Lichtung Criticism

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|美学:lichtung.hatenablog.com

鹿乃・田中秀和『yuanfen』とめぐりあう縁

はじめに

キュートさと冷たさが同時に響く声とやさしくも影のある歌詞によってリスナーを惹きつける、シンガーソングライター鹿乃(かの)、そして、挑戦的でしかしポップな楽曲とアレンジでアニメーションのテーマソングから劇伴、そしてキャラクターソングを数多く手がけるMONACO所属の作曲家田中秀和*1がタッグを組み、さまざまなアレンジャーが参加した鹿乃の4thアルバム『yuanfen』(2020年、インペリアルレコード)。

本作は、これまでとは異なり、全編にわたって鹿乃じしんによる作詞、そして、すべての作曲を田中秀和が担当したことで、そして、ふたりとアレンジャーによる作品としての類稀な存在感により、発売からひとびとの注目を集めている。

それゆえか、すぐれたレビューがこの短期間ですでにいくつかある*2。これらのレビューに続いてこの作品を語るなら、同じしかたではうまくいかない。なので、以上の記事では中心的にはふれられていないだろうことを語りたい。そこで、この記事では、鹿乃の歌唱と歌詞、そして田中秀和やアレンジャーによる作編曲の響き合いから楽曲をさらによく味わうためのわたしなりの聴き方を共有することを目指す*3

具体的には、どんな音楽的側面に注意して聴くのか、いかに歌詞の意味を解釈するのか、そして、音楽的側面と歌詞とのふたつの意味の響き合いからどのように歌を聴くのか、という観点から『yuanfen』の批評を行いたい。

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1. 午前0時の無力な神様

編曲:Aire*4

鹿乃のキュートで負けん気のある声を中心にしながら「愚かな人生」を「なんて素敵なんでしょう」とつよく肯定する。

いわゆる渋谷系サウンドもまた、キュートなだけではなく、パンキッシュで疾走感にあふれている。サビのメロディのため方やキメの作りかたは作編曲者の確信犯的な渋谷系へのオマージュでもある。

リード曲に続いて、つぎの曲でも、鹿乃はもう一度くらい日々と希望を歌う。だが、それは、この曲よりも控えめでためらいも含まれている。その違いを聴き分けてみたい。

2. 光れ

光れ

光れ

編曲:Nor

Future Baseを意識させるエレクトロニックなサウンド、キラキラと輝くシンセのアルペジオやコード、イントロの印象的なフレーズ、輝度高めの楽曲。それに対比されるように鹿乃の声の色は掠れを印象づけ、低い位置から歌われている。

器楽的には明るく輝き、鹿乃の声は暗く錆びているような対比がなされている。明るい曲想のなかに影が差すように、好きだった曲は悲しい記憶に、思い出したくない記憶を押し込めながら、前に進んでいく歌詞。

たんなる前向きな曲ではない。それが象徴的に現れている部分がある。

サビのおわり直前の「不器用に積み上げて」の音の積み上げ方はまさに不器用で不安定な和音となっており、歌詞の意味と音楽的響きとが響き合うとてもおもしろいフレーズ。

鹿乃:最初は田中さんに「これは架空の人物の歌詞で……」と言い訳していたんですけど、この曲は、実は本当に自分が歌をやめようと思っていた瞬間のことを書いたものでした。(鹿乃&田中 2020)

どこかで終わることなく、繰り返し、繰り返し、前に進んでいくというテーマはこのアルバム全体のポジティブな側面として静かに響いている。それでは、ネガティブな繰り返しとはなんだろうか。つぎの曲を聴いてみよう。

3. yours

yours

yours

編曲:田中秀和MONACA

くらい部屋で膝を抱え月を見上げ「綺麗ですね」ひとりつぶやくイントロから届かない「あなた」への思いが加速し続ける憂鬱のサンバ

「あなたの友達」とサビでの何度も醒める折り返し、歌い手の情動の混迷を表出する変拍子の間奏。田中秀和の作曲と鹿乃の歌詞と歌唱の一致。

歌詞の側面からみれば、"I love you"の訳として夏目漱石が言ったとか言わないとかで有名な「月が綺麗ですね」を想起させるはじまりから、ドラマティックな歌詞によって鹿乃が歌う「わたし」の独白へと引き込まれていく。

この曲を聴いたとき、わたしは気づいた。音楽とは、繰り返しであるとともに、音の断絶でもある。「あなたの友達」という吐き捨てるようなことばで終わるサビは、そのたびに「あなた」への届かなさを音楽的にしるしづける、それにより、歌い手の独白は音楽によって承認されてしまう。

「わたし」はどうあがいても「あなたの友達」なのだ。縁はここでは断たれてしまっている。変拍子の千切れるようなリズムは、恨み、愛、嫉妬、希望、夢想、さまざまな思いに引き裂かれている。そのすべての情動の煮詰まった七つのギターの刻みが印象深い。

この曲では、ネガティブに「わたし」は今日も悔恨を繰り返していく。

4. KILIG

KILIG

KILIG

編曲:ハヤシベトモノリ

がらりと雰囲気を変え、幸福のトーンに満たされる。

ブラスとハープ、弦楽、チャイム、明るいシンセ、水がぽたりと落ちる音が繰り返される。心をころころと転がるようなくすぐったく不安なようで幸福な瞬間を切り取る。

鹿乃:〔……〕この曲は、ファンの方が聴いてくださったときに、きっと「初恋の曲なのかな」と思う人も多いんじゃないかと思うんですけど、これは先ほどお話した「Linaria Girl」のように「音楽に恋に落ちる瞬間」を表現したものなんです。(鹿乃&田中 2020)

なぜこの曲はこんなにもふしぎにくすぐったい気持ちを引き起こすのだろうか? Bメロの象の鳴き声のようなブラスの音に代表されるように「色んな音色が出ては引っ込む雰囲気」(鹿乃&田中 2020)がつくりだされている。

幸福のイメージは、断片的なものの変奏曲なのかもしれない。日曜日のフライパンの音、快哉を叫ぶ声、あたたかく迎え入れてくれるような、門出を祝うような響き。

さまざまな幸福な音色が連想され、消えていく。それが幸福のイメージの自由なつながりを可能にしているからなのかもしれない。断片的なイメージが現れ消え去り、残響が重なり合う曲。

5. 聴いて

聴いて

聴いて

編曲:田中秀和MONACA

アコースティックな静かな響きからはじまり、メロディはおおきな変化ではなく、よく似た音型が繰り返し現れる。

歌詞もまた、同一の形をしたことばが繰り返されながら、メッセージが少しずつ伝えられていく。それは鹿乃による語りかけのように「五分にも満たないこの声を/五分間で語れる思いを伝えるためにわたしは歌う/じぶんのためにわたしは歌うから」という直接的な、鹿乃の告白を聴くような楽曲。

鹿乃:他には、アルバムのどこかで自分自身を表現する歌詞を書こうと思っていて、デモを聴いて「絶対にこの曲だ」と思ったのが5曲目の「聴いて」でした。(鹿乃&田中 2020)

メロディのちいさな変化を倍増し世界を広げるような後ろの楽器隊とそのアレンジがこの曲のもうひとりの主役だ。鹿乃のことばを聴いたあと、アルバムはつぎの物語へと進む。

6. 漫ろ雨

漫ろ雨

漫ろ雨

編曲:曽我淳一

この曲には、雨が降り続いている

冒頭から、ライドシンバルやハイハットのしゃらしゃらとした高音が響き、朝から降り続く雨を描写する。

Bメロでは、窓を伝い落ちる雨粒のようなくねるアルペジオがそこここから聴こえる。

サビは、ギターとキーボードの分厚い中低音域が響く。雨のなかの傘の中のサウンドスケープのように。この曲はアルバム中、もっとも音響的な空間を想起させる曲だ。「きみ」への静かに降り続く優しい愛に包まれている。

歌い手の想いである雨をもっともつよく想起させるのは、サビのメロディである。

サビは、下降する日本的なメロディがさらさらと降る雨のように現れて消えていく。それをエコーするシンセの音は、雨の残像のように耳に残る

さいごに、届くはずのない「きみ」に、しかし歌い手の想いは雨にのって伝わってしまう。

「雲の隙間から/覗き出す光/振りむいたきみの顔/目と目が合う/差し出す傘も遅いと気づいた/それなのにさ/苦笑い/きみがすきです」

雨はきみに降り注ぎ、もはや歌い手の想いははしなくも届いてしまった。そして、晴れてしまったから、直接ことばにするしかなくなってしまったのだった。

音響的な雨のモチーフと歌詞の物語の中の歌い手の想いとが響き合う、シンプルなようで幾層にも重なる意味の残響を感じることのできる一曲

7. おかえり

おかえり

おかえり

編曲:Oliver Good(MONACA

歌い手はがらりと変わり、こんどは鹿乃はしろいふわふわした犬になる。犬の「ぼく」はパパとママ、そして隣にいる「きみ」に囲まれ、幸福な生活を謳う。「10回目の12月」から「きみ」は忙しく「だいすき」を言ってくれなくなっていき「パパ」の白い髪は増え「ママ」の寂しそうな顔が増えていく。

音楽が進行するごとに時間はどんどんと進んでいってしまう。Aメロ、Bメロ、サビと繰り返すたびに、季節を繰り返すように、ウインドチャイム、シンセチャイム、タンバリンなど、高音の楽器の響きが冬の冷たさを、温かみのあるステレオのエレキギターは、暖かさを表現するように、やさしくかなしい出会いと別れの縁を歌った一曲。

つぎに鹿乃が成り代わるのは、壮絶な執着の関係だ。

8. 罰と罰

罰と罰

罰と罰

編曲:佐高陵

自嘲するようで懇願するような鹿乃の低く、無理をしたような声を聴いていると、聴き手の喉も詰まっていく。

鹿乃:この歌詞は、「執着しすぎた罰」「執着しなさすぎた罰」という意味で、「悪縁」のようなものを表現しているんです。悪縁って、どちらか一方が悪いわけではないと思うんですね。どっちにもすれ違いがあって、責任があって。そういう雰囲気を表現した曲でした。(鹿乃&田中 2020)

サビは本アルバムでももっとも攻撃的で、「はらはらと笑って見せて」のいまにも崩壊してしまいそうな極度の不安さのメロディがのたうちまわる。ピアノの低音のハンマーのようにぶつかってくる響きと、全編にわたって、残響のないバスドラムの音が聴き手の心を執拗にノックしてくる。Cメロののちの、こぼれ落ちる自嘲を交えたサビから、すべてを吹っ切ったような声には、奇妙な自信と明るさがある。楽曲もさることながら、鹿乃の歌唱表現の魅力を聴くことのできる一曲。

9. エンディングノート

エンディングノート

エンディングノート

編曲:sugarbeans

エンディングを飾るにふさわしく、晴れやかなコーラスとこれからの鹿乃の歩みを進めていくような着実に進行していくリズム。

鹿乃:ネットの中で生まれた「鹿乃」というキャラクターの終わりを想像して歌詞を書いてみました。(鹿乃&田中 2020)

歌い手は「ぼく」と歌い「鹿乃」というキャラクタ、あるいはわたしの言い方で言えば、鹿乃という実在の人物(パーソン)そのものでもなく、原作があるキャラクタでもなく、鹿乃という実在のパーソンと鑑賞者たちとがつくりあげてきたイメージとの交渉の中でつくりあげられた、鹿乃という「ペルソナ」として歌っている*5

鹿乃の声は、別れを惜しむようにやさしく、もれ出る思いを抑えるように吐息を含ませて、ふるえを交えている。

ながい後奏は、鹿乃がおじきをして去っていくような、フルアルバムの余韻を残してフェードアウトしていく。「ありがとう/あなたと出会えて」と歌う鹿乃は、このアルバムの歌たちの代わりに歌っているのかもしれない。偶然、聴き手と『yuanfen』たちが出会ったその出会いに対して

鹿乃はインタビューで、このアルバムが生まれなかった可能性を語っている。

鹿乃:でも、正直にお話すると、今回のアルバムをつくる前に、マネージャーさんや事務所の社長さんに、「音楽を辞めようかな」という話をしていたんです。メジャーレーベルで音楽活動ができるようになって、目標としていたことを達成してしまったときに、次にどうしていいのか分からなくなってしまって。もともと、「自分には個性がない」と悩んだりもしていたし、このまま音楽を続けていて、「何かになれるのか」「何かをつくれるのか」と、考えてしまっていました。そんなときに、「それでも音楽が好き」「自分の音楽を見つけたい」と思って、周りの方々にも励ましていただいて、もう一度頑張ってみようと思ってつくったのが、今回のアルバムでした。なので、今回は「もうちょっとわがままになってみよう!」と思ったんです(笑)。そこで、「アルバム本編を全部田中さんに書いてもらえないですか?」とリクエストしたのが、『yuanfen』のはじまりでした。(鹿乃&田中 2020)

アルバム最後のこの曲は「ありえた鹿乃」の可能性を歌った歌でもあるのだろう。

おわりに

鹿乃田中秀和、そして数々のアレンジャーによる『yuanfen』は、そのタイトル「缘分」をなぞるように、さまざまな出会いと別れを歌い奏でる

今日という最低の一日と人生最高のはじまりになる明日との出会いを祝福する「午前0時の無力な神様」、うまくいかない過去から、もう一度不器用に積み上げていく「光れ」、届くことのないあなたへの想いが加速し断絶する「yours」、音楽に出会い恋する幸福な瞬間と目覚めを味わう「KILIG」、繰り返すことばによって歌い手と聴き手の出会いを告白する「聴いて」、思い続けたきみの笑顔からはじまるつながりを響かせる「漫ろ雨」、犬とひととの重なりずれていく生きる時間を愛する「おかえり」、それぞれの悪縁を自嘲しすべてを捨てる「罰と罰」、さいごに、わたしたちと鹿乃とのありえたお別れといつかの別れを歌う「エンディングノート」。

音楽のゆたかさ、歌詞のゆたかさ、歌唱のゆたかさ、そしてこれらすべてが響き合い、一致し、ずれ合い、ゆたかなハーモニーをうみだす。不思議ないくつもの縁のように。

このアルバムが響かせる「縁」とは、鹿乃田中秀和の、アレンジャーたちとの運命的な『yuanfen』でもあり、そして、このアルバム『yuanfen』とわたしたち聴き手との出会いの「縁」でもある。

『yuanfen』は、そのタイトル「缘分」そのままに、さまざまな出会いと別れを、いくつもの響きの出会いと別れによって歌い奏でる、めぐりあう縁のアルバムだ。

難波優輝(分析美学と批評)

Twitter: @deinotaton

参考文献

Carroll, N. 2009. On criticism. Routledge.(『批評について––––芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年)

Isenberg, A. 1949. “Critical communication.” The philosophical review, 58 (4), 330-344.

あんでぃ. 2020. 「鹿乃『yuanfen』というアルバムの素晴らしさを語りたい。」『音楽は今日も息をする』< https://andy-music.hatenablog.com/entry/2020/03/07/231836 >.

鹿乃田中秀和. 2020. 「鹿乃×MONACA 田中秀和、アルバム『yuanfen』対談 “死”と向き合い明確になった今伝えたいこと」、文・取材=杉山仁、『Real Sound』< https://realsound.jp/2020/03/post-517550.html >.

ど〜でん. 2020. 「yuanfenについて」『ど〜でんのブログ』< https://dodensei.hatenablog.com/entry/2020/03/08/230707 >.

ナンバユウキ、2018年「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, < バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ - Lichtung Criticism >.

難波優輝. 2018.「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50(9)特集バーチャルYouTuber、117-125. 青土社.

難波優輝. 2019a. 「浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』注意と分散」Lichtung Criticism, < http://lichtung.hateblo.jp/entry/urakami.kevin.family.criticism >.

難波優輝. 2019b.「批評の新しい地図––––目的、理由、推論」『フィルカル』4 (3), 260-301. ミュー.

難波優輝. 2019c. 「いくつもの世界でうつくしい君:Official髭男dism「Pretender」と可能な世界」Lichtung Criticism', < https://note.mu/deinotaton/n/ne7ace1313b1f >.

リーティア. 2020. 「鹿乃×田中秀和「yuanfen」全曲レビュー ~アニソンと同人音楽の交点~」『リーティアの隙あらば音楽語り』< https://letia musiclover.hatenablog.com/entry/2020/03/05/001851 >.

以上ウェブ記事は2020/03/17最終閲覧。

引用例

難波優輝. 2020. 「鹿乃田中秀和『yuanfen』とめぐりあう縁」Lichtung Criticism, < http://lichtung.hateblo.jp/entry/kano.tanakahidekazu.yuanfen.meguriau.yuanfen >.

*1:ちなみに田中秀和神戸大学発達科学部人間表現学科卒業であり、わたし難波の先輩にあたる。これは田中秀和ファンに会うたびに自慢している。不要な注を読んでいただき感謝する。

*2:アレンジャーのみならず、プレイヤーにも言及しているど〜でん(2020):・アレンジャーに言及しながら、音楽理論的な分析を中心に詳細な分析を行なっているリーティア(2020):・そして、アレンジャーと音楽的表現に焦点を当てている、あんでぃ(2020):

*3:わたしが専門とする分析美学における批評の哲学を参照すれば、アーノルド・アイゼンバーグ的な知覚の伝達としての批評、ノエル・キャロル的な理由に基づいた価値づけとしての批評を目指していると言える(Isenberg 1949; Carroll 2009)。批評の分類については、難波(2019b)を参照のこと。また、本稿と並んでより独特な楽曲の解釈を目指したものとしてつぎのものを。Official髭男dismの「Pretender」を扱った、難波(2019c):・加えて、知覚の哲学から浦上・想起「芸術と治療」を批評した記事は、難波(2019a):

*4:以下、作詞:鹿乃、作曲:田中秀和MONACA)クレジットは省略する。

*5:ここでふれられたペルソナ概念については、ナンバ(2018):・そして、難波(2018)も参照のこと。

草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズ』と絶滅の意志

はじめに

あなたは、最後のページに辿り着き、呆然としているだろうか。それとも、書店やネット上で表紙を見かけて、この本、草野原々による『大絶滅恐竜タイムウォーズ』を買うべきかどうかをまだ迷っているのだろうか。いずれのあなたもさいわいだ。前者のあなたは、人類史のなかで、運よく、この物語を読むことのできた人間なのだから、そして、後者のあなたは、これからこの物語を読むことのできる人間なのだから。

だが、いずれのあなたも困っているかもしれない。呆然としたあなたは、この物語をいったいどう評したものか、どう受け止めたものか、と、そして、購入を検討するあなたは、この魅力的なタイトルの本『大絶滅恐竜タイムウォーズ』を買うべきかどうか、読むべきかどうか、と。

ふたつのあなたは同じ情報を必要としている。すなわち、

「この物語は(何が)おもしろいのか?」

本解説では、これらの問いに答えることを目指す。

先に結論を言おう。「この物語はおもしろいのか?」という問いに対しては「おもしろい」、それも「常軌を逸しておもしろい」と。「この物語は何がおもしろいのか?」という問いに対しては「様々な物語的要素の限界を超えるような投入、そして、魅力的な哲学的問いの提示によって」と。また、あなたが本作の前巻『大進化どうぶつデスゲーム』を読んでいなくとも、これらのおもしろさはある程度よく味わえることも付け加えておこう*1

本解説は、以上のおもしろさを明らかにする。構成は以下の通り。第一に、本作『大絶滅恐竜タイムウォーズ』について紹介し、第二に、草野原々という作家の特徴と作品へのアプローチのしかたを提示する。第三に、この物語が扱う哲学的側面を明確化する。よりふかく作品を鑑賞するための倫理学的・美学的議論を紹介する。

本解説のネタバレ情報は以下の通り。第一節に関しては、物語のおおまかなプロットが紹介される。第二節と第三節に関しては、より核心的なテーマをめぐって議論がなされる。さいごの「おわりに」にネタバレ情報はあらすじ程度ある。軽度のネタバレも好まない読者は、すぐに本稿を閉じ、レジに向かって/注文ボタンを押して欲しい。

現在(2020/03/13)『大絶滅恐竜タイムウォーズ』をはじめ、早川書房セールが開催されており、3月13日(金)~4月13日(月)の32日間Kindleストア限定最大50%割引が行われている。ぜひこの機会にチェックしてほしい(とくにわたしにマージンが渡されるわけではないが)*2。なお、わたしは『大絶滅恐竜タイムウォーズ』の巻末解説を担当しており、物語のある種オーソドックスな解説についてはそちらを参照していただければと思う(難波 2019b)。電子書籍版にもわたしの解説がついているとのことなので、見ていただけるとたいへんうれしい。

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大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:草野 原々
  • 発売日: 2019/12/19
  • メディア: 文庫
 

『大絶滅恐竜タイムウォーズ』あらすじ

本節では、まず、この物語の構造を整理したい。それにより、おおづかみであるが、この物語のおもしろさを確認できる。

オープニング。物語のはじまりは、チャールズ・ダーウィンダーウィン号に乗って航海する場面からはじまる。そこに奇妙な老婆が現れ、「お話」を語りだす。

第一章、鳥類覚醒。二人称の語りで進められる物語は、小田原を舞台とする。本作の主要なキャラクタたちである、小田原市民や箱根市民であるミカたちは、前回に引き続き、第二回のどうぶつデスゲームに巻き込まれる。どうぶつデスゲームとは、人類の進化史が塗り変わってしまうのを阻止するために、ミカたち十八人の少女たちが八百万年前の地球に行き、ネコたちを絶滅させた、熾烈なデスゲームだ。動物たちはべつに互いの種の絶滅を目指して争っているわけではない。だが、どうぶつデスゲームでは、生物たちの種の生き残りをかけた戦いが繰り広げられる。今回の絶滅させるべき種は、べつの時間を辿って進化した鳥類たちだ。それらが、ミカたちの世界に侵入する。第二回のどうぶつデスゲームは不安な幕開けを迎える。頼みの綱のリアは不安定な挙動で、ミカたちは先行きのわからないまま戦いを行わなければならない。小田原を駆け巡り、キャラクタたちが次々と登場するなか、物語は、異様な語り手のテンションを介して過剰になる。

そして、第二章、暗黒脳では、中生代白亜紀末期、六六〇〇万年前の地球へとタイムスリップする。物語は奇妙な転換を迎える。キャラクタたちは、「理由の力」を失ってしまい「わからなさ」に直面する。各人の記憶や性格の情報は保持されているが、しかし、行為のための理由を感じ取れなくなってしまう。キャラクタたちは、妙に生気を失い、理由もどきをリソースにして、不気味な行為を行なう。機械たちが精密にしごとをやってのける、理由なしの駆動のさわやかさがある。キャラクタたちが「ごっこ遊び」を行なって、理由を運用する。キャラクタたちは、理由を模倣して、行動する。ここでは、美学的発想の奇妙な反転がみられる。

第三章、中生代切断計画。時間がほどける。うつくしく思考実験的詩情に満ちている。中世代が切断される。ごっこ遊び会場。コミカルでもなく、スプラッタの恐怖のはしごも外されているようで、読み手として、奇妙な理由の世界に入り込んでしまった感覚は他では味わえない。そこに進化ウェーブがやってくる。幾久世と千宙のコンビは、個人的にR2D2とC3POのコンビのようで、過剰な物語のなかで、いっときのオアシスのように機能する。しつこいくらいに繰り返される名づけの繰り返しも、伝説のなかの語りのように、リズムの心地良さをつくる。中生代での爬虫類との熾烈な戦いで、奇想が奇想を重ねて爆発する。恐竜宇宙艦隊、スペースクロコダイル。水星でのプラズマ発電。SFにおけるスペースジュヴナイルを過剰に再演する。宇宙における、きらめき、光と輝きの輝度高めな風景が連続し、ゴージャスでブライトな章だ。そして、「機械仕掛けの神」のように、ヘヴンズドアが開く。「理由」が降り注ぐ。この強引な解決は、読者を面食らわせる。

場面は急に転換し、二人称から三人称へと変化する。そして、第四章、「アノマロタンク登場」では、最初のダーウィンと老婆の場面に戻る。アノマロタンクが現れる。それと戦いながら、ダーウィンの過去にアノマロタンクが忍び寄る。侵食される過去は、怪奇小説のようで魅力的。安住の地、もはや変更できないからこそ諦めと安心を得ることができるはずの過去が侵食される点に、不安さの経験が感じられる。

そして、東京五輪二〇二〇がはじまる。「陸上馬術自転車水泳野球体操ボクシングカヌーサッカーフェンシングゴルフホッケーボートラグビー射撃サーフィン卓球テコンドークライミングテニス柔道ラグビー空手セーリングレスリントライアスロンゴルフアーチェリーボクシング近代五種スケートボードウェイトリフティングバドミントンバスケットハンドバレーボール」が開始される。ミカたちはあくまでスポーツパーソンシップにのっとってアノマロヒューマンたちとスポーツをする。このさわやかな描写も見どころだ。

第五章「時間寄生虫」。三つの進化砲撃。ここで描写される様々な敵対生物たちの生活史や生態はとても魅力的だ。物語はクライマックスに向かう。明らかに頁数とそぐわないアイデアが次々と登場し、物語を解決へと導いていく。現在チェーンソー、スピノザ器官、ホワイトホール大絶滅、超次元進化マクスウェルエンジン。

そして、最終章「最後の敵」。読者への挑戦状として三人称の語りで、読者へと語りかけられる。野球のナイトゲームがはじまる。そこで進化の理由が明かされるのだ。物語には、ふたたび怪しげな語り手が登場し、二人称でクロージングが行われる。壮絶な終わりを迎える。

以上は、物語の概観を通して、そのおもしろさをざっくりと指摘した。それでは、より、詳細に、本作をどのような点に注目することで、「この物語は(何が)おもしろいのか?」という問いに対する答えがえられるのだろうか。次節では、以前発表された、草野によるじしんの作品の構造の解説を手がかりに、それを再構成するなかで、この問いに答えよう。

草野原々の三つの顔

草野によれば、草野原々の作品は、三つの層から構成されている(草野 2019b)。第一は「流行文化の層」。第二には、中間層としての「科学的知識の層」、第三には、深層としての「哲学・思想の層」である。

第一の層は、様々な「流行文化」、すなわち、サブカルチャーの意匠やガジェット(アイドル、ソシャゲ、声優)の層で、草野作品を読んだ時にわたしたちがまっさきに出会う表層である。草野は、これらの意匠を惜しみなく使う。星雲賞を受賞した「最後にして最初のアイドル」(二〇一八年)は、これでもかこれでもかと意匠を付け足し、混ぜ合わせ、異様なキマイラが誕生する。本作でも、そのこれでもかは健在だ。とはいえ、本作は、次の層において、その過剰性が発揮されている。

その層とは、第二の「科学的知識の層」である。科学的知識、SF的奇想の層は、「流行文化の層」とも異なる役割を担っている。草野作品の科学的知識は、様々な意匠同士に物語的必然性を与え、物語を破壊し尽くすまでに加速させる。爆発的なインフレーションを起こしながら、作品を無限遠まで発射させる。その異様な量と質とは、過剰なディティールや数に満ちた原初的な神話、伝説、民話を想起させる。巨大な数字、グロテスクなものと出来事、めまいと圧倒、失神と恍惚を誘うような経験––––おもちゃ箱をひっくり返した瞬間の破滅的な愉悦、怪しげな薬理的作用によってぱちぱちときらめく脳内をエミュレートするような、輝きと混迷に満ちた快楽––––。

物語をむすびつけ、推進する物語的機能としての重要性はさることながら、科学的知識は、空疎なドタバタコメディに陥るかにみえる草野作品の物語たちにふしぎなきまじめさを与えてもいる。この底で響く低音のようなパートが、草野作品にどこか端正な響きを与えている。

本作では、ミカたちに襲いかかり、ときに彼女らと共闘するどうぶつたちが、前作にも量と種類を増して登場する。どうぶつたちは、戦いの場面いっぱいを駆け回り、華麗に舞い、壮絶な最期を迎えることで、物語をつなぎ、推進させる。これらのどうぶつたちを描く草野の筆致に、読者は、草野の畏敬のまなざしの影を見出すことができよう。

美しい動物だった。ダーウィンは、ここに、純粋な美を見た。
まず見えたのは、二つの複眼だ。眼柄に支えられて、キノコのようだ。水滴がしたたって、キラキラと光っている。そして、エビのような、いくつもの体節に分かれた胴体が出てくる。

胴体には、さまざまな生き物が付着していた。縦三つに分かれた体の三葉虫が、びっしりと埋め尽くしている。三葉虫たちで作られた装甲板の間から、トゲが生えた、虹色のディスクのように光るパイナップルのような生き物が現れる。植物のようだが立派な動物、軟体動物のウィワクシアだ(草野 2019g, 213-214)

科学的知識は、世界に対する草野の愛着と憧憬、畏敬と尊重を示す重要なモチーフとなって、作品の全体に不思議なきまじめさを与えている。これほどまでに縦横無尽に物語が進行し、狂騒のカーニヴァルそものもであるにもかかわらず、ばらばらの出来事は科学的知識の全体のなかで、しかるべききまじめさをもっている。

以上ふたつの層は、前作『大進化どうぶつデスゲーム』、そして、本作の中心的なテーマとなってもいる。前作がエンターテイメントを意識した「流行文化」も取り入れた物語ならば、本作は、SF小説そのものを目指した「科学的知識の層」をフューチャーした作品でもあるのだ。草野のこの試みは過剰に成功している。本作は、SF的奇想を詰められるだけ詰め込んだ、崩壊寸前のSFだ。みてきたように、草野は、過剰の作家と呼ぶべき存在なのだ。

以上の点から、本作の常軌を逸したおもしろさの、少なくともその一部を捉えられる。本作は、これでもかと加えられ、混ぜ合わされ、狂騒のなかで増大し、共鳴し、爆発し、飛んでいく、「科学的知識」の層の狂騒の美的経験によって、常軌を逸しておもしろい。「SFに求めるものは人間の頭をおかしくさせることだ」(草野 2016)とインタビューに答えるように、たしかに、本作は、読者の頭を変調させる。

だが、草野の作品には、もう一つの層がある。そして、カオスにはとどまらない、もうひとつのおもしろさの側面がある。それは「魅力的な哲学的問いの提示」によるおもしろさだ。
この層とおもしろさについて、節を変えて分析しよう。なお、ここから先、本作について、より核心にかかわるネタバレがあることをふたたび喚起しておく。

存在の美学的転回

第三に、深層としての「哲学・思想の層」がある。この層は、草野が語るように、哲学的な側面を得意とする重要なピースだ。草野作品では、たんに哲学的な概念が導入されるだけではない。それらは異なるしかたで組み直される。すなわち、物語を介した「概念実験(conceptual experiment)」を行うのだ。ちょうど、様々な化合物が混ぜ合わされ、新たな性質をもった物質が誕生するように、概念は分析され、混ぜ合わされ、抽出され、新たな概念と連関が生成される。これが概念実験だ*3

概念実験としての物語という観点から本作を分析しよう。

ひとつ目は、「理由」と「フィクション」をめぐる概念実験だ。
まず、本作に頻出する「ごっこ遊び」という概念を取り上げよう。理由を失ったミカたちは、「ごっこ遊び」によって、理由なしで行動をなんとか生成する。
ここで、「ごっこ遊び」とは、草野自身も参考文献として挙げているように、分析美学におけるもっとも重要な芸術論・フィクション論のひとつである、分析美学者、ケンダル・ウォルトンの『模倣としてのメイク-ビリーヴ』(邦題『フィクションとは何か?』田村均訳)における「ごっこ遊び=メイクビリーヴ・ゲーム(make-believe game)」の概念と深い結びつきをもっている(Walton 1990)。ウォルトンはこう言う。

表象は、ごっこ遊びの小道具としてはたらくという社会的機能を備えたものである。表象は、いろいろな想像を促したり、ときには想像の対象となったりもする。小道具とは、慣習化された生成原理の力によって、想像のしかたを命令するものである。想像するように命令される命題は、虚構的である。与えられた命題が虚構的であるという事実は、虚構的真理である。虚構世界は、虚構的な諸真理の集合と結びついている。虚構的なものは、与えられたある世界──たとえば、ごっこ遊びの世界や、表象芸術作品の世界 ──において虚構的なのである。(Walton 1990, 69 強調は原文)

芸術作品を代表とする様々なフィクション作品は「表象(representation)」として、わたしたちがそれを使って行う「メイク-ビリーヴ・ゲーム(make-believe game)」=「虚構生成ゲーム」の「小道具(prop)」=「虚構生成物」として役立つ。虚構生成物は、ある文化や場所で慣習として共有されているルールによって、様々な想像を指令する。虚構世界は、虚構的真な諸命題の集合とみなされる。

ウォルトンの言ういみでのフィクション概念は、虚構生成ゲームにおいて想像を指令する機能をもった虚構生成物なのだ。こうしたフィクション理解にとどまらず、物語は、虚構の概念を組み直す。本作では、実在と虚構の関係は逆転する

キャラクターは人間の描写ではない、まったくの逆だ。キャラクターのぼやけた影が人間であるのだ。

なぜならば、人間の持つ理由は不純であるからだ。人間は自由意志を持っていない。理由に基づく行為をしているように思い込んでいるが、実は因果に基づいている。性格に一貫性はなく、状況に依存している。キャラクターに比べたら、全然、リアルでなく、生き生きとしていない。

対して、キャラクターは性格に一貫性があり、理由に基づいた行動をして、理由秩序に合致して感情を変化させる。リアルで、生き生きとしている。

人間は、キャラクターたちの内面を想像して、共感して感情移入して、理由空間を認識し、かろうじて、理由に基づいた行動のようなものを、ごっこ遊びの形で再現するだけなのだ。

キャラクターたちは、理由子の塊だ。キャラクターたちが関係を築くことで、理由空間が形成される。理由空間は因果空間よりも根源的であり、理由空間を表現する虚構世界は因果空間を表現する現実世界よりも、実在性があるのだ。(草野 2019g, 315-316)

本作では、虚構と呼ばれているものこそが実在なのだ。虚構世界の方が、たんなる因果関係よりも、より実在性があるキャラクタの関係性こそがもっとも実在的な理由のネットワークを構築する。その理由空間こそが、時間、空間、存在の根源なのだ。

ここで、「理由(reason)」が重要な概念として登場する。わたしたちは、他人の行為に理由を求める。その理由によって自他を説明し、理解する。凄惨な事件を引き起こした犯人の理由、テロリストたちの理由、戦争の理由、裁判所で、取り調べで––––、あなたを誰かが愛する理由、あなたがある物語を見る理由、そして、フィクションのキャラクタがこのような行動をとり、あのような発言をする理由。

わたしたちはつねに、異様とも思えるほどに、理由に執着する。理由によって批判し、自責し、日々、称賛と非難を行う。わたしたちがこれほどまでに理由に執着するさまを、逆転させたのが本作の物語となる。わたしたちは、理由をつくっているのではなく、実は、世界こそが理由で構成されている*4

美学的方法によって表現された理由子、それが虚構上のキャラクターなのだ

日常的な物体の正体が、数学的方法により表現される量子であるのと同じように、世界の正体は、美学的方法によって表現される理由子であるのだ。(ibid., 315)

「ある(being)」は、「つくる(making)」の二次的なものなのだ。存在はあるのではなく、つくられるのだ。科学は存在を捉える。だが、捉えるべきは、虚構なのだ。美学が本質を捉える。ここで「美学的転回(aesthetics turn)」とも言うべき実験がなされる。

この想定は、あまりにも突飛だろうか。だが、草野がバックグラウンドのひとつとする「分析哲学(analytic philosophy)」において、わたしたちの心、倫理、さらには、時間さえもがフィクションであるとする、様々な「虚構主義(fictionalism)」が現在、活発に議論されている(cf. Toon 2016)。これらの議論は、しかし、実在的なものの特徴が「ごっこ遊び」によって捉えられているものとして、わたしたちの理解や説明の活動を分析するものだ。

草野は、こうした現代の哲学における議論を、文字通りに受け止めるならどうなるのか、という実験を行なっている。実在的なものをフィクションがよく説明するのではなく、フィクションこそが、わたしたちがあやまってそうみなしている「実在的なもの」で説明されているに過ぎないとしたら? *5

分析哲学的発想と分析美学の発想を組み合わせて、概念の実験を行えば、首肯しうるかはともかく、「理由子一元論」ともいうべき、本作の概念実験が提出されうる。読者は、物語、フィクション、そして、キャラクタ概念への揺さぶりと問いかけを読み取る。それは草野による、物語を用いた物語と概念の実験なのだ。この意味で、本作を美学SFと呼ぶこともできよう。

この概念実験をさらに詳しく追ってみよう。

まず、科学は、現象や物質の因果を問うことができる。だが、わたしたちが日常で使うような意味での理由や意義に答えることは、いっけんできない。だが、振り返れば、わたしたちがふだんづかいしている理由は、科学の営みによって、どんどんと因果に還元されていった。「りんごはなぜ落ちるのか?」という問いに、もはや、「ものとものとが愛の力によって引き合うからだ」と答えるひとはいないだろう。だが、「あなたはわたしになぜ恋に落ちたのか?」という問いに、ひとびとは、りんごの落下を説明するときのような因果ではなく、より物語的な愛の理由を語るだろう。これが読者の既存の概念的ネットワークだ。

草野は、因果と理由を逆転させた世界へと読者を誘う。その世界では、実在は、量子といった因果に尽くされるようなものではない。理由子という、わたしたちがふだんづかいしていて、因果に還元されてしまうかに思えるものこそが真に実在する世界。その世界では、理由がすべてをかたちづくる。時間、空間、心、行為のすべてを、理由がうみだす。

この世界は、ある意味でユートピアだ。想像してみほしい。あなたが理由に満ち満ちた世界に住んでいるのなら、あなたは、どんなに不幸であっても、もはや人生の意味に悩むこともない。これはおかしな表現ではない。なぜなら、あなたの生は、それがどんな酷いものであろうと理由があるからだ。同時に、人生の価値に悩むこともない。人生に生きる理由があるなら、それは、人生に生きる価値があることを示唆しうるのだ。

この世界は、理由の王国だ。だとすれば、読者であるあなたも、この世界に憧れるのではないか? 理由があふれているこの世界では、すべての苦しみと痛みに理由が与えられ、救済されるのだから。

だが、草野は、この王国の暗黒面を描く。理由の王国のおぞましいシステムを提示する。それでは、こうしたキャラクタたちの存在と物語におけるデスゲームはどう関係するのだろうか。ふたつ目の概念実験が開始される。「進化」と「絶滅」の概念実験だ。

どうぶつ実験と反出生主義

つぎに、前巻のタイトルであり、本巻でも中心的な概念となる「大進化どうぶつデスゲーム」に含まれる、「進化」と「生と死」の概念の構造と他の概念との連関を辿ってみよう。
「進化」ということばは、いつも、どこか他人ごとのような響きがする。それは、中立的なニュアンスを装っている。だが、進化とは、よく嗅ぎつけてみれば、死の匂いであふれている。

わたしたちは、訳もわからず出生を続ける。それを疑問にも思わない。だが、生むということは、その死の可能性を同時に生成する。どうぶつが新たなどうぶつを生むのは、それに生を与えるためだけではない、死もまた与えられる。淘汰のシステムにランダム生成された新たなパラメータを振ったいのちを投げ込み、その性能を実験し、より適応したプロダクトをリプロダクションする、「どうぶつ実験」を行なっている。選別のために、どうぶつには死の機能が与えられた。

進化は、ある環境に適応したどうぶつを生み出すシステムであると同時に、適さないすべてのどうぶつに死を与え、選別し捨て去るシステム、すなわち、「どうぶつデスコンピューティング」なのだ。ゆえに、進化の産物たるどうぶつたちは、みな、それが美しければ美しいほど、合理的であればあるほどに、色濃い死の匂いにあふれている。夢見るように透き通った蝶の羽、思わず目でなぞりたくなるような魚たちの流線型––––。これらは、みな死のエンジニアリングの成果物なのだ。

草野作品において、進化と死のコンピューティングは、「いつでも、どこでも、永遠に」(草野 2019c)、「エボリューションがーるず」(草野 2018)といった作品において、重要なテーマとして用いられてきた。こうした草野の概念実験の最新として、本作では、より異なったアプローチから、進化と死のコンピューティングは取り扱われる。

現実において、進化を司る絶対者はいない。淘汰圧は様々な要素が参加し、相互作用しあうなかで、おのずから生成される。もし、法外な権限をもって進化を設定する者がいるとすれば、それは、もっとも不条理でもっともおぞましい存在だ。だが、本作において、進化をデザインする死のエンジニアはいる。それは「超越地平」––––「無限の理由子の塊––––超越的にリアルで生き生きとしたキャラクターたちの関係性」(草野 2019g, 316)のあるところ––––だ。

演劇で、物語に決定的な終わりを与える機械仕掛けの神をつよく想起させるように、物語で唐突に挿入される「ヘブンズドア」の向こうの超越地平は、不条理な絶対者として、あらゆるものの死を実験し続ける。しかし、それはなんのためなのか?

世界、それは理由子エンジンであった。絶対的にリアルなキャラクターが、虚無を理由で打ちつけ、進化させて時間を発生させるエンジンだ
(草野 2019g, 316)

超越地平は、理由そのものであり、死の理由さえ供給する。それによって、時間を発生させる。時間は死を燃料として生成される。

極限的なリアルであるキャラクターたちの関係性は、理由子エンジンの効率を高めるために、デスゲームをしていた。
時間を作るための進化に、大量の死が必要になるということはいまさら記す必要はないだろう。死は生き物や人間だけでなく、キャラクターにも及ぶ。理由に基づかない振る舞いをするキャラクター、リアルではないキャラクター、生き生きとしていないキャラクターは、死の対象となるのだ。淘汰されて、より理由空間を広げるために打ち捨てられるのより理由空間を広げるために打ち捨てられるのだ。(ibid., 313)

理由による淘汰圧下での進化自体の進化、それが大進化どうぶつデスゲームであった。(ibid., 317)

キャラクタたちの死は、理由によって回収され、意味あるものにされてしまう。それがどれほどむごたらしく、どれほど残酷で、不条理にみえても、最終目的たる理由空間の展伸のために、意味のある死を与えられる。ミカは、その理由じたいの不条理さを問う。

早紀が言う。
「だから、わたしたちも理由子エンジンの一部なのよ。さあ、わたしとあなたで、関係性を進展させ、生き生きとした理由を作り、時間を大量に発生させましょう」
早紀は、手を広げてミカに近づく。
「……嫌だ!」
「……なぜ?」
「邪悪だからだ。理由子エンジンは、邪悪だ!」(ibid., 316-317)

だが、ミカには、理由子エンジンを破壊する手段は存在しない。理由子エンジンを止めるために、死を与えることは、しかし意味がない。

……死を投げるのは逆効果だ。死はキャラクターの理由を強化する。その証拠に、デスゲームによってミカの理由が強化されたのは周知の通りだ。理由をより強化するために、死に適応して進化した存在がキャラクターなのだ。(ibid., 318)

絶滅は、もし個別の生物種の絶滅であれば、たんに、「関係性」を生産するだけだ。そして、それは、キャラクタの生産に利用されてしまう。死と絶滅を混同してはならない。死は、進化を加速させる燃料でしかない。ミカが求めるのは、絶滅、よりただしくいえば、「大絶滅」、すなわち、すべての進化の停止だ。それは死を投げるのではなく、「デスゲーム」を終わらせるものでなければならない。何も投げるものはない。投げてはならない。ミカは何ももたない。そして、じぶんじしんの存在さえももつべきではなかったのだ。
絶滅は、時間の、空間の、キャラクタの、すなわたち、すべての絶滅でなければならないのだ*6
進化は、理由に満ち満ちた超越地平への道だ。生は理由であふれている、価値にあふれている。だが、すべての絶滅は理由を消し去るものでなくてはならない。だが、理由こそ、この世界を満たす力なのだ。絶滅は、進化に勝つことはできない。

 

 

ミカが果たし得なかった「絶滅」の意志には、現代の哲学における「反出生主義」の思想が響いている。

反出生主義(anti-natalism)」の現代的な旗手とされるのは、南アフリカ大学の倫理学教授デイヴィッド・べネターだ。かれは、『生まれて来ないほうがよかった』において、「生まれることはつねに当人にとって悪である」こと、そして、「わたしたちの生の質は、わたしたちが考えているよりもずっと低い」ことに基づいて、「いかなる場合においても、子供をもうけることはつねに道徳的にわるい」という主張を行った(Benatar 2006; cf. 鈴木 2019)。べネターの反出生主義は、その主張の過激さ、おおくのひとびとにとっては直観的には認めがったがために有名になったというわけではない。この主張自体は、その系譜を過去に辿ることができるだろう。むしろ、衝撃は、この結論が、ひとびとによって直観的に認められうるような前提に基づいて導き出される点にあった。発表当時から哲学者たちや倫理学者たちの議論を呼び、いまなお論争は続いている。

対して、「進化」を寿ぐ態度には、出生主義に通じるものがある。ここで明確化してみれば「出生主義(natalism)」とは、反出生主義との対比で理解されるだろう、すなわち「生まれることはつねに当人にとって悪というわけではない」。

超越地平と絶対深淵の対立は、出生主義と反出生主義の対旋律になぞらえることができるのみならず、両者の根底にある世界への態度を、べつのしかたで印象深く描写し、読者に問いを投げかけている。

出生主義者は生を祝う。生は、生き生きと理由にあふれ、価値にあふれ、時間にあふれている。対して、反出生主義者は、わたしたちがこれ以上誕生させること=死を与えることを回避することを主張する。だが、もし、機械仕掛けの神が、すべての理由を生産しているなら? 反出生主義者たちは、圧倒的な生の理由と価値の前に、何も持たずに戦わなくてはならない。すべての理由を消して、純粋な無である絶対深淵に戻ることは叶わない。時間がある限り、局地的に何かが絶滅しても、宇宙のどこかでどうぶつは誕生し、必然的に進化がはじまる。そうして、ふたたび、痛みと苦しみを燃料に、死のコンピューティングがはじまる。

以上から、本作は、絶滅を思索する、反出生主義SFであると言える。

 

 

優れた作品がそうであるように、本作もまた、たんにひとつの主義を押しつけるモノローグ作品ではない。本作には、同時に、死の匂いに反発しつつも、生と進化の価値に思わず感嘆してしまうような両義的でポリフォニックな態度に揺れてもいる。

すでに指摘したアノマロタンクの純粋な美のように、生と死のエンジニアリングによってもたらされたどうぶつは、圧倒的な価値をもって、わたしたちを惹きつけてやまない。生と死の害悪とその美しさとエモさ、そして、絶滅への意志は乱反射し、断片的に響き合う。物語のなかで、すぐさまいずれか立場のただしさが決定されはしない、微妙なラインの上で物語は存在する。それは、草野じしんのなかにささやく複数の声かもしれない。優れた物語は、異質な複数の声を持つ。本作もまた、絶滅と生命のあいだで揺れ動き、その緊張は解かれることはない。

本作においては、ふたつの概念実験が行われている。ひとつは、フィクションをめぐって、もうひとつは、絶滅と生と死をめぐって。こうした実験の試みに注目すれば、本作は、美学SFであるとともに、反出生主義SFでもある。

本作は様々な概念の連関を物語を介して展開し、そのゆたかで謎めいた性質を読者に提示する。物語は、つねに、じしんが提出した問いに答えるわけではない。それはむしろ哲学の役目だ。物語は、問いを開き続け、もちこたえさせ続ける。それは、哲学とはべつのしかたでの物語による思索の行為だ。読み手は、この物語を引き継ぎ、じしんでその先を考えることを誘われる。

ここで、読者は疑問に思うかもしれない。二つの概念実験の価値はあるとして、しかし、それは、本作のごく一部の魅力ではないのか––––本作は、むしろ、前節で指摘されたような「科学的知識」の過剰さやディティールによって価値づけられるのではないか––––本解説は、「哲学・思想」の側面を強調しすぎて、本作の重要な価値を見逃しているのではないか––––この指摘は重要な点を言い当てている。だが、本解説で指摘したことと矛盾しない。

おわりに

本作は、まさに、物語を埋め尽くすような科学的知識の過剰さによって、読者を哲学的問いに引き込む。第一に、物語の速度、キャラクタに降りかかる出来事、そして、科学的な理由づけは、一挙に読者を襲う。それによって、読者は、読みながら、草野が提示する物語への関わりの態度へとチューニングをだんだんと合わせていく。思い出すだろうか。最初のページでは、いきなり登場するダーウィンに、唐突にはじまる老婆のお話に、独特な語りに面食らったはずだ。だが、読み進めるうちに、あなたは、段々とふだんの生活の態度とは、さらに、ふだんの物語の態度とは、物語にゆさぶられるたのしみとおもしろさのなかで、異なる態度に自然と変調していく。その変調の状態で草野は、さらに、二つの概念実験をたたみかけるのだ。それは、哲学論文があくまで素面の状態で読まれることをふつう想定しているし、また、情動をかき立てたり、態度を変容させたりすることを目指してはいないことと、ちょうど対になっている。本作は、何よりもまず、お話、物語なのだ。物語は、読者の態度を異なるモードへとチェンジさせ、その上で、変調した読者に、既存の概念のネットワークを組み替える実験を誘う。つまり、本解説で指摘した科学的知識の層と、哲学・思想の層は、第一に、それぞれ独立した価値を持ちながら、第二に、互いの別の機能を果たしながら、つながりを持っているのだ。

もちろん、草野作品には、この二つの層の連結について再考すべき点があるとわたしは考える。どこまで意識的に、読者の変調を誘う/誘わないか、どこまで、変調に用いた物語と哲学的思索の誘いをなめらかにつなぐかについて、さらなる発展の可能性の余地がある。

だが、草野の目論見––––「読者のあたまをおかしくさせる」こと。そして、もう一つ、わたしが想定する、哲学的な問いに読者を引き込むこと––––はこれまでにもまして、うまくいっている、とわたしは判断する。息つく間もない物語の進行、出来事、科学的理由づけの挿入は、みなすべて読者の頭をじゅうぶんに変調させてしまう。そして、哲学的思索、概念実験に、読者はその変調した態度によって引き込まれ、問いを受け取る可能性がもたらされている。

 

 

『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、時間と空間を横断/切断しながら、語り手を変えながら、物語が異質なものに変わり、キャラクタが破壊されたさきを探ろうとする、物語を破壊しながら、原初の物語の力を思い出させる作品だ。

一方で、本作は物語に読者が期待するたのしみを裏切る––––キャラクタへの「感情移入」のたのしみ、キャラクタの関係性に「エモさ」を感じることに対するメタ的視点の導入、物語への「没入」の快楽を堰き止めるような、くせのあるいくつもの語り手の登場––––。

他方で、本作は、読み手が知っていたはずの、しかし、忘れかけていた「物語の根源的なよろこび」を突き詰める。物語は、まず、誰かによって語られるものなのだ。わたしたちの祖先が焚き火の周りで聞いた神話、旅情の寂寥を慰撫するように、旅籠で耳を傾けた吟遊詩人の語り、そして、親たちが語りかけるお話たち––––。そこには、語り手が紡ぎ出す独特なリズム、荒唐無稽な出来事をつなぐふしぎな理由が次々とつむがれ、説得されるたのしみがある。

このお話は、一方で、物語を破壊する。それにより、読み手に物語への反省的態度を要求する。他方で、このお話は、物語の祖先へと回帰する。それにより、語りを聞く原初的なよろこびをもたらすのだ。

本作は、これまでの草野作品の様々な要素––––メタフィクション、進化、キャラクタ、関係性、理由、心、生と死––––が流れ込み、さらにもう一段、物語の力とゆたかな概念実験が組み込まれ、うみだされた作品だ。『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、原々文学の最前線だ*7

難波優輝(分析美学と批評)

Twitter: @deinotaton

参考文献

Benatar, D. 2006. Better never to have been: The harm of coming into existence. Oxford University Press.(『生まれて来ないほうが良かった––––存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宜義訳、すずさわ書店、二〇一七年)

John, E. 1998. “Reading fiction and conceptual knowledge: Philosophical thought in literary context.” The Journal of aesthetics and art criticism, 56 (4), 331-348.

草野原々. 2018a. 「草野原々インタビュー」(初出「SFマガジン 2016年10月号」) Hayakawa Books & Magazines (β), <https://www.hayakawabooks.com/n/n431e95f69b62>.
––––. 2018b. 「伝説級の話題作。『最後にして最初のアイドル』刊行記念インタビュウ」『草野原々、大いに語る』cakes, <https://cakes.mu/posts/19453>.
––––. 2018c. 『最後にして最初のアイドル』早川書房.
––––. 2018d. 「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber真銀アヤです。 」『小説すばる』2018年10月号所収.
––––. 2019a. 「理由農作錬金術師アイティ」『三田文学』No.137(2019年春季号)所収.
––––. 2019b. 『大進化どうぶつデスゲーム』早川書房.
––––. 2019c. 『これは学園ラブコメです。』小学館.
––––. 2019d. 「原々作品の源流をさぐる」第58回日本SF大会「彩こん Sci-con」、2019年7月27日~28日、埼玉県さいたま市ソニックシティ.
––––. 2019e. 「いつでも、どこでも、永遠に」『NOVA 2019年秋号』所収、河出書房新社.
––––. 2019f. 「幽世知能」『アステリズムに花束を––––百合SFアンソロジー』所収、早川書房.
––––. 2019g. 『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房.
難波優輝. 2019a. 「絶滅の倫理学Lichtung Criticism’, <https://note.mu/deinotaton/n/nd55ecbe15125#4wuyU>.

––––. 2019b. 「キャラクタの前で」『大絶滅恐竜タイムウォーズ』所収、323-331頁、早川書房.
鈴木生郎. 2019. 「非対称性をめぐる攻防」『現代思想』47 (14), 114-124.

高田敦史. 2017. 「フィクションの中の哲学」『フィルカル』2 (1), 92-131.
Toon, A. 2016. “Fictionalism and the folk.” The Monist, 99 (3), 280-295.
Walton, K. 1990. Mimesis as Make-Believe. Harvard University Press.(『フィクションとは何か––––ごっこ遊びと芸術』田村均訳、二〇一六年、名古屋大学出版会)

引用例

難波優輝. 2020. 「草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズと絶滅の意志』」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/kusano.gengen.daizetsumetsu.kyouryuu.time.wars.will.for.extinction>.

*1:もちろん、前巻を読んでおけば、本作から得られるたのしみはさらに増えるだろう。

*2:

*3:概念実験の概念と特徴づけは、John(1998)および、高田(2017)の議論にヒントを得ている。

*4:理由をめぐる物語は、短編「理由農作錬金術師アイティ」においてその萌芽が見出せる(草野 2019a)。さらにまた、近作、「幽世知能」における「自由エネルギー原理」(草野 2019d)においても、キャラクタと理由の関係が考察されていた。

*5:本作におけるフィクション論と、心と虚構主義の関係の概念実験は、『これは学園ラブコメです。』におけるメタフィクションの試み(草野 2019b)。「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber真銀アヤです。」における意識の描写の実験の試みをその源流として見ることもできる。

*6:すべての宇宙の絶滅についての議論は、難波(2019a)を参照のこと

*7:この場をお借りして、わたしの自己紹介をしておく。
「分析美学(analytic aesthetics)」––––分析哲学の流れを汲んだ美学で、ひとびとのことばづかいや批評実践を手がかりに、わたしたちの文化的実践を分析し、これをよりよく理解、説明するための概念や枠組みの構築を目指す学問––––の研究者であるわたしは、草野原々に依頼され、プロットを聞き、本文を読み、読み手の経験の記述、疑問点の指摘といった最初の読者/批評家としてのしごと、そして、分析美学の概念や枠組みの紹介といった研究者としてのしごと、さいごに、いま行っている、作品の価値の伝達と、潜在的な読み手へのアピールという、解説/広報者としてのしごとを担当した。この新しいしごとを、ドイツにおける演劇実践から生まれた「ドラマトゥルク」という職業の小説制作バージョンとして「ノベル・ドラマトゥルク(novel-dramaturg)」と呼ぶことにしている。ドラマトゥルクが脚本家や演出家とともに考え、そしてそれらのひとびとと俳優を、加えて、観客たちのあいだを触媒としてつなぐように、わたしは、シャーロック・ホームズたる草野原々がプロットやアイデアを話す傍にいるワトソン役となって、さらに、草野と読者の間に立って、物語の価値を媒介する。
問題を鮮やかに解決するホームズに褒賞が与えられるように、本作がもちうる価値は、当然草野じしんに与えられる。わたしは、誇りあるワトソン=触媒=媒介として、本作の価値を読者に伝え、広める、べつのしかたでの重要な役割を果たせればと思う。

表現と行為:表現行為論、芸術と政治、芸術倫理学

はじめに

表現を用いて行為を行うとはどういうことか。本稿では、J・L・オースティンの『言語と行為』における言語行為論を拡張した「表現行為論」のスケッチを行う。表現行為論は、「発表行為」「発表内行為」「発表媒介行為」の三つの概念を軸に、芸術作品や表現一般を用いた行為を分析する。本稿では、表現行為論の素描ののち、芸術作品や表現一般がいかにうすくとも持ちうる行為としての側面に注目することで、それらがある種の政治とは切り離し難いものであることを指摘する。そして、表現行為論から、芸術表現の倫理を問う「芸術倫理学」の思考可能性を議論し、さいごに、表現行為論に代表される哲学、美学における概念が実践にどのような寄与をなしうるのかについてふれる。

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1. 言語行為から表現行為へ*1

言語行為論とは何か。英米圏の哲学において著名な哲学者、J・L・オースティンの言語行為論の核となるイメージは、発語は、それ自体で何かを変化させうる行為である、というものだ。船主が「この船をクイーン・メリーと名づける!」と言って祝いの酒を叩き割るとき、それは名前の記述ではなく––––それ以前にその船には名前がない––––「名づけ」という行為そのものである。この発語によって遂行されうる行為があり、達成されうる事態がある。

オースティンによれば、言語行為は三つの性質を備えうる。第一に、「発語行為(locutionary act)」、第二に、「発語内行為(illocutionary act)」、そして第三に、「発語媒介行為(perlocutionary act)」である(Austin, 1962, ch. 6, 7)。発語行為とは、その発語という行為そのものである(「シオ、ソコニアル?」という音声を発声すること)。つぎに、発語内行為とは、発語によって成立する特定の行為(「依頼」)である。さいごに、発語媒介行為とは、その発語によって引き起こされた行為(「塩を取ってもらう」)である。

次に、この言語による行為から、非言語による行為へと議論を拡張しよう。

哲学者ジェニファー・ソールが指摘するように、発語内行為は、それが言語的なものであれ、非言語的なものであれ、つねにその都度行われる行為である(Saul, 2006, p. 236)。

たとえば、ここに「I do」と書かれたカードがあるとする。このカードは、それ自体では発語内行為を行えない。ただの物言わぬカードだ。だが、特定の文脈において、たとえば、取り調べ室での自白の際にあるひとがこれを提示したなら、それは「確認」といった発語内行為であるし、また、結婚式で神父の結婚の誓約を尋ねられたときに用いれば、「宣誓」という発語内行為となりうる、さらには、子どもを誘拐した犯人が被害者の親にこのカードを送りつけたなら、「脅迫」という発語内行為を行いうる(cf. Saul, 2006, p. 235)。

それでは、これが文字が書かれたカードではなく、特定の画像のみであればどうだろうか。少なくともオースティンの理解においては、非言語的発語内行為がありうる。

オースティンが『言語と行為』において主題的に取り扱ったのは、発された言葉であった(Austin, 1962)。だが、彼は、発されない言葉もまた、発話でありうるとみなしている(Austin, 1962, p. 60)*2。さらに、文字から離れて、非言語的な発語内行為は可能であると述べている。

……たとえば、警告する、命令する、指名する、譲渡する、抗議する、謝罪するといったことも非言語的な手段でできるが、これらは発語内行為である……。抗議というものは鼻に手を当てる軽蔑のしぐさ(snook)をしてもできるし、トマトを投げつけてもいいわけだ。(Austin, 1962, p. 118)

非言語的発語内行為においてもそれらが特定の文脈において行われる点では同様である。乾いた米を相手にぶつける、という行為は、多くの場合「侮辱」という発語内行為を成立させうる。だが、同じ行為が結婚式で適切に行われたなら、「祝福」という発語内行為を成立させうる。言語的にせよ、非言語的にせよ、発語内行為は、つねにその都度、特定の文脈のうちで遂行されうる。

たとえば、差別的な表現の画像は、それがある状況において提示されることで特定の行為となる。差別を意図する者が、その画像を、その画像が差別する集団に見せつけるという行為を行う際には、その画像があからさまに差別を描写的内容や態度としていることが被差別者に理解されるとき、「侮辱」「脅迫」といった行為を遂行しうる。だが、その画像そのものは、提示されなければいかなる行為も遂行しえない。逆に、「I do」のカードの例のように、画像の表現はそれが用いられる際の特定の行為と関係している。

この観点を手がかりに、言語表現には限定されない表現一般についての行為論を考えることができる。そのスケッチを行おう。

2. 表現行為論––––発表行為、発表内行為、発表媒介行為

ある表象作品、音楽、彫刻、ビデオゲーム、アニメーション、映画はそれ自体として行為ではない。それは物言わぬモノだ。それらが特定の行為となるのは、特定の再生や提示においてである。作品は、それが再生、提示、鑑賞されたときにはじめて特定の行為として成立しうる。まず、これらの個別の行為を、「発表行為(expressionary act)」と呼べば、発表行為において、ちょうど言語行為論における発語内行為と同様、様々な行為、「侮辱」「脅迫」「賞賛」などを遂行しうる。これらの発表行為において遂行される行為を「発表内行為(ilexpressionary act)」と呼び、それによって引き起こされる行為を「発表媒介行為(perexpressionary act)」と区別する。これら三つの発表行為、発表内行為、そして、発表媒介行為を扱う枠組みを、わたしは「表現行為論(expression-act theory)」と呼ぶこととする*3

第一に、発表行為とは、特定の文脈で特定の作品や表現を展示、提示、再生する行為である。たとえば、ある展覧会である少女の像を展示すること、ダンスを踊ること、身ぶりや指さしをすること、LINEで返信のためにハートマークや笑顔のスタンプを送ること、カラオケで気になるあのひとに向けてラブソングを歌うこと、ミーム画像を友人に見せること。ある雇用主にクビにされた怒りから元従業員がその雇用主娘の写真を雇用主に大量に送りつけること、さらには、差別行為として、特定のカテゴリに属するひとびとをカリカチュアした画像を送りつけたりプラカードを見せつけることである。

第二に、発表内行為とは、特定の文脈で行われて発表行為において遂行される行為である。少女の像の展示は、なにかを「表明」したり、「異議を唱える」行為でありうる。特定の場所でダンスを踊ることは、それが風営法によってある条件でのダンス営業を規制されていた時点では、抗議の発表内行為でありうる。返信のスタンプは、親愛の伝達や表明であり、カラオケであのひとに向けてラブソングを歌うことは、婉曲であれ「告白」の行為であり、また、雇用主に娘の写真を送ることは「脅迫」の行為であり、戦争の必要を叫ぶひとびとにピカソの『ゲルニカ』を提示することは「批判」「反対」「警告」の発表内行為でありうる。また、差別行為を意図して特定のカテゴリに属するひとびとにカリカチュアを見せつけたり送りつけることは、「侮辱」「下位づけ」の発表内行為でありうる。

第三に、発表媒介行為は、発表によって引き起こされた行為である。もし発表内行為がなんらかの行為を引き起こすなら、それが発表媒介行為だと言える。たとえば、戦争への反対の行為としての『ゲルニカ』の提示があるひとやひとびとが戦争への賛意を示すことを取りやめたりすること、あるいは、カリカチュアを見せつけられたひとびとが萎縮し、なんらかの行為を取りやめたりすることである。

表現行為論は言語行為論を拡張したものであり、様々な表現行為のうちのひとつが言語行為である(図1)。

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図1 諸表現行為論と言語行為論

オースティンが丹念にそのふるまいを調べたのは言語であり、わたしたちは、言語を人間の表現行為のもっとも際立ったひとつとみなしうるが、しかし、人間は言語以外にもゆたかな表現行為を行なっている。たとえば、イラストを用いたデモやミームを用いた会話などの画像を用いた表現行為としての画像行為論、カラオケや特定の式典、ライブパフォーマンスにおけるような音楽を用いた表現行為としての音楽行為論、あるいは、演劇における演技を用いた表現行為としての演技行為論などを考察することができる。

わたしは、オースティンの発想に基づきつつ、言語に限定されない人間の表現という行為を分析する表現行為論を展開していくことを目指している*4

3. 芸術と政治の切り離せなさ

上でスケッチした「表現行為論」の枠組みを用いることで、芸術作品や表現一般が発表行為であることがはっきりと理解できる。

芸術という制度、芸術作品、美的なもの、絵画や音楽などを使って言論活動、政治活動、表現活動をすることそれ自体はよくもわるくもない。人間はしてきたし、していくだろう(できなくなることはあるだろうし、できなくさせられてきた長い歴史があるが)。

もしおしなべて芸術や表現を使って特定のイデオロギを表明したり批判したりすることそれ自体が批判されるべきなら、もっとも身近で、美的にゆたかな芸術的なメディウムとしてのこの「言葉」すら使うことを批判されることになってしまう。それを誰も望まないだろう。

音楽、絵画、ダンス、彫刻、ビデオゲーム、アニメーションを使って言論活動できるししている。どんなうすい意味でも表現の提示とは、提示すること自体がひとつの行為であり、何かを伝えるのみならず、勇気づけ、駆り立て、命じ、説得し、批判する行為であり、いくばくかの政治の色を帯びている。なぜなら、いかなる表現の提示もそれが表現である限り、発表行為であり、そして、「奨励」「命令」「非難」などの発表内行為を遂行しうる。そして、そうした発表内行為は実際にひとびとの行為を変え引き起こす発表媒介行為をもたらしうる。

4. 芸術倫理学の試み

表現行為論の枠組みは、芸術表現の倫理を問う、いわば「芸術倫理学」を考えるための有用な手がかりになりうる*5。これまで芸術の倫理的問題を問う重要な視座のうちのひとつは、その芸術表現の「倫理的態度」を問うものである。

代表的な立場として、分析美学者、哲学者のベリズ・ゴートの議論を取り上げる。ゴートは、ある作品が倫理的に問題のある作品となるのは、それが、特定の倫理的に問題のある態度を提示していたり、そうした態度を是認するように鑑賞者にはたらきかけるためだと指摘した(Gaut, 2007, p. 68)。この点について分析美学者の森功次は次のように整理している。

倫理的に悪い行為を描写する作品が、即、倫理的に悪い作品となるわけではない……殺人者の葛藤を描くことで観賞者に倫理的反省を求める作品は、むしろ倫理的に善い作品とみなされるべきである。ゴートは倫理性を査定する基準として、作品が芸術的手法(artistic means)を通じて示す倫理的態度が作品の倫理性を決定する、という考え方を提出している。これに従えば、たんに盗み・殺人の場面を描くだけでは、作品は非倫理的な作品にはならない。また、募金する人間が登場するだけで、倫理的に善い作品ができあがるわけでもない。重要なのは作品の再現内容ではなく、作品が芸術的手法を通じて示す倫理的態度––––たとえば、〈金儲けのための農薬大量使用を許すべきではない〉という価値観を是認(endorse)したり、その価値観の是認を観賞者に要求したりといった態度––––である。(森, 2011, p. 96)*6

ゴートらの指摘は、代表としては、ある芸術表現に関する是認を指摘しているが、本稿が指摘したように、芸術表現を含む表現一般は、是認の他にも様々な行為、発表内行為を遂行しうる。そこで、ある芸術表現が倫理的に問題となりうるのは、それがどのような発表内行為を遂行しているか、というより広い意味でのいわば「倫理的行為」の観点から分析しうる。

ゴートらがただしく指摘するように、たんに芸術表現の内容としての発表行為のみならず、その発表行為においていかなる発表内行為が遂行されているのかを問うことで、ある芸術作品の倫理的価値を十分に問うことができる。一方で、ある芸術作品、たとえば映画は、暴力的な内容を提示する発表行為であるものの、しかし、その発表内行為は、特定の社会問題を指摘し、それを非難する発表内行為を行なっているなら、むしろ、倫理的にはポジティブな表現としてみなされうる。他方で、べつの映画は、その発表行為としてはとても幸せな異性愛カップルからなる家族の物語を描いていても、はしばしの表現から、全体に特定のエスニシティやマイノリティに対して差別的な下位づけや暗黙の非難といった発表内行為を遂行しているような作品がありうるとすれば、それは、発表内行為のレベルにおいて倫理的に問題のある表現として指摘しうるだろう*7

ただ、ある発表内行為がなぜわるいのかについては、さらなる議論が必要である。ひとつのアプローチは、発表内行為が、ある集団や個人に対する社会的な理解へと影響を与え、望ましくない社会状況を形成することからその発表内行為の倫理的問題を問うアプローチだ。この点については本稿では議論できない。拙稿「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」のとくに第三節と第四節を参照してほしい。

5. 手前から考えること

表現を用いた行為のわるさやよさについて、わたしたちは思うほどよくわかってない。表現の提示が「プロパガンダ」であるとは何を意味するのか、「心を踏みにじる」ことができるのか、その理解の適切さは問いうるか。表現の提示に公的資金が投入されるべきかの手前で表現使用のメカニズムが問いうる。わたしたちは表現の行為についてわかっていない。表現の適切さやメッセージを理解して議論し合うためには、表現を用いた様々な行為のあり方そのものについて考え学び合うことが必要だろう。そのために、美学が貢献できることはかなり多くのものがある。

ある表現に対して過剰な反応がもたらされるのは、一方でイデオロギの違いで、他方で、わたしたちが芸術作品や表現の行為をある程度適切に理解するための知識や枠組みを持たないから。わたしたちは何となくどんな表現も読み解けると思う。適切なカテゴリ、歴史的理解など複雑な理解の枠組みなしでは不可能なはずなのにもかかわらず。

ある表現の提示に対して、反対者と擁護者が同じ理解について語っているのかどうかから考えるべきだ。「あたまだいじょうぶ?」と言う発語が、一方では「頭に外傷を受けてないか?」と理解され、他方に「あなたの判断能力は支障をきたしてないか?」と理解されるとき、その時点で議論は成り立たなくなる。

表現の是非の議論以前に、表現についてわたしたちのある程度適切な理解に美学が役立つだろう。そのひとつとして、本稿が議論した表現行為論がある。

現時点では表現行為論の内実はかなりうすいことを認める。だが、おおまかにせよ、芸術作品や表現の内容のみならず、それがどのような行為を行なっているのかを分析する枠組みとして有用なものだとわたしは考えている。ほんとうの理論の有用さは、これを美学に適用してようやく確かめられる。

おわりに

芸術や表現がたんなる芸術や表現にとどまることはありえない。どんなに薄いものであろうと、表現一般はつねになんらかの行為である。芸術や表現を政治や行為から分離しようとする言説がみられることを考えると、表現における行為の側面は見逃されやすいのだろう。だが、表現行為論を手がかりに、これから、芸術作品を含む様々な表現がどのような行為を遂行するのかが分析されなければならない。特定の発表行為や発表内行為が適切に行われる条件とは何か。表現の適切な理解とは何かが問われる。こうした作業は、表現をめぐる苛烈な議論の手前で、その議論に参加するひとびとの前提を明白にし、より実りのある議論を可能にするだろう。わたしは美学者として、表現をめぐるひとびとの活動をよりゆたかなものにするために、概念のインフラ整備を行うことを通じて、社会をよりよいものにするために活動していく。

難波優輝(分析美学と批評)Twitter: @deinotaton

引用例

難波優輝. 2019. 「表現と行為––––表現行為論、芸術と政治、芸術倫理学Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/howtodothingswithexpressions>.

参考文献

Austin, J. L. 1962. How to Do Things with Words. Oxford University Press.(飯野勝己訳『言語と行為––––いかにして言葉でものごとを行なうか』講談社、2019年).

Gaut, B.  2007. Art, emotion and ethics. Oxford University Press.

Giovannelli, A. 2007. “The ethical criticism of art: A new mapping of the territory.” Philosophia, 35 (2), 117-12.

森功次. 2011. 「作品の倫理性が芸術的価値にもたらす影響:不完全な倫理主義を目指して」『批評理論と社会理論〈1〉』叢書アレテイア13号、93-122.

森岡正博. 2019. Tweet. <https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1157845227203256320?s=20>. (2019/08/04閲覧)

ナンバユウキ. 2018. 「芸術と倫理、倫理的批評」Lichtung, <http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/04/07/芸術と倫理、倫理的批評>.(2019/08/04閲覧)

難波優輝. 2019. 「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」2019年度哲学若手研究者フォーラム、<https://researchmap.jp/mu7d22v55-2580832/#_2580832 >.(2019/08/04閲覧)

Saul, J. 2006. “ix—pornography, speech acts and context.” Proceedings of the Aristotelian Society, 106 (1), 229-248.

訂正

2019/08/06:第一節のAustinの引用と理解に関する点の訂正。

*1:本節は拙稿を参照せよ(難波 2019, §2)

*2:この点は以前の版では引用と理解の誤りがあった。以前は「彼は、「発されない言葉」(たとえば「猛犬注意」などの看板)もまた、発語行為かどうかは別として、発語内行為でありうるとみなしている(Austin, 1962, p. 60)。」と述べていた。しかし、(Austin, 1962, p. 60)では、「書き言葉」による発話の例示をしているだけである。そのため、「猛犬注意」の例はこの引用表記では用いるべきではない(もし対応させるなら、(p. 62)と参照すべきだった)。加えて、「書き言葉」による「発話内行為」の例示とは言えない。そのため、(1)例示と引用頁の対応の誤りである。(2)「発されない言葉」が発語内行為でありうるとみなした、とオースティンが提示した、との理解に対応する引用頁としては誤りである。加えて(3)「発されない言葉」という表記は引用頁と対応しているようにみえ誤解を招くため、括弧を消去した。訂正し、訂正したものを本文に記載する。(2019/08/06訂正)

*3:これらはラテン語の「exprimere/exprimo/expressi(搾り出す、押し出す、模倣する、述べる)」に由来するわたしの造語である。“expressionary(イクスプレッショナリ)”、“ilexpressionary(イリクスプレッショナリ)”、“perexpressionary(パイクスプレッショナリ)”などという耳障りな奇妙な言葉は存在しない。

*4:本稿ではまったく触れられないが、とくに、発語内行為においてもそうであるように、発表内行為の成立に関する議論、それぞれの発表内行為において、その際に慣習がどの程度必要かどうかなどを分析、整理する際には、かなりの作業と議論が必要だろう。わたしはその作業を部分的にとどまるにせよ進めていくつもりがある。具体的に言えば、修士論文「ポルノグラフィと社会的公正」の議論において、ポルノグラフィを表現行為論から分析する作業の中で、特定のポルノグラフィが特定の発表内行為(「侮辱」「下位づけ」など)をどのような慣習や条件において行いうるかを分析するつもりである。

*5:「芸術倫理学」の表現は、森岡(2019)の次の発言に由来する。

*6:原文の引用表記を一部省略。

*7:ただ、倫理価値づけの対象となりうる芸術表現の側面は、その制作の倫理的問題をはじめ多面的である。この点については、Giovannelli(2007)および、ナンバ(2018)を参照せよ。

草野原々「幽世知能」:理解不能、切断、痛み

はじめに

草野原々のこの物語は、ひとびとの心を動かさない。そこには理解しかない。

それは小説としての失敗か。言いたいなら、言わせておけばいい。

それは小説としての成功か。わたしにはまだわからない。

物語的フィクションは、キャラクタとの情動的なつながりによって特徴づけられる。少なくともおおかたの意見はそうだ。では、情動的な切断を行う物語的フィクションは何を目指せるのか。草野原々の「幽世知能」を読むと、わたしはこの疑問に駆られる。

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アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫 JA エ 2-2)

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫 JA エ 2-2)

 

内容

キャラクタAの行為の理由、感情の理由が自由エネルギー原理に基づいてA自身によって語られる。読者はキャラクタTとともにその理論を受け入れれば、Aが理解できる。

だが結末に至るキャラクタTのAに対する行為と感情の理由を推測するに足る情報はその語りの時点では示されておらず、読者はTを理解できない。

一見もっとも理解できないキャラクタが理解可能になるが、他方で語り手に対してはより理解し難さが増す。

と、冒頭に戻ると、そこに語り手の行為の理由ははっきりと答えられている。とはいえ、わたしは彼女を理解できていない。読者はキャラクタを理解できない。理解の不可能性を味わう。

達成

彼女たちは互いを理解した。なぜ理解できているのかを読者は形式的に理解できる。しかし、読者は彼女たちがどのように理解しあっているのかを実質的に理解できない。最後に導入された幽世知能による解決は、キャラクタ達の相互理解を形式的に理解しつつ実質的に理解できない読者を可能にしている。

キャラクタだけに与えられたキャラクタ同士の相互理解を、読み手としてのわたしたちは理解できるが理解できない。わたしたちが実質的に触れられない関係性をただ形式的に理解する点に理解不可能な味わいがある。

反復

この記事の冒頭に戻る。この物語は、物語的フィクション一般が目指すような、キャラクタとの情動的つながりを意識的に切断している。とすれば、読者は求めていたものの行方不明に驚く。

だが、驚くべきなのは読者なのかもしれない。なぜわたしたちは存在しないキャラクタたちの関係性に情動的につながれると思ったのだろうか。なぜわたしたちは、その関係性を覗き見、それに部分的にせよ同一化、共感、同情できると思ったのだろうか。

草野にとって、小説は、情動を感染させ、同一化をもたらす透明なメディアではない。草野は、小説の不透明さと、虚構世界への読者のアクセス不可能性を模索しているように思える。

その試みは、正直に言って、未だ途上だ。草野の物語と草野が物語に組み込む抽象的な理論は、キャラクタへのアクセス以前に、物語へのアクセスを困難にさせる。これが草野の意図なのかわたしにはわからない。だが、キャラクタへのアクセス不可能性によって独特の鑑賞経験をもたらすことを目指すのなら、少なくとも物語へのアクセスをより簡便にすべきではないか。

痛みと未来

草野原々の作品の特徴は、その痛みと身体にある。わたしは、この点に草野のまだ見ぬ可能性を見出す。

草野の作品は、その痛みやひじょうに身体的な苦痛の生真面目な描写によって読者を揺さぶる。すなわち、部分的にせよ、キャラクタへのアクセス可能性を夢見させる。それは、情動的なつながりを可能にする。だが、それは、とても厳しく、痛みに満ちたつながりだ。

草野の痛みの描写に、わたしは、草野の、キャラクタへの生真面目で清廉な態度を垣間見る。わたしたちはキャラクタとつながることはできる。だが、それは痛みというごく限られたアクセス回路によって。わたしたちは、痛みによってのみキャラクタと同一化できる。

この痛みの倫理をわたしは好ましく思う。草野が次にどのような作品を発表していくか、想像もつかない。草野自身が気づいているのかわからない。いずれにせよ、ここに、草野原々の描く痛みに惹きつけられる者がここにいることを記す。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「草野原々「幽世知能」:理解不能、切断、痛み」Lichtung Criticism, <http://lichtung.hateblo.jp/entry/2019/06/20/草野原々「幽世知能」:理解不能、切断、痛み>.

聖地巡礼の美学

はじめに

アニメーション作品の聖地巡礼とは何か。聖地巡礼はいかにして行われているのか。聖地巡礼はひとつの行為なのか、それとも、様々な聖地巡礼の行為がありうるのだろうか。

聖地巡礼を巡る問いは、様々な対象とトピックに関する問いを含んでいる。本稿では、アニメーション作品と聖地巡礼の行為者との虚構的関係、そして、行為者が巡礼地を用いて行う想像行為のあり方に注目し、それらの組み合わせから、聖地巡礼をいくつかの種類に分類することで、聖地巡礼を美学的に考察するための枠組みを提示することを目的とする*1。そして、その分類に基づいて、宗教的聖地巡礼との関係や、時間と空間との関わり、聖地の保存と改変の問題、そして、作品と巡礼の価値の関係について考察し、「聖地巡礼の美学」のひとつの輪郭を描き出すことを目論んでいる。

本稿の構成は以下の通り。第一に、重ね合わせと関係というふたつの概念の組み合わせから四つの聖地巡礼的行為を分類する。第二に、第一節の概念的枠組みを手がかりに、いくつかの聖地巡礼の美学的問題について考察を行う。すなわち、宗教的な聖地巡礼と美的な聖地巡礼とを比較、時間と空間の概念、保存と改変の問題、聖地巡礼と作品の価値づけの関係を考察する。

  • keywords:聖地巡礼、重ね合わせ、作品への組み込み、宗教的巡礼、時間と空間、保存と改変、聖地巡礼の価値

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1. 巡礼の分類

1.1. 想像と関係

アニメーション作品に関する「聖地巡礼(pilgrimage)」には、少なくとも四つの異なった種類がある。本節では、まず第一に、そうした様々な巡礼*2のあり方を、(1)作品の虚構的真理と巡礼の際に用いられる現実的対象との関係、(2)作品の虚構世界と巡礼者との関係から整理する。ここで、「巡礼者(pilgrim)」とは、巡礼地に実際に赴き、以下に指摘されるような想像的行為を行う行為者のことである*3

  • (1a)順向きの重ね合せ(orthodromic surperimpose):ある物語的フィクションの公式の画像や映像が表象している虚構的対象F(建物、風景、街並み)の現実における対応物、すなわち、現実的対象Rを見つけ、現実的対象Rと虚構的対象Fとの重なりを味わう行為。巡礼者は、典型的には、物語的フィクションの公式の画像(特定のシーン、特定の風景のパースペクティブ、特定の土地や建物)が表象する対象の対応物を現実に再発見し、虚構的対象Fといま見えている風景(現実的対象R)とを順向きに重ね合わせることで、特定の経験を味わう。ここで「順向き」という表現は、公式の虚構的真理→現実的対象という向きを表している。
  • (1b)逆向きの重ね合わせ(antidromic surperimpose):ある物語的フィクションの公式の画像や映像において表象されておらず、その物語的フィクションに関係していると巡礼者が類推する現実的対象Rを手がかりに、その物語的フィクションにおいてありえそうな事柄やキャラクタの生活など非公式の虚構的出来事を想像する行為。巡礼者は、いま見えている風景(現実的対象R)を、存在しない非公式のフィクションの出来事などの非公式の虚構的対象Rを逆向きに重ね合わせることで特定の経験を味わう、公式のフィクションにおいては表象されていないような風景を見つけ、それを手がかりに巡礼者たちがそれぞれの想像を楽しむ行為である。ここで「逆向き」という表現は、非公式の虚構的真理←現実的対象という向きを表している。
  • (2a)隔てられ関係(separated relation):公式のフィクションにおいて、そのフィクションの世界に巡礼者を含まないような関係。あるいは、公式のフィクションに存在する何者かの立場を想像し、それになりきる必要があるような関係。一般的な物語的フィクションはこうしたフィクションである。
  • (2b)組み込まれ関係(embedded relation):公式のフィクションにおいて、そのフィクションの世界に巡礼者が含まれるような関係。すなわち、巡礼者は巡礼者そのものとして、公式のフィクションの虚構世界に存在する。鑑賞者は史跡をめぐる巡礼者のような「あの世界と同一の存在論的地位にある者」である。

ふたつの重ね合わせは、巡礼者が行う想像的行為のあり方であり、隔てられと組み込まれ関係は物語的フィクションと巡礼者の関係である。

1.2. 重ね合わせ

これらの組み合わせによって、四つの聖地巡礼を整理できる。その前に、二点指摘しておきたいことがある。

第一に、順向きと逆向きの重ね合わせはかなり異なった想像的行為であり、特に、後者は際立って特徴的な想像的行為である。

順向きの重ね合わせは、あるシーンを現実に見出すという再認の楽しみ、「虚構的対象がほんとうにある」という再発見の喜びをもたらすが、逆向きの重ね合わせは、そうした再認的快楽ではなく、聖地となった街を歩いていたり、電車に乗っていたり、ふと名も知らぬ裏路地に入ったり、あるいは地元の者しかいないような喫茶店に入って休んでいるときに、「あのキャラクタはここを通学/通勤しているのだろうか」「あのふたりはいつも週末ここに来ているかもしれない」「彼女らなら阪急電車を十三で乗り換えて河原町方面に乗ってそう」といった、自然に発生するその巡礼者特有の想像を楽しむ行為である。逆向きの重ね合わせは、五感を用いながら、その舞台の風景、街並み、日差し、天気、気温、その雰囲気、匂いを知覚しつつ、そして、知覚するのみならず、そうした世界全体を想像の手がかりとして、公式のフィクションにおいては存在しないがありえそうなキャラクタたちの生活を現実と重ね合わせ想像する行為である

そして、第二に、巡礼者は、多くの場合、順向きの重ね合わせを楽しみつつ、逆向きの重ね合わせをも楽しんでいる。

一般に聖地巡礼の印象は、順向きの重ね合わせ、すなわち、特定のシーンのパースペクティブを探す楽しみや、同じ写真を撮影する行為に尽くされるように思えるが、実のところ、巡礼者が聖地へと赴く理由のもうひとつは、そして、時に、より強い動機づけをもたらすのは、聖地に向かい、そこに存在してはじめて、逆向きの重ね合わせをゆたかに行いうるからなのではないだろうか

写真や地図を見るだけでは、ひとびとは、巡礼者が行いうるような、気ままで自然に沸き起こるようなゆたかな逆向きの重ね合わせを行うことはふつうできないだろう。舞台を訪れてはじめて味わうことのできる特有の経験とは、聖地における神秘的なアウラによってもたらされるというより、身の回りのものすべてがキャラクタや物語に関する想像を促すような状況となるような意味での「聖地」に身を置くことで、ゆたかで、ヴィヴィッドで、絶え間ない、そして自由な逆向きの重ね合わせを行い、それを味わいうるためにもたらされる経験である(cf. walton 1990, ch.1, sec.2)

のちに指摘するように、また後続の論文で考察することを考えているが、こうした聖地の「聖地性」理解は、フィクションに関する聖地巡礼のみならず、宗教的な聖地巡礼の内的経験の一部を、神秘やアウラといった概念に頼ることなく説明できるかもしれない。逆向きの重ね合わせにおいては、巡礼地の周囲の事物のすべてがケンダル・ウォルトンの概念的枠組みにおける想像を促すものとして際立ちうる。この想像の可能性のゆたかさが宗教的聖地巡礼も含めた、聖地の『聖地らしさ』の一部を説明するかもしれない。すなわち、聖地は、神秘的なアウラで満ちているのではなく、想像の促しのざわめきで満ちているのだ。つまり、聖者たちの史跡を辿ることで巡礼者にもたらされる経験とは、その逆向きの重ね合わせを行うことによって、聖者たちの見たもの、そのまなざしや情動をヴィヴィッドに想像することで、巡礼者特有の想像的経験を行うことに由来するのではないかとわたしは考えている。とはいえ、ここで、宗教的経験と美的経験の異同をさらに問うていく必要があるだろう*4

1.3. 四つの巡礼

  • (1)順向きの隔てられた巡礼(orthodromic-sepatated-pilgrimage: OSP):巡礼者は順向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションと巡礼者とは隔てられているケース。典型的な意味での「聖地巡礼」。『涼宮ハルヒの憂鬱』など多くのアニメーション作品に関して可能である。
  • (2)順向きの組み込まれた巡礼(orthodromic-embedded-pilgrimage: OEP):巡礼者は順向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションに巡礼者が組み込まれているケース。公式の画像がある場合の「質感旅行」*5。巡礼者は虚構世界に組み込まれており、しかも特定の公式の画像との重ね合わせを楽しめる。その代表例は動画作品群である『鳩羽つぐ』*6
  • (3)逆向きの隔てられた巡礼(antidromic-sepatated-pilgrimage: ASP:巡礼者は逆向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションと巡礼者とは隔てられているケース。しばしば(1)の順向き重ね合わせの巡礼と同時に行われうる。
  • (4)逆向きの組み込まれた巡礼(antidromic-embedded-pilgrimage: AEP):巡礼者は逆向きの重ね合わせを行い、かつ、フィクションに巡礼者が組み込まれているケース。『ガールズ ラジオ デイズ』という作品に関して指摘される「質感旅行」。また、『鳩羽つぐ』に関しても可能である。

以上の四つの巡礼は、完全に排他的ではない。とはいえ、あるフィクションが巡礼者を隔てているか、組み込んでいるかはどちらかであり排他的である。他方、ふたつの重ね合わせはフィクション作品が指令するものというより、巡礼者が行う想像的行為であり、基本的に排他的ではない。

1.4. 具体的な例

次に、以上の区分の具体例を挙げてみよう。たとえば、『涼宮ハルヒの憂鬱』の西宮北口駅や、高校までの道のりに向かい、アニメーションにおけるシーンや特定のカットと同じ角度や風景を見つけ、それを現実と重ね合わせることで特有の美的経験を得る行為は、(1)順向きの隔てられた巡礼である。

また、『涼宮ハルヒ』の巡礼者が、キャラクタたちがしばしば利用し、シーンに登場する珈琲屋ドリームの椅子に腰掛け、特定の位置からの写真を撮ることで(1)順向きの隔てられた巡礼を行いつつ、頼んでいたメロンソーダ(これもまたキャラクタがしばしば作中で注文していたものだが)を飲むとき、そのメロンソーダの味や食感を味わいつつ、「こういう味と食感をキャラクタも味わっているのだろうか」と想像することは、現実的対象Rを手がかりに、公式のフィクションの虚構的真理には含まれていない出来事について非公式の想像を楽しむ行為であり、(3)逆向きの隔てられた巡礼である。そして、これらふたつの(1)順向きの隔てられた巡礼と(3)逆向きの隔てられた巡礼とは排他的ではなく、しばしばひとりの巡礼者が一回の巡礼で同時に、あるいは入れ替わり行うものだろう。

また、『鳩羽つぐ』を西荻窪で探す行為は、鳩羽つぐと鑑賞者との世界はおそらく同一であること、そして、たしかに公式の画像があるものの、それが部分的であるがゆえに、公式の画像と風景の重ね合わせを楽しむというよりも、鳩羽つぐの痕跡を追い求めるような、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)逆向きの組み込まれた巡礼を同時に行う巡礼の代表例のひとつである。

さらに特殊な例として、『ガールズ ラジオ デイズ』というラジオドラマ的作品があげられる。この作品においては、フィクション内においてリスナーとしての立場をとることができ、実際、様々な巡礼者が様々なサービスエリア周辺や、キャラクタたちが過ごしているであろう繁華街に出かけ、そこで様々な想像を行い、独特の鑑賞経験を行なっている様子をSNSにおいて共有する巡礼の実践が豊富に見受けられる。それは「質感旅行」と呼ばれているが、これは、(4)逆向きの組み込まれた巡礼を主として可能にする際立った作品である。

次に、以上の概念的枠組みを手がかりに、聖地巡礼のあり方をより広い視座から考察、比較してみよう。

2. 巡礼の美学

2.1. 宗教的巡礼

こうした様々な巡礼的経験のうち、特に、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)AEPのような組み込まれた巡礼は、宗教的行為としての聖地巡礼と共通する特徴を多く持つ。というのも、宗教的な聖地巡礼においては、聖典などが記す世界はこの世界と一致しており、巡礼者は、そうした世界に住まう者として、特定の史跡や聖地に向かい、聖者たちの、あるいは神々の見たものや触れたものを想像することで、あるいは聖典のうちの出来事や描写と重ね合わせることで特定の経験を行うからだ。そして、こうした、組み込まれの要素は、(2)順向きの組み込まれた巡礼と(4)逆向きの組み込まれた巡礼と共通する。

アニメーション作品に関与する鑑賞行為としての聖地巡礼においては、(1)順向きの隔てられた巡礼や(3)のような隔てられた聖地巡礼が主要なものとされているが、「聖地巡礼」という言葉の原義から考えれば、レアケースであるような(2)順向きの組み込まれた巡礼や(4)のような巡礼行為がむしろ「聖地巡礼」の原義に近いと言えるだろう。宗教的な巡礼者は、神々や聖者たちと同一の世界の存在者として史跡に触れるのであり、美的な巡礼者は、同じく、キャラクタたちと同一の世界の存在者として街を歩き、食事をし、風景を眺める。どのような巡礼により美的価値が存在するのかは、その種類によって決定されている訳ではない。(1)順向きの隔てられた巡礼と(3)逆向きの隔てられた巡礼のような隔てられた巡礼は、特定の場所を舞台とする多くの作品に関して行うことができ、豊かな実践があり、同じショットを探したりといった様々な楽しみが見出されているだろう。

さらにまた、特定のフィクションとが存在するわけではないが、偉人や芸術家の生家や歩みを辿るような観光は、(3)と(4)のような組み込まれた巡礼と近しい要素を持っている。たとえば、ウィーンの中央墓地を訪れ、音楽家たちの生家を訪ねる時、巡礼者は、時間を隔てて、音楽家たちが見たものや生きた光景を現実的対象を手がかりに想像している。このときは、逆向きの重ね合わせに類比的な想像行為を行っているだろう。このように、本稿の巡礼の枠組みと整理は、明確な物語的フィクションを介さないような巡礼の分析にも応用可能だろう。

2.2. 時間と空間

巡礼においては時間と空間が重要な要素のひとつとなっている。ここでは、別稿の考察に向けて、巡礼と時空間の関わりをかんたんにスケッチしておく。

第一に、実際的な問題として、巡礼の舞台は時間とともに失われうる。実際、『涼宮ハルヒの憂鬱』の舞台のいくつかは、再開発によってすでに失われている(たとえば、西宮北口公園など)。ゆえに、巡礼はつねに行うことができるような行為ではなく、時間の影響を不可避に受ける。

第二に、巡礼の舞台は、その都度の時間における様々な姿を見せる。クロード・モネが『ルーアン大聖堂』において描いた様々な光を受ける大聖堂が証立てるように、風景や街、巡礼の舞台は、けして平板ではない移ろいゆく経験を、しかもある程度以上は巡礼者同士で共有できないような、特有の天気や気温、人の流れなどによって生み出される経験を与えるだろう。

第三に、巡礼は巡礼者がその舞台を巡り、歩き、探索し、気ままに遊歩するような、空間を移動する行為である。ふつうフィクション作品の鑑賞それ自体に空間性はほとんど影響しないが、巡礼というフィクション作品を用いた行為において顕著な空間性を見逃してはならないだろう。

第四に、巡礼は時間の超越を空間を媒介に行いうる。宗教的巡礼や史跡の巡礼に焦点をあて、フィクションかどうかを別にすれば、巡礼という行為において、過去には吟遊詩人の歌や伝説の物語に描かれた史跡を訪ね、その空間に存在することで、物語の時間と、現在との間で隔てられた時間を超えるような経験を行うことができる。

巡礼の総体を明らかにするためには、本稿の枠組みに加え、時間と空間の概念の分析が必要だろう。

2.3. 保存と改変

次に、巡礼地の保存と改変の問題を考察してみよう。

アニメーション作品は、しばしば、意図的に作品の舞台となった地の自治体や商店街などとタイアップして、アニメーションキャラクタをあしらったグッズやのぼり、スタンプラリーなどを企画する。こうしたものをアニメーションのプロダクトと呼べば、プロダクトは本稿で整理した巡礼と複雑な関係をとり結ぶ。

第一に、(2)の順向きの組み込まれた巡礼や(4)の逆向きの組み込まれた巡礼が可能な作品の場合、プロダクトがそうした巡礼者の組み込みに配慮していない作品の場合、組み込みを阻害し、組み込まれた巡礼の経験を損なってしまう場合がありうる。たとえば、巡礼者を組み込んでいるはずの作品で、「Xという『作品』とコラボしました!」といったアナウンス自体が、ある程度組み込みの経験を損なうかもしれない。以上は各作品について個別に異なるが、本稿の枠組みを用いれば、なぜ特定のコラボのあり方やプロダクトの展示の仕方が一部の巡礼者にとって美的にわるいものになりうるのかを分析することができるだろう。

第二に、(1)順向きの隔てられた巡礼や(3)逆向きの隔てられた巡礼においても、プロダクトは舞台の景観をアニメーションと同一に保たない場合、巡礼の経験をある程度阻害するものになるだろう。なぜなら、明らかに作品と巡礼者は隔てられているとはいえ、プロダクトのあり方によっては、その隔てられを再確認させ強調するような効果をもたらしうるからだ。

巡礼地をいかにして保存するか、あるいは、巡礼地の集客のためにいかに改変するかは、美的価値のみならず、経済的価値とも関係する複雑な問題である。その問題を考察するひとつの手がかりは、巡礼地と作品の関係、より具体的には、本稿で指摘した、作品の虚構世界と巡礼者の関係(隔てられ/組み込まれ)である。こうした作品と巡礼者の関係から、巡礼者の側からの鑑賞や価値づけのみならず、実際にコラボやタイアップを行う企業や、自治体の側における、プロダクトをどう作成するか、どう配置するかといった問題についての分析の手がかりとすることができるだろう。その意味で、本稿の概念的枠組みは、巡礼の美的な側面の分析のみならず、コラボのあり方に関する分析へも適用可能なものである。

2.4. 巡礼と価値

巡礼は、作品を用いて行われるという意味では作品と関係している。しかし、巡礼が作品を構成する鑑賞行為かどうかははっきりしていない。つまり、巡礼の経験のよしあしを、作品の評価のなかに含めてよいのかどうかが問題になる。

『鳩羽つぐ』や『ガールズ ラジオ デイズ』において、公式にこうした巡礼行為を作品に含めるようなアナウンスはなされてはいないために、こうした巡礼が可能かどうか、その巡礼が豊かな経験をもたらすかどうかは作品それ自体の価値としては含めづらいかもしれない(もし『宇宙よりも遠い場所』を「南極は巡礼には困難過ぎる」という理由で低く評価するとすれば、それは作品それ自体の価値づけとは関わりのないものとみなされるだろう。)。

だが、いくつか指摘されているように、こうした巡礼のデザインを作品として組み込む様々な芸術作品を制作することは可能であるし、その作品は、インスタレーション、アニメーションを問わず、様々な可能性があるだろう*7。その際には、本稿が整理した様々な巡礼の分類によって、そうした巡礼を作品の価値とするような新たな作品、言わば、「巡礼芸術(pilgrimage art)」の可能性を描くことができる。その意味で、本稿の分析は実践にも寄与しうるだろう。

おわりに

本稿は、順向きと逆向きの重ね合わせという巡礼者の行為、そして、隔てられと組み込みという巡礼者と作品の虚構世界との関係から、聖地巡礼と呼ばれる様々な行為を分類し、さらにその分類から、宗教的な聖地巡礼、史跡を巡る行為との関係を考察し、また、聖地巡礼を作品に組み入れ、巡礼をデザインするような巡礼芸術の可能性を提示した。

本稿を元にした論文も計画しているが、本稿を出発点として、聖地巡礼の美学に関する原稿記事に関するご依頼もお待ちしている。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

ナンバユウキ. 2018. 「鳩羽つぐの不明なカテゴリ––––不明性の生成と系譜」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503.(2019/03/02最終アクセス)

ナンバユウキ. 2019a.「『ガールズ ラジオ デイズ』––––周波数を合わせて」Lichtung Criticism、 http://lichtung.hateblo.jp/entry/2019/01/16/『ガールズ_ラジオ_デイズ』––––周波数を合わ.(2019/03/02最終アクセス)

ナンバユウキ. 2019b. 「質感旅行スケッチ」Lichtung Criticism、 http://lichtung.hateblo.jp/entry/shitsukantourism.(2019/03/02最終アクセス)

難波優輝. 2018. 「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号、81-87. 

大岩雄典. 2019.  https://twitter.com/rovinata_/status/1087694709089361920?s=21.

Walton, K. L. 1990. Mimesis as make-believe: On the foundations of the representational arts. Harvard University Press.(『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』田村均訳、名古屋大学出版会、2016年)

yunaster. 2019a.「『質感旅行』という概念の誕生について【ガルラジが面白い 番外編】」『除雪日記』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/01/23/201000.(2019/03/02最終アクセス)

yunaster. 2019b.「ガルラジ、質感旅行をもう一度考える」『除雪日記』、https://livedoor.hatenadiary.com/entry/2019/02/26/231929.(2019/03/02最終アクセス)

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「聖地巡礼の美学」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/aesthetics.of.pilgrimage.

訂正

2019/03/02:§2.3. 二段落目、「逆向きの巡礼と複雑な関係を」→「本稿で整理した巡礼と複雑な関係を」

*1:なお、アニメーション以外の作品に関してもいくつかふれているが、典型的にはアニメーション作品に関する議論を行なっている。

*2:以下「巡礼」はアニメーション作品に関する聖地巡礼を指す。

*3:しかし、実際に巡礼地に赴かずとも、巡礼地の写真や映像を手がかりにして、巡礼的想像的行為を行うことは可能だろう。さらに、360度の視野を記録したカメラを用いれば、あるいはある種のVRシステムを活用すれば、その知覚的入力は限定的であるにせよ、より実際の巡礼に近い想像的行為を行うことができる。本稿の議論は主に実際の巡礼者に焦点をあてるが、議論のいくつかは、以上のような「想像的巡礼者(imaginary pilgrim)」にもあてはまる。

*4:本稿では、ウォルトンの想像の促しという概念にしか注目していないが、逆向きの重ね合わせにおいては、現実的対象は、たんに想像を促すのみならず、ウォルトンの意味での小道具として働いている点から特徴づけられるかもしれない。この点については、ふたつの重ね合わせの概念とウォルトンのプロンプター/小道具概念の関係について指摘して頂いたシノハラユウキに感謝する。

*5:質感旅行については、yunaster(2019a, 2019b)または、ナンバ(2019a, 2019b)を参照せよ。

*6:『鳩羽つぐ』については、ナンバ(2018)、難波(2018)も参照せよ。

*7:

作画崩壊の美学

はじめに

DIESKEによる「作画崩壊の形式的な分析に向けたノート」は、「「作画崩壊」概念の実相を描きだすこと」を目指し、前半では、作画崩壊をめぐる言説を整理し、この概念がある作画を作画崩壊かあるいはそうでないかを分類するための「分類概念」としては定式化困難であることを示し、後半では、ヴァルター・ベンヤミン の「理念」という概念を手がかりに、この概念を捉える作業を行なっている(DIESKE 2019)。

この作業は、しばしばアニメーション鑑賞者のあいだで議論の的になるような「作画崩壊」という概念を分析的に明らかにする試みとして、さらに、作画崩壊精神分析的に捉え直そうとする試みとして、美学的にひじょうに興味深いものである。わたし自身、これまで作画崩壊を哲学的に考察したことがなかったが、触発され、いくつかのアイデアが浮かんだ。

本稿では、DIESKE(以下著者とする)の主張を参照しつつ、著者が行かなかったルートを進む。第一に、「作画崩壊」と呼ばれる事象を「崩れ」概念と達成への貢献の概念から特徴づけることで、弱い分類概念として定式化可能であることを示す。第二に、著者が指摘した作画崩壊のある種の美的価値について、「機能不全の笑い」をキーワードに考察する。そしてさいごに、作画崩壊の美的特徴を一般化して、「ミス」によってもたらされる特有の美的価値について、ビデオゲームにおける「バグ」を例に考察する*1

本稿は、作画崩壊を、特定の標準から逸脱する画像、「ミスピクチャ」として定義し、それがなぜ特有の「笑い」をもたらすのかを分析し、さらに、それを敷衍し、ビデオゲームのバグを例にとりつつ、「ある種の崩れによって特有の美的価値を持つ」対象を「ミスワーク」として定義し、作画崩壊とミスの美学を分析美学の視座から展開する。

  • keyword:作画崩壊、崩れ、ミスペインティング、ミスワーク、バグ、笑い

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1. ミスピクチャとしての作画崩壊

1.1. 崩れの定義

著者は、まず、「作画崩壊を分類概念として定式化するこ〔と〕は困難である」〔〔と〕は筆者による挿入〕ことを示そうとする。ここで、「分類概念」について「確定記述の集合」と定義されている。詳細な解説はないが、議論のために、「分類概念とは、その概念を用いることで、確定的に、客観的に、特定の対象がその概念が指示する特定の集合に属するかどうかを判別できるような概念」と理解しよう。たとえば、「優しいひと」は分類概念ではないだろう。いったいどのような条件を満たせばあるひとはこの概念を用いて、あのひとが特定の「優しいひと」集合に属するかどうかを判別できるのか定かではない。これに対して、「自然数」は著者の意味で分類概念と言えるはずだ。

さて、著者は議論の準備として、まず「作画崩壊をめぐる」論争の構図を次のように描く。

ある視聴者が作画Aを作画崩壊であると主張し、違う視聴者が作画崩壊ではないと反論する。そこで争点となるのはおおむね、以下の二点だ。

(1a)「崩れ」が意図的か/無意図的か。

(1b)「崩れ」が部分の集合としての作品=「物語」に貢献しているか/貢献していないか。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

本稿の目的にとって問題になるのは、ここで、「崩れ」という概念が定義なしに導入されていることだ。著者は、「基調デザインから大なり小なり逸脱しているという意味で作画Aは「崩れて」いる」、あるいは、「アニメーションでは「崩した」作画表現が、意図して導入されることがある。どうしてか。それはキャラクターの感情やスピード感などを強調するうえで、「崩した」作画が効果的な事例があるからだ」としており、常識的にはその意味は理解できるが、本稿で重要な概念のひとつであるため、より正確な定式化を行う必要がある。

そこで、崩れの必要十分条件を定式化しよう。ここで、崩れの必要十分条件とは、「崩れであるためにはその条件を満たす必要があるだけでなく、その条件を満たす場合に必ず崩れでなければならないという条件」である。

「崩れ(collapse)」とは、すなわち、

  • あるアニメーション作品Wの特定の作画が「崩れている(be collapse)」とは、それが次のいずれかの、あるいは両方の条件を満たすような特定のアニメーションの画像*2であるとき、かつそのときに限る。:(C1)作品Wの他のシーンの画像が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような画像である。(C2)作品Wが属するとみなされるアニメーションのジャンルの画像が持つ標準的特徴を持たないような画像である。

たとえば、(C1)について、作品Wの他のほとんどのシーンにおいて、あるキャラクタの顔の作画は、公式のキャラクタデザインに代表されるような作品Wにおける標準的特徴を満たしているとする。ところが、最終話に近づくにつれ、キャラクタの顔の画像はそうした標準的特徴を満たさなくなった。この時のキャラクタの顔の作画は、「作品Wについて」崩れていると言える。

あるいは、作品Wの特定の顔のすべてのシーンのキャラクタの顔の各部分が奇妙な配置(たとえば、つねに、正対する画像であっても、両目の大きさが左右非対称である場合)になっており、しかし、それが、その作品Wの公式のキャラクタデザインに準拠したものである時、(C1)に関しては崩れの必要条件を満たさない。しかし、ここで、(C2)に注目すれば、その作品Wが属するとみなされるジャンルが持つ標準的特徴を満たさないのであれば、それは「ジャンルについて」崩れていると呼びうる*3

ここで、以上の崩れの必要条件は、「記述的(descriptive)」なものだということに注意しよう。ここでは、そうした崩れが芸術的価値をもたらすか否かは判断されていないし、崩れを満たすからといって、特定の価値がすぐさまもたらされるわけではない。崩れはあくまで様々な標準的特徴からの外れである。

1.2. ミスピクチャとしての作画崩壊の定義

著者の議論に戻ろう。ここに著者の提示する論争の構図を再掲する。

ある視聴者が作画Aを作画崩壊であると主張し、違う視聴者が作画崩壊ではないと反論する。そこで争点となるのはおおむね、以下の二点だ。

(1a)「崩れ」が意図的か/無意図的か。

(1b)「崩れ」が部分の集合としての作品=「物語」に貢献しているか/貢献していないか。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

著者は、(1a)は、しかし、意図の読み取りの難しさゆえに判断基準としては有用でないとする。そして、(1b)を取り上げそれに従って議論を進める。ここでは(1a)についてはいったん保留して議論を進めよう。

そして、著者は、論争を行なう「いずれの立場においても議論の前提として(自覚的/無自覚的を問わず)合意されている事柄」として、次の三点の条件を提示する。

(2a)作画Aは「崩れて」いる。

(2b)「作画崩壊」の外延かどうかは「物語」への貢献いかんによって判断される。

(2c)「作画崩壊」は稚拙な作画を内包する。〔番号づけおよび句点の挿入は筆者による〕

この条件の提示において、著者は「物語」への貢献としているが、必ずしも明確に物語をもたないアニメーション作品も含めたいので、アニメーション作品の芸術的達成への貢献としてよいだろう。

ここで「芸術的達成」とは、芸術的価値の達成である。芸術的価値(artistic value)とは、分析美学においていまなお様々な議論が繰り広げられているが、ミニマルな特徴としては、次のような価値Vのことである。すなわち、

  • ある作品Wが持つ価値Vが芸術的価値であるのは、次のとき、かつそのときに限る。ある価値Vはある種の価値Yであり、Vはある作品のメディウム、ジャンル、テーマ、テクニック、展示の様態、芸術種、あるいは、その他の芸術的特徴を介して現実化される。(cf.Simoniti 2018, 76)

ここで、その価値の種類は、典型的な例では、経済的価値でもなく、政治的価値でもないような、ときに美的価値であるような、あるいは倫理的価値でもあるような作品それ自体の価値である*4。そして、特定のメディアを介してそうした特定の種類の価値が現実化されるときに価値Vは芸術的価値と呼ばれうる。そして、芸術的達成への貢献とは、そのような価値の達成への貢献である。

さて、(1b)を引き継いだ(2b)における判断の際に用いられている作画崩壊概念は、明らかに、「評価的(evaluative)」な概念であることに注意しよう。著者が指摘するように、作画崩壊」という概念は、「崩れ」という記述的概念のみならず、その「崩れ」が作品の芸術的達成に貢献しているかどうかという評価的概念として用いられている。すなわち、作画崩壊とは文字通り、作品の達成の「崩壊」を招くような作画なのだと理解される。

ここで、著者は、ゆえに、「作画崩壊」概念は「確定記述の集合という意味での分類概念として定式化することは困難」だとして、ベンヤミンの「理念」を用いた議論を行う。本稿では以降の議論に本格的には立ち入らない。

著者が指摘するように「作画崩壊」概念は、なるほど、数学的集合のように属するものとそうでないものを確定的に分けられる概念ではない。「「作画崩壊」に含まれるか否かを識別する基準が主観的であいまいとなれば、「作画崩壊」は分類概念とはもはやいえまい」との結論は、分類概念の定義上正しい。

しかし、「作画崩壊」は著者の意味での確定的な分類概念ではないにせよ、一般的な意味では、特定の作画が作画崩壊か否かを判別することができるような、実践的な意味での分類概念、あるいは弱い分類概念でありうる。

まず、実践において用いられる概念の多くは、著者の要求を満たすことはできない弱い意味での分類概念だろう。たとえば、「芸術」「精神病」「存在」といった概念は、実践的には使用されているものの、「確定記述の集合」ではありえない。そうであれば、著者がこの概念を「理念」として捉えるのとはべつの概念的改訂を行う可能性も残されている。

作画崩壊という概念は、わたしが上で定式化した崩れの条件と、著者が整理した貢献条件を組み合わせれば、ある程度の粒度をもった必要十分条件を伴う概念として、弱い分類概念として定式化できる。

  • 次のふたつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、あるアニメーション作品Wの特定の作画は作画崩壊している。:(1)その作画が崩れている。かつ、(2)その作画が作品Wの芸術的達成に貢献していない。

わたしは、作画崩壊のニュアンスが揶揄的なものであるために、それをたんに「ミスピクチャ(mispicture)」と呼びたい。くどくなるが、再定式化すれば、

  • 次のふたつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、あるアニメーション作品Wの特定の作画はミスピクチャである。:(MP1)その作画が崩れている。かつ、(MP2)その作画が作品の芸術的達成に貢献していない。

この「ミスピクチャ」概念は、たしかに、記述的のみならず評価的ではあるが、しかし、(MP1)と(MP2)のふたつの条件を満たす特定の作画についてある程度以上客観的な基準をもった弱い分類概念として使用可能だろう。

ここで、次の想定反論が考えられる。(MP2)の貢献条件は主観的なものであり、弱い分類概念ですらないのではないか。という反論だ。たしかに、特定の作画がその作品の芸術的達成に貢献しているかどうかは、その作品をどのように解釈し価値づけるかと密接に関わっている。問題は、芸術的達成の客観的条件をどの程度担保できるかになる。

こうした芸術的達成の客観的条件はウォルトンが提示したカテゴリに基づいて提示可能だろう(Walton 1970; cf. Carroll 2009)。たとえば、スプラッタシーンで満ちた映画は、スプラッタホラーとして、そのカテゴリにおいて高い達成を行なっているが、ロマンス映画として知覚した時、明らかに低い達成しか行なっていないと判断されるだろう。同様に、あるアニメーション作品Wの作画がその作品の芸術的達成に貢献しているかどうかはその作品が属するカテゴリに基づいて部分的にせよ判断できるだろう。

たとえば、その作品が既存のジャンルにはまったく属さないような新たな前衛的なアニメーションであれば、それが一見属するようにみえたカテゴリからは逸脱しているために、条件(MP1)を満たしていたとしても、(MP2)を満たさない場合がある。つまり、そのカテゴリにおいての達成に貢献している場合がある。このように、カテゴリに基づけば(MP2)についてもある程度客観的な条件を提示することができる。ゆえに、「作画崩壊」の基準は主観的であいまいであるとは限らない。

したがって、以上より、作画崩壊を弱い分類概念として定式化することは可能である。その定式化は、作画崩壊の概念使用の実践をある程度は救っているとわたしは考える。ミスピクチャ/作画崩壊概念は、たしかに、著者が定義づけるような分類概念そのものではないが、実践には十分有用な概念として用いることができるだろう。

2. 作画崩壊の美学

以上の議論は、著者がそのあとに行う精神分析的な作画崩壊の考察とは必ずしも対立するわけではない。だが、おおきく二点指摘しておきたいことがある。

2.1. 概念と道具

第一に、ミスピクチャとして作画崩壊を理解した場合、ベンヤミンの「理念」概念を導入するかどうかは選択可能なものになる。

ミスピクチャ概念は、崩れの必要十分条件と、芸術的達成の貢献から作画崩壊を定式化可能であり、そして、こうした単純な概念的道具立てですむなら、そちらのほうが作画崩壊概念を用いる際に理解しなければならない前提や概念を節約でき、より実践に使いやすいと考える者にとっては、本稿のミスピクチャとしての作画崩壊概念も概念的道具として持っておいても損はないだろう。もちろん、精神分析的考察への繋げやすさの関連もあり、一概に概念の節約性が美徳とされるかどうかは使用者によって異なるだろう。

2.2. 機能不全の美的価値

第二に、作画崩壊の価値に関連して。ミスピクチャは、たしかに、その作品の芸術的達成を時に阻害するが、しかし、それが特定の美的価値を持たないわけではないミスピクチャは笑いを誘う場合もある。先に言っておけば、ミスピクチャは、「本来の機能を果たさないことによる美的価値」を持ちうる。こうした笑いについてひとつの議論をみてみよう。

笑いに関する哲学において、「不一致説(incongruity theory)」が有力な説のひとつとして提示されている。ここで不一致説とは、一般に想定されるパターンの裏切りによって笑いがもたらされうる、という理論である。ユーモアの美学研究者であるジョン・モレオールは、『コミックリリーフ(Comc Relief)』(2009)において、この理論にふれ、つぎのように説明している。彼によれば、この理論は、

人間の経験が学習されたパターンに沿って働くという事実に基づいている。わたしたちが経験したことは、わたしたちが経験するものに対処するための準備になる……。ほとんどのばあい、経験は上述のような精神的パターンに従う。〔こうして〕未来は過去のようになるのだ。しかし、ときどき、わたしたちは、あるものの部分や特徴がこの精神的パターンに違反するものを知覚あるいは想像する。 (Morreall 2009, 10–11)

わたしたちは過去の経験を用いて未来を想定する。ボールは投げれば落ちてくるのであり、がたいのいいライオンはおそろしい。だが、投げたボールがどこまでも浮いてゆけば、ライオンがかわいらしく腹を見せれば、ユーモラスになる。この違反こそが笑いをもたらす。モレオールはこんな例をあげている。

ぼくは猫が好きだ。かなり鶏肉に近い味がするしね。(ibid., 51)

「猫が好き」の想定される意味は、その見た目やふるまい、性格の愛らしさにかんする好意だろう。だが、その想定は違反され、「味」にかんする意味であると判明し、笑いが起きる。つまり、既知の「精神的なパターン」が裏切られることによって笑いがうまれる(ナンバ 2018)。この不一致説から、ミスピクチャがなぜ笑いを誘うのか分析できるかもしれない。

ミスピクチャは、崩れの条件、すなわち、(C1)作品Wの他のシーンの画像が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような画像、あるいは(C2)作品Wが属するとみなされるアニメーションのジャンルの画像が持つ標準的特徴を持たない、という条件を満たすことで、第一に、作品Wの、あるいはその作品Wが属するようにみえたジャンルの標準的特徴を裏切り、さらに、それが本来貢献するはずの作品の芸術的達成に貢献せず、むしろ作品の達成を「崩壊」させるという二重の裏切りによって、本来の機能が果たされないことによってなんとも言えない脱力性の笑いや微笑みを誘う。こうした機能不全の笑いの例として、わたしは、芭蕉連句にみられるような「をかしみ」を思い出す。

そのままに転び落ちたる升落とし   去来

ゆがみて蓋の合はぬ半櫃  凡兆

作品Wがそもそもそれほどの芸術的価値をもたなかったとしても、その作品におけるあるミスピクチャの言い尽くせぬ機能不全のおかしみによって、そのミスピクチャのみがネットミームとして生き続けるということもあり得る話だろう。

3. ミスの美学

以上の議論によって、ミスピクチャとしての作画崩壊についての特徴づけを行なうことができた。しかし、ミスピクチャに関して、以上では、その「意図」に関する議論を行ってこなかった。以下では、ミスピクチャに関する意図の概念について考察するなかで、この概念を敷衍し、より一般的な崩れに由来する現象を分析する。

第一に、ミスピクチャ概念と意図概念から、ミスワークという概念を提示し、第二に、ビデオゲームにおけるバグを取り上げ、それがミスワーク概念からどのように説明できるのかを考察する。

3.1. ミスワーク

ミスピクチャの美的価値の一部は、それが意図せざる結果によってもたらされているという否定形の意図条件を満たすことで生み出されていると考えられる。もし、ミスピクチャの条件を満たす画像があったとして、それが意図的に作られたものである場合、すなわち、意図的なミスピクチャである場合、非意図的なミスピクチャが持つ、奇妙な形態や、なんとも言えない表情が「指示のミス」あるいは「納期の厳しさ」もしくは、「設定ミス」から生まれた、というネガティブな由来からもたらされる美的価値を持たないように思われる。そして、非意図的なミスピクチャがもたらす「をかしみ」も、そのミスピクチャが、どうにもならない事態や様々な条件の欠乏に由来するのではなく、意図を伴ってもたらされているのだとすれば、くさみのあるつまらないものになるだろう(cf. 松永 2017)*5

したがって、ミスピクチャの典型的な美的価値は、ミスピクチャの条件を満たし、かつ、制作者が、それがミスピクチャであることを意図せずに作られたものであること、という、否定形の意図条件を満たしてはじめてもたらされるもののように思える。

こうした否定形の意図条件を満たすミスピクチャのような制作物を、「ミスワーク(miswork)」と呼ぶなら、ミスワークはミスピクチャのみならず、ビデオゲームのバグ、演奏のミスタッチ、失敗したクッキーなどを含みうる。すなわち、

  • 次のみっつの条件が成り立つとき、かつそのときに限り、ある作品Wの特定の要素はミスワークである。:(MW1)その要素が崩れている。かつ、(MW2)その要素が作品の芸術的達成に貢献していない。かつ、(MW3)(MW1)と(MW2)とが制作者の意図なしに達成されている。ここで、ある作品Wの特定の要素が崩れているとは、それが次のいずれかの、あるいは両方の条件を満たすような特定の要素であるとき、かつそのときに限る。:(C1)作品Wの他の要素が持つ作品Wにおける標準的特徴を満たさないような要素である。(C2)作品Wが属するとみなされるジャンルの要素が持つ標準的特徴を持たないような要素である。

3.2. バグ

たとえば、ビデオゲームのバグはミスワークの条件を満たすだろうか。

ここで、美術家大岩雄典とゲーム研究者松永伸司によるトークイベント「バグる美術」において次のような示唆的な指摘が行われている。なぜある現象がバグに見えるのかについて、ビデオゲームスーパーマリオブラザーズ』のプレイヤキャラクタである「マリオ」がある時、これまで入れなかったステージのオブジェクトであるレンガに入れるようになったという例を挙げている。

大岩:その現象が起こるまでのゲームプレイで、「レンガに重なる」という状況になったためしがなく、プレイヤーは「レンガは、マリオがどう行動したところで、入らせないようになっている」と学ぶ。現実の人間は土を掘ったりできるけれど、ゲーム内でマリオはそういった行動をとれない。そう把握したあとで、理由はわからなくとも「レンガの中に入ってしまった」ときに、「このステージからマリオはレンガに入れるようになったんだ」とは思わないですよね。そうではなく、何かおかしくなったのだと思う。それまで考えていたルールとそぐわないことが起きてしまったとき、バグに見える

松永:バグというのはとりあえず〈おかしく見える〉んですが、その〈おかしさ〉がどうやってわかるのかと言うと、挙がったように、「今までは通れなかったところへ、何故か前触れもなくいきなり通れてしまった」とき、つまりそれまであったスタンダードから逸脱したことが理由になっている。さらにもうひとつ、マリオというのは人間なので、壁の中を歩けないはずですね。それが画面上では歩けるようになってしまっている。今まで歩けていたかどうかとは無関係に、「人間は壁の中を歩けない」という前提に反している点も、〈おかしさ〉の理由になっている。われわれの世界では壁の中を人間は歩けないけれど、このゲームが見せているフィクション上では歩けてしまっている、という場合は、フィクションを経由して、システム上のバグを認めているケースですね。逆にフィクションとしておかしくはなくとも、今までのルールに反するということでバグが認められることもある。この『スーパーマリオブラザーズ』のケースは、フィクションが効いているケースだと思います。(大岩 2017)〔強調と発言者の表記の変更は筆者〕

ここから、ミスワークの特徴づけがビデオゲームのバグにも応用できることが確認できる。

例のように「キャラクタがレンガの中を歩ける」というバグは、『スーパーマリオブラザーズ』というゲームの標準的なルールあるいはそのフィクションから逸脱している。すなわち、そのゲームの他の要素が持つゲームWにおける標準的特徴(標準的なルールや虚構的真理の集合)を満たさない。

あるいは、ゲームが属するとみなされるゲームジャンルの要素が持つ標準的特徴を持たない。そして、このバグは、このゲームWの芸術的達成には貢献しているとは言えない*6

そして、このバグは制作者の意図にないものである。以上から、ゲームのバグはミスワークである。ミスワーク一般はミスワークであるがゆえに、笑いの他にも、「謎めいた」「不気味な」「狂気じみた」「異様な」といった独特のネガティブな価値や、それをはじめて発見した際の驚きや興奮をもたらしうるだろう。

さらに、ビデオゲームのバグは、スピードランにおけるような「ゲームメカニクスパルクール」とも言うべき遊びを生み出す。パルクールが市街地の本来意図したデザインを利用して組み換え、異なる遊びを見出すのに比して、スピードランのいくつかは、ゲームメカニクスのバグに代表されるミスワークを利用してあらたに作り出された遊びを生み出す(cf. Scully-Blaker 2014)。こうしたミスワークの組み合わせが巧みであるほど、鑑賞者は、特定のスピードランやその記録動画に「機知に富んだ」、あるいは「爽快な」といった概念を帰属させうるだろう。この実践からも確認できるように、ミスワークをめぐる豊かな美的実践が存在し、それらは哲学的考察の対象としてひじょうに魅力的である。そして、そうした実践の記述や分析に際して、本稿のミスワークの特徴づけは概念的枠組みとして手がかりを与えるだろう。

以上、作画崩壊の特徴づけから、ミスワーク一般の特徴づけへと一般化を行い、その例としてビデオゲームのバグを取り上げた。十分な検証はなされていないが、この特徴づけはいままで十分に美学において議論されてこなかったような、作画崩壊からビデオゲームのバグをも含みこむような「ミスの美学(aesthetics of miss)」を考察する有用な手がかりとなるだろう。

おわりに

本稿は作画崩壊概念をミスピクチャとして概念化し、ある程度の分類能力を持ちうる概念として定式化した。そして、機能不全の笑いをキーワードに、ミスピクチャがもたらすおかしみをその特徴づけから考察し、さらに議論を一般化し、ミスワークの概念を提示した。

作画崩壊や、ミスにはまだまだ気づかれていないような哲学的問題がありうるだろう。本稿がそうした問いを問う美学、すなわち「作画崩壊の美学」、「ミスの美学」の手がかりとなれば幸いである。

また、作画崩壊とネットミーム作画崩壊と笑いなどを問う作画崩壊の美学、あるいは、バグなどのミス一般の美的価値や美的経験を問うミスの美学の原稿依頼をお待ちしています。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

Carroll, N. 2009. On criticism. Routledge.

DIESKE. 2019.「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」note、 https://note.mu/daisuke_tanaka/n/na51225b7d26e.(2019/02/25最終アクセス).

松永伸司. 2017. 「バグとフラグの話」9BIT: GAME STUDIES & AESTHETICS、 http://9bit.99ing.net/Entry/77/.(2019/02/25最終アクセス).

Morreall, J. 2011. Comic relief: A comprehensive philosophy of humor. John Wiley & Sons.

ナンバユウキ. 2018. 「高い城のアムフォの虚構のリアリズム––––虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実.(2019/02/25最終アクセス).

大岩雄典. 2017. 「トークイベント「バグる美術」」euske oiwa、 http://www.euskeoiwa.com/texts/20170313_bugmeetsart_talk.html. (2019/02/25最終アクセス).

Scully-Blaker, R. 2014, “A Practiced Practice: Speedrunning Through Space With de Certeau and Virilio.” Game Studies. 14 (1). http://gamestudies.org/1401/articles/scullyblaker.(「〈実践される実践〉:ド・セルトー、ヴィリリ オとともに空間をスピードランする」大岩雄典訳、euske oiwa、 2018年。 http://www.euskeoiwa.com/texts/20181101_speedrun.html.(2019/02/25最終アクセス))

Simoniti, V. 2018. “Assessing socially engaged art.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 76 (1), 71-82.

Walton, K. L. 1970. “Categories of art.” The philosophical review, 79 (3), 334-367.

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「作画崩壊の美学」Lichtung Criticism、http://lichtung.hateblo.jp/entry/aesthetics.of.mis.picture

*1:なお、著者が第2節および第3節で議論する精神分析的議論には直接立ち入らない。

*2:ここで、画像(picture)は静止画(still picture)のみならず動画(motion picture)も指す。

*3:たとえば、現在の京都アニメーションの絵柄に慣れている者は、『涼宮ハルヒ』の第1期の公式のキャラクタデザインにある程度の違和感を覚えるかもしれない。こうした違和感を抱く者は「現在の京都アニメーション」というカテゴリにおいて『涼宮ハルヒ』第一期を鑑賞しており、この者にとっては、この作品は崩れてみえる。とはいえ、この者がだんだんとこの作品を見続けているうちに、あるいは、この頃の京都アニメーションの絵柄はこれだったな、と思い出すことで、この作品が属するとみなされるジャンルは変更されるだろう。そうすれば、この作品は、「あの頃の京都アニメーション」といいうカテゴリにおいて標準的特徴を満たすし、また、もちろん、その作画の多くは、この作品における公式のキャラクタデザインの標準的特徴をも満たすだろう。

*4:この場合、社会的変革などが価値になりうるようなソーシャリィ・エンゲージド・アートなどを除く。

*5:もちろん、細心の注意を払って、あたかも自然に作り出されたかのようなミスピクチャは、ミスピクチャそのものとしての価値は下がるかもしれないが、そうした技量に由来する高い価値づけはなされうるだろう。

*6:この点は、芸術的達成を制作者の意図に基づけるか否かでどの程度確からしいかが変わってくるだろう。

浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』注意と分散

はじめに

浦上・ケビン・ファミリーは、作曲、編曲、演奏、エフェクト、歌唱まですべてをこなすソロユニットである。浦上の編曲はこれまでYouTube上にアップロードされており、その高度やリハーモナイズの才と音色の豊かさから一部のあいだで高い評価を得ていたが、彼の最初のオリジナル曲『芸術と治療』が先日(2019年1月20日)公開され、その類まれなる才能と音楽的豊かさに多くのひとが気づきはじめた。

本稿では、浦上の曲を、これまで聴いたことのなかったひとにも聴いて頂き、また聴いたひとのなかで、しっくりこなかったひとにもあらためてそのよさに気づいて頂き、さらに、もちろん、よさに気づいたひとにはいっそう深くその価値を味わってもらえるよう、「注意と分散」をキーワードに『芸術と治療』の聴取を分析し、そのおもしろさを明らかにする。

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経験を分析する

浦上・ケビン・ファミリー『芸術と治療』

一聴して気づくのは、この曲からあふれ出る様々なアイデアの存在である。メロディのみならず、ハーモニー、リズム、全体の構成、音色、楽器の配置。だが、それはたんに量的なものでなく、詰め込んだだけでもなく、この曲の価値そのものとなっており、そして、この曲を何度も繰り返し聴く意味をもたらす。そして、こうした構造ゆえに、『芸術と治療』は注意と分散の作品であると言える。どういうことか。この点について分析してみよう。

この曲のもっとも際立った聴取経験、それは、「注意と分散」の経験だ。

たとえば、ピアノの位置が左から右へ、あるいはその逆へと移り変わってゆくとき(たとえば、2:50〜3:00)。いままでバッキングに徹していた楽器が印象的なフレーズを奏でるとき。そのとき聴き手の注意はそれぞれのその楽器に向けられる。聴き手は、注意をあちこちに惹きつけられ、分散させられる。

こうした注意の惹きつけと分散は、今あげた楽器のみならず、あらゆる楽器で試みられる。聴き手は次から次へと異なる楽器に注意を向けざるを得なくなる(試しに、ギターバッキングだけを追うように挑戦してみてほしい。あなたの聴取経験が豊かなほど、しかし、ほかの音へと耳が惹きつけられてしまうはずだ。)。

こうした注意と分散は、楽曲の全体的な構造によってもデザインされている。第一に、この曲のかなり特徴的なリズムに注目しよう。この曲は、ポップスにはほとんど見られないような7+8のリズムで構成されている(手拍子を叩きながら数えてみてほしい。イントロあたりで特に理解しやすいだろう)。こうしたリズムは、一般的な4拍子の曲よりもさらに、聴き手の注意を分散させることに貢献している。メロディを追おうとしても、それが小節をまたぐあいだにリズムセクションやストリングスに注意が惹きつけられる。

第二に、この曲の構成もまた、聴き手の注意を途切れさせ、方向づけを変える。すなわち、イントロとAメロの移り変わりから、また繰り返し挿入される、しかしまったく異なるキャラクタを持ったインターリュードに見られるように、あらゆる転換の場面で、楽器の音数、位置、音域などは変更され、聴き手はそれまでのセクションにおいて保ってきた注意のあり方を、そのつど再編成しなければならなくなる。

第三に、歌詞について注目すれば、それが様々な文体や態度を混合したものであることに気づくだろう。あるときは独語のように、あるときは語りかけるように。歌詞においても、様々なパースペクティブからの語りが織り交ぜられ、聴き手の注意を分散させる。

第四に、あらためてまとめておけば、この曲は全般的な楽器の配置の変化や音量、組み合わせの変化によって、聴き手の注意を惹きつけ、分散させる。

こうした四つの構造は、もちろん、多くのポップスにも多かれ少なかれみられるだろうが、しかし、その程度において、『芸術と治療』は際立っている。ふつう、聴き手が戸惑うことのないように拍子はスクエアで、メロディは行儀よく小節に収められている。そして、イントロやAメロなどで変化はあるものの、そのダイナミクスや表情がここまでおおきく変わることはない、そしてさらに、歌詞は一定のパースペクティブを保っているだろうし、楽器に関する変化はここまで著しくない。ゆえに、こうした構造的特徴は、この『芸術と治療』に特有のものとしてみてよく、そして、この作品特有の鑑賞経験を説明するのにふさわしいはずだ。

そして、こうした注意の分散を誘う構造は、聴き手がこの曲を繰り返し聴いてしまう理由の一つを説明する。聴き手は、同じ曲を聴くのだが、しかし、同じようには聴かない。あるいはより正確に言えば、聴けない。注意は聴くたびに異なる仕方で分散され、聴き手は、毎回異なる『芸術と治療』を聴く。あるときははじめベースラインとリズムセクションを聴いていて、いつのまにか中音域のストリングスに注意を払ってしまっている。注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、『芸術と治療』の価値を説明するとともに、この曲を何度も繰り返し聴いてしまう理由を説明するだろう。『芸術と治療』は一回で辿れるようになっていない、また、何度辿っても異なる姿を見せる注意と分散を特徴とする作品である。

注意と分散の美学

注意と分散を誘う様々な構造と特徴は、なるほど、この作品の鑑賞経験の一部がどのようにしてもたらされるかを捉えているにせよ、しかし、なぜ特有の美的経験をもたらすのだろうか。

この点について考察するために、知覚の哲学/美学研究者のベンス・ナナイの知覚と経験に関する分析を手がかりにしたい。

彼は、『知覚の哲学としての美学』において、「分散された注意(distributed attention)」と「集中した注意(focused attention)」という概念を用いて、美的経験について、知覚の特有性からの説明を試みた(Nanay 2016)。彼によれば、典型的な美的経験とは、ある対象、あるいは対象のまとまり全体に集中するもので、かつ、そうした対象の様々な性質へと分散された注意を向けることによって特徴づけられる。たとえば、ある絵画を鑑賞することで、鑑賞者がある美的経験を行うのは、その絵という対象に集中して、そして、たんにその主題のみならず、色、形、構成など、様々な性質に分散的に注意を払うことによってである(ibid., 23)。

さて、こうした「対象への集中と性質への分散」によって特徴づけられる美的経験は、なぜ特有の、しかもある価値を持つとされる経験なのか。それは、こうした美的経験は、たんにある対象を前もって定められた見方によって眺めるのではなく、次々に変化する注意によって、様々な性質を知覚やあるいは思考によって分散的に気づき、いままで見つけ出すことのできなかったような特有な性質を見つけ出すような経験であり、それは、「わたしたちにこの世界を別様に眺め、そして注意することを可能にするから」である(ibid., 35)。鑑賞者はこうした自由な注意の戯れによって、新たな仕方で対象を味わうことで、自らの既存の知覚を解放することができる。そうした経験は、まるで「世界ともう一度はじめて出会う」ような経験を可能にする。ゆえに、美的経験はそれ特有の快楽を伴う経験なのである。そして、『芸術と治療』はこうした注意と分散とをもたらすようにデザインされた作品として独自の価値を持つ。

だが、ここで、次のような想定反論がありうる。

多くの優れた表現は、様々な仕方で美的経験をもたらすことを意図する。たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、環境音というふつう見逃され、鑑賞の対象にならないものを鑑賞するように鑑賞者を誘い、鑑賞者は、環境音という対象に集中し、そして、その様々な聞こえという性質へと分散した注意を向けることで、美的経験を行う。そう考えれば、こうした美的経験からの説明は、『芸術と治療』特有の批評としては問題があるのではないか––––。

たしかに、美的経験は一般的に作品がそれをもたらそうとするものだ。しかし、それぞれの作品に特有な価値のひとつは、(1)それがどのような対象に注意を払わせるか、そして、(2)鑑賞者において、対象に集中し、かつ性質に分散された注意をいかにして向けさせるかというふたつの方法をどのようにして達成しているのかに見出すことができるとわたしは考える。

たとえば、先ほどのケージの作品は、(1)環境音というふつう注意が向けられない対象を取り上げ、そして、それを(2)コンサートホールや楽器奏者をもちいて、鑑賞者に一般的な音楽と同じように聴取させようと目論むことで、環境音という対象に集中的で、かつ、その性質に分散された注意を向けさせ、独特の美的経験をもたらす。

同様に、浦上の『芸術と治療』は、(1)注意の対象としてはポップスであるが、(2)前説で解説したように、四つに代表される音楽の構造によって、曲それ自体を対象として、対象に集中し、かつ、様々な性質に分散された注意を向けさせることに成功している。そして、こうしたデザインの仕方は、先ほど議論したように、この作品に特有である。したがって、この作品は、独自のデザインの仕方によって独自の美的経験とその価値とを作り出しており、その意味で、ほかの作品には見られないユニークな美的経験をもたらしている。

したがって、『芸術と治療』の鑑賞経験が、こうした美的経験を助長し、深化させるようなものであることが理解される。すなわち、この作品は様々な構造によって、性質について分散された注意をもたらすようデザインされた作品だと言える。したがって、この作品は美的経験のためにデザインされた作品として際立っているのだと言える。

批評の不可能性?

しかし、とここで想定反論がありうる。こうした形式的な特徴づけは、あらゆる美的経験をたったひとつの種類の経験に還元するものであり、不合理ではないのか。ケージの作品と浦上の作品はあきらかに異なる現象的経験がなされている。もし本稿が批評を語るなら、そうした経験そのものを記述しなければならないのではないか。

この指摘は部分的にただしい。こうした美的経験の特徴づけは、あくまで形式的な特徴づけであり、個別の作品に対する経験はそれぞれに現象的に異なっていると考えることが適切だろう。

だが、そうした厚みを持った現象的経験を言葉にすることは少なくともいまのわたしには難しい。わたしが可能なのは、そうした現象的経験をもたらすような要素やそうした経験を形づくるデザインを指摘することで、それらの記述を読んだ鑑賞者があらためて作品を鑑賞し、各々に現象的経験を行うことを手助けすることだろう*1。上で行ったように楽曲の構造や響きの変化を指摘することは、現象的経験そのものに関しては有意味な情報をそれほどもたないが、しかし、そうした形式へと読み手の注意を向けさせることに成功するなら、それは浦上の曲が持つ特有のデザインへの気づきにつながり、そして、浦上の曲のひとつの経験の仕方を提示することになる。そして、その経験が部分的にせよ作品鑑賞において正当なものなら、それはこの曲の価値そのものと関わる経験であり、したがって、そうした経験へと気づかせうる本稿の記述は、有意味な情報を伝達しうる批評である。ゆえに、以上の指摘と議論は、ひとつの有意味な批評であるとわたしは考える。

本稿では、現象的経験そのものの記述ではなく、それを可能にし、あるいは気づかせ深化させうることを目的として、経験をもたらすデザインとその経験の形式的記述を行った。この先は、実際に作品を味わってみてほしい。あなた自身において、特有の現象的性格を持つ美的経験が生起するだろう。

おわりに

さいごに、浦上自身によるライナーノーツから、断片的ではあるが、この曲のメッセージを考察してみよう。浦上は次のように述べている。

「せっかく自由奔放に育った芸術性や嗜好性を、凝り固まった大人たちに無理に治療されたくない!」という青すぎる青年が居たと仮定して、その架空の人間の立場に自らの身を置いてみた結果、そこから突如生まれた自意識過剰性をテーマにした詞です(浦上 2019)

浦上は、個人的に育った芸術性や嗜好性を大人たちが治療、あるいは社会的に矯正することに反する架空の人物を想定している。ここから、この曲の歌詞の語り手はそうした「青すぎる青年」とみなせる。そして、この青年が様々な経験や思考を経てゆくさまがこの曲では語られていると理解できる。とはいえ、ここではその物語のすべてを追うことはできないが、特に重要なメッセージを辿ってみたい。

楽曲の後半、「剥がされる芸術」のあとのインターリュード。治療を施され、サナトリウムで聴くような雨の音のあと、青年は、「僕は黙ってる/僕は黙ってるのスタンスはそぐわない」と呟き、そして、朗々と歌い上げる。

君なら売られた喧嘩
優しく躱せるはず
"僕は滅茶苦茶だ"
"僕は目茶苦茶だ"、
に愛されて帰れない

もっとも印象的なフレーズのひとつ。青年は自身の「滅茶苦茶」さを再確認し、それに「愛されて」いると受け取る。それは、なるほどじぶんの他人との差異を誇り、そしてそこに才を見出すような「自意識過剰」な若者のイタさなのだが、しかし、自身の差異と才に対する真正な態度でもある。そして、芸術的才能と感性を形づくる自らの特異性を「売られた喧嘩」から守ろうとする、治療されまいとする自身への肯定でもある。こうして、大団円の響きの中で明白にメッセージは伝えられ、治療ではなく芸術を選択することの決意が語られる。

半ば仮想的なキャラクタであれ、浦上は曲中の青年にシンパシーを抱いているのかもしれない。そうだとすれば、本稿のような、表現を形式的に取り上げ、理論から理解しようとする態度は、奔放な表現に公式的な枠を当てはめる「治療」の行いかもしれない。だが、こうした「治療」を得意とする者の予想をかるがると飛び越えて、青年は、あるいは浦上は「滅茶苦茶」に表現を続けていくことだろう。

浦上はポップスをさらに豊かにしてくれる。ひとりのファンとして、そして表現を言葉によって理解しようとする者として、彼の新たな試みを確信とともに楽しみにしている。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献

McGregor, R. 2014. “Poetic Thickness.” British Journal of Aesthetics, 54 (1), 49-64.

ナンバユウキ. 2019.「詩の哲学入門」Lichtung、http://lichtung.hatenablog.com/entry/introductioin.to.a.philosophy.of.poetry.lichtung.(2019/02/02 最終アクセス)

Nanay, B. 2016. “Distributed Attention.” In Aesthetics as philosophy of perception. 12-35. Oxford University Press.

浦上・ケビン・ファミリー. 2019.「”芸術と治療” メモ」note、https://note.mu/urakouji/n/n189466d6bf38.(2019/02/02 最終アクセス)

おまけ:『未熟な夜想』短評

この論考を書いているあいだに、オリジナル第二曲が発表された。

浦上・ケビン・ファミリー『未熟な夜想

またもやものすごい作品である。所感をここに再掲しておく。

浦上・ケビン・ファミリーのオリジナル第二曲『未熟な夜想』時間を操る魔法のような歌。童話のようなクラシカルな響きを伴いながら、最初は過去からはじまり、アッチェレランドして、現在に戻る。そして、ア・テンポすると過去に巻き戻る。音楽は時間を操れるのだという驚き。時間芸術としての音楽と詞の意味は重ね合わさる。歌は過去と現在を行き来きする呪文であるということ。ポップスの次を聴いてしまった。

*1:この議論は、詩の経験の言い換え不可能性の議論をヒントにしている。この点ついては McGreger(2009)を、また、日本語でのまとめについては、ナンバ (2019)を参照せよ。