリズム(realism of fiction)、三層理論(three tiered theory)、二重視(double vision)、人形(puppet)、バーチャルYouTuber(Virtual-YouTuber)、物語的フィクション映画(narrative fiction film)

はじめに

『高い城のアムフォ』。2018年1月、盛り上がりをみせるバーチャルYouTuberシーンに現れ、その差はあるとはいえ、デジタルな2D、3Dモデルが一般的な状況に、パペットと実写映像という独特のビジュアル、独自につくりあげられた言語、そしてどこか懐かしい雰囲気で、またたくまにひとびとの目を奪った。

本稿では、『高い城のアムフォ』を構成する、「映像」「人形劇」、そして「VTuber」という三つの要素に注目しながら、映画の哲学、メディア論、そして、パペットスタディーズを参照しつつ『高い城のアムフォ』が生み出す「虚構のリアリズム」作品としての価値を描き出す。

これから、さまざまな概念を手がかりに分析と批評を行なっていく。そのなかで魅力的な概念たちに出会ったら、どうかあなたのもとへ連れて帰ってくれればうれしい。そしてこれからのVTuber作品、人形劇、あるいは映像作品や演劇作品への批評と考察に、さらには、虚構とバーチャルの意味を考える手がかりとして役立ててくれればさいわいである。

それでは、虚構と現実の交差する『高い城のアムフォ』の異世界へと進んでいこう。

1. 世界の組み込み

1.1. 異世界のルール

異世界とわたしたちの世界が関係する作品、たとえば、わたしたちの世界に住む主人公が事故によって異世界に転送、あるいは転生するという、異世界転生ものを視聴していて不思議に思うことはないだろうか。「異世界に行ったのになぜ日本語が通じるのだろうか?」

こうした異世界転生もののルールを意識し、じっさいに異世界に行けば異世界語が話されているだろうという直観をそのままやり通す、Fafs F. Sashimi『異世界転生したけど日本語が通じなかった』(2018年現在連載中)という作品も見られる*1。この作品はその説明にもある通り「あなた方が見てきた異世界転生ものは実際に異世界のものではない」と指摘し「我々が新たに本物の異世界転生ものをお見せしましょう」と宣言する挑戦的な作品となっている。

この作品をヒントにわたしたちは『アムフォ』*2の挑戦を評価できる。『アムフォ』においては「カムツ言葉」という異世界語が用いられており、わたしたちはそれをじっさいに聞くことができる。その言葉は体系を備えた人工言語であり、わたしたちが『アムフォ』の動画を鑑賞するとき、その字幕の助けなしでは、わたしたちはほんとうにアムフォの言葉がわからない。

つまり『アムフォ』は「本物の異世界もの」と呼べるようなあり方をしているのだ。このことにより、『アムフォ』はより形式的なほんものらしさの度合いを高める。その異世界ものの完遂のための人工言語の使用が『アムフォ』の形式におけるある種のほんものらしさをもたらしている一つの重要な要素であるといえる。ただ、これだけで『アムフォ』の特色を尽くせるわけではない。次節では、その映像に注目することで、『アムフォ』が鑑賞者と異世界とをどのように結んでいるのかを明らかにしよう。

1.2. 映像の透明性

さて、ここで議論のためにすこしだけ回り道をしよう。映画をみているとき、こんな疑問を抱いたことはないだろうか。「このショットは誰の視点なのか?」

いかにリアリスティックな、あるいはファンタジックな映像でも、いったん意識すると、わたしたちは、いったいどこからこのカメラが撮られているのか、と疑問に思うことができる。だが、もちろん、ふつうこのような問いを抱いたりはしない。

たとえば、映画版『指輪物語』を観ているとき、主人公のビルボたちが住む中つ国にわたしたちの世界そっくりな撮影機材があり、ビルボの仲間であるサムやピピンがハンディカムをもって(魔法使いのガンダルフに「くれぐれもバッテリー切れに注意することじゃ!」と忠告されながら)エルフやドワーフたちの活躍を撮影しているとは想像しないだろう。そうではなく、わたしたちはごくしぜんに、画面上の映像がどのようにその物語世界のなかで撮影されたのか、といった手段にそれほど注意を払うことなく映像に見入っている。描写の哲学の研究者であるロバート・ホプキンス(Robert Hopkins)は、こうした現象を「壊れた写真的経験」という映画鑑賞の基本的なモードとして指摘している(Hopkins 2008)。つまり、わたしたちは、ふつう、わたしたちが観ているものを、瞬間ごとに、演技や舞台装置を撮影したものとして意識しながら観ているわけではなく、あたかもドキュメンタリ映画を観るように、それが現実的なものを撮影した記録と類比的に観ているのだといえる。映画はその機械的な複製技術によって、カメラが捉えるものをそのまま記録することもできる。そして映画的カメラのみならず、写真的カメラは対象をそのまま記録する。こうしたカメラの記録性や、対象との因果的な関係性から、この経験が可能になっている、とホプキンスは指摘している。

こうしたカメラの技術は、しかし、作品への没入を可能にする十分条件ではない。これに加えて、物語映画は、透明な語りを通して鑑賞者に物語世界を提示する。ここで、「透明な語り(transparent narration)」という言葉は、ジョージ・ウィルソン(George Wilson)が指摘した、映画における、わたしたちがその語りを鑑賞するさいに違和感を覚えないような、ある意味ではしぜんな映画的語りのことだ(Wilson 2006)。すなわち、透明な語りとは、その映画的語りを構成するショットについて、その映画作品の登場人物や、もの、状況の視点から知覚しうるようなショット、つまり間主観的な位置からのショット、もしくは、キャラクタの視点に近いショット、あるいはキャラクタの心象を描いたショットによって構成されているような映画的語りである。

こうした透明な語りは、おおくの映画の基本になっている。わたしたちは『指輪物語』において、中つ国の映像がいかにしてわたしたちのもとに届き、それをなぜわたしたちが映画館やリビングで鑑賞しうるのかについて疑問を覚えたりしない。あるいは銀河系間における戦艦同士の壮大な戦いに驚きながら、いったいどこから撮影しているのかと悩むことはない。というのも、こういった作品においては、透明な語りにある程度習熟したひとにとっては、この語りに違和感を感じることじたいが奇妙で、映画を映画として鑑賞できていないことになるだろうからだ。

わたしたちはフィクショナルな映像作品を鑑賞する際、こうした奇妙な問いを立てることがないようななんらかのルールに習熟しており、そのルールのもとで作品を鑑賞している。さらにより不透明な語りについても、わたしたちはそれをしぜんなものとして受け入れている(Wilson 2006: 87)*3。そして、こうした語りの透明性に反省を加えた映画作品もある。たとえば、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)といったいわゆる「モキュメンタリーフィルム」と呼ばれる映画作品は、こうした映画鑑賞のルールに反省を加えることで、鑑賞体験の迫真性をより増大させようとしている。この作品は、実際にある虚構世界の人物が手にしたハンディカムによって映像が撮影され、その映画をわたしたちが鑑賞するという形式を採用しており、このことによって、これを鑑賞するわたしたちがいっそう作品に没入する可能性を高めているだろう(cf. Thomson‐Jones 2009)。

1.3. 世界へと組み込まれる鑑賞者

『アムフォ』ではこうした透明な語りの問題に関して、興味ぶかい表現を行なっている。以上議論してきた作品でいえば『アムフォ』は後者の語りの透明性に反省的な作品の系列に属するといえる。この作品は、語りの透明性に向き合うことで、映画観賞の態度に反省を加えている。

『アムフォ』という作品の投稿動画は異世界からの投稿であるとされており、わたしたちがその動画をYoutubeで鑑賞するという鑑賞のルールそのものが作品のなかに組み込まれている。つまり、以上で例示したようなモキュメンタリーの形式をとる作品は、映像内のショットの語りの透明性について反省を加えたという点で特徴的であるが、『アムフォ』はそれにとどまらず、わたしたちがある映像を鑑賞するルールじたいに反省を加えているのだ。

いかなる意味であれ、バーチャルな存在がわたしたちのことを知りうるのか? わたしたちにアクセスできるのか? それはいかなる世界に存在しているのか? といった設定を、この作品は問い直している。作品内で言及されているように、『アムフォ』は異世界から行き着いたわたしたちの撮影機材を用いて、なんらかの方法で情報をやりとりし、翻訳者によって翻訳されて届けられている。こうした設定と異世界語とが、たんに作品の修飾に終わるのではなく、投稿動画という形式に組み入れられることで、映像作品における語り手の問題に反省を与え、鑑賞者を物語世界へ引き込む力をうみだしている。つまり、『アムフォ』は、投稿動画という形式を、その物語世界を構成し、鑑賞者をその世界に組み込む要素として利用している、ルールにすぐれて自覚的な作品である。投稿動画という形式を作品に組み込むことで、鑑賞者にルールへと意識を向けさせる作品を提示した試みの意義はおおきく、この点でも、すぐれた作品としての評価されるべきだろう*4。『アムフォ』のおもしろさのひとつには、こうした鑑賞者の物語世界への組み込みにあるといえる。つまり、鑑賞者を引き込む、あたかもそこにあるような異世界を、いわば、「リアルな虚構」をもたらすことに成功している。

2. 人形の身体

2.1. 虚実皮膜のオントロジィ

『アムフォ』を鑑賞するとき、鑑賞者は人形(puppet)をキャラクタの表象として見立てて鑑賞している。つまり、「人形劇(puppetry)」という表現カテゴリにおいてこの作品を鑑賞している。本節の前半では、近年のパペットスタディーズを参照しつつ、人形劇という芸術形式の観点から『アムフォ』を分析する。後半では、VTuberを分析する枠組みである「三層理論」を用いて、VTuberカテゴリと人形劇カテゴリにおいて『アムフォ』が鑑賞されることによってどのようなユニークな効果がうまれているのかを明らかにする。

まず、最初のキイワードは、『アムフォ』における「アムフォ」の「原初性(primitiveness)」である。「アムフォ」は明らかに人形である。しかも、それはわたしたちにあたかも生きているかと錯覚を惹き起こすような、たとえば、映画版『指輪物語』におけるゴラム(ゴクリ)のような、3D技術によって巧妙に仕上げられたものというよりは、はっきりそれとわかる素朴な人形である(図1)*5

f:id:lichtung:20180809225809p:image図1:『高い城のアムフォ』「人形劇系異世界YouTuberはじまります【#1】」筆者によるスクリーンショット*6

人形は、たしかに、その擬人的なかたち、その動き、そして、動きに同期する声をそれぞれ調整することによって、まるで生きているかのように感じられる(Tills 1990)。しかし、むろん、ほとんどのひとは、想像においては虚構のうちに入り込んでいるとしても、人形が人形であること、それが生きてはおらず「オブジェクト」すなわち「モノ」であることをも同時に認識している。もし、モノが「アニメイト」され、生きているかのような錯覚をもたらすことのみがその魅力なのだとしたら、人形劇はより説得力のある「アニメーション」や映画に完全に取って代わられてしまっているはずだ。だが、人形劇はむしろ、わたしたちがパペット、マペットストップモーション、そのほかさまざまな種類の人形劇あるいは人形を用いた作品において確認できるように、「オブジェクト性」を強調することでいまなおその生命を得ている(Price 2013)。

人形劇の魅力のひとつは、人形研究者であるローマン・パスカ(Roman Paska)が呼ぶところの「原初主義(primitivism)」にある。人形劇は、 いっぽうでそれが生きているかのような錯覚的な体験を惹き起こしつつも、そうした「錯覚主義(illusionism)」的な達成のみを目標とせず、たほうでそれが人形であることを、その造形そのものから、さらには、操者や操作のための紐や棒を隠さないことで、あからさまに示す*7。すなわち、

原初主義は錯覚主義とは異なり、鑑賞者の焦点を外側の〔モノとしての〕しるし(sign)と内側の模倣のプロセスとのあいだで意識的に揺れ動かそうとする。そして、原初的な人形は、パフォーマンスにおける表現媒体としてのそれじたいのうつろさを暴露する、あからさまな目立ちたがりなのだ。(Paska [1990] 2012:139, Price(2013)の引用による)*8

人形はモノとしての「しるし」すなわち、その生地、素材、人工性を隠さず、同時に、それでもなお、その動きによってあたかもその息吹を感じさせる。鑑賞者を想像を誘いながら、モノとして自己を顕示する。人形は目立ちたがりなのだ。

この鑑賞経験は、人形研究においてしばしば参照される論考『人形の美学へ』(1990)において、人形の記号論と美的特徴の包括的な分析を展開したスティーブ・ティリス(Steve Tillis)の「二重視(double vision」の理論においてより鮮明に説明される。これは、鑑賞者は人形を、いのちのない「オブジェクト」として「知覚(perceive)」しつつ、同時に、あたかも生きているような「ライフ」として「想像(imagine)」する、という理論である(Tillis 1990: 126-127)。ティリスによれば、人形劇は「オブジェクト(object)」と「生命(life)」の存在論的なありように関する鑑賞者の思考を試すことで、特定の鑑賞経験をうみだしている。

パフォーマンスのあいだ、鑑賞者は、知覚(perception)と想像(imagination)とを介して、人形を、「オブジェクト」かつ「生命」として、〔この〕ふたつの見方において同時に「みている」。(Tillis 1990: 135)

人形は、パフォーマンスのあいだ、まるで生きているかのように、すなわち「イキモノ」として想像されるが、同時に、オブジェクトすなわち「モノ」としても知覚されている。こうして、パフォーマンスのあいだじゅう、人形の「いわばその存在論的地位は、つねに不確かな境界のうちにある」(Tillis 1990: 136)。この「不確かな境界」は、ティリスによって、近松門左衛門の「虚実皮膜の間」と比較されている*9

藝といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也……虚にして虚にあらず実にして実にあらず……(Tillis 1990: 135)

人形が舞台に上がったとき、それは現実と虚構の境界線にたたずんでいる。鑑賞者によって、人形は虚実のあわい、すなわち虚実皮膜で生きはじめる。いわば、物と生物との虚実皮膜のオントロジィの境界線において人形劇は楽しまれるのだ。

ティリスは、二重視の理論を手がかりに、鑑賞における、知覚と想像というふたつのみかた組み合わせから、小道具や舞台装置、そして、演者と比較し、こうした人形の独特な地位の明確化を試みている。 

f:id:lichtung:20180809225904j:image図2:さまざまなオブジェクトの知覚と想像

この図2は、舞台に関係する諸対象が、「モノ(object)」として、あるいは「イキモノ(life)」として、想像あるいは知覚されるあり方を分類したティリスのダイアグラムを再整理したものである(Tillis 1990: 174)。

まず、「舞台対象(staging objects)」は舞台上の小道具や背景などの舞台装置を指す。これらは、モノとして知覚されるし、モノとして想像される。なるほど、特定の舞台装置、たとえば、海の波を表すようなものは、動いてはいる。しかし、それらははっきりとモノとして知覚されるし、想像される。つぎに、「演者(actors)」はもちろん、イキモノとして知覚、想像される。さいごに、「人形(puppets)」はこれらのあいだに位置している。なぜなら、人形は、モノとして知覚され、同時に、イキモノとして想像されるからだ。つぎの節では、『アムフォ』におけるその利用のしかたを議論するために、こうした二重視がどのように利用されるかを紹介したい。

2.2. 笑いと不気味なもののデュアリズム

こうした人形の二重視がもたらす効果は、作品においてどのように表現の資源として用いられるのだろうか。ここで、その理解のために、やや、『アムフォ』そのものから離れ、ふたつの事例を紹介する。それは二重視と「笑い」、そして「不気味なもの」の事例である。

第一に、二重視と笑いについての議論をみてみよう。演劇学の研究者ジェイソン・プライス(Jason Price)は、人形の二重視の経験を、ユーモアの「不一致説」と組み合わせることで、人形劇において特徴的なユーモアの分析を試みた(Price 2013)。

ここで「不一致説(incongruity theory)」とは、ユーモアに関する理論であり、一般に想定されるパターンの裏切りによって笑いをもたらされうる、という理論である。ユーモアの美学研究者であるジョン・モレオール(John Morreall)は、『コミックリリーフ(Comc Relief)』(2009)において、この理論にふれ、つぎのように説明している。彼によれば、この理論は、

人間の経験が学習されたパターンに沿って働くという事実に基づいている。わたしたちが経験したことは、わたしたちが経験するものに対処するための準備になる……。ほとんどのばあい、経験は上述のような精神的パターンに従う。〔こうして〕未来は過去のようになるのだ。しかし、ときどき、わたしたちは、あるものの部分や特徴がこの精神的パターンに違反するものを知覚あるいは想像する。 (Morreall 2009: 10–11)

わたしたちは過去の経験を用いて未来を想定する。ボールは投げれば落ちてくるのであり、がたいのいいライオンはおそろしい。だが、投げたボールがどこまでも浮いてゆけば、ライオンがかわいらしく腹を見せれば、ユーモラスになる。この違反こそが笑いをもたらす。モレオールはこんな例をあげている。

ぼくは猫が好きだ。かなり鶏肉に近い味がするしね。(Morreall 2009: 51)

「猫が好き」の想定される意味は、その見た目やふるまい、性格の愛らしさにかんする好意だろう。だが、その想定は違反され、「味」にかんする意味であると判明し、笑いが起きる。つまり、既知の「精神的なパターン」が裏切られることによって笑いがうまれる。この不一致説と二重視を組み合わせ、プライスはつぎのように述べている。

オブジェクトは、それじたいではもちえないことをわたしたちが知っている生命力をわたしたちに想定させることで、精神的パターンに違反し、結果としてユーモアにつながる喜びをもたらす。この点で、人形の鑑賞のありかたと不一致によるユーモアは、おなじしかたで作動するものとみなせる(Price 2013)。

人形は、いのちをもたない。それはふつうみなが知っている。だが、その人形が動きはじめたとき、——それがおどろおどろしい音楽やくらやみのなかでなければ——わたしたちの「モノにはいのちがない」という精神的パターンを裏切り、ユーモラスになるのだ。

たとえば、プライスは人形師の女性コンティと猿の人形モンクのコンビ「ニナ・コンティとモンク(Nina Conti & Monk)」のパフォーマンスの例をあげている。パフォーマンスの途中、猿の人形モンクは、その手のマジックテープが身体に張りついてしまい、やむをえず勢いよく剥がしたところで「ああ!」とうめき声をあげ、悲鳴とともに観客席には笑いが巻き起こる——「人形は痛がらないのに痛がる!」。そのあとに、猿の人形モンクは、じぶんがほんとうに猿なのかどうかを訝しむ。

モンク:おれはほんとに猿なのか?

コンティ:ええ、もちろん。

モンク:すると、おれの手がマジックテープになってる意味がわからないんだが。

コンティ:そのことは気にしないで。

モンク:それに、ケツにタグが付いてる。「Made in Taiwan」って。

(Conti 2007: n.p.)*10

ここでは、人形のモノ性が、生きているかのように喋る人形じしんによってあらわにされる。人形がじぶんは人形であることに疑問をもつ。そして、鑑賞者は、「彼は猿である」という想定を裏切られる。「精神的なパターン」が裏切られ、笑いがうまれている。もちろん、不一致による笑いはほかの表現形式でも起こりうる。だが、人形劇は、そもそも、その人形の二重視という鑑賞のされ方を資源として、より容易に、そして劇的に、鑑賞者の精神的パターンを裏切り、想像と知覚を越境し、笑いを引き起こしうるのだ*11

プライスが注記しているように、人形劇がかならずしもつねにユーモラスな形式であるわけではない。それとはへだたって、人形劇はときに二重視によって「不気味な」効果をもたらすこともある。

人形学の研究者で実践家でもあるジョン・ベル(John Bell)は、フロイトの分析に基づいて、人形が「不気味なもの」でありうると指摘している。ベルは、人形が、いのちのないオブジェクトにもかかわらず、まるで生きているかのようにうごめくことで、原初に克服したはずのアニミズム的な自然理解のあり方、すなわち、自然のはたらきに超自然なにかを読み取るような理解のあり方を鑑賞者に想起させ、近代的な精神に抑圧された前近代的なものの回帰としての「不気味なもの」を体現するものであると指摘している(Bell 2014)。

フロイトは、不気味なものを原初的な感情や幼児感覚に結びつけている。それは「不安や恐怖をひき起こすもの」に属しており、とくに前者に焦点を当てれば、そのような力は「アニミズムといういにしえの世界観」と関わっている。すなわち「不気味な感情」は「思考の万能、即座の欲望成就、秘密の力による害、そして死者の回帰」といった、自然のはたらきに物質的、物理的に現実を超えた力を読み取るような古い思考の回帰によってひきおこされる(フロイト 1919[2016])。フロイトの言葉を聞こう。

こうしたところで不気味な感情の発生をみちびく条件は、見誤りようがないであろう。わたしたちは、あるいはわたしたちの原始の祖先は、かつてそれらの可能性を現実のものであると見なし、それらの出来事の到来を現に信じていた。今日、わたしたちはそんなことを信じていない。そうした思考様式は克服されたわけである。とはいえ、その新しい信念に確たる自信があるわけでもない。古い信念はまだわたしたちのなかに生きており、それが裏づけられる機会を待ちうけている。したがって、遠ざけられた古い信念に裏づけを与えるかに見えることが今わたしたちに起こると、たちまち不気味な感情が発生……する。(フロイト 1919[2016]: 253-254)

わたしたちはすでに前近代的アニミズムを脱したと思いなしている。しかし、その自信はふとしたときに——いのちをもたないはずの人形が動き出したとき——揺らぎ、その思いなしが抑圧していた「原初(primitive)」の世界が回帰する。これが、フロイトの不気味なものについての分析であるとベルは整理する(Bell 2014)。

こうしたユーモアと不気味さは、排他的ではない。ユーモアが不一致によるおかしさから、不気味さがいのちをもたないものがいのちをもつかにみえることで呼び起こされるフロイト的な原始の回帰からやってくるなら、いのちをもたないものがいのちをもつことによって不気味な感情が引き起こされつつ、なおもユーモラスであるような、逆に、笑いながら、不気味さを感じさせるような不気味なユーモアもありうる。ことば遊びはこれくらいにして、具体例をみてみよう。たとえば、わたしたちはパペットカンパニーBlind Summitの公演『The Table』において、不気味な笑いを見出す。

主人公のモーゼス(Moses)がテーブルの上で過ごす12時間が公演では提示される。モーゼスはコミカルに踊り、宙を舞う。それらの動きはいきいきとしてはいるが、人形であることをはっきりと示す。モーゼスは軽妙に観客に話しかけ、笑いを誘う。同時に、あまりにいきいきとしていながらも、機械的にふるえ、奇妙な動きをみせ、どこか不気味で不安を掻き立てる。彼の顔がこちらに向けられると、どこか落ち着かなくなる。彼はほんとうに、人形なのか。

人形は、二重視をその本質的な部分とすることで、しばしば、笑い、不気味さ、あるいはその両方を、鑑賞者たちにひきおこす。ここから、もしかすると、それは本質的にユーモラスであり、かつ同時に、不気味でもあるのかもしれない。人形は、二重視を可能にする人形は、その存在のあり方によって、本質的にわたしたちに不気味な笑い、ユーモラスな不気味さをもたらすのかもしれない。

この考察の当否は置くにせよ、以上から、人形のオブジェクト性と生命性との二重視は、笑いと不気味さといった効果を鑑賞者にもたらすための重要な資源として用いられていることがみてとれる。このように。二重視は、さまざまな論者が指摘する人形の特徴を理解する枠組みとして有用なものであることが確認できる。もちろん、二重視が可能にする人形の二重性は、それだけでは笑いや不気味さをもたらすわけではない。それ以前に、まず表現の資源として存在する。この資源は、笑いや不気味さをもたらすためにのみ用いられるわけではなく、おのおのの作品やパフォーマンスによってさまざまに利用される。ちょうど、鳥の翼という構造が、空を飛ぶためや、求愛行動、あるいは、海を泳ぐために利用されるように、二重視という構造は、笑い、不気味さといったことなる効果をうむための手がかりとして、さらには、さまざまな表現の道具として利用することのできる、人形劇という表現形式がもつ際だった特徴なのだ。

2.3. 中間世界の存在者

本節では、虚実皮膜のあわいにあるという人形の存在のあり方について、考えたい。そうすることで、『アムフォ』の「アムフォ」が人形であることによってこそ生み出される効果とはなにかについて考える手がかりをつくりたい。

ここで、わたしは、虚実のあいだにたゆたう存在として、パウル・クレー(Paul Klee)の子どもたちを思い出す。といっても、もちろん彼の実子ではなく、作品群に現れる子どもたちのことだ。彼ら、彼女らは、あいらしくも、わたしたちをどこか落ち着かなくさせる。

f:id:lichtung:20180810124822j:image図3:パウル・クレー『腹話術師、沼で叫ぶ人』(1923)*12

子どもたちについて、クレーはこう述べている。

僕が言おうとしているのは、たとえば未だ生まれざる者と死者の国、来ることができ、来たいと思っているのだが、しかし来なければならない筋合いはない者たちの国、つまり中間の世界だ。少なくとも僕にとっては中間の世界だ。そう呼ぶわけは、人間の五感が外的に捉えることのできる世界の隙間に、僕はその世界を感じ取るからだ。……子どもや狂人、未開人には、その世界が今なお見えている。もしくは今ふたたび見えるようになっている。(Schreyer 1956, S. 171; 223:『パウル・クレー』展覧会図録(2015)より引用。)*13

クレーの作品に住むのは、未だ存在していない者たち、そして、すでに存在しなくなってしまった者たち、存在しない子どもたちだ。クレーの子どもたちは画面のなかでしずかに息をしているが、四方は守られ、わたしたちもまた向こうへと引き込まれることはない。けれども、人形は、そこにいる。鑑賞者は空間に占めるその質と量を知覚する。

クレーの例示するものたちよりもよりひろいいみで「存在しない者たち」が、どうすればわたしたちと出会うことができるのか、わたしたちはどうすればそのような想像的な遭遇が可能なのだろうか。この問いに対して、人形のあり方を考えることで取り組んでみたい。

ここで、彫刻家、画家である加藤泉の作品を手がかりに、この問いを問うてみたい。

とくに有名な『無題』(2004)に注目しよう。それはたしかに、人形劇のように動くことはない。しかし、台座なしに、両足で立ち、壁に両手をつけ、こちらを向くような姿勢は、ふつうの彫刻よりも、より鑑賞者を意識しているようで、いまにも動き出すかにみえる。そうして、この作品は、展示される人形でありながら、これまで議論した人形の二重視を可能にするといえる。この作品を見ている者は、それがメディアを通した鑑賞であれ、落ち着かない、ざわざわとした気分になる。動くはずがない、と理解し、それが彫刻であることを知覚しているのと同じほどに、それが動き出すような想像を行う。それは、加藤のその他の人型を描いたドローイングや絵画と比較すればわかるように、そのモノ性によって、つまり人形であることによって可能になっている。人形であるからこそ、『無題』(2004)は不気味で、しかし、あるいは奇妙な両生類や魚類の幼生のようにどこかあいらしく感じられる。彼の幼生のそして原初の呪術的な生きものを思わせる作品群は、この人形の力を引き出している。

このように、人形はモノであることを知覚させつつ、イキモノであることを想像させることで、この世界には存在しない者たちをその身に宿すことができる。そのような想像を可能にする。だが、たんに想像させるなら、もちろんほかの形式によっても可能だ。他の形式との違いは、第二節の冒頭に戻れば、その「原初性」、とくに「モノ」としてのはっきりとした現前性にある。人形はそれによって、それが、まるで生きているかのように想像させることを可能にする。人形は、わたしたちの前に迫ってくることによってこそ、すなわち、「モノ」であると知覚されることで、わたしたちに、存在しない者たちとの遭遇の想像を可能にする。知覚と想像とが、手と手を取り合って、人形を虚実皮膜のあわいに立たせる。わたしたちは、二重視を介して、非存在の住人たちと遭遇する。

「アムフォ」もまた、存在しない子どものひとりなのだ。アムフォはたんに絵ではない。それは人形である。そのモノ性によって、それはそれが生きているという想像を下支えする。「アムフォ」はそうして、あわいに立ち、異世界とこの世界の中間に『アムフォ』という映像メディアはある。『アムフォ』という作品そのものは、メディアの中にだけ存在して、それじたいでひとつの中間世界をかたちづくっている*14。以上の議論から、「アムフォ」が人形であるからこそ発揮できる力とは、「モノ」であるがために、知覚と想像の化合を可能にする力であるといえる。

2.4. 三つの身体

前節まででは『アムフォ』が「人形劇」であることから、その特殊性を議論する前提として、人形劇一般の特徴をやや詳しく提示した。本節では『アムフォ』と「VTuber」カテゴリと関連していることから、後者に注目して、二重視の構造との関係に関する議論を行う下準備をしたい。

VTuberとはどのように鑑賞されるカテゴリなのだろうか。ここで、拙論(難波 2018)において提示された「三層理論」に基づいて、VTuberというカテゴリを特徴づけよう。

三層理論(three tiered theory)」とは、VTuberとは何でありうるか、とくに、わたしたちはそれらの何に魅入られているのだろうか。この問いに応えるために提示された枠組みで、その主張は「VTuberの鑑賞の対象は、パーソン、メディアペルソナ、そして画像的フィクショナルキャラクタの三層の身体から構成され、それらの関係づけにおいて、それぞれが、あるいはその総体が、そのつど、鑑賞者の鑑賞の対象になっている」というものだ。

三層の身体を構成する、じっさいのひとである「パーソン(person)」そのパーソンのメディアを介した現れである「メディアペルソナ(media persona(e))」そして、パーソンが用いるひろい意味でのアバター、「フィクショナルキャラクタ(fictional character)」について、それぞれの意味をかんたんに説明しよう。

まず、「パーソン」はじっさいのひとであり、ふつうオーディエンスによってはアクセスできない対象であって、いわゆる「中の人」として呼ばれる、「ヒト」として理解される対象である*15。つぎに、そのパーソンのメディア上での現れである「メディアペルソナ」という概念は、Horton & Wohl(1956)によって、テレビの出演者とオーディエンスとがむすぶ独特な関係を説明するために提唱された概念である。テレビ上のメディアペルソナとオーディエンスは、ふつう相互関係しえないにも関わらず、オーディエンスは画面上のメディアペルソナに対してあたかも現実の人物に対するような親しみを感じることで、「パラソーシャルなインタラクション(Parasocial Interaction: PSI)」を行う(Horton & Wohl 1956)。こうした親しみを感じるようなインタラクションが持続することでつよく形成された関係は「パラソーシャルな関係(parasocial relationship: PSR))」と呼ばれる。いわゆる「中の人」と呼ばれる対象は、じつのところ、パーソンとペルソナとを混合させたものだ。

さいごに、ひろい意味でのアバター、擬人的な画像が表象している対象を「フィクショナルキャラクタ(fictional character)」と呼ぶ。VTuberが鑑賞されるとき、オーディエンスによってこれらのいずれか、あるいは複数に焦点が当てられている。つまり、

VTuberの鑑賞の対象の構成要素はパーソン、ペルソナ、そしてキャラクタという三つの身体とに分けられる。そして、ペルソナとキャラクタの画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら……ペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている。(難波 2018: 121)

f:id:lichtung:20180809230006j:image図4:バーチャルYouTuberの三つの身体

図4を参照しつつ具体例にそって解説してゆこう。たとえば、『輝夜月』というVTuberは、「輝夜月」の動きをつくりだしているひとであるパーソンと、TwitterYouTube、各種イベントでみられ、ファンによって共通理解としてつくりあげられる特定のペルソナイメージをもつ。ここで、ペルソナイメージとは、ペルソナの性格やその背景が鑑賞者に与える印象の総体を指す。ペルソナイメージは、パーソンじしんの性格や印象とつねに一致するわけではなく、その多くは、メディアを介してのみ構築され得たもので。そうしたペルソナイメージとパーソンの性格とはかならずしも一致しない(難波 2018: 119, 123)。 そして、『輝夜月』の知覚可能な見た目は、「輝夜月」というフィクショナルキャラクタの画像であり、パーソンのそれではない。また、「輝夜月」というフィクショナルキャラクタには性格がほとんど存在せず、鑑賞者が『輝夜月』の性格とみなしているのは、「輝夜月」の動きをつくりだしているパーソンがメディアを介して現れたペルソナイメージである。

鑑賞者は「輝夜月」というフィクショナルキャラクタの画像のかわいさ、すなわち、その造形的なかわいさと、『輝夜月』というメディアペルソナイメージの愛らしさ、あるいは、『輝夜月』のパーソンについてのなんらかの知識を、意識的ではないにせよ総合させながら、『輝夜月』というVTuberの総体を鑑賞している。

2.5. 分離する身体

さて、これまで、人形劇の二重視、そしてVTuberの三層理論といった概念を導入してきた。こうした道具立てから、異世界系人形劇である『アムフォ』はどのように分析、批評できるのだろうか。

まず、『アムフォ』はどのようなカテゴリにおいて鑑賞されるのかを確認しよう。そのことは、第一節において詳しくみてきたように、「異世界」からの「投稿動画」という形式を、その言語と設定によってつくりだしていることから、さらに、加えて、SNSにおいて、「アムフォ」は、そのパーソンであると思われるボンタとは異なる存在として提示されていること、そして、『アムフォ』の第一話で言及され、Twitterのプロフィール欄に「VTuber(?)」とあることから読み取れる。つまり、『アムフォ』は、まず、三層の身体をその鑑賞の対象としてもつVTuberカテゴリにおいて鑑賞される。

VTuberカテゴリにおいて鑑賞されるとは、すなわち、VTuberに特徴的な三つの身体と関連してこの作品が鑑賞されるということだ。

とはいうものの、『アムフォ』は一般的なVTuberカテゴリにおいてのみ鑑賞されるわけではない。その映像に映る要素から、そしてなにより、「異世界系人形劇」という名称からわかるように、この作品は「人形劇」としても鑑賞される。このふたつのカテゴリはどのように関係しあうのだろうか。まず、三層理論を参照しつつ、「アムフォ」の身体のイメージを分析しよう。

まず、パーソンとペルソナの関係に注目しよう。「アムフォ」のパーソンは翻訳者として目されているボンタ氏である。だが、この両者は明らかに一般的なVTuberにおけるそれらとは異なる関係をもっている。一般的なVTuberにおいては、パーソンは、物語世界におけるキャラクタを「演じて」いるわけではなく、そのつど鑑賞者との相互作用によってつくりだされるペルソナを「装って」いる。たとえば、『輝夜月』という演じるべき「キャラクタ」は、わずかな設定はあるにせよ、シャーロックホームズやハムレットのようには存在せず、『輝夜月』のパーソンや鑑賞者によってつくりだされていくペルソナのみが存在するのであり、VTuberのパーソンは、演じるべきキャラクタをもたず、そのつどつくりあげていくペルソナを瞬間ごとに装っているのだ。「アムフォ」のばあい、ちょうどVTuberがそうであるように、投稿動画内に現れる「YouTuberとしてのアムフォ」がメディアペルソナであり、そのうちには、異世界人としてのアムフォというパーソンが存在するように想像される。だが、『アムフォ』におけるパーソンとペルソナとはVTuberにおけるような癒着はなく、両者はたがいにひきはがされている。ここにこそ前節で議論した人形劇の二重視が表現の資源として役立てられている。

そのことを明らかにするために、ペルソナとキャラクタの関係を分析しよう。一般に、VTuberの身体においては、それが2Dにせよ3Dにせよあるていどのリップシンクやモーショントラッキングによって、そのキャラクタの画像とペルソナとを重ね合わせることができる。しかし、「アムフォ」は人形であることによって、その「オブジェクト性」と「生命性」とを同時に示し、よりつよく原初的なモノ性をあらわにする*16。それにより、「アムフォ」のキャラクタの画像とペルソナとは、結びつきを、いっぽうでは想像的に維持しながら——「これはアムフォである」——たほうでは、知覚において引き離す——「これは人形である」——つまり、「アムフォ」というペルソナが具体的なかたちをもって現れるところの人形、すなわち画像としてのキャラクタが、一般的なVTuberよりも、より原初的で、そのモノ性をあらわにしている。

人形に特徴的な二重視におけるモノ性の顕示によって、『アムフォ』はVTuberカテゴリにおいて鑑賞されることを意図しつつも、そのカテゴリにおいて重要なペルソナとキャラクタとの重ね合わせをみずから分離させる。そのことによって、さらに、ペルソナとパーソンの分離も開始される。というのも、程度の差はあるにせよ、VTuberにおいては可能な、パーソンの動きと画像が同期することによる、パーソンとペルソナ-キャラクタの画像との関連づけは『アムフォ』においては起こりえないからだ。人形には人形使いがいる。人形と人形使いは、人形使いの腕がどれほどたくみでも、同一視されることはない。人形に命が宿るほどに、それは人形であることをますます明らかにしてゆく。そして人と人形とは、互いのちがいをきわだたせる。人形の限界ではなく、二重視を可能にするその可能性だ。

『アムフォ』はパーソン、ペルソナ、キャラクタの三層を仮構させながら、パーソンとペルソナとを、ペルソナとキャラクタとを分離する。こうして『アムフォ』はVTuberカテゴリそれじたいにたいする批評的な作品となる。『アムフォ』は、主として映像の形式と言語がつくりあげる「投稿動画」という設定によってVTuberというカテゴリにおいて鑑賞されるように鑑賞者を誘いつつ、そのカテゴリにおいて人形劇を提示することで、VTuberの三つの身体の構造を、人形劇における身体の二重視によって、そして、人形劇に特徴的なその人形の操者の存在をあらわにすることによって、パーソンとペルソナ、ペルソナとキャラクタ、もちろんパーソンとペルソナの身体をはっきりと分離させ、こうして、作品それじたいによってVTuberというカテゴリを分析し、提示している。つまり、『アムフォ』は、人形劇という形式をVTuberという形式に組み合わせることによって、虚構性そのものを鑑賞者に意識させ、両者のメカニズムを露わにする、いわば「虚構のリアル」を提示する。

3. 虚構のリアリズム

アムフォはVTuberの構造を探り当てることによって、同時に、「虚構性」をもその作品のなかで主題としている。映像と言語という形式においては、『高い城のアムフォ』は物語世界の中に鑑賞者を組み込むことで、べつの世界の実在感を高めているいっぽう、たほうで、人形劇という形式においては、鑑賞者は、物語に没入しつつ、虚構性を意識させられる。ちょうど、人形劇の「二重視」がそうであるように、『アムフォ』は虚構世界に没入させつつ、しかし、それが虚構であることを意識させることで、鑑賞行為の担い手であることを意識させることで、彼女らが観ているものの虚構性を浮き立たせ、鑑賞者に虚構性それじたいへの注意を促す。

そうして、鑑賞者が、たんに受動的な傍観者ではなく、虚構世界を立ち上げるためのメンバーの一員であるということ、そして、その虚構世界を維持してゆくためには、作者のみならず、それを受容する鑑賞者の力をも必要とするということを示している。それはひるがえって、鑑賞者をその想像に引き込んで離さないことで、パラソーシャル関係を築くVTuberのしくみへの冷静なまなざしを鑑賞者に提示することにもなる。アムフォはわたしたちを見つめる。アムフォとわたしたちの目は合わない。それはいきいきと異世界で生きているが、同時に、どこまでも人形である。『アムフォ』はユーモラスである。同時に、しずかにただよう不安。風は吹き、ふれると風ではなくなる。風は中間にしか存在しない。アムフォ。amu-fo。風を-想う。中間世界の子ども。

『高い城のアムフォ』は、投稿動画と異世界語という形式を、物語世界を構成し、鑑賞者をその世界に組み込む要素として利用することで「リアルな虚構」をつくりだし、同時に、VTuberカテゴリのもとで人形劇を鑑賞させることによって、VTuberの身体の構造と物語世界の虚構性とを鑑賞者に意識させ「虚構のリアル」を暴露する。『高い城のアムフォ』は「リアルな虚構」と「虚構のリアル」、あるいは虚構への没入と虚構からの分離とのあいだに鑑賞者を引き込むことで、鑑賞者に独特な鑑賞経験をもたらしつつ、虚構性とVTuberカテゴリへの反省を促す「虚構のリアリズム(realism of fiction)」作品である。

『アムフォ』は、人形とVTuberの両方へとわたしたちの思索を誘う。本稿で取り上げた二重視は人形だけに限られるのか。VTuberはあらたなデジタル化された人形、いわば「バーチャルなパペット」なのか。本稿における考察が、いくばくかなりとも『アムフォ』の魅力を引き出すものであること、そして、バーチャルリアリティと人形のそれぞれについての、そして、それらが交差するあらたなトピックに足を踏み入れるための入り口となることを期待する。

おわりに

『高い城のアムフォ』は、わたしがVTuberという文化を知るきっかけになった作品であり、同時に、途中でふれた、拙稿「バーチャルYouTuberの三つの身体」の重要なアイデアの源泉となった作品でもあります。どこか懐かしく、なぜかすこし寂しげな雰囲気に心を奪われ、鑑賞をはじめました。

『アムフォ』からVTuberに関心をもったゆえか、わたしのVTuber文化への興味のひとつは、その表現形式としての媒体の特殊性と、それを批評的に操作することでうみだされる(未来の)作品群とに向かっています。VTuber文化は企業の参入により、これからその経済的な存在感を増してゆくだろうし、個人系VTuberも、技術の一般化によりますます増大するでしょう。VTuberという表現形式の枠組みのなかで洗練をめざすVTuber作品の批評もむろん重要ですが、それと同時に、その媒体を利用してさまざまな斬新な表現の試みを行なっているVTuber(あるいはVTuberを特徴づける要素を用いた作品)を評価する文化が発展することを期待しています。VTuberの媒体としての特徴に批評や操作を加えつつ、わたしたちに多様な鑑賞経験をもたらしてくれるさまざまなVTuber作品が生まれることを、一鑑賞者として楽しみにしています。

また、最後になりましたが、画像の引用を快く許諾していただきました翻訳者の巡宙艦ボンタさんには感謝を申し上げます。そして、末尾になりましたが、異世界の興味ぶかいお話を伝えてくれるチャーミングでミステリアスで、すてきな呪術師、アムフォに最大限の感謝を込めて。

rakn! amufo! i yomi nya ki wor wic.

imi cnom amara rus.

Yuuki Namba.

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

引用例

ナンバユウキ、2018年「『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム——虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実。

参考文献

青木孝雄、1989年「近松の〈詩学〉について:『難波土産』冒頭のテクスト読解に即して」『藝術研究』(2)、(広島芸術学研究会)、37-51項。

石川潤ほか編、2015年『パウル・クレー だれにも ないしょ。』(読売新聞社

Bell, J., 2014, “Playing with the eternal uncanny: The persistent life of lifeless objects,” The Routledge companion to puppetry and material performance, 43-52.

フロイト・S「不気味なもの」、H. ベルクソン、S. フロイト、2016年『笑い/不気味なもの 付:ジリボン「不気味な笑い」』原章二訳(平凡社)205-271項。

Hopkins, R., 2008, “What do we see in film?” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 66(2), 149-159.

難波優輝、2018年「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、117-125項。

Price, J., 2013, “Objects of humour: The puppet as comic performer,” Comedy Studies, 4(1), 35-46.

Thomson‐Jones, Katherine., 2009, “Cinematic Narrators,” Philosophy Compass 4.2, 296-311.

Tillis, S., 1990, Towards an Aesthetics of the Puppet, (Master dissertation).

Wilson, George., 2006,  "Transparency and twist in narrative fiction film." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 64.1, 81-95.

画像引用

『高い城のアムフォ』2018年。人形劇系異世界Youtuber 高い城のアムフォ - YouTube

*1:https://kakuyomu.jp/works/1177354054883808252

*2:以下『高い城のアムフォ』は『アムフォ』と略記する。

*3:たとえば、『ブロンドの殺人者』(1944)において、カメラは主人公を非人称的に撮影しながら、その心情が画面上に表象されている。一人称視点において登場人物の酩酊状態や幻覚を表象することを超えて、「ねじれた」ショットが現れている。こうした例は媒体の不透明性を高め、一般的な映画を鑑賞する際のルールをさらに複雑にしている。

*4:たとえば、VTuber(以下「VTuber」は「バーチャルYouTuber」を指す。)というカテゴリを利用して、独自の鑑賞経験をもたらしている『鳩羽つぐ』もまた、こうした映像のルールに自覚的であり、鑑賞者を物語世界に組み込む作品であるといえるだろう。

*5:加えて、その装飾品や小道具もまた、ひとの手でつくられた素材感あふれるものたちであるし、ひとの手がはっきりと映りこむこともしばしばみられる。

*6:https://youtu.be/QaSBDeX3Y1k

*7:たとえば、文楽における操者やおおくの子ども向けの人形劇における操作道具の明示。

*8:Paska, Roman ([1990] 2012), ‘Notes on puppet primitives and the future of an illusion’, in Penny Francis (ed.), Puppetry: A Reader in Theatre Practice, Basingstoke, Hampshire: Palgrave Macmillan, pp. 136–40.

*9:この部分の近松の主眼は、人形の造形的性質のみならず、その台詞を含めて、「実」らしさと「虚」との均衡が浄瑠璃の制作においてどう扱われるべきかについてであり、かならずしも、人形そのものの存在論的地位に限定される議論をしているわけではない(cf. 青木 1989)。また、二重視に直接関係する議論を近松が行なっているわけではなく、ティリスも述べているようにいくぶんか比喩的な言葉の関連性において引用されている

*10:Conti, Nina (2007), Complete and Utter Conti, London: Mike Perrin For Just For Laughs Live. Priceのスクリプトより引用。

*11:あるいは、アレクサンダー・カルダーのコミカルな人形劇によるサーカス『Cirque Calder』をみてみよう。http://www.ubu.com/film/calder_circus.html: embed。ここでは人形はサーカスの最中でしばしば失敗する。そのときは、カルダーがにょっと手を出して、(むりやり)成功に導いてしまう。ここでは、人形が、いきいきと自在に動いており、鑑賞者は、「これはいきているサーカスの劇団員たちだ」と想像しているのに、カルダーが想像の外から介入してしまうことで、そのお約束はやぶけ、精神的パターンは裏切られる

*12:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Ventriloquist_and_Crier_in_the_Moor_MET_DP-820-001.jpg

*13:Schreyer, Lothar, Erinnerungen an Strum und Bauhaus, München 1956

*14:あるいは、『アムフォ』は、異世界のアムフォが異世界で行なっている人形劇なのかもしれない。『アムフォ』において映るのは、アムフォがつくった人形、その手はアムフォの手だ。すると、『アムフォ』に登場する人物たちも、おそらくはアムフォひとりで操作する人形たちということになる。性を剥奪されたところまでは真実だが、それを取り戻した話も、妹との再会もすべてお話のなかでのできごと。と考えると、とても物寂びた作品に変貌する。この想定は魅力的ではあるが、どのように擁護できるのかは本稿では問わないことにしたい。いずれにせよ、『アムフォ』のこの世界での、この世界の人間が理解するところの魅力や興味ぶかい点は、以上の想定が正しいにせよ、ふつうに人形劇と理解するにせよ、本稿の議論には直接関係しない。

*15:「パーソン」は「ヒト」として理解される対象であればよく、いまはまだおとぎ話だが、ひじょうに精巧な機械で、感情をもっているようにみえ、わたしたちと一定の親密な関係を構築できるような知的な存在は「パーソン」になりえるだろう

*16:ひるがえって、VTuberを特徴づけるのは、そのモーションキャプチャによるパーソンとペルソナとキャラクタの重ね合わせ、重ね合わせによる境界の溶解である。

バーチャルYouTuberスタディーズ入門:コミュニケーション・ボディ・エコロジィ

f:id:lichtung:20180625020007j:image

はじめに

ユリイカ』七月号 特集 バーチャルYouTuber 発売されました。

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

わたしも一編、「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」という論考を寄稿しております。論考では、さまざまな研究分野を横断しながら、VTuberの批評や研究のための手がかりになるような概念をつくることを試みました。ただ、紙幅の都合、各文献の詳細な解説は行えませんでした。

そこで、VTuberを批評、分析、あるいはそれを手がかりにコミュニケーションや現実と虚構、そしてバーチャルの関係を考察したい、というひとびとの役に立てればと思い、(勝手に)連動企画「バーチャルYouTuberスタディーズ入門」と題して、これまでに読んだ文献や目を通した文献を中心にリストをつくりました。寄稿した論考のサイドノートとして楽しめるようにつくってありますので、ぜひお手元にご用意のうえお読みくださいませ。また、わたしは読まないぞという方も、おもしろそうな文献を見つけてこれからの考察や批評に役立てていただければと思います。

ひろく、VTuber、バーチャルアイドル、YouTuberといった文化を考察するひとのための手がかりになればうれしいです。

また、ご感想などありましたら #三つの身体 でつぶやいていただけると、(元気があれば)拝見しにゆきますのでよろしくおねがいします。

三つの身体

いきなり宣伝です。この論考は、主に、⑴コミュニケーション研究、⑵美学、⑶ファン研究の文献を手引きとして、鑑賞を整理するにあたって重要な概念をつくろうとしたものです。概要を引用してみましょう。

本稿では、メディア/コミュニケーション研究、美学、そしてファン研究を手がかりに、VTuberの鑑賞実践を分析、整理し、批評や解釈、あるいは研究の有用な道具立てとなるような概念をつくりだすことを試みる。

はじめの二つのセクションでは、鑑賞者とVTuberの関係を軸に、VTuberの特徴が、その鑑賞の対象としての構成要素の複雑な関係性に見いだせることを明らかにする。その後、よりひろい視野から、VTuberを取り巻く鑑賞実践の総体を「環境」をキーワードに考察することで、VTuberという文化が、鑑賞者によるVTuberの動画やテクストの絶え間ない解釈と再構築とを特徴とするものであることを指摘する。

拙稿では、二つの主張をしています:まず、VTuberの鑑賞の対象は多層の「身体」からなること、そして、VTuberの鑑賞実践はその総体を「環境」というキーワードで捉えられること、です。

構成は以下の通りです。

  • はじめに
  • 第一節:VTuberとは誰か?
  • 第二節:身体は重なり合う
  • 第三節:鑑賞の環境学
  • おわりに

新規追加要素と旧要素

拙稿は、ブログで発表した以下の論考を再構築し、さらに「環境」に関する新たな議論を加えたものです。

ブログの論考(旧論考)とユリイカ論考(新論考)とを比較して、アップデートされた要素に、以下の三つがあります。

  1. 「ペルソナとして」、「キャラクタとして」という定式化を「パーソンのペルソナとして」、「キャラクタのペルソナとして」と再整理した。
  2. キャラクタとペルソナとパーソンとの関係の分析の追加。
  3. 「環境」をキーワードに、VTuberの鑑賞実践を、鑑賞者の実践に焦点を当てた分析の追加。

また、紙幅の都合上、新論考には盛り込めなかった旧論考の要素は、これらの三つがあります。

  1. ペルソナ-オーディエンス関係の研究紹介(viz., 社会関係のスペクトラムとBrownのパスフロウモデル)。
  2. 具体的なVTuber作品の批評(vi., 『鳩羽つぐ』と『高い城のアムフォ』)
  3. 倫理的問題(viz., 画像表象とペルソナとキャラクタの画像のエスニシティ・ジェンダ論)

なので、旧論考を読んだ方も、新論考を読んだ方も、ご関心に応じて、どちらも読んでいただけると幸いです。

宣伝はこのくらいにして、以下では、旧新論考を書くにあたって読んだものの、直接参考文献に入れることはできなかった論文も含めて紹介してゆきます。

第1節:コミュニケーション

1. パラソーシャル関係|Parasocial Relation

まず、第一節のパラソーシャル関係およびメディアペルソナの概念に興味をもったかたもいるでしょう。この二つの概念が提示されている基本文献は以下です。

  • Horton, D., & Richard Wohl, R., 1956, “Mass communication and para-social interaction: Observations on intimacy at a distance,” Psychiatry, 19(3), 215-229.

理論的な枠組みを提示してはいますが、それを裏づけるデータはまだ出揃っていませんでした。これ以後、ペルソナ概念とパラソーシャル関係の経験的研究と並行して、その概念の明確化やどのような認知的側面が関係しているのかが研究されてゆきます。経験的な研究は多くあり、そのひとつひとつが魅力的な問いと実験方法を提示していますが、個別に見てゆくと、ともすると大きな流れが見えなくなる可能性もあります。そこで、概観を得るためのまとめとして、この三つを読むとよいでしょう。

  • Giles, D. C., 2002, “Parasocial interaction: A review of the literature and a model for future research,” Media psychology, 4(3), 279-305.
  • Hartmann, T., & Goldhoorn, C., 2011, “Horton and Wohl revisited: Exploring viewers' experience of parasocial interaction,” Journal of communication, 61(6), 1104-1121.
  • Brown, W. J., 2015, “Examining four processes of audience involvement with media personae: Transportation, parasocial interaction, identification, and worship,” Communication Theory, 25(3), 259-283.

まず議論の総体を眺めるならGiles(2002)を、つぎに、HortonとWohlのアイデアを詳しく考えるならHartmann(2011)を、そして、パラソーシャル関係にとどまらず、ペルソナ-オーディエンス関係(PAR)に関する研究を概観するならBrowm(2015)を読むとよいでしょう。

2. メディア|Media

拙稿ではそれほどふれられませんでしたが、メディアにおけるPARの多様性とその違いもそれとして研究すべきではあります。というのも、鑑賞者がペルソナと出会うのは、さまざまなメディアを介して、いろいろなレベルにおいてなのですから。たとえば、以下の論文をみてください:

  • Bond, B. J., 2016, “Following Your “Friend”: Social Media and the Strength of Adolescents' Parasocial Relationships with Media Personae,” Cyberpsychology, Behavior, and Social Networking, 19(11), 656-660.
  • Stever, G. S., & Lawson, K., 2013, “Twitter as a way for celebrities to communicate with fans: Implications for the study of parasocial interaction,”  North American journal of psychology, 15(2), 339.
  • Vinney, C., & Vinney, L. A., 2017, “That sounds familiar: The relationship between listeners’ recognition of celebrity voices, perceptions of vocal pleasantness, and engagement with media,” Journal of Radio & Audio Media, 24(2), 320-338.

前者は二つはTwitterにおけるペルソナとオーディエンスの関係に、そして、Vinney & Vinney(2017)は、ペルソナの声とそれに対する親しみに的を絞った研究です。この論文は、同時に、前述のBrown(2015)において提示されたパスフロウモデルの批判も行なっており、興味深い論文です。

以上は引用しなかったのですが、VTuberにおいてはSNSの役割、そして声による親しみの形成も興味深いトピックになり得るでしょう。

3. パラソーシャルブレイクアップ|Parasocial Break-up

註でしかふれられませんでしたが、パラソーシャルブレイクアップ、すなわち、スキャンダルなどによるパラソーシャル関係の壊れについての研究もあります。

  • Cohen, J., 2004, “Parasocial break-up from favorite television characters: The role of attachment styles and relationship intensity,” Journal of Social and Personal relationships, 21(2), 187-202.
  • Hu, M., 2016, “The influence of a scandal on parasocial relationship, parasocial interaction, and parasocial breakup,” Psychology of Popular Media Culture, 5(3), 217.

Cohen(2004)はパラソーシャルブレイクアップの重要な論文と言えます。拙稿で文献にあげたのは後者で、こちらはスキャンダルとの関係に焦点を当てたものです。PARにおいて特徴的なのは、ふつうの対人関係ではそれほど衝撃的ではないような事態(e.g. 本人の顔が知られる、交友関係が知られる、経歴が明らかになる)ことによってPARが壊れ、オーディエンスが反応することでしょう。いわゆる「偶像化」と呼ばれる現象はこの方面からより明確に概念化/明確化する必要があるでしょう。

4. 擬人化|anthropomorphism

また、VTuberの「実在感」は、その生成過程はパラソーシャル関係から、そして、より広い視野からは、擬人化(anthropomorphism)研究の視点から分析できるでしょう。

  • Epley, N., Waytz, A., & Cacioppo, J. T., 2007, “On seeing human: a three-factor theory of anthropomorphism.,” Psychological review, 114(4), 864.

  • Epley, N., Waytz, A., Akalis, S., & Cacioppo, J. T., 2008, “When we need a human: Motivational determinants of anthropomorphism,” Social cognition, 26(2), 143-155.

  • Gardner, W. L., & Knowles, M. L., 2008, “Love makes you real: Favorite television characters are perceived as “real” in a social facilitation paradigm,” Social Cognition, 26(2), 156-168.

基本文献は前のふたつで、引用したのは最後のものです。Gardner(2008)は、「実在感」がオーディエンスにおいて感じられているだけではなく、その動作性テストから、感じられた実在感が、オーディエンスの動作にじっさいに影響を与えていることが示唆されており、非常に興味深い研究です。また、擬人化は、現象の理解や認識論とも関係しているでしょうし、美学的にも想像や隠喩の問題として議論されています。

5. スター研究|Star Studies

スターというトピックに関しては、映画研究において蓄積があります。その概観としては、

  • Hayward, S., 2013, Cinema studies: the key concepts (New York, Routledge).

そして、Dyerの著作にあるスターのイメージ形成の議論から手がかりを得ました。

  • Dyer, R., & McDonald, P., 1998, Stars, new ed. (London: British Film Institute). リチャード・ダイアー『映画スターの「リアリティ」 : 拡散する「自己」』浅見克彦訳(青弓社、2006年)。

まとめと展望

以上で扱ったトピックと概念は、VTuberにとどまらず、ペルソナと鑑賞者が関係する多くの社会的関係に対する分析枠組みとして有用でしょう。たとえば、二次元/三次元アイドル、有名なツイッタラー、といった隣接する対象のみならず、政治家や革命家のメディアペルソナの分析と批判にも用いられうるはずです。

ペルソナ一般は、それにふれる者とのあいだに、いつのまにか親密な関係をつくりあげうるのであり、それは使いようによっては、生活に癒しとリズムを与えうるし、たほう、回避すべき事態も引き起こせるでしょう。ゆえに、感性がどのようにハックされうるかを、前もって分析しておくことは無駄ではないはずです。

第2節:ボディ

1. キャラクタの画像|Picture of Character

  • 高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」Contemporary and Applied Philosophy 第六号、16-36項、二〇一四年-二〇一五年、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/226263(2018年6月27日最終アクセス)。

  • 松永伸司「キャラクタは重なり合う」、『フィルカル』Vol.1-No.2 76-111項、二〇一六年。
  • 高田敦史「「キャラクタは重なり合う」は重なり合う」うつし世はゆめ/夜のゆめもゆめ、http://at-akada.hatenablog.com/entry/2016/10/22/213559、二〇一六年 (2018年6月27日最終アクセス)。

キャラクタの画像(図像)の想像とフィクションの議論に関しては、上の論文を読むとよいでしょう。

フィクションにおけるキャラクタとその画像(picture)の独特の関係づけについての問題を定式化し、描写の哲学の議論をもとに、キャラクタに関する「分離された対象」のアイデアを提示したのは高田(2014-2015)の論考です。これを受けて、「キャラクタ空間」、そして「Pキャラクタ(パフォーミングキャラクタ)」、「Dキャラクタ(ダイエジェティックキャラクタ)」の概念を導入したのが松永(2016)で、その応答として高田(2016)が書かれています。

拙稿ではこれらの議論から、キャラクタの画像とキャラクタの違いの区別の導入に関して多大な影響を受けています。

2. 身体|Bodies

  • Cavell, S., 1979, The world viewed: Reflections on the ontology of film (Harvard University Press). スタンリー・カヴェ ル『眼に映る世界 : 映画の存在論についての考察』石原陽一郎訳(法政大学出版局、二〇一二年)
  • Hopkins, R., 2008, “Depiction,” In The Routledge Companion to Philosophy and Film (pp. 84-94), (Routledge).
  • Riis, J, 2008, “Acting,” In The Routledge companion to philosophy and film (pp. 23-31), (Routledge).
  • 灰街令、2018年a「キャラジェクトの誕生」新・批評家育成サイト-ゲンロンスクール、http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2748/(2018年6月27日最終アクセス)。

  • ——、2018年b「「キャラジェクトの誕生」補論——杉本憲相」試論たちの箱庭、http://reihaimachi.hatenablog.com/entry/2018/03/31/003906(2018年6月27日最終アクセス)。

  • 松永伸司「俳優、着ぐるみ、VTuber」、9BIT: GAME STUDIES & AESTHETICS、http://9bit.

    99ing.net/Entry/87/、二〇一八年(2018年6月27日最終アクセス)。

  • 猪口智広「ヴァーチャルなキャラクターの操演と動物性についての試論」『ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、223-229項、二〇一八年。

カヴェルは先日逝去されたアメリカの哲学、そして美学を代表する哲学者です。彼は、幅広い考察を行なっていますが、拙稿ではその映画の哲学に関する代表作の一つである『眼に映る世界』における、starとactor、そしてcharacterの独自の関係性に関する第四章の議論に影響を受けています(カヴェルの議論を参照しているHopkins(2008)、Riis(2008)も手がかりにしています)。

また、独自の視点からキャラクタの身体についての分析を行った、灰街(2018)はキャラクタの画像が表象するキャラクタとそれを使う者との関係を考察する上で、手掛かりとなった論考です。

松永(2018)は三層理論を用いた比較美学の試みを行なっており、議論の発展が見込めるでしょう。じっさい、猪口(2018)は、その枠組みをファーリー・ファンダムの鑑賞実践に応用しつつその特殊性の分析を試みています。さまざまな身体の鑑賞に焦点を当てた分析はさらなる可能性をもっているでしょう。

3. 虚構とバーチャル|Fiction and Virtual

  • シノハラユウキ『フィクションは重なり合う 分析美学からアニメ評論へ』logical cypher books、二〇一六年
  • シノハラユウキ「デイヴィド・チャーマーズ「ヴァーチャルとリアル」」logical cypher scapehttp://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20180425/p1、二〇一八年(2018年6月27日最終アクセス)。
  • Chalmers, D. J., 2017, “The virtual and the real,” Disputatio, 9(46), 309-352.
  • ナンバユウキ「ヴァーチャルリアリティはリアルか」 Lichtunghttp://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/04/21/ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、二〇一八年(2018年6月27日最終アクセス)。

VTuberよりひろく、VR世界は、その存在論的地位に関する疑問も多くあります。リアルとフィクションのあいだに、「バーチャル」といった存在論的な隙間はありうるのかどうか。

まず、Chalmers(2018)の論考は、バーチャルは現実と同様の存在論的地位をもつとする、「デジタル実在論」を擁護しています(cf. ナンバ 2018)。しかし、チャーマーズの議論に関して、シノハラ(2018)が指摘するように、バーチャリティを、美学的な道具立てを援用しつつ想像や虚構性の概念から分析する可能性も大いにあります(わたしもこちらの戦略に興味をもっています)。

また、とくに作品における虚構世界がどのような関係にありうるのかを議論した著作に、シノハラ(2016)のものがあり、想像の関係を考察する際には、そして、想像と虚構の概念を整理する際にはお世話になりました。

まとめと補足

第2節のトピックと概念のいくつかは美学における議論から生まれたものです。じつのところ、拙稿ではそれほど表立って引用がなされてはいませんが、論考の全体を通しては、分析美学と呼ばれる領域における方法論や問題意識に影響を受けているといえるでしょう。こうした分析美学の入門書としては:

  • ロバート・ステッカー『分析美学入門』森功次訳(勁草書房 二〇一六年)。

 

分析美学入門

分析美学入門

 

があげられます。また、より具体的なトピックに絞ったもので、より手に取りやすいと感じるものとしては、「批評とは理由にもとづいた価値づけである」という主張を、反論と再反論を繰り返すなかで提示してゆく、分析美学的な批評の哲学の入門としては:

  • ノエル・キャロル『批評について:芸術批評の哲学』(勁草書房 二〇一七年)。
批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

があります。さらに、分析美学全体の雰囲気はこちらの記事がよく伝えているように思われます:

VTuberのような勃興ジャンルの鑑賞実践を整理し、そこで用いられている概念を明確化する際には、こうした道具立てを用いることも有力なアプローチの一つであると考えています。

第3節:エコロジィ

1. ファン研究|Fan Studies

  • Pearson, R., 2010, “Fandom in the digital era,” Popular Communication, 8(1), 84-95.
  • Thomas, B., 2011, “What is fanfiction and why are people saying such nice things about it?” Storyworlds: A Journal of Narrative Studies, 3(1), 1-24.

ファン研究は1970年代からはじまりました。Thomas(2011)はその発展を跡づけており、どのような問題意識からファン研究がはじまり、進展していったのかが概観できます。また、デジタルな環境がもたらすファンダムのあり方の変化についてはPearson(2010)を参照しています。

2. 環境|Ecology

  • Cooper, M. M., 1986, “The ecology of writing,” College English, 48(4), 364-375.
  • Turk, T., & Johnson, J., 2012, “Toward an ecology of vidding,” Transformative Works & Cultures, 9.

ファンにおける文化形式の鑑賞実践を「環境」をキーワードに捉える方針は、主にこの二つの論考から手がかりを得ました。Cooper(1986)はライティング教育の視座から、書き手と読み手の関係を考察するなかで環境概念を提示しています。Turk(2012)はそれを発展させ、ファン動画がどのように作成され、そしてどのように鑑賞されているのかを具体例とともに分析しています。

まとめと発展

鑑賞実践に注目するアプローチは、とくに特定の鑑賞実践を引き起こすことを目的としているような作品の関して、より重要になるでしょう。たとえば、VTuberジャンルにおいて鑑賞されうるような『鳩羽つぐ』や『高い城のアムフォ』は、作品の解読や、その作品内で用いられる言語の読解という鑑賞も可能な点で、こうした実践指向の鑑賞分析が必要になるものでしょう。

たとえば、以前、『鳩羽つぐ』を「不明なカテゴリ」として、鑑賞者に積極的な解読を誘うことを意図した作品として分析しました:

ナンバユウキ「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503(2018年6月27日最終アクセス)。

この時点では、環境概念を手にしていなかったために、鑑賞実践を部分的にしか分析の手がかりとすることができませんでした。鑑賞の環境概念の彫琢とともに、その概念を用いてこの議論をアップデートする必要があるでしょう。

あとがき

わたしは、アイドルやスター、フィクショナルキャラクタにひとがなぜ魅了されるのかに、興味をもっていました。というのも、知人のいく人かはこれらにつよく魅了されているが、じぶんはそれに比べるとあまり没入して鑑賞してはおらず、なぜこのような鑑賞経験のちがいがあるのだろうと疑問に思っていたのです。

そこで現れたVTuberは疑問の詰まったからくり箱のようでした。どこから開けるべきか、どうすれば開くのか……その意味でわたしはVTuberという謎めいた文化の解読につよく魅力を感じています。加えて、そのペルソナの周囲でどのような鑑賞実践が形成されているのかにも興味を覚え、論考を書いた次第です。そして、さまざまな研究を辿るなかで、魅力的な概念に出会い、疑問のいくつかは定式化され、問いを問うための手がかりを得ることができました。

本稿が、そして拙稿が、実際に鑑賞実践のうちにあり、批評を行ないたいと思うひと、あるいは、この文化のもたらす問題に目を光らせるひと、そのほかさまざまなひとにとっての、VTuberについて考えるための足がかりになればと思います。

VTuber研究、そしてVRの環境の研究が、さまざまなレベルで開始され、知見が深まってゆくことを楽しみにしています。さらに、それらの研究から、つぎの文化や社会を、のみならず、気づかれていなかった過去の文化の系譜を考察する手がかりが生まれることを期待しています。

さいごに

さいごに宣伝を。現在、以上で紹介した各トピックの掘り下げのご依頼、また、VTuber、VR世界の出来事や概念の分析、批評のお仕事をお待ちしております。

VTuberの批評と分析については本ブログを、その他、どんな対象を研究しているのかなどは、もう一つのブログからご確認いただければと思います:

http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/07/31/225311

美学と哲学の立場から、概念の整理や批評を通して、あたらしい文化実践をよりいっそうゆたかにするとともに、文化実践がはらむ問題について取り組むための枠組みをつくってゆきたいとも考えています。

ナンバユウキ(美学) Twitter: @deinotaton