Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

聖地巡礼の美学

はじめに

アニメーション作品の聖地巡礼とは何か。聖地巡礼はいかにして行われているのか。聖地巡礼はひとつの行為なのか、それとも、様々な聖地巡礼の行為がありうるのだろうか。

聖地巡礼を巡る問いは、様々な対象とトピックに関する問いを含んでいる。本稿では、アニメーション作品と聖地巡礼の行為者との虚構的関係、そして、行為者が巡礼地を用いて行う想像行為のあり方に注目し、それらの組み合わせから、聖地巡礼をいくつかの種類に分類することで、聖地巡礼を美学的に考察するための枠組みを提示することを目的とする*1。そして、その分類に基づいて、宗教的聖地巡礼との関係や、時間と空間との関わり、聖地の保存と改変の問題、そして、作品と巡礼の価値の関係について考察し、「聖地巡礼の美学」のひとつの輪郭を描き出すことを目論んでいる。

本稿の構成は以下の通り。第一に、重ね合わせと関係というふたつの概念の組み合わせから四つの聖地巡礼的行為を分類する。第二に、第一節の概念的枠組みを手がかりに、いくつかの聖地巡礼の美学的問題について考察を行う。すなわち、宗教的な聖地巡礼と美的な聖地巡礼とを比較、時間と空間の概念、保存と改変の問題、聖地巡礼と作品の価値づけの関係を考察する。

  • keywords:聖地巡礼、重ね合わせ、作品への組み込み、宗教的巡礼、時間と空間、保存と改変、聖地巡礼の価値

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1. 巡礼の分類

1.1. 想像と関係

アニメーション作品に関する「聖地巡礼(pilgrimage)」には、少なくとも四つの異なった種類がある。本節では、まず第一に、そうした様々な巡礼*2のあり方を、(1)作品の虚構的真理と巡礼の際に用いられる現実的対象との関係、(2)作品の虚構世界と巡礼者との関係から整理する。ここで、「巡礼者(pilgrim)」とは、巡礼地に実際に赴き、以下に指摘されるような想像的行為を行う行為者のことである*3

  • (1a)順向きの重ね合せ(orthodromic surperimpose):ある物語的フィクションの公式の画像や映像が表象している虚構的対象F(建物、風景、街並み)の現実における対応物、すなわち、現実的対象Rを見つけ、現実的対象Rと虚構的対象Fとの重なりを味わう行為。巡礼者は、典型的には、物語的フィクションの公式の画像(特定のシーン、特定の風景のパースペクティブ、特定の土地や建物)が表象する対象の対応物を現実に再発見し、虚構的対象Fといま見えている風景(現実的対象R)とを順向きに重ね合わせることで、特定の経験を味わう。ここで「順向き」という表現は、公式の虚構的真理→現実的対象という向きを表している。
  • (1b)逆向きの重ね合わせ(antidromic surperimpose):ある物語的フィクションの公式の画像や映像において表象されておらず、その物語的フィクションに関係していると巡礼者が類推する現実的対象Rを手がかりに、その物語的フィクションにおいてありえそうな事柄やキャラクタの生活など非公式の虚構的出来事を想像する行為。巡礼者は、いま見えている風景(現実的対象R)を、存在しない非公式のフィクションの出来事などの非公式の虚構的対象Rを逆向きに重ね合わせることで特定の経験を味わう、公式のフィクションにおいては表象されていないような風景を見つけ、それを手がかりに巡礼者たちがそれぞれの想像を楽しむ行為である。ここで「逆向き」という表現は、非公式の虚構的真理←現実的対象という向きを表している。
  • (2a)隔てられ関係(separated relation):公式のフィクションにおいて、そのフィクションの世界に巡礼者を含まないような関係。あるいは、公式のフィクションに存在する何者かの立場を想像し、それになりきる必要があるような関係。一般的な物語的フィクションはこうしたフィクションである。
  • (2b)組み込まれ関係(embedded relation):公式のフィクションにおいて、そのフィクションの世界に巡礼者が含まれるような関係。すなわち、巡礼者は巡礼者そのものとして、公式のフィクションの虚構世界に存在する。鑑賞者は史跡をめぐる巡礼者のような「あの世界と同一の存在論的地位にある者」である。

ふたつの重ね合わせは、巡礼者が行う想像的行為のあり方であり、隔てられと組み込まれ関係は物語的フィクションと巡礼者の関係である。

1.2. 重ね合わせ

これらの組み合わせによって、四つの聖地巡礼を整理できる。その前に、二点指摘しておきたいことがある。

第一に、順向きと逆向きの重ね合わせはかなり異なった想像的行為であり、特に、後者は際立って特徴的な想像的行為である。

順向きの重ね合わせは、あるシーンを現実に見出すという再認の楽しみ、「虚構的対象がほんとうにある」という再発見の喜びをもたらすが、逆向きの重ね合わせは、そうした再認的快楽ではなく、聖地となった街を歩いていたり、電車に乗っていたり、ふと名も知らぬ裏路地に入ったり、あるいは地元の者しかいないような喫茶店に入って休んでいるときに、「あのキャラクタはここを通学/通勤しているのだろうか」「あのふたりはいつも週末ここに来ているかもしれない」「彼女らなら阪急電車を十三で乗り換えて河原町方面に乗ってそう」といった、自然に発生するその巡礼者特有の想像を楽しむ行為である。逆向きの重ね合わせは、五感を用いながら、その舞台の風景、街並み、日差し、天気、気温、その雰囲気、匂いを知覚しつつ、そして、知覚するのみならず、そうした世界全体を想像の手がかりとして、公式のフィクションにおいては存在しないがありえそうなキャラクタたちの生活を現実と重ね合わせ想像する行為である

そして、第二に、巡礼者は、多くの場合、順向きの重ね合わせを楽しみつつ、逆向きの重ね合わせをも楽しんでいる。

一般に聖地巡礼の印象は、順向きの重ね合わせ、すなわち、特定のシーンのパースペクティブを探す楽しみや、同じ写真を撮影する行為に尽くされるように思えるが、実のところ、巡礼者が聖地へと赴く理由のもうひとつは、そして、時に、より強い動機づけをもたらすのは、聖地に向かい、そこに存在してはじめて、逆向きの重ね合わせをゆたかに行いうるからなのではないだろうか

写真や地図を見るだけでは、ひとびとは、巡礼者が行いうるような、気ままで自然に沸き起こるようなゆたかな逆向きの重ね合わせを行うことはふつうできないだろう。舞台を訪れてはじめて味わうことのできる特有の経験とは、聖地における神秘的なアウラによってもたらされるというより、身の回りのものすべてがキャラクタや物語に関する想像を促すような状況となるような意味での「聖地」に身を置くことで、ゆたかで、ヴィヴィッドで、絶え間ない、そして自由な逆向きの重ね合わせを行い、それを味わいうるためにもたらされる経験である(cf. walton 1990, ch.1, sec.2)

のちに指摘するように、また後続の論文で考察することを考えているが、こうした聖地の「聖地性」理解は、フィクションに関する聖地巡礼のみならず、宗教的な聖地巡礼の内的経験の一部を、神秘やアウラといった概念に頼ることなく説明できるかもしれない。逆向きの重ね合わせにおいては、巡礼地の周囲の事物のすべてがケンダル・ウォルトンの概念的枠組みにおける想像を促すものとして際立ちうる。この想像の可能性のゆたかさが宗教的聖地巡礼も含めた、聖地の『聖地らしさ』の一部を説明するかもしれない。すなわち、聖地は、神秘的なアウラで満ちているのではなく、想像の促しのざわめきで満ちているのだ。つまり、聖者たちの史跡を辿ることで巡礼者にもたらされる経験とは、その逆向きの重ね合わせを行うことによって、聖者たちの見たもの、そのまなざしや情動をヴィヴィッドに想像することで、巡礼者特有の想像的経験を行うことに由来するのではないかとわたしは考えている。とはいえ、ここで、宗教的経験と美的経験の異同をさらに問うていく必要があるだろう*4

1.3. 四つの巡礼

  • (1)順向きの隔てられた巡礼(orthodromic-sepatated-pilgrimage: OSP):巡礼者は順向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションと巡礼者とは隔てられているケース。典型的な意味での「聖地巡礼」。『涼宮ハルヒの憂鬱』など多くのアニメーション作品に関して可能である。
  • (2)順向きの組み込まれた巡礼(orthodromic-embedded-pilgrimage: OEP):巡礼者は順向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションに巡礼者が組み込まれているケース。公式の画像がある場合の「質感旅行」*5。巡礼者は虚構世界に組み込まれており、しかも特定の公式の画像との重ね合わせを楽しめる。その代表例は動画作品群である『鳩羽つぐ』*6
  • (3)逆向きの隔てられた巡礼(antidromic-sepatated-pilgrimage: ASP:巡礼者は逆向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションと巡礼者とは隔てられているケース。しばしば(1)の順向き重ね合わせの巡礼と同時に行われうる。
  • (4)逆向きの組み込まれた巡礼(antidromic-embedded-pilgrimage: AEP):巡礼者は逆向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションに巡礼者が組み込まれているケース。『ガールズ ラジオ デイズ』という作品に関して指摘される「質感旅行」。また、『鳩羽つぐ』に関しても可能である。

以上の四つの巡礼は、完全に排他的ではない。とはいえ、あるフィクションが巡礼者を隔てているか、組み込んでいるかはどちらかであり排他的である。他方、ふたつの重ね合わせはフィクション作品が指令するものというより、巡礼者が行う想像的行為であり、基本的に排他的ではない。

1.4. 具体的な例

次に、以上の区分の具体例を挙げてみよう。たとえば、『涼宮ハルヒの憂鬱』の西宮北口駅や、高校までの道のりに向かい、アニメーションにおけるシーンや特定のカットと同じ角度や風景を見つけ、それを現実と重ね合わせることで特有の美的経験を得る行為は、(1)順向きの隔てられた巡礼である。

また、『涼宮ハルヒ』の巡礼者が、キャラクタたちがしばしば利用し、シーンに登場する珈琲屋ドリームの椅子に腰掛け、特定の位置からの写真を撮ることで(1)順向きの隔てられた巡礼を行いつつ、頼んでいたメロンソーダ(これもまたキャラクタがしばしば作中で注文していたものだが)を飲むとき、そのメロンソーダの味や食感を味わいつつ、「こういう味と食感をキャラクタも味わっているのだろうか」と想像することは、現実的対象Rを手がかりに、公式のフィクションの虚構的真理には含まれていない出来事について非公式の想像を楽しむ行為であり、(3)逆向きの隔てられた巡礼である。そして、これらふたつの(1)順向きの隔てられた巡礼と(3)逆向きの隔てられた巡礼とは排他的ではなく、しばしばひとりの巡礼者が一回の巡礼で同時に、あるいは入れ替わり行うものだろう。

また、『鳩羽つぐ』を西荻窪で探す行為は、鳩羽つぐと鑑賞者との世界はおそらく同一であること、そして、たしかに公式の画像があるものの、それが部分的であるがゆえに、公式の画像と風景の重ね合わせを楽しむというよりも、鳩羽つぐの痕跡を追い求めるような、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)逆向きの組み込まれた巡礼を同時に行う巡礼の代表例のひとつである。

さらに特殊な例として、『ガールズ ラジオ デイズ』というラジオドラマ的作品があげられる。この作品においては、フィクション内においてリスナーとしての立場をとることができ、実際、様々な巡礼者が様々なサービスエリア周辺や、キャラクタたちが過ごしているであろう繁華街に出かけ、そこで様々な想像を行い、独特の鑑賞経験を行なっている様子をSNSにおいて共有する巡礼の実践が豊富に見受けられる。それは「質感旅行」と呼ばれているが、これは、(4)逆向きの組み込まれた巡礼を主として可能にする際立った作品である。

次に、以上の概念的枠組みを手がかりに、聖地巡礼のあり方をより広い視座から考察、比較してみよう。

2. 巡礼の美学

2.1. 宗教的巡礼

こうした様々な巡礼的経験のうち、特に、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)AEPのような組み込まれた巡礼は、宗教的行為としての聖地巡礼と共通する特徴を多く持つ。というのも、宗教的な聖地巡礼においては、聖典などが記す世界はこの世界と一致しており、巡礼者は、そうした世界に住まう者として、特定の史跡や聖地に向かい、聖者たちの、あるいは神々の見たものや触れたものを想像することで、あるいは聖典のうちの出来事や描写と重ね合わせることで特定の経験を行うからだ。そして、こうした、組み込まれの要素は、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)逆向きの組み込まれた巡礼と共通する。

アニメーション作品に関与する鑑賞行為としての聖地巡礼においては、(1)順向きの隔てられた巡礼や(3)のような隔てられた聖地巡礼が主要なものとされているが、「聖地巡礼」という言葉の原義から考えれば、レアケースであるような(2)順向きの組み込まれた巡礼や(4)のような巡礼行為がむしろ「聖地巡礼」の原義に近いと言えるだろう。宗教的な巡礼者は、神々や聖者たちと同一の世界の存在者として史跡に触れるのであり、美的な巡礼者は、同じく、キャラクタたちと同一の世界の存在者として街を歩き、食事をし、風景を眺める。どのような巡礼により美的価値が存在するのかは、その種類によって決定されている訳ではない。(1)順向きの隔てられた巡礼と(3)逆向きの隔てられた巡礼のような隔てられた巡礼は、特定の場所を舞台とする多くの作品に関して行うことができ、豊かな実践があり、同じショットを探したりといった様々な楽しみが見出されているだろう。

さらにまた、特定のフィクションとが存在するわけではないが、偉人や芸術家の生家や歩みを辿るような観光は、(3)と(4)のような組み込まれた巡礼と近しい要素を持っている。たとえば、ウィーンの中央墓地を訪れ、音楽家たちの生家を訪ねる時、巡礼者は、時間を隔てて、音楽家たちが見たものや生きた光景を現実的対象を手がかりに想像している。このときは、逆向きの重ね合わせに類比的な想像行為を行っているだろう。このように、本稿の巡礼の枠組みと整理は、明確な物語的フィクションを介さないような巡礼の分析にも応用可能だろう。

2.2. 時間と空間

巡礼においては時間と空間が重要な要素のひとつとなっている。ここでは、別稿の考察に向けて、巡礼と時空間の関わりをかんたんにスケッチしておく。

第一に、実際的な問題として、巡礼の舞台は時間とともに失われうる。実際、『涼宮ハルヒの憂鬱』の舞台のいくつかは、再開発によってすでに失われている(たとえば、西宮北口公園など)。ゆえに、巡礼はつねに行うことができるような行為ではなく、時間の影響を不可避に受ける。

第二に、巡礼の舞台は、その都度の時間における様々な姿を見せる。クロード・モネが『ルーアン大聖堂』において描いた様々な光を受ける大聖堂が証立てるように、風景や街、巡礼の舞台は、けして平板ではない移ろいゆく経験を、しかもある程度以上は巡礼者同士で共有できないような、特有の天気や気温、人の流れなどによって生み出される経験を与えるだろう。

第三に、巡礼は巡礼者がその舞台を巡り、歩き、探索し、気ままに遊歩するような、空間を移動する行為である。ふつうフィクション作品の鑑賞それ自体に空間性はほとんど影響しないが、巡礼というフィクション作品を用いた行為において顕著な空間性を見逃してはならないだろう。

第四に、巡礼は時間の超越を空間を媒介に行いうる。宗教的巡礼や史跡の巡礼に焦点をあて、フィクションかどうかを別にすれば、巡礼という行為において、過去には吟遊詩人の歌や伝説の物語に描かれた史跡を訪ね、その空間に存在することで、物語の時間と、現在との間で隔てられた時間を超えるような経験を行うことができる。

巡礼の総体を明らかにするためには、本稿の枠組みに加え、時間と空間の概念の分析が必要だろう。

2.3. 保存と改変

次に、巡礼地の保存と改変の問題を考察してみよう。

アニメーション作品は、しばしば、意図的に作品の舞台となった地の自治体や商店街などとタイアップして、アニメーションキャラクタをあしらったグッズやのぼり、スタンプラリーなどを企画する。こうしたものをアニメーションのプロダクトと呼べば、プロダクトは本稿で整理した巡礼と複雑な関係をとり結ぶ。

第一に、(2)の順向きの組み込まれた巡礼や(4)の逆向きの組み込まれた巡礼が可能な作品の場合、プロダクトがそうした巡礼者の組み込みに配慮していない作品の場合、組み込みを阻害し、組み込まれた巡礼の経験を損なってしまう場合がありうる。たとえば、巡礼者を組み込んでいるはずの作品で、「Xという『作品』とコラボしました!」といったアナウンス自体が、ある程度組み込みの経験を損なうかもしれない。以上は各作品について個別に異なるが、本稿の枠組みを用いれば、なぜ特定のコラボのあり方やプロダクトの展示の仕方が一部の巡礼者にとって美的にわるいものになりうるのかを分析することができるだろう。

第二に、(1)順向きの隔てられた巡礼や(3)逆向きの隔てられた巡礼においても、プロダクトは舞台の景観をアニメーションと同一に保たない場合、巡礼の経験をある程度阻害するものになるだろう。なぜなら、明らかに作品と巡礼者は隔てられているとはいえ、プロダクトのあり方によっては、その隔てられを再確認させ強調するような効果をもたらしうるからだ。

巡礼地をいかにして保存するか、あるいは、巡礼地の集客のためにいかに改変するかは、美的価値のみならず、経済的価値とも関係する複雑な問題である。その問題を考察するひとつの手がかりは、巡礼地と作品の関係、より具体的には、本稿で指摘した、作品の虚構世界と巡礼者の関係(隔てられ/組み込まれ)である。こうした作品と巡礼者の関係から、巡礼者の側からの鑑賞や価値づけのみならず、実際にコラボやタイアップを行う企業や、自治体の側における、プロダクトをどう作成するか、どう配置するかといった問題についての分析の手がかりとすることができるだろう。その意味で、本稿の概念的枠組みは、巡礼の美的な側面の分析のみならず、コラボのあり方に関する分析へも適用可能なものである。

2.4. 巡礼と価値

巡礼は、作品を用いて行われるという意味では作品と関係している。しかし、巡礼が作品を構成する鑑賞行為かどうかははっきりしていない。つまり、巡礼の経験のよしあしを、作品の評価のなかに含めてよいのかどうかが問題になる。

『鳩羽つぐ』や『ガールズ ラジオ デイズ』において、公式にこうした巡礼行為を作品に含めるようなアナウンスはなされてはいないために、こうした巡礼が可能かどうか、その巡礼が豊かな経験をもたらすかどうかは作品それ自体の価値としては含めづらいかもしれない(もし『宇宙よりも遠い場所』を「南極は巡礼には困難過ぎる」という理由で低く評価するとすれば、それは作品それ自体の価値づけとは関わりのないものとみなされるだろう。)。

だが、いくつか指摘されているように、こうした巡礼のデザインを作品として組み込む様々な芸術作品を制作することは可能であるし、その作品は、インスタレーション、アニメーションを問わず、様々な可能性があるだろう*7。その際には、本稿が整理した様々な巡礼の分類によって、そうした巡礼を作品の価値とするような新たな作品、言わば、「巡礼芸術(pilgrimage art)」の可能性を描くことができる。その意味で、本稿の分析は実践にも寄与しうるだろう。

おわりに

本稿は、順向きと逆向きの重ね合わせという巡礼者の行為、そして、隔てられと組み込みという巡礼者と作品の虚構世界との関係から、聖地巡礼と呼ばれる様々な行為を分類し、さらにその分類から、宗教的な聖地巡礼、史跡を巡る行為との関係を考察し、また、聖地巡礼を作品に組み入れ、巡礼をデザインするような巡礼芸術の可能性を提示した。

本稿を元にした論文も計画しているが、本稿を出発点として、聖地巡礼の美学に関する原稿記事に関するご依頼もお待ちしている。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

ナンバユウキ. 2018. 「鳩羽つぐの不明なカテゴリ––––不明性の生成と系譜」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503.(2019/03/02最終アクセス)

ナンバユウキ. 2019a.「『ガールズ ラジオ デイズ』––––周波数を合わせて」Lichtung Criticism、 http://lichtung.hateblo.jp/entry/2019/01/16/『ガールズ_ラジオ_デイズ』––––周波数を合わ.(2019/03/02最終アクセス)

ナンバユウキ. 2019b. 「質感旅行スケッチ」Lichtung Criticism、 http://lichtung.hateblo.jp/entry/shitsukantourism.(2019/03/02最終アクセス)

難波優輝. 2018. 「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号、81-87. 

大岩雄典. 2019.  https://twitter.com/rovinata_/status/1087694709089361920?s=21.

Walton, K. L. 1990. Mimesis as make-believe: On the foundations of the representational arts. Harvard University Press.(『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』田村均訳、名古屋大学出版会、2016年)

yunaster. 2019a.「『質感旅行』という概念の誕生について【ガルラジが面白い 番外編】」『除雪日記』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/01/23/201000.(2019/03/02最終アクセス)

yunaster. 2019b.「ガルラジ、質感旅行をもう一度考える」『除雪日記』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/02/26/231929.(2019/03/02最終アクセス)

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「聖地巡礼の美学」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/aesthetics.of.pilgrimage.

訂正

2019/03/02:§2.3. 二段落目、「逆向きの巡礼と複雑な関係を」→「本稿で整理した巡礼と複雑な関係を」

*1:なお、アニメーション以外の作品に関してもいくつかふれているが、典型的にはアニメーション作品に関する議論を行なっている。

*2:以下「巡礼」はアニメーション作品に関する聖地巡礼を指す。

*3:しかし、実際に巡礼地に赴かずとも、巡礼地の写真や映像を手がかりにして、巡礼的想像的行為を行うことは可能だろう。さらに、360度の視野を記録したカメラを用いれば、あるいはある種のVRシステムを活用すれば、その知覚的入力は限定的であるにせよ、より実際の巡礼に近い想像的行為を行うことができる。本稿の議論は主に実際の巡礼者に焦点をあてるが、議論のいくつかは、以上のような「想像的巡礼者(imaginary pilgrim)」にもあてはまる。

*4:本稿では、ウォルトンの想像の促しという概念にしか注目していないが、逆向きの重ね合わせにおいては、現実的対象は、たんに想像を促すのみならず、ウォルトンの意味での小道具として働いている点から特徴づけられるかもしれない。この点については、ふたつの重ね合わせの概念とウォルトンのプロンプター/小道具概念の関係について指摘して頂いたシノハラユウキに感謝する。

*5:質感旅行については、yunaster(2019a, 2019b)または、ナンバ(2019a, 2019b)を参照せよ。

*6:『鳩羽つぐ』については、ナンバ(2018)、難波(2018)も参照せよ。

*7:

作画崩壊の美学

はじめに

DIESKEによる「作画崩壊の形式的な分析に向けたノート」は、「「作画崩壊」概念の実相を描きだすこと」を目指し、前半では、作画崩壊をめぐる言説を整理し、この概念がある作画を作画崩壊かあるいはそうでないかを分類するための「分類概念」としては定式化困難であることを示し、後半では、ヴァルター・ベンヤミン の「理念」という概念を手がかりに、この概念を捉える作業を行なっている(DIESKE 2019)。

この作業は、しばしばアニメーション鑑賞者のあいだで議論の的になるような「作画崩壊」という概念を分析的に明らかにする試みとして、さらに、作画崩壊精神分析的に捉え直そうとする試みとして、美学的にひじょうに興味深いものである。わたし自身、これまで作画崩壊を哲学的に考察したことがなかったが、触発され、いくつかのアイデアが浮かんだ。

本稿では、DIESKE(以下著者とする)の主張を参照しつつ、著者が行かなかったルートを進む。第一に、「作画崩壊」と呼ばれる事象を「崩れ」概念と達成への貢献の概念から特徴づけることで、弱い分類概念として定式化可能であることを示す。第二に、著者が指摘した作画崩壊のある種の美的価値について、「機能不全の笑い」をキーワードに考察する。そしてさいごに、作画崩壊の美的特徴を一般化して、「ミス」によってもたらされる特有の美的価値について、ビデオゲームにおける「バグ」を例に考察する*1

本稿は、作画崩壊を、特定の標準から逸脱する画像、「ミスピクチャ」として定義し、それがなぜ特有の「笑い」をもたらすのかを分析し、さらに、それを敷衍し、ビデオゲームのバグを例にとりつつ、「ある種の崩れによって特有の美的価値を持つ」対象を「ミスワーク」として定義し、作画崩壊とミスの美学を分析美学の視座から展開する。

  • keyword:作画崩壊、崩れ、ミスペインティング、ミスワーク、バグ、笑い

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1. ミスピクチャとしての作画崩壊

1.1. 崩れの定義

著者は、まず、「作画崩壊を分類概念として定式化するこ〔と〕は困難である」〔〔と〕は筆者による挿入〕ことを示そうとする。ここで、「分類概念」について「確定記述の集合」と定義されている。詳細な解説はないが、議論のために、「分類概念とは、その概念を用いることで、確定的に、客観的に、特定の対象がその概念が指示する特定の集合に属するかどうかを判別できるような概念」と理解しよう。たとえば、「優しいひと」は分類概念ではないだろう。いったいどのような条件を満たせばあるひとはこの概念を用いて、あのひとが特定の「優しいひと」集合に属するかどうかを判別できるのか定かではない。これに対して、「自然数」は著者の意味で分類概念と言えるはずだ。

さて、著者は議論の準備として、まず「作画崩壊をめぐる」論争の構図を次のように描く。

ある視聴者が作画Aを作画崩壊であると主張し、違う視聴者が作画崩壊ではないと反論する。そこで争点となるのはおおむね、以下の二点だ。

(1a)「崩れ」が意図的か/無意図的か。

(1b)「崩れ」が部分の集合としての作品=「物語」に貢献しているか/貢献していないか。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

本稿の目的にとって問題になるのは、ここで、「崩れ」という概念が定義なしに導入されていることだ。著者は、「基調デザインから大なり小なり逸脱しているという意味で作画Aは「崩れて」いる」、あるいは、「アニメーションでは「崩した」作画表現が、意図して導入されることがある。どうしてか。それはキャラクターの感情やスピード感などを強調するうえで、「崩した」作画が効果的な事例があるからだ」としており、常識的にはその意味は理解できるが、本稿で重要な概念のひとつであるため、より正確な定式化を行う必要がある。

そこで、崩れの必要十分条件を定式化しよう。ここで、崩れの必要十分条件とは、「崩れであるためにはその条件を満たす必要があるだけでなく、その条件を満たす場合に必ず崩れでなければならないという条件」である。

「崩れ(collapse)」とは、すなわち、

  • あるアニメーション作品Wの特定の作画が「崩れている(be collapse)」とは、それが次のいずれかの、あるいは両方の条件を満たすような特定のアニメーションの画像*2であるとき、かつそのときに限る。:(C1)作品Wの他のシーンの画像が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような画像である。(C2)作品Wが属するとみなされるアニメーションのジャンルの画像が持つ標準的特徴を持たないような画像である。

たとえば、(C1)について、作品Wの他のほとんどのシーンにおいて、あるキャラクタの顔の作画は、公式のキャラクタデザインに代表されるような作品Wにおける標準的特徴を満たしているとする。ところが、最終話に近づくにつれ、キャラクタの顔の画像はそうした標準的特徴を満たさなくなった。この時のキャラクタの顔の作画は、「作品Wについて」崩れていると言える。

あるいは、作品Wの特定の顔のすべてのシーンのキャラクタの顔の各部分が奇妙な配置(たとえば、つねに、正対する画像であっても、両目の大きさが左右非対称である場合)になっており、しかし、それが、その作品Wの公式のキャラクタデザインに準拠したものである時、(C1)に関しては崩れの必要条件を満たさない。しかし、ここで、(C2)に注目すれば、その作品Wが属するとみなされるジャンルが持つ標準的特徴を満たさないのであれば、それは「ジャンルについて」崩れていると呼びうる*3

ここで、以上の崩れの必要条件は、「記述的(descriptive)」なものだということに注意しよう。ここでは、そうした崩れが芸術的価値をもたらすか否かは判断されていないし、崩れを満たすからといって、特定の価値がすぐさまもたらされるわけではない。崩れはあくまで様々な標準的特徴からの外れである。

1.2. ミスピクチャとしての作画崩壊の定義

著者の議論に戻ろう。ここに著者の提示する論争の構図を再掲する。

ある視聴者が作画Aを作画崩壊であると主張し、違う視聴者が作画崩壊ではないと反論する。そこで争点となるのはおおむね、以下の二点だ。

(1a)「崩れ」が意図的か/無意図的か。

(1b)「崩れ」が部分の集合としての作品=「物語」に貢献しているか/貢献していないか。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

著者は、(1a)は、しかし、意図の読み取りの難しさゆえに判断基準としては有用でないとする。そして、(1b)を取り上げそれに従って議論を進める。ここでは(1a)についてはいったん保留して議論を進めよう。

そして、著者は、論争を行なう「いずれの立場においても議論の前提として(自覚的/無自覚的を問わず)合意されている事柄」として、次の三点の条件を提示する。

(2a)作画Aは「崩れて」いる。

(2b)「作画崩壊」の外延かどうかは「物語」への貢献いかんによって判断される。

(2c)「作画崩壊」は稚拙な作画を内包する。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

この条件の提示において、著者は「物語」への貢献としているが、必ずしも明確に物語をもたないアニメーション作品も含めたいので、アニメーション作品の芸術的達成への貢献としてよいだろう。

ここで「芸術的達成」とは、芸術的価値の達成である。芸術的価値(artistic value)とは、分析美学においていまなお様々な議論が繰り広げられているが、ミニマルな特徴としては、次のような価値Vのことである。すなわち、

  • ある作品Wが持つ価値Vが芸術的価値であるのは、次のとき、かつそのときに限る。ある価値Vはある種の価値Yであり、Vはある作品のメディウム、ジャンル、テーマ、テクニック、展示の様態、芸術種、あるいは、その他の芸術的特徴を介して現実化される。(cf.Simoniti 2018, 76)

ここで、その価値の種類は、典型的な例では、経済的価値でもなく、政治的価値でもないような、ときに美的価値であるような、あるいは倫理的価値でもあるような作品それ自体の価値である*4。そして、特定のメディアを介してそうした特定の種類の価値が現実化されるときに価値Vは芸術的価値と呼ばれうる。そして、芸術的達成への貢献とは、そのような価値の達成への貢献である。

さて、(1b)を引き継いだ(2b)における判断の際に用いられている作画崩壊概念は、明らかに、「評価的(evaluative)」な概念であることに注意しよう。著者が指摘するように、作画崩壊」という概念は、「崩れ」という記述的概念のみならず、その「崩れ」が作品の芸術的達成に貢献しているかどうかという評価的概念として用いられている。すなわち、作画崩壊とは文字通り、作品の達成の「崩壊」を招くような作画なのだと理解される。

ここで、著者は、ゆえに、「作画崩壊」概念は「確定記述の集合という意味での分類概念として定式化することは困難」だとして、ベンヤミンの「理念」を用いた議論を行う。本稿では以降の議論に本格的には立ち入らない。

著者が指摘するように「作画崩壊」概念は、なるほど、数学的集合のように属するものとそうでないものを確定的に分けられる概念ではない。「「作画崩壊」に含まれるか否かを識別する基準が主観的であいまいとなれば、「作画崩壊」は分類概念とはもはやいえまい」との結論は、分類概念の定義上正しい。

しかし、「作画崩壊」は著者の意味での確定的な分類概念ではないにせよ、一般的な意味では、特定の作画が作画崩壊か否かを判別することができるような、実践的な意味での分類概念、あるいは弱い分類概念でありうる。

まず、実践において用いられる概念の多くは、著者の要求を満たすことはできない弱い意味での分類概念だろう。たとえば、「芸術」「精神病」「存在」といった概念は、実践的には使用されているものの、「確定記述の集合」ではありえない。そうであれば、著者がこの概念を「理念」として捉えるのとはべつの概念的改訂を行う可能性も残されている。

作画崩壊という概念は、わたしが上で定式化した崩れの条件と、著者が整理した貢献条件を組み合わせれば、ある程度の粒度をもった必要十分条件を伴う概念として、弱い分類概念として定式化できる。

  • 次のふたつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、あるアニメーション作品Wの特定の作画は作画崩壊している。:(1)その作画が崩れている。かつ、(2)その作画が作品Wの芸術的達成に貢献していない。

わたしは、作画崩壊のニュアンスが揶揄的なものであるために、それをたんに「ミスピクチャ(mispicture)」と呼びたい。くどくなるが、再定式化すれば、

  • 次のふたつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、あるアニメーション作品Wの特定の作画はミスピクチャである。:(MP1)その作画が崩れている。かつ、(MP2)その作画が作品の芸術的達成に貢献していない。

この「ミスピクチャ」概念は、たしかに、記述的のみならず評価的ではあるが、しかし、(MP1)と(MP2)のふたつの条件を満たす特定の作画についてある程度以上客観的な基準をもった弱い分類概念として使用可能だろう。

ここで、次の想定反論が考えられる。(MP2)の貢献条件は主観的なものであり、弱い分類概念ですらないのではないか。という反論だ。たしかに、特定の作画がその作品の芸術的達成に貢献しているかどうかは、その作品をどのように解釈し価値づけるかと密接に関わっている。問題は、芸術的達成の客観的条件をどの程度担保できるかになる。

こうした芸術的達成の客観的条件はウォルトンが提示したカテゴリに基づいて提示可能だろう(Walton 1970; cf. Carroll 2009)。たとえば、スプラッタシーンで満ちた映画は、スプラッタホラーとして、そのカテゴリにおいて高い達成を行なっているが、ロマンス映画として知覚した時、明らかに低い達成しか行なっていないと判断されるだろう。同様に、あるアニメーション作品Wの作画がその作品の芸術的達成に貢献しているかどうかはその作品が属するカテゴリに基づいて部分的にせよ判断できるだろう。

たとえば、その作品が既存のジャンルにはまったく属さないような新たな前衛的なアニメーションであれば、それが一見属するようにみえたカテゴリからは逸脱しているために、条件(MP1)を満たしていたとしても、(MP2)を満たさない場合がある。つまり、そのカテゴリにおいての達成に貢献している場合がある。このように、カテゴリに基づけば(MP2)についてもある程度客観的な条件を提示することができる。ゆえに、「作画崩壊」の基準は主観的であいまいであるとは限らない。

したがって、以上より、作画崩壊を弱い分類概念として定式化することは可能である。その定式化は、作画崩壊の概念使用の実践をある程度は救っているとわたしは考える。ミスピクチャ/作画崩壊概念は、たしかに、著者が定義づけるような分類概念そのものではないが、実践には十分有用な概念として用いることができるだろう。

2. 作画崩壊の美学

以上の議論は、著者がそのあとに行う精神分析的な作画崩壊の考察とは必ずしも対立するわけではない。だが、おおきく二点指摘しておきたいことがある。

2.1. 概念と道具

第一に、ミスピクチャとして作画崩壊を理解した場合、ベンヤミンの「理念」概念を導入するかどうかは選択可能なものになる。

ミスピクチャ概念は、崩れの必要十分条件と、芸術的達成の貢献から作画崩壊を定式化可能であり、そして、こうした単純な概念的道具立てですむなら、そちらのほうが作画崩壊概念を用いる際に理解しなければならない前提や概念を節約でき、より実践に使いやすいと考える者にとっては、本稿のミスピクチャとしての作画崩壊概念も概念的道具として持っておいても損はないだろう。もちろん、精神分析的考察への繋げやすさの関連もあり、一概に概念の節約性が美徳とされるかどうかは使用者によって異なるだろう。

2.2. 機能不全の美的価値

第二に、作画崩壊の価値に関連して。ミスピクチャは、たしかに、その作品の芸術的達成を時に阻害するが、しかし、それが特定の美的価値を持たないわけではないミスピクチャは笑いを誘う場合もある。先に言っておけば、ミスピクチャは、「本来の機能を果たさないことによる美的価値」を持ちうる。こうした笑いについてひとつの議論をみてみよう。

笑いに関する哲学において、「不一致説(incongruity theory)」が有力な説のひとつとして提示されている。ここで不一致説とは、一般に想定されるパターンの裏切りによって笑いがもたらされうる、という理論である。ユーモアの美学研究者であるジョン・モレオールは、『コミックリリーフ(Comc Relief)』(2009)において、この理論にふれ、つぎのように説明している。彼によれば、この理論は、

人間の経験が学習されたパターンに沿って働くという事実に基づいている。わたしたちが経験したことは、わたしたちが経験するものに対処するための準備になる……。ほとんどのばあい、経験は上述のような精神的パターンに従う。〔こうして〕未来は過去のようになるのだ。しかし、ときどき、わたしたちは、あるものの部分や特徴がこの精神的パターンに違反するものを知覚あるいは想像する。 (Morreall 2009, 10–11)

わたしたちは過去の経験を用いて未来を想定する。ボールは投げれば落ちてくるのであり、がたいのいいライオンはおそろしい。だが、投げたボールがどこまでも浮いてゆけば、ライオンがかわいらしく腹を見せれば、ユーモラスになる。この違反こそが笑いをもたらす。モレオールはこんな例をあげている。

ぼくは猫が好きだ。かなり鶏肉に近い味がするしね。(ibid., 51)

「猫が好き」の想定される意味は、その見た目やふるまい、性格の愛らしさにかんする好意だろう。だが、その想定は違反され、「味」にかんする意味であると判明し、笑いが起きる。つまり、既知の「精神的なパターン」が裏切られることによって笑いがうまれる(ナンバ 2018)。この不一致説から、ミスピクチャがなぜ笑いを誘うのか分析できるかもしれない。

ミスピクチャは、崩れの条件、すなわち、(C1)作品Wの他のシーンの画像が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような画像、あるいは(C2)作品Wが属するとみなされるアニメーションのジャンルの画像が持つ標準的特徴を持たない、という条件を満たすことで、第一に、作品Wの、あるいはその作品Wが属するようにみえたジャンルの標準的特徴を裏切り、さらに、それが本来貢献するはずの作品の芸術的達成に貢献せず、むしろ作品の達成を「崩壊」させるという二重の裏切りによって、本来の機能が果たされないことによってなんとも言えない脱力性の笑いや微笑みを誘う。こうした機能不全の笑いの例として、わたしは、芭蕉連句にみられるような「をかしみ」を思い出す。

そのままに転び落ちたる升落とし   去来

ゆがみて蓋の合はぬ半櫃  凡兆

作品Wがそもそもそれほどの芸術的価値をもたなかったとしても、その作品におけるあるミスピクチャの言い尽くせぬ機能不全のおかしみによって、そのミスピクチャのみがネットミームとして生き続けるということもあり得る話だろう。

3. ミスの美学

以上の議論によって、ミスピクチャとしての作画崩壊についての特徴づけを行なうことができた。しかし、ミスピクチャに関して、以上では、その「意図」に関する議論を行ってこなかった。以下では、ミスピクチャに関する意図の概念について考察するなかで、この概念を敷衍し、より一般的な崩れに由来する現象を分析する。

第一に、ミスピクチャ概念と意図概念から、ミスワークという概念を提示し、第二に、ビデオゲームにおけるバグを取り上げ、それがミスワーク概念からどのように説明できるのかを考察する。

3.1. ミスワーク

ミスピクチャの美的価値の一部は、それが意図せざる結果によってもたらされているという否定形の意図条件を満たすことで生み出されていると考えられる。もし、ミスピクチャの条件を満たす画像があったとして、それが意図的に作られたものである場合、すなわち、意図的なミスピクチャである場合、非意図的なミスピクチャが持つ、奇妙な形態や、なんとも言えない表情が「指示のミス」あるいは「納期の厳しさ」もしくは、「設定ミス」から生まれた、というネガティブな由来からもたらされる美的価値を持たないように思われる。そして、非意図的なミスピクチャがもたらす「をかしみ」も、そのミスピクチャが、どうにもならない事態や様々な条件の欠乏に由来するのではなく、意図を伴ってもたらされているのだとすれば、くさみのあるつまらないものになるだろう(cf. 松永 2017)*5

したがって、ミスピクチャの典型的な美的価値は、ミスピクチャの条件を満たし、かつ、制作者が、それがミスピクチャであることを意図せずに作られたものであること、という、否定形の意図条件を満たしてはじめてもたらされるもののように思える。

こうした否定形の意図条件を満たすミスピクチャのような制作物を、「ミスワーク(miswork)」と呼ぶなら、ミスワークはミスピクチャのみならず、ビデオゲームのバグ、演奏のミスタッチ、失敗したクッキーなどを含みうる。すなわち、

  • 次のみっつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、ある作品Wの特定の要素はミスワークである。:(MW1)その要素が崩れている。かつ、(MW2)その要素が作品の芸術的達成に貢献していない。かつ、(MW3)(MW1)と(MW2)とが制作者の意図なしに達成されている。ここで、ある作品Wの特定の要素が崩れているとは、それが次のいずれかの、あるいは両方の条件を満たすような特定の要素であるとき、かつそのときに限る。:(C1)作品Wの他の要素が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような要素である。(C2)作品Wが属するとみなされるジャンルの要素が持つ標準的特徴を持たないような要素である。

3.2. バグ

たとえば、ビデオゲームのバグはミスワークの条件を満たすだろうか。

ここで、美術家大岩雄典とゲーム研究者松永伸司によるトークイベント「バグる美術」において次のような示唆的な指摘が行われている。なぜある現象がバグに見えるのかについて、ビデオゲームスーパーマリオブラザーズ』のプレイヤキャラクタである「マリオ」がある時、これまで入れなかったステージのオブジェクトであるレンガに入れるようになったという例を挙げている。

大岩:その現象が起こるまでのゲームプレイで、「レンガに重なる」という状況になったためしがなく、プレイヤーは「レンガは、マリオがどう行動したところで、入らせないようになっている」と学ぶ。現実の人間は土を掘ったりできるけれど、ゲーム内でマリオはそういった行動をとれない。そう把握したあとで、理由はわからなくとも「レンガの中に入ってしまった」ときに、「このステージからマリオはレンガに入れるようになったんだ」とは思わないですよね。そうではなく、何かおかしくなったのだと思う。それまで考えていたルールとそぐわないことが起きてしまったとき、バグに見える

松永:バグというのはとりあえず〈おかしく見える〉んですが、その〈おかしさ〉がどうやってわかるのかと言うと、挙がったように、「今までは通れなかったところへ、何故か前触れもなくいきなり通れてしまった」とき、つまりそれまであったスタンダードから逸脱したことが理由になっている。さらにもうひとつ、マリオというのは人間なので、壁の中を歩けないはずですね。それが画面上では歩けるようになってしまっている。今まで歩けていたかどうかとは無関係に、「人間は壁の中を歩けない」という前提に反している点も、〈おかしさ〉の理由になっている。われわれの世界では壁の中を人間は歩けないけれど、このゲームが見せているフィクション上では歩けてしまっている、という場合は、フィクションを経由して、システム上のバグを認めているケースですね。逆にフィクションとしておかしくはなくとも、今までのルールに反するということでバグが認められることもある。この『スーパーマリオブラザーズ』のケースは、フィクションが効いているケースだと思います。(大岩 2017)〔強調と発言者の表記の変更は筆者〕

ここから、ミスワークの特徴づけがビデオゲームのバグにも応用できることが確認できる。

例のように「キャラクタがレンガの中を歩ける」というバグは、『スーパーマリオブラザーズ』というゲームの標準的なルールあるいはそのフィクションから逸脱している。すなわち、そのゲームの他の要素が持つゲームWにおける標準的特徴(標準的なルールや虚構的真理の集合)を満たさない。

あるいは、ゲームが属するとみなされるゲームジャンルの要素が持つ標準的特徴を持たない。そして、このバグは、このゲームWの芸術的達成には貢献しているとは言えない*6

そして、このバグは制作者の意図にないものである。以上から、ゲームのバグはミスワークである。ミスワーク一般はミスワークであるがゆえに、笑いの他にも、「謎めいた」「不気味な」「狂気じみた」「異様な」といった独特のネガティブな価値や、それをはじめて発見した際の驚きや興奮をもたらしうるだろう。

さらに、ビデオゲームのバグは、スピードランにおけるような「ゲームメカニクスパルクール」とも言うべき遊びを生み出す。パルクールが市街地の本来意図したデザインを利用して組み換え、異なる遊びを見出すのに比して、スピードランのいくつかは、ゲームメカニクスのバグに代表されるミスワークを利用してあらたに作り出された遊びを生み出す(cf. Scully-Blaker 2014)。こうしたミスワークの組み合わせが巧みであるほど、鑑賞者は、特定のスピードランやその記録動画に「機知に富んだ」、あるいは「爽快な」といった概念を帰属させうるだろう。この実践からも確認できるように、ミスワークをめぐる豊かな美的実践が存在し、それらは哲学的考察の対象としてひじょうに魅力的である。そして、そうした実践の記述や分析に際して、本稿のミスワークの特徴づけは概念的枠組みとして手がかりを与えるだろう。

以上、作画崩壊の特徴づけから、ミスワーク一般の特徴づけへと一般化を行い、その例としてビデオゲームのバグを取り上げた。十分な検証はなされていないが、この特徴づけはいままで十分に美学において議論されてこなかったような、作画崩壊からビデオゲームのバグをも含みこむような「ミスの美学(aesthetics of miss)」を考察する有用な手がかりとなるだろう。

おわりに

本稿は作画崩壊概念をミスピクチャとして概念化し、ある程度の分類能力を持ちうる概念として定式化した。そして、機能不全の笑いをキーワードに、ミスピクチャがもたらすおかしみをその特徴づけから考察し、さらに議論を一般化し、ミスワークの概念を提示した。

作画崩壊や、ミスにはまだまだ気づかれていないような哲学的問題がありうるだろう。本稿がそうした問いを問う美学、すなわち「作画崩壊の美学」、「ミスの美学」の手がかりとなれば幸いである。

また、作画崩壊とネットミーム作画崩壊と笑いなどを問う作画崩壊の美学、あるいは、バグなどのミス一般の美的価値や美的経験を問うミスの美学の原稿依頼をお待ちしています。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

Carroll, N. 2009. On criticism. Routledge.

DIESKE. 2019.「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」note、 https://note.mu/daisuke_tanaka/n/na51225b7d26e.(2019/02/25最終アクセス).

松永伸司. 2017. 「バグとフラグの話」9BIT: GAME STUDIES & AESTHETICS、 http://9bit.99ing.net/Entry/77/.(2019/02/25最終アクセス).

Morreall, J. 2011. Comic relief: A comprehensive philosophy of humor. John Wiley & Sons.

ナンバユウキ. 2018. 「高い城のアムフォの虚構のリアリズム––––虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実.(2019/02/25最終アクセス).

大岩雄典. 2017. 「トークイベント「バグる美術」」euske oiwa、 http://www.euskeoiwa.com/texts/20170313_bugmeetsart_talk.html. (2019/02/25最終アクセス).

Scully-Blaker, R. 2014, “A Practiced Practice: Speedrunning Through Space With de Certeau and Virilio.” Game Studies. 14 (1). http://gamestudies.org/1401/articles/scullyblaker.(「〈実践される実践〉:ド・セルトー、ヴィリリ オとともに空間をスピードランする」大岩雄典訳、euske oiwa、 2018年。 http://www.euskeoiwa.com/texts/20181101_speedrun.html.(2019/02/25最終アクセス))

Simoniti, V. 2018. “Assessing socially engaged art.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 76 (1), 71-82.

Walton, K. L. 1970. “Categories of art.” The philosophical review, 79 (3), 334-367.

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「作画崩壊の美学」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/aesthetics.of.mis.picture

*1:なお、著者が第2節および第3節で議論する精神分析的議論には直接立ち入らない。

*2:ここで、画像(picture)は静止画(still picture)のみならず動画(motion picture)も指す。

*3:たとえば、現在の京都アニメーションの絵柄に慣れている者は、『涼宮ハルヒ』の第1期の公式のキャラクタデザインにある程度の違和感を覚えるかもしれない。こうした違和感を抱く者は「現在の京都アニメーション」というカテゴリにおいて『涼宮ハルヒ』第一期を鑑賞しており、この者にとっては、この作品は崩れてみえる。とはいえ、この者がだんだんとこの作品を見続けているうちに、あるいは、この頃の京都アニメーションの絵柄はこれだったな、と思い出すことで、この作品が属するとみなされるジャンルは変更されるだろう。そうすれば、この作品は、「あの頃の京都アニメーション」といいうカテゴリにおいて標準的特徴を満たすし、また、もちろん、その作画の多くは、この作品における公式のキャラクタデザインの標準的特徴をも満たすだろう。

*4:この場合、社会的変革などが価値になりうるようなソーシャリィ・エンゲージド・アートなどを除く。

*5:もちろん、細心の注意を払って、あたかも自然に作り出されたかのようなミスピクチャは、ミスピクチャそのものとしての価値は下がるかもしれないが、そうした技量に由来する高い価値づけはなされうるだろう。

*6:この点は、芸術的達成を制作者の意図に基づけるか否かでどの程度確からしいかが変わってくるだろう。

浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』注意と分散

はじめに

浦上・ケビン・ファミリーは、作曲、編曲、演奏、エフェクト、歌唱まですべてをこなすソロユニットである。浦上の編曲はこれまでYouTube上にアップロードされており、その高度やリハーモナイズの才と音色の豊かさから一部のあいだで高い評価を得ていたが、彼の最初のオリジナル曲『芸術と治療』が先日(2019年1月20日)公開され、その類まれなる才能と音楽的豊かさに多くのひとが気づきはじめた。

本稿では、浦上の曲を、これまで聴いたことのなかったひとにも聴いて頂き、また聴いたひとのなかで、しっくりこなかったひとにもあらためてそのよさに気づいて頂き、さらに、もちろん、よさに気づいたひとにはいっそう深くその価値を味わってもらえるよう、「注意と分散」をキーワードに『芸術と治療』の聴取を分析し、そのおもしろさを明らかにする。

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経験を分析する

浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』

一聴して気づくのは、この曲からあふれ出る様々なアイデアの存在である。メロディのみならず、ハーモニー、リズム、全体の構成、音色、楽器の配置。だが、それはたんに量的なものでなく、詰め込んだだけでもなく、この曲の価値そのものとなっており、そして、この曲を何度も繰り返し聴く意味をもたらす。そして、こうした構造ゆえに、『芸術と治療』は注意と分散の作品であると言える。どういうことか。この点について分析してみよう。

この曲のもっとも際立った聴取経験、それは、「注意と分散」の経験だ。

たとえば、ピアノの位置が左から右へ、あるいはその逆へと移り変わってゆくとき(たとえば、2:50〜3:00)。いままでバッキングに徹していた楽器が印象的なフレーズを奏でるとき。そのとき聴き手の注意はそれぞれのその楽器に向けられる。聴き手は、注意をあちこちに惹きつけられ、分散させられる。

こうした注意の惹きつけと分散は、今あげた楽器のみならず、あらゆる楽器で試みられる。聴き手は次から次へと異なる楽器に注意を向けざるを得なくなる(試しに、ギターバッキングだけを追うように挑戦してみてほしい。あなたの聴取経験が豊かなほど、しかし、ほかの音へと耳が惹きつけられてしまうはずだ。)。

こうした注意と分散は、楽曲の全体的な構造によってもデザインされている。第一に、この曲のかなり特徴的なリズムに注目しよう。この曲は、ポップスにはほとんど見られないような7+8のリズムで構成されている(手拍子を叩きながら数えてみてほしい。イントロあたりで特に理解しやすいだろう)。こうしたリズムは、一般的な4拍子の曲よりもさらに、聴き手の注意を分散させることに貢献している。メロディを追おうとしても、それが小節をまたぐあいだにリズムセクションやストリングスに注意が惹きつけられる。

第二に、この曲の構成もまた、聴き手の注意を途切れさせ、方向づけを変える。すなわち、イントロとAメロの移り変わりから、また繰り返し挿入される、しかしまったく異なるキャラクタを持ったインターリュードに見られるように、あらゆる転換の場面で、楽器の音数、位置、音域などは変更され、聴き手はそれまでのセクションにおいて保ってきた注意のあり方を、そのつど再編成しなければならなくなる。

第三に、歌詞について注目すれば、それが様々な文体や態度を混合したものであることに気づくだろう。あるときは独語のように、あるときは語りかけるように。歌詞においても、様々なパースペクティブからの語りが織り交ぜられ、聴き手の注意を分散させる。

第四に、あらためてまとめておけば、この曲は全般的な楽器の配置の変化や音量、組み合わせの変化によって、聴き手の注意を惹きつけ、分散させる。

こうした四つの構造は、もちろん、多くのポップスにも多かれ少なかれみられるだろうが、しかし、その程度において、『芸術と治療』は際立っている。ふつう、聴き手が戸惑うことのないように拍子はスクエアで、メロディは行儀よく小節に収められている。そして、イントロやAメロなどで変化はあるものの、そのダイナミクスや表情がここまでおおきく変わることはない、そしてさらに、歌詞は一定のパースペクティブを保っているだろうし、楽器に関する変化はここまで著しくない。ゆえに、こうした構造的特徴は、この『芸術と治療』に特有のものとしてみてよく、そして、この作品特有の鑑賞経験を説明するのにふさわしいはずだ。

そして、こうした注意の分散を誘う構造は、聴き手がこの曲を繰り返し聴いてしまう理由の一つを説明する。聴き手は、同じ曲を聴くのだが、しかし、同じようには聴かない。あるいはより正確に言えば、聴けない。注意は聴くたびに異なる仕方で分散され、聴き手は、毎回異なる『芸術と治療』を聴く。あるときははじめベースラインとリズムセクションを聴いていて、いつのまにか中音域のストリングスに注意を払ってしまっている。注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、『芸術と治療』の価値を説明するとともに、この曲を何度も繰り返し聴いてしまう理由を説明するだろう。『芸術と治療』は一回で辿れるようになっていない、また、何度辿っても異なる姿を見せる注意と分散を特徴とする作品である。

注意と分散の美学

注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、なるほど、この作品の鑑賞経験の一部がどのようにしてもたらされるかを捉えているにせよ、しかし、なぜ特有の美的経験をもたらすのだろうか。

この点について考察するために、知覚の哲学/美学研究者のベンス・ナナイの知覚と経験に関する分析を手がかりにしたい。

彼は、『知覚の哲学としての美学』において、「分散された注意(distributed attention)」と「集中した注意(focused attention)」という概念を用いて、美的経験について、知覚の特有性からの説明を試みた(Nanay 2016)。彼によれば、典型的な美的経験とは、ある対象、あるいは対象のまとまり全体に集中するもので、かつ、そうした対象の様々な性質へと分散された注意を向けることによって特徴づけられる。たとえば、ある絵画を鑑賞することで、鑑賞者がある美的経験を行うのは、その絵という対象に集中して、そして、たんにその主題のみならず、色、形、構成など、様々な性質に分散的に注意を払うことによってである(ibid., 23)。

さて、こうした「対象への集中と性質への分散」によって特徴づけられる美的経験は、なぜ特有の、しかもある価値を持つとされる経験なのか。それは、こうした美的経験は、たんにある対象を前もって定められた見方によって眺めるのではなく、次々に変化する注意によって、様々な性質を知覚やあるいは思考によって分散的に気づき、いままで見つけ出すことのできなかったような特有な性質を見つけ出すような経験であり、それは、「わたしたちにこの世界を別様に眺め、そして注意することを可能にするから」である(ibid., 35)。鑑賞者はこうした自由な注意の戯れによって、新たな仕方で対象を味わうことで、自らの既存の知覚を解放することができる。そうした経験は、まるで「世界ともう一度はじめて出会う」ような経験を可能にする。ゆえに、美的経験はそれ特有の快楽を伴う経験なのである。そして、『芸術と治療』はこうした注意と分散とをもたらすようにデザインされた作品として独自の価値を持つ。

だが、ここで、次のような想定反論がありうる。

多くの優れた表現は、様々な仕方で美的経験をもたらすことを意図する。たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、環境音というふつう見逃され、鑑賞の対象にならないものを鑑賞するように鑑賞者を誘い、鑑賞者は、環境音という対象に集中し、そして、その様々な聞こえという性質へと分散した注意を向けることで、美的経験を行う。そう考えれば、こうした美的経験からの説明は、『芸術と治療』特有の批評としては問題があるのではないか––––。

たしかに、美的経験は一般的に作品がそれをもたらそうとするものだ。しかし、それぞれの作品に特有な価値のひとつは、(1)それがどのような対象に注意を払わせるか、そして、(2)鑑賞者において、対象に集中し、かつ性質に分散された注意をいかにして向けさせるかというふたつの方法をどのようにして達成しているのかに見出すことができるとわたしは考える。

たとえば、先ほどのケージの作品は、(1)環境音というふつう注意が向けられない対象を取り上げ、そして、それを(2)コンサートホールや楽器奏者をもちいて、鑑賞者に一般的な音楽と同じように聴取させようと目論むことで、環境音という対象に集中的で、かつ、その性質に分散された注意を向けさせ、独特の美的経験をもたらす。

同様に、浦上の『芸術と治療』は、(1)注意の対象としてはポップスであるが、(2)前説で解説したように、四つに代表される音楽の構造によって、曲それ自体を対象として、対象に集中し、かつ、様々な性質に分散された注意を向けさせることに成功している。そして、こうしたデザインの仕方は、先ほど議論したように、この作品に特有である。したがって、この作品は、独自のデザインの仕方によって独自の美的経験とその価値とを作り出しており、その意味で、ほかの作品には見られないユニークな美的経験をもたらしている。

したがって、『芸術と治療』の鑑賞経験が、こうした美的経験を助長し、深化させるようなものであることが理解される。すなわち、この作品は様々な構造によって、性質について分散された注意をもたらすようデザインされた作品だと言える。したがって、この作品は美的経験のためにデザインされた作品として際立っているのだと言える。

批評の不可能性?

しかし、とここで想定反論がありうる。こうした形式的な特徴づけは、あらゆる美的経験をたったひとつの種類の経験に還元するものであり、不合理ではないのか。ケージの作品と浦上の作品はあきらかに異なる現象的経験がなされている。もし本稿が批評を語るなら、そうした経験そのものを記述しなければならないのではないか。

この指摘は部分的にただしい。こうした美的経験の特徴づけは、あくまで形式的な特徴づけであり、個別の作品に対する経験はそれぞれに現象的に異なっていると考えることが適切だろう。

だが、そうした厚みを持った現象的経験を言葉にすることは少なくともいまのわたしには難しい。わたしが可能なのは、そうした現象的経験をもたらすような要素やそうした経験を形づくるデザインを指摘することで、それらの記述を読んだ鑑賞者があらためて作品を鑑賞し、各々に現象的経験を行うことを手助けすることだろう*1。上で行ったように楽曲の構造や響きの変化を指摘することは、現象的経験そのものに関しては有意味な情報をそれほどもたないが、しかし、そうした形式へと読み手の注意を向けさせることに成功するなら、それは浦上の曲が持つ特有のデザインへの気づきにつながり、そして、浦上の曲のひとつの経験の仕方を提示することになる。そして、その経験が部分的にせよ作品鑑賞において正当なものなら、それはこの曲の価値そのものと関わる経験であり、したがって、そうした経験へと気づかせうる本稿の記述は、有意味な情報を伝達しうる批評である。ゆえに、以上の指摘と議論は、ひとつの有意味な批評であるとわたしは考える。

本稿では、現象的経験そのものの記述ではなく、それを可能にし、あるいは気づかせ深化させうることを目的として、経験をもたらすデザインとその経験の形式的記述を行った。この先は、実際に作品を味わってみてほしい。あなた自身において、特有の現象的性格を持つ美的経験が生起するだろう。

おわりに

さいごに、浦上自身によるライナーノーツから、断片的ではあるが、この曲のメッセージを考察してみよう。浦上は次のように述べている。

「せっかく自由奔放に育った芸術性や嗜好性を、凝り固まった大人たちに無理に治療されたくない!」という青すぎる青年が居たと仮定して、その架空の人間の立場に自らの身を置いてみた結果、そこから突如生まれた自意識過剰性をテーマにした詞です(浦上 2019)

浦上は、個人的に育った芸術性や嗜好性を大人たちが治療、あるいは社会的に矯正することに反する架空の人物を想定している。ここから、この曲の歌詞の語り手はそうした「青すぎる青年」とみなせる。そして、この青年が様々な経験や思考を経てゆくさまがこの曲では語られていると理解できる。とはいえ、ここではその物語のすべてを追うことはできないが、特に重要なメッセージを辿ってみたい。

楽曲の後半、「剥がされる芸術」のあとのインターリュード。治療を施され、サナトリウムで聴くような雨の音のあと、青年は、「僕は黙ってる/僕は黙ってるのスタンスはそぐわない」と呟き、そして、朗々と歌い上げる。

君なら売られた喧嘩
優しく躱せるはず
"僕は滅茶苦茶だ"
"僕は目茶苦茶だ"、
に愛されて帰れない

もっとも印象的なフレーズのひとつ。青年は自身の「滅茶苦茶」さを再確認し、それに「愛されて」いると受け取る。それは、なるほどじぶんの他人との差異を誇り、そしてそこに才を見出すような「自意識過剰」な若者のイタさなのだが、しかし、自身の差異と才に対する真正な態度でもある。そして、芸術的才能と感性を形づくる自らの特異性を「売られた喧嘩」から守ろうとする、治療されまいとする自身への肯定でもある。こうして、大団円の響きの中で明白にメッセージは伝えられ、治療ではなく芸術を選択することの決意が語られる。

半ば仮想的なキャラクタであれ、浦上は曲中の青年にシンパシーを抱いているのかもしれない。そうだとすれば、本稿のような、表現を形式的に取り上げ、理論から理解しようとする態度は、奔放な表現に公式的な枠を当てはめる「治療」の行いかもしれない。だが、こうした「治療」を得意とする者の予想をかるがると飛び越えて、青年は、あるいは浦上は「滅茶苦茶」に表現を続けていくことだろう。

浦上はポップスをさらに豊かにしてくれる。ひとりのファンとして、そして表現を言葉によって理解しようとする者として、彼の新たな試みを確信とともに楽しみにしている。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

McGregor, R. 2014. “Poetic Thickness.” British Journal of Aesthetics, 54 (1), 49-64.

ナンバユウキ. 2019.「詩の哲学入門」Lichtung、http://lichtung.hatenablog.com/entry/introductioin.to.a.philosophy.of.poetry.lichtung.(2019/02/02 最終アクセス)

Nanay, B. 2016. “Distributed Attention.” In Aesthetics as philosophy of perception. 12-35. Oxford University Press.

浦上・ケビン・ファミリー. 2019.「”芸術と治療” メモ」note、https://note.mu/urakouji/n/n189466d6bf38.(2019/02/02 最終アクセス)

おまけ:『未熟な夜想』短評

この論考を書いているあいだに、オリジナル第二曲が発表された。

浦上・ケビン・ファミリー『未熟な夜想

またもやものすごい作品である。所感をここに再掲しておく。

浦上・ケビン・ファミリーのオリジナル第二曲『未熟な夜想』時間を操る魔法のような歌。童話のようなクラシカルな響きを伴いながら、最初は過去からはじまり、アッチェレランドして、現在に戻る。そして、ア・テンポすると過去に巻き戻る。音楽は時間を操れるのだという驚き。時間芸術としての音楽と詞の意味は重ね合わさる。歌は過去と現在を行き来きする呪文であるということ。ポップスの次を聴いてしまった。

*1:この議論は、詩の経験の言い換え不可能性の議論をヒントにしている。この点ついては McGreger(2009)を、また、日本語でのまとめについては、ナンバ (2019)を参照せよ。

質感旅行スケッチ

はじめに

「質感旅行」という言葉は急に目立って現れた。本稿はその概念を公式の質感旅行的鑑賞と非公式の質感旅行的鑑賞に区別し、聖地巡礼という行為との関係を整理する。

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経緯

聖地巡礼と質感旅行についての言説が急に目立って現れる。起源は不明だが、目立つようになった理由は『ガールズ ラジオ デイズ』という作品の流行によると言えそうだ*1

整理をしてみた。

これに対して、より明晰な整理をする方が現れる。

おもしろそうなので図示してみる。

表現に問題がかなりありそうである(図1が聖地巡礼的鑑賞、言い換えて、公式の質感旅行とする。図2が質感旅行的鑑賞のつもり。)。

ただ、この図は理論的に入り組んでいるので、もっとシンプルに考えてよいはず。また、聖地巡礼と質感旅行として区別するのもよい手とは言えないだろう。

公式/非公式の質感旅行

そこで、あらためて、上述の聖地巡礼と質感旅行とを、「公式の質感旅行」「非公式の質感旅行」として区別してみる。

  • 公式の質感旅行的鑑賞:ある物語的フィクションの画像や映像が表象している対象を現実に見つけて、その現実的対象と虚構的対象との重なりを味わう行為。

たとえば、『涼宮ハルヒ』でしばしば主要キャラクタたちが集合し、会議を行う喫茶店のモデルとなった珈琲屋ドリームに出かけていって、メロンソーダを頼んだりする行為。その際には、しばしば、「SOS団がいつも頼んでるやつだな」といった言語化しにくい妙な感動がある。

対して、こうした聖地巡礼的鑑賞のさらに特定の鑑賞の仕方として、非公式の質感旅行的鑑賞がある。

  • 非公式の質感旅行的鑑賞:ある物語的フィクションにおいて表象されていないが、しかし、その物語的フィクションに関係しているだろう現実の土地や風景を手がかりに、その物語的フィクションにおいてありえそうな事柄やキャラクタの生活などを想像する行為。

たとえば、西宮北口から梅田へ阪急電車に揺られながら、車窓を眺めて「ハルヒキョンはこの景色を見ているのだろうか」と想像して、公式には存在しない物語や出来事を楽しむ行為(「古泉は神戸大学に行ってて、六甲道のきつい坂登ってそうだな」とかも不可能ではないが、作中で示されていないほど質感旅行は難しくなるだろう。)。二次創作的聖地巡礼

ここからもわかるように、質感旅行と聖地巡礼というのは、対概念というわけではない。両者は排反ではない。聖地巡礼という大きな枠組みの中に様々な鑑賞行為があり、そのうち、公式/非公式の質感旅行が指摘されているというかたち。

非公式の質感旅行のおもしろさは、物語的フィクションの内容の現実世界における再確認の感動というより、自身でキャラクタに関して作品中には存在しない情動やイベントを現実の対象を手がかりに想像することによる美的快にあるかもしれない。

覚書

  • 質感旅行はガルラジのような音声や文字媒体が主たるメディアである作品と相性がよいかもしれない。ゆえに質感旅行について知りたければ、ガルラジを鑑賞した方がよいかもしれない。
  • 聖地巡礼的鑑賞の一形態として理解できるとすれば、ほかにも質感旅行とおなじレベルの他の聖地巡礼的鑑賞経験があるかもしれない。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

*1:通称ガルラジについては以下がわかりやすい。関係する文書のまとめは拙ブログもあります。

『ガールズ ラジオ デイズ』––––周波数を合わせて

はじめに

小説、ラジオ、アプリ––––複数のメディアで作品世界を作り上げる作品、「ガールズラジオデイズ」。

ガルラジ*1については短期間にいくつものブログ記事が書かれている(萌黄 2019; Nobu 2019; シノハラ 2019a, 2019b; 鶏七味 2019; yunaster 2019)。本稿では、こうした先行する記述で触れられていた本作のメディアの特徴に焦点をあて、この作品の鑑賞経験の独自性、とくに、その「リアル」な質感がいかにしてもたらされているのかを分析美学を手がかりに問い、そして明らかにすることを目指す*2

本稿の構成は以下の通り。第一に、ラジオというカテゴリに関する議論を行い、それだけでは本稿の問いに答えるには不十分であることを確認し、第二に、メディアの存在論的な特徴に注目する。最後に、共感の概念から鑑賞経験を分析し、前節の議論と総合し、ガルラジがもたらす「リアル」な質感を分析し、明示化する。そして、以上の議論から、十全な鑑賞のためには、ガルラジを、他でもなく、いま、鑑賞しなければならない理由が明らかにされる

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1. ラジオというカテゴリ

ガルラジは、ラジオとして鑑賞される。すなわち、ラジオというカテゴリのもとで鑑賞される。本作はキャラクタ自身や公式HPにも記載された情報に基づけば、そのようなカテゴリのもとで鑑賞されることを前提としている。

しかし、鑑賞者は、しばしば指摘されるように、「明らかに虚構的だが、しかし、どこかでリアルさを感じる」ような独特な鑑賞経験を行っており、他のラジオ番組と同様な鑑賞経験をしているわけではない。この特殊な経験はどのような特徴に由来するのだろうか。

ここで、ガルラジが、ラジオとして鑑賞される作品であり、かつ、物語的フィクションでもあることに注目しよう。

ふつう、ラジオは現実の人物が現実のリスナーあるいは鑑賞者に向かって放送されるノンフィクション作品である。だが、ガルラジにおいては、フィクショナルキャラクタが、しかしフィクショナルであることを部分的に強調せずに、かつ、リアルタイムであるかのように配信を行なっており、それが現実の鑑賞者へと届けられる。

鑑賞者は、現実のじぶんたちに伝達される現実的な情報としてラジオを想像的に聴く。つまり、ガルラジは明らかに物語的フィクションではあるが、ノンフィクショナルなものとして想像的に聴取する。この点に、現実的なラジオとフィクショナルな物語を組み合わせたガルラジの作品としての独自性を見出せる。つまり、ガルラジは、ラジオというメディアを意識的に表現の素材あるいはメディウムとしている点で独自な鑑賞経験をもたらしている*3。とはいえ、この特徴づけは十分にガルラジの独自性を拾いきれているわけではない。

2. 貫世界的メディア

こうしたカテゴリの操作に加えて、メディアに関してガルラジは興味深い試みを行なっている。次にこの点を考察しよう。ガルラジの鑑賞者は、しばしば、アプリにおけるつぶやきがもたらす「リアル」な質感について言及している(シノハラ 2019b)。これはラジオとカテゴリの議論だけでは説明できない。それでは、どのような概念によって説明できるだろうか。

ここで虚構世界と現実世界をまたぐメディアの存在に注目することからはじめよう。

ふつう虚構世界を表象する対象は当の虚構世界には存在しない。たとえば、現実世界には、漫画原作版『ゆるキャン△』とアニメ版『ゆるキャン△』が存在するが、これらのメディアは『ゆるキャン△』の虚構世界内に存在しない。対して、ガルラジにおいては、そのラジオ、アプリは、現実世界のみならず虚構世界にも存在し、キャラクタたちはこれらのメディアに言及することができる。

こうした「ある虚構世界を部分的にせよ表象する現実世界において存在するメディアであり、かつ、ある虚構世界内のキャラクタがその標準的な虚構世界内において言及、関係可能なメディア」を「貫世界的メディア(transworld-media)」と呼ぼう*4

たとえば、〈『ゆるキャン△』の虚構世界に漫画版『ゆるキャン△』やアニメ版『ゆるキャン△』が存在する〉という命題は偽であり、『ゆるキャン△』の漫画、アニメは『ゆるキャン△』に関して貫世界的メディアではない。

これに対して、ガルラジにおいては、〈ガルラジの虚構世界にラジオ番組『ガルラジ』やガルラジアプリが存在する〉は真である。ゆえに、ガルラジにおいてはガルラジのキャラクタを表象するメディアは貫世界的である。

もちろん、こうした貫世界的メディアを持つ作品は珍しいわけではない。たとえば、『指輪物語』の小説の本は、『指輪物語』世界内に存在しているとみなすことは可能だろう。また、『鳩羽つぐ』における「鳩羽つぐ」の動画やクラウドファンディングで提供される鳩羽つぐのVHSや夏休みの日記帳は貫世界的メディアであり、あるいは、『高い城のアムフォ』における動画『高い城のアムフォ』もまたこの作品の主要なキャラクタであるアムフォが言及できる貫世界的メディアである(cf. ナンバ 2018a, 2018c; 難波 2018b)。

こうした貫世界的メディアはおしなべて、ある種の「リアル」な質感をもたらすように思われる。たとえば、先のシノハラが指摘するように、つぶやきを見ることで引き込まれる感覚がある。とはいえ、なぜそのような質感がもたらされるのだろうか。

この点を明らかにするために、次に、「共感」の概念を手がかりに分析を行う。

3. 心は重なり合う

ここで共感の特徴づけにあたってケンダル・ウォルトンの議論を参照しよう。彼は、「共感(empathy)」を、鑑賞者が、現在の心的状態(情動、欲望、信念、意図など)をサンプル(sample)として、ある目標(他人、じぶん、キャラクタ)の心的状態の特定の理解を行うことだとした(Walton 2014, 9)。

たとえば、現実において、ふたりで同じ花を見ていて、あなたが「美しい」と感じ、静かで満ち足りた心的状態である時、ふと隣に立った彼が「美しい」と呟いた言葉を聞き、その穏やかな横顔を見た時、あなたは、彼に一層親近感や結びつきを感じる。そうした結びつきを可能にするのは、あなたが目標である彼の心的状態をその言葉、抑揚、表情から知覚し、そして、その心的状態を自身の心的状態をサンプルに確かに理解したからだ*5。こうした共感を行うことで、あなたは、目標の心的状態を実感を伴って理解できたために、目標との「心の距離」の近づきを感じる*6

さて、話を戻して、この特徴づけから、つぶやきのリアルさを部分的にせよ説明しよう。

重要なのは、共感の際にサンプルとして用いられる心的状態は現在のそれだということだ*7。この時、小説の場合、それを読んでいる際の鑑賞者の心的状態とキャラクタのそれとは、ふたつの異なる世界の異なる時間の上にある。

だが、ガルラジにおいては、つぶやきに代表される、よりリアルタイムに近い表象によって、鑑賞者の心的状態とキャラクタの虚構的心的状態とを(もっとも著しい場合にはほぼ同時に)重ね合わせることができる。鑑賞者はこうした心的状態の同期を行うことで、意識的にであれ、無意識的にであれ、自身とキャラクタのある種の想像的な「心の近さ」と感じるのではないか。そうした「近さ」を感じることで両者の心的な結びつきは強化される*8

加えて、前節の貫世界的メディアの効果はここで発揮される。鑑賞者とキャラクタとがアクセスしている情報は、現実と虚構世界で一致している。ゆえに、鑑賞者の抱く心的状態をキャラクタの虚構的心的状態と重ね合わせる際の精度は一層高まっている。つまり、貫世界的メディアであるアプリにおけるつぶやきが可能にする共感の精度の高さと時間的近さによって、ガルラジのリアルタイムの鑑賞者は、ふたつの心的状態を想像的に、よりリアルに重ね合わせることができる(図1)。

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こうした特徴づけから、なぜガルラジをいま聞かねばならないのかも説明できる。先に指摘した重ね合わせを行うためには、すなわち、ラジオ、つぶやきによって惹き起こされる心的状態をキャラクタの虚構的心的状態と重ね合わせ、ある種のリアルで臨場感のある美的経験を行うためには、この作品をリアルタイムで鑑賞する必要があるのだ

「ガルラジを今すぐ追いかけろ」と誰かが言った(鶏七味 2019)。「2019年はガルラジが来る」との声が聞こえた(yunaster 2019)。タイミングは無限にあるわけではない。「ラジオのアーカイブはラジオではなく、『ラジオのアーカイブ』なの」だ(鶏七味 2019)。「ラジオデイズ」は無限に続かない。2019年のいまだけに『ガールズ ラジオ デイズ』の鑑賞経験は出現している。

おわりに

本稿では、メディアと鑑賞者の心的経験に焦点をあて、ガルラジの鑑賞経験の独自性について考察を行った。

もしまだなら、『ガールズ ラジオ デイズ』のアプリをダウンロード、視聴し、この興味深い試みを鑑賞してみてほしい。あるいは、あらためて鑑賞を行ってみてほしい。その際に本稿の分析が鑑賞経験の深化になんらかの寄与ができれば幸いである。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

萌黄えも. 2019. 「ルラジ」note、 https://note.mu/nadeshiko_yuz/n/ne008bbcd22e5(2019/01/16最終アクセス).

ナンバユウキ. 2018a.「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503.(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2018b.「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン.(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2018c.「『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム——虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実.(2019/01/16最終アクセス).

難波優輝. 2018a. 「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50 (9)、特集バーチャルYouTuber青土社、117-125項.

––––. 2018b.「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号、81-87項. 

Nobu V. 2019.「声優ラジオが好きなオタクへ キャラクターによるラジオ「ガルラジ」を聴いてみませんか? #2019年はガルラジが来る」『浅瀬文書』、http://nobu-v.hatenablog.com/entry/2019/01/12/155838(2019/01/16最終アクセス).

シノハラユウキ. 2019a. 「ガルラジの『ラジオ番組っぽさ』『生っぽさ』について」『プリズムの煌めきの向こう側へ』、http://sakstyle.hatenablog.com/entry/2019/01/14/002843(2019/01/16最終アクセス).

––––. 2019b. 「ガルラジと『つぶやき』」『プリズムの煌めきの向こう側へ』、 http://sakstyle.hatenablog.com/entry/2019/01/16/000624(2019/01/16最終アクセス).

鶏七味. 2019. 「ガルラジを今すぐ追いかけろ」note, https://note.mu/torishichimeee/n/n659ab001b550(2019/01/16最終アクセス).

yunaster. 2019. 「ガルラジー『ガールズ デイズ ラジオ』が面白い」『yunastrの雑記帳』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/01/03/142336(2019/01/16最終アクセス).

Walton, K. L. 2014. “Empathy, Imagination, and Phenomenal Concepts.” In In other shoes: music, metaphor, empathy, existence. 1-16. Oxford University Press.

*1:以下「ガルラジ」は「ガールズ ラジオ デイズ」を指す。

*2:全体像については、上記のブログが優れた見取り図と現象的記述を与えてくれているためそちらを参照してほしい。

*3:本稿では扱えないが、こうしたリアルさは、声優の演技によってももたらされているだろう。この点については、シノハラ(2019a, 2019b)を参照せよ。

*4:ここで「標準的」とは、CMなどにおいての番組や作品の宣伝の際に、キャラクタが自身を表象する漫画やアニメに言及、関係するような「非標準的」場合以外を指す。

*5:つまり、あなたは、〈彼の心的状態はPである〉という命題的知識に加えて、〈Pであるとは、わたしがいままさにあるこの心的状態である〉という命題的知識にとどまらない現象的な実感を伴った理解を手にしているために、彼の心的状態について深い理解を行うことができる(cf. ibid.)。

*6:あるいは、物語的フィクション、たとえば、ホラー映画において、不気味な人形に追いかけられる主人公に対して、鑑賞者が、恐ろしい音楽や忙しないカメラワークによって惹き起こされた「追われ続ける恐怖」といった、自身の(現実的にあるいは想像的に)抱いている情動をサンプルとして、主人公の表情や息遣いから、彼女が現在鑑賞者がある心的状態にあると理解する行為が共感と呼ばれる。こうした共感に基づいて、そうしたキャラクタとのある種の一体感を抱くことができる。

*7:ウォルトンは、現在ではなく、過去の心的状態を手がかりに目標の心的状態の理解を行うことを「ある種の共感」として区別している(ibid., 15)。

*8:こうした心的状態の理解の実感によって、キャラクタと鑑賞者とは特定の社会的関係を取り結びはじめるだろう。こうした直接的に対面していないが、人間のあるいは擬人的な画像や動画と鑑賞者の間で作り上げられる「パラソーシャル関係(para-social relationship)」については、ナンバ(2018b)、難波(2018a)を参照せよ。

【11/25 文学フリマ東京ク07・08】サークル紐育春秋『硝煙画報』第1号に『鳩羽つぐ』批評を寄稿しました

サークル紐育春秋さんにお誘いいただき、11/25、文学フリーマーケット東京[ク07・08]にて頒布予定のインディペンデントカルチャーマガジン『硝煙画報』第一号に批評を寄稿いたしました。

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新条アカネと宝多六花がめじるし。かっこかわいい。 

『硝煙画報』について

アニメ、音楽、そして鳩羽つぐの三つの特集にくわえ、ゲーム、ファッションからはじまり、文学、映画、百合、サイエンスに関する記事、そして、イラスト、まんがにいたるまで、さまざまなカルチャーに関するあれこれを詰め込んだ、ディープな「インディペンデントカルチャーマガジン」です。

寄稿記事について

ナンバは「鳩羽つぐとまなざし——虚構的対象を窃視する快楽と倫理」を寄稿しました。分析美学を手がかりに、鳩羽つぐを美的に、そして倫理的に分析しています。分量は1万字弱です。

構成
  • 1.窃視と虚構
  • 1.1.窃視の快楽
  • 1.2.窃視者になること
  • 1.3.組み込みと窃視
  • 2.見ることの倫理
  • 2.1.鳩羽つぐを見ることは不道徳か
  • 2.2.まなざされる鑑賞者
内容

序のぶぶんでおおまかな内容と目的を語っています。

本稿では、分析美学における議論を援用しつつ、「窃視」「虚構」という概念を手がかりとして、『鳩羽つぐ』という作品がもたらす鑑賞経験の特徴を明らかにし、その倫理的問題を考察する。そして、この作業を通じて、この作品についての批評や鑑賞、あるいは研究に際して有用な概念と議論の枠組みを提示することを目指す。

本稿の構成は以下の通り。第一節では、「窃視と虚構」という概念を手がかりに、鑑賞者が担う役割と鑑賞において彼女が得ている快について分析し、『鳩羽つぐ』を虚構的で窃視的な作品として特徴づける。第二節では、虚構的対象を窃視する行為の倫理的問題を問う。

鳩羽つぐについては、いぜん、その意図の不明性に注目して、「不明なカテゴリ」という概念から分析しました*1。ですが、その特殊性を語るにあたっては、「窃視」の側面から分析する必要も感じており、断片的なアイデアを書き連ねていました。そこで今回お声がけいただき、発表するよい機会となりました。

また、さいきん、作品の倫理性とその鑑賞経験との関わりとその批評の可能性について関心をもっており、本稿では、美的なものと倫理的なものとを批評において扱うことを試みました。読み手としては、鳩羽つぐはもちろん、分析美学、作品と倫理に興味がある方も意識しています。ぜひお手にとってお読みいただければ幸いです。

ナンバユウキ 記

*1:ナンバユウキ「『鳩羽つぐ』の不明なカテゴリ:不明性の生成と系譜」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503(2018年11月16日最終アクセス)。

Virtual YouTuber’s Three Bodies——Person, Persona, and Character

Introduction

What is the Virtual YouTuber (hereafter VTuber)? Who are they? Is there any uniqueness as a culture? Does it need any academic account or not?  Why are (mainly japanese) people attracted by them?

In this essay, I will make concepts to account for these questions from perspectives of media-communication studies and aesthetics. Section I , introducing VTuber, discussing about it from media communication studies, then, Section II, I try to consider its uniqueness in the imaginative appreciation relationship personae and character, finally, I summarize my account about VTuber’s Three Bodies.*1

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I. Person and Personae

Who is a VTuber? Watching its videos, you may recognize that Vtuber’s movements and its voices are produced by someone invisible for us. Then, reading fan comments for VTuber in Twitter or YouTube, you’ll find that fans ‘talk to’ them, and sympathize/ antipathize them, even more, tell their sincere love for them, like as they do for real their friends/ lovers. So, you may consider VTuber as a real ‘person’, because 2D or 3D models (avatars) of VTuber are moving through tracking some real human, and people are ‘talking with’ and make some relationships with them akin to real one. It’s commonsensical, nevertheless, not true.

Person, however, does not directly communicate with us. Audiences make a specific communication with the mediated figure of the person. Person's appearance mediated by such media (e.g, radio, television, etc.) is called "media persona (e)" (Horton & Wohl 1956) in media / communication studies.

Audiences of VTuber do not have relations with ‘person’, but ‘media persona(e)’: the person’s figure in the media (e.g., radio, TV, YouTube, Twitter). Horton & Wohl emphasized that the relationship between persona and audiences is not interactive in many cases, nevertheless, audiences feel they contact with persona, and think make interactive relathionships like their daily face to face one.  They named this illusionistic relation as ‘parasocial relathion(PSR)’.  This illusion is mainly made by media personae’s various addressing for audiences (e.g., eye contact through camera, addressing audience names etc.). Samely, VTuber can make PSR with its audiences by such methods.

II. Character and Personae

From the perspective of media / communication studies, VTuber was characterized as a person wearing the image constructed. However, it is still not clear how the persona is appreciated. Therefore, in this section, I try to analyze the way of appreciation.

When the audiences see the VTuber, what they see is not the actual person's figure. It is a 3D or 2D anthropomorphic picture movement generated by a person's movement. Let's say what this picture represents is "fictional character".

Here you will notice important thing. That the appearance of VTuber is always related to the picture of the character. For example, in the case of a star, its face and appearance of a persona to be appreciated by audiences is undoubtedly of a star person. However, in the case of VTuber, the figure of the persona is equal to the picture of the character, and it is possible to perceive only the appearance that the movement of the person is transformed into the picture of the character. Persona does not have a ‘persona’ of a person, and viewers can only judge persona's charm from only that of a character. In watching VTuber, audience notice that an unique correspondence of persona and character is always performed. In other words, the body of the persona are always tiered with the body of the character.

In addition to this association, the characteristics of VTuber can also be found in the pluralities of the way how audience aprreciate persona. For example, a particular VTuber seems to deviate from his appearance and voice or character that can be imagined in general and to speak outrightly the experience and thought of that real person. On the other hands, there is an another type of VTuber who is not only in videos, but also even in the SNS, plays a role play, and it is appreciated by audiences as a character itself.

The style in how VTuber is appreciated can be roughly divided into two types. Firstly, if the person seems to appear clearly as in VTuber, it can be said that the audience is appreciating VTuber as ‘qua person's persona’. VTuber appreciated in such style, may be regarded as the person him/herself, and it is considered to be speaking person's experiences and ideas to some extent, as a VTuber.

On the other hands, audiences appreciate VTuber as the living character, as a persona of the character, that is, ‘qua character's persona.’ At this type, audiences place importance on role play as a character of VTuber and appreciate her as truly fictional character and avoid to remark real person of the VTuber. Also, audiences would not be regarded to properly appreciate such VTuber unless they refrain from referring to the real person in appreciation.

III. VTuber’s Three Bodies

My claim can be summarised as follows.

The appreciative objects of VTuber are divided into three bodies: person, personae, and character. Then, the personae are always tiered with the picture of the character, while the layers of the person / character and the personae are associated with each other.

In other words, the person's body is hidden, only the personae's body is appreciated. At the same time, the body of the personae are tiered by character’s body. Personae are appreciated as a person’s persona, or a character's persona.

Let's call this framework VTuber's "Three Tiered Theory". This theory may make it possible to account the unique ways of audience experiments, and it will be a clue to critique and comparison with various cultural forms(Figure I).

f:id:lichtung:20180819221637j:imageFigure I. Virtual-YouTuber’s Three Tired Theory

After words

When I first encountered the VTuber, I was very surprised and began to think its uniqueness.  Thinking through VTuber, I have got a lot of interesting ideas about not only about this culture, but also about many other cultures like idol culture, fan culture, and so on. I’ve just started investigating this cultural phenomena, so there’s left a lot question needed to answer, I will continue to study and wish for another researcher join our exploration.

NAMBA Yuuki (Aesthetics) :Twitter @deinotaton

email: deinotaton at gmail.com

Refferance

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*1:This essay is a (very) short version of my essay: NAMBA Yuuki, 2018,  ‘VTuber’s Three Bodies——Person, Persona, and Character.’ Euleka 50(9) Virtual YouTuber: 117-125. (Japanese: 難波優輝「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、117-125項、二〇一八年。)and my blog post: ナンバユウキ、2018年「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン